~ Equestrian ~
「日向。どちらにするか決めたか」
背後から見上辰夫に問われ、日向小次郎はビクリと肩を揺らした。ゆっくりと見上 かつてはライバルのコーチでもあり、一時期は監督と選手としても関わった人間 を振り返る。
「・・・見上さん」
「日向。決めたのか」
再び静かに問う見上に、日向は泣き笑いのような表情を見せた。
「見上さん。俺が・・・俺がどちらかを選んだとして、その結果は正しいでしょうか」
「・・・何をお前らしくもないことを。お前しか選べる奴はいないだろう」
「だけど、俺にはどっちか片方だなんて・・・源三か、健か、どちらかを選ぶだなんて」
いつになく気弱な態度を見せる日向の肩を掴み、見上は檄を飛ばした。
「思い出せ、日向。勝利のためには非情にもなれるお前だったじゃないか。こうなることは分かっていた筈だ。いつかはどちらかを選ばなくてはならないということは」
見上に背中を押されて、日向は俯いていた顔をようやく上げた。
それから何かを心に決めたのかのように、確固たる足取りで目の前に並ぶ源三と健の近くに寄っていく。
「源三。・・・お前にはいつも助けられてばかりだよな。お前はいつでも安定していて信頼できるし、俺との相性もすごくいい。俺はお前といると安心できる」
日向は源三の首筋に手を伸ばし、ゆっくりとさすった。源三は甘えるようにその手に頬を摺り寄せてくる。
「お前の方が経験も豊富だ。本場のドイツで活躍していたのを、俺のために日本に来てくれた。そのことも感謝している。でも・・・」
日向は源三の鼻先に自分の額を押しあてて、「ごめんな」と呟いた。それから隣で大人しく自分の番を待っていた健を振り向く。
「健。お前は源三ほどにはキャリアがなくて、それだけにリスクもある。だけど、お前の瞬発力や跳躍力はやっぱり目を瞠るものがあるんだ。それにお前は怖いもの知らずで、挑戦的だ。経験さえ積めば、これからどんどん伸びていくだろう。俺はそれに賭けたいと思う」
日向は健の顔を両手で包み、目と目が合うように自分の顔を近づけた。そして一言一言、噛みしめるようにして宣言する。
「健。お前でいく。今度の大会は、お前と出る」
日向がそう言って首を撫でると、『健』と呼ばれた葦毛の馬は嬉しそうに尻尾を振って、甘えたように鼻を鳴らした。
一方、隣で並んでいた『源三』と呼ばれた茶色の馬は、「ヒヒーン!」と大きく嘶いてひとしきり暴れた。
「健に乗ってくれるの!?嬉しいよ、日向さん」
「ああ。源三は怪我もあったしな。まだあまり無理させたくないっていうのもあるし・・・。健は最近俺に慣れてきて、だいぶいい感じになってきたから」
日向と共に暮らす東京の家に帰ってきた若島津は、嬉しそうな表情を隠そうともしなかった。キッチンに立つ日向の背後から、抱きつくようにしてその腰に腕を回す。
「頑張って。応援してる。・・・ほんと、サッカー選手として華々しく活躍したうえに、引退後は他の競技に挑戦するなんて・・・しかもオリンピックを目指すレベルだなんて、前代未聞だよね。まさにあんたは俺たちアスリートのお手本だよ」
「俺の力じゃねえよ。これは本当に、お前や若林や三杉・・・香さんや見上さんも。みんなのお蔭だな」
「日向さんに才能があったからだよ。人間相手にはコミュニケーションに苦労していたあんたが、まさかあんなに動物とは上手に意思の疎通を図れるなんてね」
「・・・人間云々は余計だ。馬鹿」
馬鹿、と言って振り向いて若島津の頭を小突きながらも、日向の顔は微笑んでいた。
確かに若い頃、日向は人付き合いを苦手としていた。だがそれが上手くいくように、いつもさり気なく手助けしてくれていたのは、それこそ他ならぬ若島津だった。
日向と周りの人間の間に軋轢が生まれそうになると、時に相手を懐柔し、時に根気よく日向を宥めて、日向のプライドを守りつつも周りと上手くいくように手を尽くしてくれていた。
そのことが分かったのは、大人になって若島津と離れて暮らすようになってからだ。だがその頃には日向も他人との距離感や付き合い方を既に学んでいた。それも若島津のお蔭だった。
小学校からの幼馴染で、中学・高校と共に過ごしてきた仲だった。東邦の寮でも6年間同室で、誰よりもお互いに近くにいた。
東邦を卒業してからはイタリアと日本で遠距離となったこともあったが、やがて若島津がイタリアに来てからは二人で家を借りて一緒に住むようになった。日向がプレミアリーグのチームに移籍した時にはまた離れたが、それもすぐに若島津が追いかけた。
そして日向が現役のサッカー選手を引退することを決めた時、若島津もまた所属していたチームを辞めて日本に戻った。「日向さんがこのままヨーロッパに残りたいって言うならそれでもいいけど・・・日本に戻りたいんでしょ?それなら、俺もJリーグに戻るよ」と言って。「あと少しで俺も現役を終えるのは分かってる。でも俺は、日向さんと少しの間でも離れていたくないんだ。だって俺たちは夫婦みたいなものなんだから、離れて暮らしていい筈がないよ。だけど、日向さんには好きなように生きて欲しいんだ。だったら俺も一緒に日本に帰るのが一番じゃない?」
日本に置いてきていた母親のことが心配だった日向には、ありがたい話だった。
だが結局日向は、その頃に思い描いた引退後の生活とは全く異なる第二の人生を送ることとなった。
現役を引退したからには、GKとして選手生活を続ける若島津のサポートに回るつもりだったのに。
専業主夫として、今度は日向が若島津のことを支えるつもりだったのに。
どういう因果か今、日向は思いがけずに馬術の選手となり、人生二度めのオリンピック出場を目指している。
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