~ 嫁と僕と鯉のぼり ~ 2
物心ついた頃には、父さんと二人で日本中を旅して回っていた。
雪深い山の麓にも、潮風の匂いのする海辺の町にも、父さんが描きたいと思う場所であればどこにでも僕らは行った。
その日は五月晴れの気持ちのいい日だった。
やっぱり僕らは旅路の途中で、渓流のせせらぎの聞こえる山道を二人で歩いていた。
道の両側には新緑の芽吹く背の高い木々が生い茂り、眩しいくらいの陽射しをそれらの枝葉が遮って、空気も、踏みしめる土さえもが、少しひんやりとしていた。
そのまま歩みを続けていると突然に目の前が開けて、広い河原に出た。
ふと見上げれば僕らの頭上を、沢山の鯉のぼりの群れがまるで天蓋のように覆っていた。視界いっぱいに揺れる、鮮やかな色彩の布の重なり。
川を横切るようにして、対岸からこちらの岸まで何本かのロープを渡し、そこに何十、何百もの大小様々な鯉のぼりを繋いで掲げていたのだ。
幼かった僕は、抜けるような青空の下、色とりどりの魚たちが優雅に泳ぐのをただ黙ってじっと見ていた。
鯉のぼりたちは皆、繊細に描かれた鱗の一つ一つまでもが美しかった。
そして風をはらんで膨らんでは萎む、膨らんではまた萎むという、その瞬間の繰り返しが刹那的で儚いようで、それでいて果てしがないように見えた。
僕は言葉も無かった。
その時の僕が感じていたのは、楽しいとか嬉しいとか、そういう感情ではなかったと思う。どちらかといえば、畏怖に近かっただろう。
整然と並んだ鯉のぼりたちはひたすら圧倒的で、ちっぽけな親子がその下から見上げていることなど、まるで知らぬかのように悠然と泳ぐ。
それは僕たちの住む世の中と同じだった。どこに行っても僕と父さんは二人きりで、他に誰もおらず、それで世界は完結していた。そのことを改めて思い知らされたような気がした。
僕たちはお互いに寄り添って、飽きるまでずっと、空に浮かぶ魚たちを眺め続けていた 。
「こいのぼり、か。それは無理だよな」
「うん、無理でしょう?それはね。大人になって、いつか広い庭のある大きな家に住むようになったら、自分で買おうと思ってるんだ。庭の真ん中に高いポールを立てて、そこに泳がすの。小次郎も揚げるの、手伝ってね」
僕がそうお願いしたら、小次郎は電話の向こうで笑った。鯉のぼりが欲しいだなんて、小次郎から見たら子供じみた願望なのかもしれない。
でも、「いいぜ。どうせならとびきりデカイのがいいな。一体10メートルくらいあるやつ。そんなの見上げたら、すげえ気持ちいいんだろうな。いつかお前と一緒に見たいな」と優しい嫁は言ってくれたので、「うん、一緒に揚げようね」と僕も笑って、約束を交わした。
そのあと少し話をしてから電話を切った。何が欲しいのかは、次に会う時までに考えておくことにした。結局は決まらないままに時間が経ち、そのまま小次郎の誕生日がやってくるのかもしれないけれど、それはそれで別にいい。
あと3日で僕は18歳になる。今の僕は、あの日、あの場所で鯉のぼりを見上げていた父さんの歳と、僕の歳と、ちょうどその中間くらいだと思う。自分の父親が人の親となった年齢に段々と近づいているからだろうか。僕は最近、考える。
父さんはあの時、幼い僕を連れて旅をしていたあの頃、何を思っていたのだろう。
放浪生活のパートナーとするには、あまりにも頼りにならない子供の僕を連れて、父さんに不安は無かったのだろうか。
母さんと別れ、僕とたった二人きりの生活で、寂しかったのは父さんの方こそじゃなかったか。だからあの日、僕と同じで何も言わずに黙って、ただ黙って鯉のぼりを見上げていたのではなかったか 。
5月5日は、父さんにとっては息子の誕生日であると同時に、自分の妻だった人が初めて子供を産み落とした日でもある。長くは続かなかった幸せな日々に、思いを馳せていたとしても不思議ではない。
そこに後悔はあったのか。
それは父さんにしか分からないことではあるけれど、でも父さんのために、哀しかったことはもう忘れてくれていればいいと、僕は願う。
僕はこれから先の人生を、僕の可愛いあの子と共に生きていく。
待ち受ける日々は、凪いでばかりではないだろう。嵐のような災難に見舞われるかもしれない。考えたくはないけれど、彼と袂を分かつ選択を迫られる時もあるのかもしれない。
それでも僕は絶対に彼から離れないし、放さない。
父さんのことは愛しているし、尊敬もしているけれど、でもだからこそ、同じ轍は踏まない。
そうだ。一度、小次郎を連れてあの渓流を訪れてみるのもいいかもしれない。詳しい場所は父さんに聞けばわかるだろう。
紺碧の空に翻る、巨大な五色の吹き流し。
薫風を身に受けて、時に絡み合い、時に離れて、流れるように優雅に舞い踊る鯉たち。
大きいのも小さいのも、いずれも自由に、何にも縛られずに高く高く昇っていく。
そんな景色を、小次郎と一緒なら、きっと僕は笑顔で見上げるだろう。
いつか君と。
小次郎、君と。いつか一緒に 。
僕は立ち上がると、お風呂のお湯を溜めにいく。そろそろ寝て、明日に備えなくてはならない。僕ら南葛も明日は地区大会の初戦があるのだから。
いつかの願いはともかく、今年こそ僕らは東邦に勝たなくてはいけない。小次郎率いる常勝軍団を倒して、インターハイを優勝する。それが今の僕の目標。
ピッチの上での激烈で容赦のない彼の姿を思い出し、僕はふふ、と笑った。普段のちょっと抜けている感じとのギャップがたまらなくイイ、僕の嫁。
3日後、きっと彼から電話がかかってくる筈だ。律儀にも、また 『 誕生日おめでとう 』 と繰り返してくれるのだろう。
その日がくるのを、僕は心から楽しみにしている。
END
2015.05.05
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