~ 祈る人 ~



6月のある日、毎年欠かさずに行われる儀式がある。

それが行われるのは、決まって夜も更けて辺りが静寂に包まれる頃。始まりの合図がある訳ではない。ただ、消灯の時刻を過ぎて灯りを落とした部屋の中、日向が窓際まで歩いていき、カラカラと窓を開けるのが合図代わりといえばそうなのかもしれなかった。

年によっては綺麗に月が出ていることもあったし、しとしとと小雨が降っていることもあった。だがどんな天候でも、その夜は必ず日向が窓を開け、儀式を行った。それを儀式と呼んでいいものかどうかは分からない。若島津が勝手にそう名付けただけだ。

日向は開けた窓から戸外に向き合うと、ゆっくりと息を吸う。新鮮で清浄な空気が体中に行き渡るのを待つように暫くじっとしてから、少しずつ息を吐く。それを何度か繰り返してから、今度は空を見上げる。晴れていても、曇っていても、同じように空を見つめる。何を話すこともなく、黙って、じっと夜空の彼方を見つめて佇む。




それが行われるのは、日向の父親が亡くなった日               命日だった。


初めて若島津がその儀式を目にしたのは、若島津が日向を追うようにして東邦学園中等部に入ってすぐの6月。

関東でも梅雨入りが間近と言われていた頃の、日が暮れてから細かな雨が降り始めた、その夜の出来事だった。






    *****


「ちょっと、窓を開けてもいいか?」

そう日向に聞かれたのは、授業を終えてから散々部活でしごかれ、寮に帰ってから風呂に入り宿題もし、部屋の電気を消してようやく就寝できようかという時刻だった。若島津は怪訝そうな顔をして日向を見返した。
東邦学園中等部に入学して2ヶ月あまり。若島津が想像していた以上に、部活漬けの生活は体力的に厳しく、自由に遊べた小学生時代を懐かしむ余裕すら無かった。
幼い頃から実家の空手道場で鍛えていた若島津と、サッカー部の特待生として早くから部の練習に参加していた日向はまだまともに動けた方だったが、一年生の中には入部当初、練習を終えた後に食事が喉を通らずに夕飯を食いっぱぐれる者すらいた。いつの間にか退部した人間もいた。
暦も6月に変わり、この頃には少しは体も慣れてきたが、それでも消灯時間になればさっさと寝たほうがいいには違いなかった。

「いいけど・・・。まだ寝ないの?」

早く寝なければ明日に差し障る。明日だって朝錬があるのだ。いつもなら、早く寝ようぜ・・と促すのは、寧ろ日向のほうだった。
灯りを落とした部屋の中は暗く、それでも目が慣れてくるとぼんやりと物が見えてくる。窓の外では、部活が終わるまでは何とか降らずにもっていた雨が、とうとう降り出したようだ。どうせなら早く降ってくれればよかったのに・・・と若島津は思う。サッカーにかける情熱は日向と同じくらいにあるつもりだったが、正直、たまには早く部屋に戻って休みたい。

日向は窓際に佇んだまま、若島津の方を見ずに「ちょっとな・・・」と返す。若島津はその日向の反応に何となく引っかかるものを感じた。
今までに日向に物を尋ねて、「ちょっと」などと返されたことは無かった。
どこまでも真っ直ぐで、およそ誤魔化す・・・ということをしないのが日向の性格だと理解している。そんな日向だから、ときには他人と衝突することもあったし、逆にすんなりと相手の懐に入ることもあった。
若島津も後者の方だ。
初めて会ったときから、少し我が強いけれど、裏表の無いのが気に入った。日向と付き合い始めると、それまでいた友人と遊ぶのが物足りなくなった。だから彼の夢中になっていたサッカーにも付き合った。
「お前、運動神経いいから、ゴールキーパーやれよ。どのチームも、一番運動神経のいいヤツがゴールキーパーをやるんだぜ」という日向の言葉を鵜呑みにした訳ではなかったが、「日向がそう言うなら、まあいいか」程度のつもりでゴールキーパーにもなった。
最初はその程度の軽い気持ちでサッカーを始めた若島津だったが、やがて日向と夢を共有するようになり、とうとう父親に逆らってまで家を出て、私立の東邦学園に入学してしまったのだ。


そんな日向が「ちょっと」などと言ってはぐらかすのだから、若島津は日向に何かがあったのかと、単純に気になった。


最下級生でもある日向たちが、消灯を過ぎて物音を立てていることが知られると面倒なことになる。日向はなるべく音を立てないように、窓を開ける手をそっと動かした。
半分ほど開いた窓から、ベッドに座っている若島津のところまでも、湿気を含んでひんやりとした空気が入り込んでくる。ついで雨の匂いと緑の匂い。東京といっても郊外の山を切り開いて作られた学園だったから、寮の周りも背の高い木々が生い茂り、夜になれば尚更暗い。世間から隔離されて、学園ごと森の中にポツンと置いていかれたようだった。


日向は先程からその森に向かって、窓から身を乗り出すようにしていた。
窓枠に手をつき、思い切り背筋と首を伸ばし、夜空に広がるどんよりとした雨雲を見上げる。そのままじっとしていたかと思うと日向は数回深呼吸をし、目を閉じた。またそのまま何をするでもなく動かない。

「・・・?」

若島津には最初、日向が何をしているのかが理解できなかった。もしこれが普段、昼間にやっているのなら滑稽に感じたかもしれない。「何、やってんの」と気軽に声をかけたかもしれない。
けれど今、こうして目の前にある日向の姿は暗闇の中で薄く淡く、いつもの強靭でしなやかな彼は影を潜めていた。空に向かって立つ日向の姿は、誰かが支えてあげなければ崩れてしまうのではないか・・・・・そう思うほどに、脆く見えた。
若島津は日向に声をかけることができず、ベッドの上に座ったまま、それが終わるのを待つしかなかった。


日向は夜空を仰いだまま動かない。
霧のような細かい雨が自分の顔に降りかかるのを気にする風でなく、後ろにいる若島津のことも気にする風でなく、何かに祈りでも捧げているかのような真剣さで微動だにしない。


若島津はそうして日向を見ているうちに、思い出した。


           日向さんの父親は、確かこの季節・・・・雨の日に亡くなっている。


今のいままで、すっかり記憶の片隅に追いやっていた情報だった。だがそれを思い出すと、日向の行動が何を意味するのか、腑に落ちた。
おそらく、今日この日が父親の命日なのだろう。日向は父親に祈りを捧げているのだ。


若島津はついで、日向と過ごした昔の、ある日のことを思い出した。
それはまだ明和にいた小学生の頃、日向が若島津の家に来た時のこと。

梅雨に入って、じめじめした日が続いていた季節だった。







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