~ 強面天使と悪魔な俺 ~<綻び>編



自宅の最寄りのバス停で、若島津健はスイミングスクールのバスを降りる。濡れた水着の入ったバッグを肩に担ぎなおし、すぐに家路を急いだ。

(小次郎ちゃん。勝ったかな)

今日は小次郎が所属しているサッカークラブ、明和FCの練習試合があるのだと聞いていた。今頃は既に終わって、小次郎は家に戻っている筈だ。きっと勝っただろう。明和FCは強いチームだ。自分に報告したくてウズウズしているのではないだろうか     そんなことを思うと、健の足取りも自然と速くなる。


スイミングスクールには健だけが通っている。健としては小次郎と一緒に通いたかったし、一応は誘ってもみたが、「うちじゃ無理だよ、スイミングだなんて。サッカーだって、全くお金が掛からない訳じゃないんだし」との答えだった。

「泳ぐのは気持ちよさそうだし、いいなとは思うよ。俺、あんまり長い距離泳げないし。俺の泳ぎ方、下手なのかな」
「じゃあ俺が習って、小次郎ちゃんに教えてあげる。市のプールなら安いし、一緒に行こう?」
「うん!」

こんなやりとりを経て、健はスイミングスクールに通うことになった。だが元々のきっかけはといえば、何気ない姉の一言だった。

偶々つけていたテレビのニュースで、『海水浴シーズンとなり、各地の海では海難事故が続いています』と報じられていた。それを見ていた志乃が「健もちゃんと泳げた方がいいね。じゃないとさ、こーちゃんがもし溺れたりしても、助けられないものね」と言ったのだ。

志乃は別に、『小次郎に何かあったら、身を挺して飛び込め』と健に言った訳ではない。ただ昔から、弟が隣の家の泣き虫の男の子を、それこそナイトのように大事に守ってきたとことを知っているから、そう口にしただけだった。
だがその言葉は、健の胸にしっかりと残った。

(小次郎ちゃんに何かあるなんて、想像したくもないけれど)

そうは言っても、世の中、何があるか分からない。そして何かが起こってから準備しても、もう遅い。考えたくはないけれど、小次郎が危険な目に合うようなことがあれば、助けるのは自分しかいない。他に誰がいる     健は真剣にそう思っている。

(他に誰かなんて     いてたまるか)

見た目こそ大きくてゴツくて頑丈そうで、小学生には到底見えない小次郎だが、中身は誰よりも純粋で優しく、柔らかい心を持っている。そんな小次郎を、健は真綿で包むように大切に守ってきた。
ただ、だからといって、それをそのままにしてあげたいと思っている訳ではない。健は小次郎の柔い心に、自分の形を刻みつけたいのだ。自分の形だけを。そのためには、小次郎の傍にいて彼を守るのは自分でなければならない。自分だけがいればいい。余計なものなど要らない。

(とりあえず、空手の家に生まれたのは都合が良かったよな)

腕に覚えがあれば、小次郎が誰かから謂れなき暴力を受けようとしても、大抵の場合なら助けてあげられる。実際これまでにも、健が身体を張って助けてきたのだ。他人から絡まれて、暴力沙汰に巻き込まれる小次郎を、幾度も。

自分の空手の技能の如何によって、いざという時に小次郎を救えるかどうかが左右されるのだいうことを、幼い頃から健は理解していた。それ故に父親から課せられる鍛錬がどんなに厳しいものであっても、辛いとはまったく思わなかった。逆に、もしこの家に生まれていなかったなら・・・と想像すると、自分は運が良かったと思うほどだ。

(たとえ空手をやっていなかったとしても、きっと何かしらの格闘技は身に着けていただろうけれど)


小次郎を守るためには、力が必要だ。武の力だけではなく、知の力も、おそらくは交渉力や処世術といったものも。これからあらゆる知識を得て、実践していかなければならないだろう。努力なら惜しむつもりはない。小次郎のためになるなら、健はどんなものでも手に入れるつもりだった。



ただ『小次郎のために』と健が頑張れば頑張るほど、当の小次郎と一緒にいる時間は減ってしまう。
そのことだけが不満といえば不満だった。












健はスイミングスクールのバッグを持ったまま、自分の家に戻ることはせずに直接日向家へと向かう。髪が濡れていて首筋が冷たいが、問題はない。いつも小次郎が部屋で待っていて、ドライヤーで乾かしてくれるからだ。

『健は髪が長いんだから、ちゃんと乾かしてから帰ってきた方がいいよ。風邪をひくよ?』と言いながら、優しい手つきで健の髪にドライヤーを当ててくれる。健は毎日の風呂の後でも自然乾燥させているのだから、別にそのままでいいとも思っているのだが、小次郎が手ずから乾かしてくれるというのなら、当然文句がある筈もない。

実際、髪に小次郎が触れてくるのは気持ちがよかった。熱くなり過ぎないように気を付けながら、意外なほどに繊細な手つきで髪の毛をほぐしてくれる。
時間にすればほんの数分のことではあるけれど、今となっては健にとっても大事な時間だった。小次郎の家族が帰ってくるまでの間の、二人きりで過ごせる優しい時間。髪の毛を乾かして貰った後は、小次郎からサッカークラブの話や家族の話を聞いて、ゆっくりと過ごすのだ。

だから今日も、いつもどおりの時間を過ごすつもりで日向の家に向かって歩いていたのだが     



やがて見えてきた日向家の住むアパートの前に、見慣れない車が停まっていることに気が付いた。白い車体のメルセデス。よく手入れされているようで、陽の光を弾いて輝いている。

(・・・どこの     ?)

隣にある自分の家の方の客かと一瞬思ったが、そうではなさそうだと思い直した。若島津の家に用事ならば、敷地内にいくらでも車を停められるスペースがある。わざわざ道端に停める必要はない。

だが一方で、アパートの住人に用があるようにも思えなかった。このアパートは若島津家の持ち物でありながら古いもので、本当なら建て替えを検討しなくてはならないくらいに年季の入った建物だ。ただその分、家賃も格安に設定している。正直なところ、住んでいるのは日向家を含め、裕福な家庭とは言い難いところばかりだ。高級車で乗り付けるような人種との繋がりが想像できなかった。

だから健は首を傾げた。一体、どこの家に用事なのだろうと。


その車を通り過ぎて健がアパートの前に着いた時、丁度その一室のドアが開いた。日向家の借りている部屋だった。


「じゃあ、日向。お大事に」
「ああ、ありがとう。・・・悪かったな」
「いいんだよ。前から君とはゆっくり話してみたいと思っていたんだ。だから怪我をした君には申し訳ないけれど、僕としてはいい機会だった」
「怪我ってほどのものじゃない。・・・でも助かった。病院にまで連れていってもらって・・・あ、そうだ、治療代・・・!」
「保険で出るから大丈夫だと、監督が言っていたよ。手続きはこちらでしておくから、気にしないでくれ」
「・・・悪いな。何から何まで、ありがとう」
「どういたしまして」

どういたしまして・・・という聞き覚えのない声が、殊更に甘く、柔らかく耳に響く。
健はその場を動かず、ただ拳をぎゅっと強く握った。

「日向。せっかくこうして親しくもなれたのだから、今度、僕の家に遊びに来ないか?軽く庭でボールを蹴ってもいいし、それに今なら、可愛い犬がいるよ」
「・・・いぬ・・・?それ、ちっちゃいのか?」
「この間から飼い始めたばかりだからね。パピヨンの仔犬だ。可愛いよ」
「そうなんだ。仔犬なら・・・見たいな」

小次郎は吠えてくる犬や大きな犬は苦手にしているが、元々は動物好きだ。小さな犬なら、可愛いとも、見てみたいとも思う。

「なら決まりだ。いつが都合がいい?」
「え・・・。随分、急だな」
「こういったことは、相手の気が変わらないうちに決めるのがいい。土日なら、どっちがいい?」
「えっと、土曜日はバイトもあるから・・・・」

小次郎はそこまで言いかけて、ふと気配を感じてアパートの入口の方を振り向いた。一拍も置かずに、「健!」と嬉しそうな声を出す。

「健。帰ってたんだ?・・帰ってた、のか?」

いつもの口調で健に呼びかけたが、傍に他の人間がいることを思い出して慌てて言い直す。健はゆっくりと、小次郎がいるところまで歩いてきた。

「日向さん。・・・どうしたの。表に車が停まっていたけれど、ここまで送って貰ったの?」
「・・ああ。・・・ちょっと、足を挫いて」

健は小次郎に対して、外でしか使わない『日向さん』という呼称を使った。そのことで、小次郎の前に立っている少年を『部外者』として見做していると、小次郎に伝えたつもりだ。小次郎もそのことは分かっているらしく、いつもの健に対する『小次郎ちゃん』とは異なる口調で返してきた。

そうして小次郎と会話をしながらも、健は傍らに立つ少年を抜け目なく観察した。その少年は、健ですら驚くほどに美しい子どもだった。
全体的に色素が薄いのか、肌が抜けるように白い。目の色も髪の色も、薄い茶色で、陽の当たり方によっては金色にも映りそうな、淡い色合いをしていた。ウェーブのかかった髪質は柔らかそうで、賢そうな額をふわりと覆っている。目鼻立ちは品よく整っており、長い睫毛に覆われた瞳が理知的な光を浮かべていた。

健は一瞬で理解した。この少年は、その辺の子どもとは違う。小次郎の本質を見ることもせず、強面の彼を意味もなく畏怖や嫌悪の対象とし、集団で攻撃してくるような下らない奴らとは全く違う。

「・・・日向さん。彼は?」
「あ・・えっと・・・」
「三杉、淳。日向とはサッカーを通じての知り合いだ。今日は明和FCと僕の所属するクラブとの練習試合だったんだが、彼が怪我をしたから送ってきたんだ。・・・ところで、君は?」
「若島津健。日向さんの幼馴染だ」

そう、よろしく     笑顔を浮かべる三杉に対して、健は冷たい一瞥を投げただけだった。元々、小次郎以外の他人には興味が無い。小次郎に関わる人間であれば別だが、更に歓迎はしない。

「話が途中だったね、日向。・・・でも、君の幼馴染も君に用事があって来たのだろうし、今日はここでお暇するよ。夜に電話してもいいかい?」
「ああ・・・。そうだな。け・・若島津、先に家に入ってろよ。じゃあ三杉、気を付けて」
「君こそ。あまり無理をしないことだよ」
「分かってる」
「どうだか」

軽口を叩いて笑いあう三杉と小次郎に、健はまたしても臓腑が冷えていくような心地を味わった。

「では本当に、もう行くよ。また後で」
「じゃあな」

手を軽く上げて、三杉はアパートの敷地の外へと去っていった。その後、すぐに車のエンジン音が聞こえ、徐々に遠ざかっていったので、やはり外に停まっていた車は三杉を待っていたのだということが健にも知れた。


「健。どうしたの?早く中に入りなよ」

他人がいなくなれば、小次郎の話し方はいつもの『小次郎ちゃん』のものに戻る。

「髪の毛、濡れて冷たいよね?おいでよ、乾かしてあげる」

健は身の内にせり上がってくる、凍えるほどに冷たいものと、相反して今にも爆発しそうなほどに熱いものを抱えたまま、小次郎の後について部屋に入った。











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