~ 嫁と僕と鯉のぼり ~





「誕生日おめでとう、岬」


いつものように狭いアパートの部屋で一人で夕飯を食べた後、テレビをつけて休んでいたら、嫁から電話がかかってきた。
どうしたの、という間もなく、開口一番にそんなことを言われたものだから僕は吃驚した。

何故なら、僕の誕生日はまだ3日も先のことだからだ。
もしかして誕生日を間違えているのかなぁ?と思い、「ありがとう、小次郎。でもね、今日は5月2日だよ。そして僕の誕生日は5月5日なんだよ」と言ってみた。
すると「知ってるよ。そんくらい」と、ぞんざいな口調で返してくる。一体、どういうことなんだろう?

「知ってるなら、何で今なの?」
「5日に言おうとしたって、忘れちまうかもしれないだろ? 覚えているうちに言っといた方がいいかな、って思ったんだよ」
「・・・そうなの」

僕にしてみれば、『忘れちゃうかも』と言われた挙句に何日も前に祝福されても・・・という気もするけれど、小次郎らしいといえば、これ以上ないくらいに小次郎らしい。思わずクスリと笑ってしまう。


こんな風にどこか天然だけど律儀な小次郎だから、僕のために誕生日を祝いたかったのだろう。でも、忙しい毎日を過ごしている彼のことだ。電話やメールをするのも忘れてしまうかも・・・と危惧したのだろう。
何と言っても、既にインターハイの予選が始まっているのだ。東邦は関東大会の東京代表に決定しているから支部予選は免除だけれど、それでも5日は確かそれこそ関東大会予選の決勝がある筈だ。
僕も彼も、これから夏に向かって負けられない試合が続いていく。そんな時期に僕の誕生日はやってくるのだから、実際のところ彼がそれを忘れたとしても、どうということもなかった。

まあ、やろうと思えば、携帯のカレンダーを使うとか、人に頼むとか、いくらだって手はあるのだけど。
だけどそんなまどろっこしいことをするのでなく、『 忘れるかもしれないから、3日前だけどおめでとう 』 と、馬鹿正直に電話をかけてくる嫁が、僕は本当に可愛くて仕方がない。

「それじゃあ、もう5日には電話してくれないの?」
「ちゃんと覚えていたら、電話する。でも、もし出来なくても、恨まないでくれ」
「恨むって・・・。そんなこと思うわけないよ。覚えていたらでいいから。忘れなかったらでいいから、電話くれると嬉しいな。僕はいつだって小次郎と話したいし、一緒にいたいんだよ」
「・・・・」

あ、照れてる。
ふふ。可愛いな。

姿が見えなくても、声しか聴こえなくても、僕には僕の嫁がどんな顔をしているか、今どんなことを考えているか、どんな風に感じているか、おおよそのことは分かる。それくらいに彼の反応は、いつだってストレートだから。

「・・・する。電話、するから。絶対・・・じゃないけど、忘れないから。お前もちゃんと出ろよな」

ほらね。小次郎はやっぱり素直でいい子。
こんなに簡単に僕なんかに絆されちゃって。将来くだらない詐欺にでも遭うんじゃないかと、少し心配になるくらいだよ。

一応お説教じゃないけれども、『 あんまり僕以外の男の前で、そんなにポヤポヤしてたらダメだよ 』 と、そう言おうと口を開きかけた時だった。小次郎が「誕生日プレゼント、何か欲しいものあるか」と僕に尋ねた。金がかかるものはあげられないけど・・・と申し訳なさそうに付け足す。
これまでの誕生日にも、何度か繰り返されてきた質問だ。小次郎からも、それ以外の人からも。

だけどリクエストを訊かれても、僕はいつも困ってしまう。元々物欲も無い方なのだ。服だって気に入ったものが少しあればいいし、アクセサリーもつけたりしない。そもそも他人から貰う物で、形として残るものはあまり身の回りに置きたくなかった。勿論、小次郎は 『他人』 じゃないから同列にはできないけれど、やっぱりこれといって欲しい物は思いつかない。

「欲しいもの?・・・・そう言われても、特に無いかなあ」
「そうだよな。金のかからないもの、って言っても難しいよな」

悪かったな・・・と、小次郎が少し寂しそうな声で謝ってくるから、僕は真剣に何かないかと考え始める。

「欲しいものねぇ・・・。そうだねぇ。・・・お金のことは置いておくなら、昔から欲しいと思っている物が一つあるんだけど」
「何だよ。その昔から欲しかったもの、って」
「うーん。鯉のぼり・・・?」
「こい、のぼり?」
「そう、端午の節句に空でひらひらと泳いでいる、あの鯉のぼり」

当然のことながら、小次郎に買って貰おうなんて思ってる訳じゃない。ただ他に何も思いつかなかったから、取り敢えずそれを引き合いに出してみただけだ。

昔から欲しいと思っていたのは事実だ。だから、いつかは手に入れるつもり。だって僕の家には鯉のぼりは無い。5月5日生まれの男の子がいたとしても、そんなことは父さんと僕の間では関係が無かった。出来るだけ荷物は増やしたくない、という点で、僕たち二人の考えはいつだって一致していた。
だから、僕が父さんに『鯉のぼりを買って』と強請ったことも、一度も無い。


ただ、あれは一体どこだったのかな・・・。

昔、父さんに連れられていった場所で、大きな鯉のぼりが幾つも連なって泳いでいるのを見たことがある。
何歳の時の記憶なのかも正確には分からないけれど、多分、まだ小学校に上がっていなかった頃なんじゃないかな。







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