~ 『好きになった方が負け』とは言うけれど、それって本当? ~
放課後、日直の仕事を終えて職員室に日誌を持っていった日向は、急ぎ足で教室に戻る。東邦学園高等部は明日から定期考査に入るため、一昨日から部活は休みになっている。急いでいるのは、一緒に寮に帰ろうと若島津を教室に待たせているからだった。
日向は一旦自分の教室に入って荷物をまとめると、隣の教室へと向かう。そこが若島津のクラスだった。
「待たせて悪かったな!帰ろうぜ、わ・・・」
ガラリと扉を開けて教室に足を踏み入れた日向の声は、最後の言葉まで音になることなく、途中で消えた。日向は目の前で何が起きているのか、何のために自分がここに来たのか、一瞬分からなくなる。 というよりは、頭の中が真っ白になった。
放課後の柔らかな陽の光が差し込む教室の中、窓際でふわりと揺れるカーテンに隠れるように、二人の人物の影が重なっていた。
日向の見間違いでなければ、二人はこのクラスでも可愛いと評判の女子生徒と、若島津だ。
女の子が若島津の腕に手を置いて、背伸びをして顔を重ねている。
二人は 放課後の校舎の中で、キスをしていた。
「・・・わるいっ!」
バッと二人に背を向けた日向は、突如として目にすることになった親友の情事 そういってよければだが に心臓が跳ねるようだった。慌てて教室を出て、部屋の中が見えない場所まで避難する。廊下の壁にペタリと背中をつけて、ばくばくと音を立てる鼓動をどうにか落ち着かせようとした。
頬も熱い。もしかして自分は赤くなっているのだろうか そう自覚すると恥かしかった。
(こんな・・・キス、くらいで)
だけど、全くの他人ならともかく、相手は子供の頃から知っている友人なのだ。小学4年で知り合い、それからずっと腐れ縁の仲だ。今となっては学校も寮も部活も一緒で、おそらく家族以上にお互いを理解している。
だがそうであっても、その相手の恋愛に絡んだ、こんな生々しいシーンなどは目にしたことが無かった。
他にはもう生徒が残っていないのだろう。静かな校舎の中に、低く抑えられた話し声が聞こえる。日向がたったいま逃げ出してきた教室の中からだ。若島津と、一緒にいた女子が話しているのに違いなかった。
(・・・・・あの子、確か高等部から入ってきた子だ。俺でも知ってる。反町も可愛いって噂をしてた)
日向が二人の会話が終わるのを待っていると、扉が中から開いて、女子生徒が出てきた。日向の方を振り返ることもなく走り去っていく。華奢な背中と細い足、さらりと揺れる長い黒髪が印象的な子だった。
「ごめん、日向さん。待たせちゃって」
続いて若島津も教室から出てきて、日向に声をかける。鞄を肩に下げていて、このまま帰ろうとしているようだった。
「・・・いや。・・・っていうか、あの子、いいのかよ」
「ん?・・・あー・・・。そういえば、あんた見たんだよね」
見たって何を・・?とは今更尋ねられなかった。日向はコクリと頷く。
「お前・・・あの子と付き合ってたのか・・?」
「いや?違うよ」
「違う!?」
校舎内でキスまでしていたくせに、付き合っていないのだという。日向は友人の言葉に驚愕してつい大きな声を出してしまい、それが廊下に反響した。
「ちょっと声がでかいよ」
「だ、だって!だってお前・・っ」
「したくてした訳じゃないよ。一方的にされただけ。・・・まあ、軽く触れただけだし、騒ぐほどのことじゃないから。あんたも気にしないで」
「・・・だけど、あの子はお前のことを好きなんだろ・・・?告白されたのか」
「うん、まあ・・・。そうみたいだね。・・なあに?そんなに気になるの?」
何でものないことのように返されて、日向は「そんなことねえ」と顔を逸らした。若島津の方に気にしている様子が全く無いのに、自分が動揺しているのだと思うと恥かしかった。顔も赤くなっているのだとしたら、見られたくない。
「ね、日向さん。早く帰って勉強しよう?赤点取ったら、部活禁止だよ」
若島津はそんな言葉で、それまでの会話を打ち切った。
日向は大きな手で背中を軽く押されながら、「赤点なんか取らねーよ」と唇を尖らせた。
「日向さん、俺先に寝るよ。まだ頑張る?」
「ん・・・もうちょっと。眩しいか?」
「大丈夫。じゃあお休み」
部屋の電気を消して、日向は机の灯りだけを点ける。
だが、さっきから試験勉強としてテキストを目で追っているものの、内容なんてちっとも頭に入ってこなかった。
(ちくしょ・・・。俺の点数が悪かったら、絶対若島津のせいだ・・・)
今日の放課後、教室で目にしてしまった光景。親友と可愛らしい女の子のキスシーン。何かのドラマでも見ているようだった。
日向は手にしていたシャーペンを放り投げて、机に突っ伏す。何故かは分からないけれど、イライラとした。自分でもどうしようもない。気を抜くと、意識をあの瞬間に持っていかれてしまう。
(別に・・・羨ましい訳じゃない)
東邦学園サッカー部では、男女交際を禁止している。だがおおっぴらにしなければ黙認されているのも事実だった。実際、中にはうまく彼女を作って付き合っているメンバーもいた。
日向自身にはそんな相手はいない。自分の時間を削って、サッカーのことを考える時間を減らしてまでも、一緒にいたいと思うような女子はいない。
だが、若島津はどうなのだろう 親友のことなのに、分からなかった。
(あの子とは付き合っている訳じゃ無いって言ってた。もしかしたら若島津のタイプじゃないのかもしれない。だけど、それがもし好みの子だったとしたなら ?)
なにしろ、日向から見ても親友はモテるのだ。185cmにも届こうとする高身長に、容姿端麗で成績優秀。スポーツはおよそ苦手とするジャンルはなく、球技だけでなく格闘技もこなすのだから、女子のみならず男子からも一目置かれている。そして何をやるにも、そつなくこなす。日向からすれば、昔はもう少し子供じみたところもあったし、感情も読み取り易い人間であったような気がするが、高校に上がった頃から随分と大人びて落ち着いたイメージがついてきた。
日向は突っ伏していた顔を上げて、椅子から立ち上がる。若島津の寝ているベッドに近づいて、その寝顔を見降ろした。寝ている時の顔すら癪なくらいに整っている。
日向は薄暗い部屋の中でも仄かに浮かび上がる、唇の赤に目を引かれた。自然と手が伸びる。
指先が触れるか触れないかのところで、自分が何をしているのか気が付いた。慌てて手を引いて、背後に回す。
( 俺、一体、どうして・・・?)
たぶん、昼間のアレに影響されているんだ。羨ましい訳じゃ無いけれど、ビックリしたから。ただそれだけなんだ 日向はそう考えるようにした。言葉のひとつひとつを、頭の中に刻み込むようにして。
そうしないと、ちゃんとそう思い込むことが出来そうになかったから。
****
「ねえ、健ちゃん。 日向さんと、何かあった?」
反町にそんなことを聞かれたのは、若島津が放課後の教室で同じクラスの女子に襲われた日から、1週間ほど経ったある日のことだった。
とうに試験も終わったが、まだ結果の分からない教科もある。だが部内でお互いに答え合わせをし、どうやら赤点となったメンバーがいないらしいことだけは確認できていた。
「いや?別に、何もないけど」
「本当に?」
「何だよ」
「だって、それにしちゃあさあ・・・。日向さんの態度、おかしいっしょ」
「・・・そうかな」
部活が終わって片づけに入るところだった。ボールを集めるついでに、日向が無人のゴールに次々とシュートを蹴り込んでいる。たまに戯れにゴールマウスに立つ部員がいるものの、すぐに身の危険を感じてか退散する。日向はゴールとの間に立つのがGKじゃない人間だとしても、全く遠慮が無かった。
「おかしいってぇ。健ちゃんはともかく、日向さんはさ。微妙にこの間からお前のこと避けてる。だけどそのくせ、しょっちゅう目で追ってる」
「お前の方こそ、あの人のことをよく見てるよな」
「茶化すなよ。言っとくけど、俺は何があっても日向さんの味方すっからな」
「知ってる」
反町が日向を敬愛して止まないことは。若島津も知っている。たまに度が過ぎていると思うくらいだ。だが、それに関しては反町に限った話ではなく、サッカー部全体からしてそうだった。同期と後輩は尊敬の念をもって日向を慕っているし、先輩は頼りになる後輩として日向に全幅の信頼を寄せている。
若島津自身も日向のことは親友としても、同じ部のメンバーとしても、誰よりも近しい存在だと思っている。それこそ家族のようなものだった。
「・・・家族じゃ駄目ってこと、なのかなあ」
「あん?何だって?」
聞こえなかったらしく反町が訊き返してきたが、「何でもない」と若島津は軽く受け流した。
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