~ 最上級乙女と高校球児 【出会い編】 ~





若林源三はランニングシューズの紐をキュッと結ぶと、両開きの玄関扉を押し開いて音を立てないように静かに家を出た。まだ朝早い時間だ。今日から小学校は夏休みに入っていて、体力作りのために毎朝走ることにしたのだ。どうせなら誰もいないような早朝が気持ちがいいだろうと思い、気合を入れて早起きをした。

「・・・よしっ!」

準備体操を入念に行ってから、一歩を走りだす。すぐに普段のランニングのペースに上げていった。起きてから水分しか摂っていない身体は軽い。これからジリジリと暑くなるだろう気温もまだ涼しく、風を切って走るその顔に自然と笑みが浮かんだ。

若林邸から丘陵を下って住宅街を抜けて、小学校の脇を通り過ぎる。やがて付近一帯の避難区域にもなっている大きな公園に辿りつくと、その周りを走った。両親からは『男の子だし、体も大きいから大丈夫だとは思うけれど』と前置きをされたうえで、『人や車から目につきにくい寂しい場所には行かないこと」と言われている。その言いつけを守り、源三は舗装された広い道を選び、人の目の届かない、例えば樹々が生い茂って陰になっているような場所は避けた。

「おはよう」
「おはようございまーす」

公園の周りでは、源三と同じようにジョギングをしている人たちがチラホラといた。その年齢も千差万別だ。夫婦でのんびり走っているような人もいれば、源三が舌を巻くくらいに速いスピードで駆け抜けていく高校生や大学生らしき人もいる。それらの人々はお互いに知り合いでも何でもない。だが同じ空間を共有しているという意識があるからだろうか、皆が挨拶をしあい、源三にも声を掛けてくれる。それが楽しくて、源三は『夏休みが終わっても、毎日走ろうかな』などと初日からそんなことを考えていた。

目の前の道に集中していなかったからか、そこが曲がり角だったからか。
公園から少し外れて瀟洒な戸建てが並ぶ住宅街に入ったところだった。源三は近づいてくる足音に直前まで気がつかなかった。角を曲がったところで、出会い頭に人にぶつかってしまう。

「・・・うわっ!」
「・・・ッ!」

人並み外れた反射神経で、ギリギリのところで多少は躱すことが出来た。真正面からぶつかるのは避けられたので、驚きはしたが源三自身はそれほどダメージを受けなかった。
だが相手は衝突の際に転んでしまったようで、源三の目の前で尻もちをついていた。

「・・・ごめんっ!大丈夫か!?」
「・・・・・いってえな・・・ッ」

源三が慌てて中腰になって相手     どうやら源三が見たところ、体格からして自分と同じ小学生のようだった。源三が平均よりもかなり大きいということを差し引いても、小柄な男の子だ。もしかしたら年下なのかもしれない     その少年に手を差し出した。自分が前方不注意だったことを申し訳なく思う。

「余所見してんじゃねえよッ!危ねえだろうがっ!」
「悪かった。本当にすまない」

源三の手を取ろうともしないその少年は、ピッタリとした細身の黒のパンツに、グレーの薄手のパーカーを羽織って首元までジッパーを上げている。そのうえフードまで目深にかぶっていた。だがそれでも、長い前髪の奥からギラついた目で睨み上げているのが分かった。

いつもの源三なら『生意気な奴だ』と感じたのかもしれないが、この時はそうは思わなかった。それどころか、その大きくて強い光を放つ瞳から、何故だか目を離せない。

(これはまた、随分と・・・。男でも、こんなに綺麗な顔をした奴が世の中にはいるんだな)

フードを被っていても隠せないほどにほっそりとした首に、小さな顔がちょこんと乗っかっている。その真ん中にはスっと通った鼻梁。ふっくらとした赤い唇は、怒りに引き結ばれていても可愛らしい。そして何と言っても、その瞳。けぶる睫毛の向こうから見上げてくる黒曜石の瞳は、まるで星の光を閉じ込めたようかのようにキラキラと煌いていて、印象的で神秘的ですらあった。

いまの年齢でこれほどの美しさなら、成長した暁にはどれほど魅力的な青年になるだろうか      他人の美醜などには全く興味の無い源三にそう思わせるほど、少年の容姿は際立っていた。

知らず見惚れていた源三だったが、目の前の佳人は相手の呆けた様子に行儀悪くも『チッ』と舌打ちをする。我に返った源三が慌てて彼の手を引っ張って立ちあがらせようとすると、その軽さに今度は引き過ぎたことを知った。

「・・・え!?かる・・っ!?」
「あ、馬鹿・・・っ!」」

勢いよく引っぱり上げてしまった細い体は、そのまま源三の身体にぶつかる。
源三は小学6年生にして既に身長が170cm近くあるが、相手はおそらく155cmにも届かないだろう。自然と腕の中に抱え込む形になる。

「・・・・・」
「・・・・・」

間近から見上げてくる少年の驚いたように見開かれた瞳は、破壊力が有りすぎた。相手は男の子だというのに、源三の頬が自然に紅潮していく。

だが少年の方は、ハっと何かを思いだしたかのように突然背後を振り返って、「あ、やべえ・・!」と慌てて道に落ちた荷物を拾い集めて抱え上げると、駆け出してしまう。「次からは気を付けろよなッ!」と振り返りもせずに、それだけを源三に言い残して。

「ちょっと・・・!待ってくれよ、待てって・・・!」

源三が急いで呼び止めたけれども、既に遅かった。少年は俊敏で足がとても速く、あっという間に見えなくなってしまった。嵐のように現れて、忽ちのうちに去っていった少年のことを、源三は為す術もなくただ呆然と見送るしかなかった。

(行っちまった・・・。だけど、あいつが抱えていたもの。あれは     

少年が肩からぶら下げた袋に入っていたのは、新聞の束だった。1部や2部じゃない。あれは、これから各家庭に配るものだと思われた。

(まさか・・・新聞配達をしているのか?子供なのに      ?)

自分も小学生のくせして、源三は先ほどの少年のことを『子供』と称してしまう。本当の年齢は分からない。だが掴んだ腕の細さと、受け止めた身体の軽さは少なくとも自分より年上の男のものではなかったと思う。

(それにしても、本当に綺麗な顔をしていたよな。・・・また、会えるかな)

もしこの付近の配達を担当しているというのなら、明日以降もこの時間に、この辺りで会えるのかもしれなかった。これから毎朝、この場所を走ってみることにしようと源三は決める。そうしたくなるくらいには、ちょっと忘れ難いような、このままにするには勿体ないような少年だった。

だが源三はやがて、『そのうち会えるだろう』などと気楽に考えたことと、あの朝に彼を追わなかったことを後悔する羽目になる。少なくとも夏休みの間中はずっと、彼を逃したことを悔やみ続けることになった。



予想と期待に反して、黒曜石の瞳をした美しい少年は、翌日から源三が同じコースを同じ時間帯に走っても、もう二度姿を現すことが無かった。そして源三が彼を探そうにも、彼のことで知っていることといえば『新聞配達をしていた』ということと、『ちょっと見ないくらい綺麗な子』ということくらいしかない。だが例え新聞の販売所に問い合わせたところで、個人情報など絶対に教えてくれないだろう。



他に少年に繋がりそうな手掛かりは、何も無かった。








       top              next