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番外編   2015年8月1日

 
故竹島編集長を偲ぶ

 

やあ、みなさんこんにちは。お久しぶりです。
こうやって久しぶりに筆を執ったのには理由があります。

新聞の死亡欄にも出ていたようですが、もと鉄道ジャーナル編集長でもあり、またジャーナル社(もともとは鉄道記録映画社の社号でしたが)の社長でもあられた、竹島紀元氏が逝去されました。
あらためて、ここで氏の偉業を書くのも、もう皆さん知っていらっしゃることばかりで憚りますが、氏の幅広い人脈は有名で、特にいまはもうお亡くなりになられた方もいらっしゃいますが旧国鉄の幹部、そして著名な技師の皆さん、鉄道ライター、そして写真家たちなど、その人脈は多岐にわたり、他に例を見ないほど広いもので、その人脈を最大限に生かした紙面や映像、更には独自の企画ものを連載し、「鉄道ジャーナルらしさ」を次々に打ち出されていかれたことには多大な敬意を表す次第です。

確かに、われわれの子供の頃の鉄道雑誌と言えば「鉄道ピクトリアル」であり、これがバイブルのようになっていました。またあえていうと、「鉄道友の会」が全盛の時期でもあって、毎月一回定期的に「RAILFAN」という、写真で言うとキャビネ判、今でいうと2L版でしょうか、30ページ足らずの鉄道情報小冊子を発行していました。
今、私の手許にもあります。もうお亡くなりになった方が多いと思いますが、素晴らしい紀行文、情報、写真が掲載されています。
また全国組織もしっかりしていて、本部、各地方の支部が大勢の会員を抱えて組織を組成していました。会員は常時5000名を超えていました。

今、昭和42年の「友の会の」理事たちをみてみると、そうそうたる方のお名前が並んでいます。理事は評議員から互選されましたが、当時の評議員の主だった方の名前を挙げてみましょう。
小熊米雄、田部井康彦、伊藤威信、中川弘一、宮沢孝一、吉川文夫、鈴木靖人、中山沖右衛門、宮松金次郎、吉村忠晃、江本広一、荻原政男、諸河久、白井昭、白井良和、高橋弘、久保敏、杵屋栄二、日高冬比古、高田隆雄、星晃、小林宇一郎、などと言った、故人もいらっしゃるしご存命の方もいらっしゃいますが、いずれにしても、そうそうたるメンバーが揃っています。(敬称略)竹島氏は当然こういった方々ともお付き合いされていたのでしょうね。

当時は、たとえ仙台、新潟と言っても、決して近くはなく、むしろ遠い存在でした。従って、地方支部と言うのは、ある意味新聞社の支局みたいなもので、その地区に特化した活動が主でした。ですから評議員ではなくてもその地方に根付いた方も多くいらっしゃったのです。今のように、若者が九州や北海道に自由に行ける時代ではなかったのですね。ですから、私のイメージで言うと、岩浪清氏は、花巻電鉄・釜石製鉄・仙台市電、田部井康彦氏と言えば信越線と横軽アプト、新潟のC51239といえば瀬古龍雄氏、九州C57のかもめ号といえば谷口吉忠氏、といったところがすぐ連想されるほど地域的ではあったのです。

その「RAILFAN」が発展的に解消され、新しく「月刊・鉄道ファン」が交友社から発行されたと聞いています。上記のような著名人を抱えていた「鉄道ファン」と違って、後発の「鉄道ジャーナル」はずいぶん苦労したのではないかと思っています。従ってジャーナルは、単なる情報誌ではなく、企画内容で勝負と言ったところがありました。「列車追跡シリーズ」はその代表です。また、筆者もカメラマンも、ジャーナル独自のプロを採用しています。さらに、旧国鉄陣にも強く、直接現場の技師などに筆耕を依頼していたのも特徴でした。自社ではもう故人となりましたが、沖勝則さんという名カメラマンを社員で抱えていましたし、そこでカバーできない写真は、広田尚敬氏の事務所で働いて独立した井上広和氏、九州では栗原隆司氏らを専任のように使っていました。他誌ではほとんどみないカメラマンです。また、レイルウェイライターの種村直樹氏とも親しく、エッセイなどでも登場していました。地域別、専門別で新たな人材を起用されたのですね。

いま、竹島氏の逝去に当たって、なぜこんなことまで書いたかと言うと、ある意味、店長は鉄道ジャーナルの北海道支部の人間だったようにも思うからです。これを語るとまた長くなりますので、簡単に。
そもそも、店長と竹島氏との出会いは、今を遡ること47年前、鉄道ジャーナルが発刊1周年記念で募集した「カメラ・ルポルタージュ」に投稿した店長は、幸いにも佳作に入選し、昭和44年5月号で本紙で発表されたのです。これを機に竹島氏とのお付き合いが始まりました。
店長が大学4年の時には、ジャーナル社に来ないか、とお誘いを受けたくらいです。店長はその時には、もうすでに就職先が決まっていましたので、丁重にお断りしたのですが、竹島編集長は、「それでは、本誌もあるけど、別冊で『旅と鉄道』も出しているので、そういうところで協力をしてください」とお願いされました。竹島紀元氏とは その後、長い間お付き合いさせていただいて、いっときは、ジャーナル社の雑誌に店長の写真や記事が載らなかったことはないくらい、取材や撮影の命を受けるようになったのです。

店長の鉄道ジャーナル社でのデビューは1979年発行「旅と鉄道」の春の号(NO.31)でした。この号の特集は「一番列車」。
カメラマンは井上広和氏。2日間コンビを組んで「ブルトレ下り富士」を日本最長距離を走破するNo1列車を取材しました。これが何と、巻頭で17ページにわたる特集となったのです。(ヘタな取材で編集長には申し訳ない気持ちで一杯でした。)こんな拙い文章で売り上げが伸びなかったら私の責任だ、と落ち込んだりもしたものですが、さすがにプロカメラマンの井上広和氏の素晴らしい写真に助けられました。このとき、つくづく思ったのですが、やはりプロカメラマンは上手い。その瞬間を逃しませんでしたね。井上氏は、鉄道のカメラマンより、雑誌社や新聞社のカメラマン向きだったように思います。=今はどうされているのでしょう。

そのあとも、急行「鳥海」の取材をはじめ、いくつか「旅鉄」の仕事をさせていただきました。私も鉄道は大好きだったので、喜んでさせていただいたのですが、問題は、店長が1982年に北海道転勤になった時からでした。当時の北海道は、国鉄分割民営化のために、赤字路線を次々に廃線にし始めたころで、雪崩式に廃止になっていく路線の取材や撮影を、東京の事務所から、編集長直々の声で依頼され始めたのです。「富士」や「鳥海」などの取材と訳が違います。冬は雪が半端ではなく、しかも車で行きますから、道東・道北などは、めちゃくちゃ遠い。しかし、竹島氏はそんなこと全く意に介している様子はなく、何月号の速報に入れるから、何日までに原稿を送ってくれ、というものです。

そういえば、店長が「このたび、北海道転勤を命じられたので、しばらくはお仕事は受けられなくなります」と飯田橋の本社に挨拶に行ったところ、氏はニヤリと笑って、「では、ジャーナルの北海道支局として取材原稿をお願いすることにしますので、引き続きよろしくお願いします」と見事に切り返されてしまったのです。案の定、まだ札幌の店長の支社の仕事に慣れる(店長の本職)以前に、既に廃止が決定している白糠線の仕事が舞い込んできました。編集長は知らないでしょうが、白糠は釧路に近く、とにかく遠いのです。でもそんなことはお構いなし。こういったことが、廃止路線が一段落するまで続いたのです。その間に、函館発山線経由の夜行列車の取材が入ったり、とにかく、よく使われました。

青函トンネルが開通し、初の上野発札幌行の豪華寝台列車「北斗星」が走った時にもいち早く写真を送れ、という指示が出ました。当時は誰も行かなかった落部〜野田生間の海を入れた写真という条件まで付きました。冬場だったので1号、3号は無理、ようやく5号が撮れる状況でした。
しかも晴れていないと写真になりません。でも撮りに行きました。夜中に車を飛ばして。若かったから出来たんでしょうね。「よし、これでばっちりだ」と思って送ったポジに対して、竹島氏は「後部の客車が太陽の光を浴びて明るすぎるので、もう一絞り絞って撮ってこい」との冷たい指示!
半逆光なので前面は潰れるのは仕方ないので、編成をしっかり撮れ、ということなんですね。行きましたよ、もう一度同じ場所で同じ角度で。但し今回は一絞り絞りました。これでようやくOKが出たわけです。嗚呼!

この苦心の作は、1988年6月号に掲載されています。あれだけ注文を出したのだから、見開き位で載るだろうと思っていたら、2/3ページ見開きでしか掲載されませんでした。
厳しい人でしたが、こっちが一生懸命だという事が分かると、必ず原稿料に反映させてくれました。当時としては破格な原稿料をいただいた覚えがあります。店長は決してお金の問題ではなく(さすがにガソリン代くらいは欲しいですが)、半分はもう意地でした、絶対いい写真を撮ってやろう、という。ところが、氏の要求は、ますますエスカレートしていったのです。

1986年に小樽の手宮にある記念館からC623号機が、仮修繕のため、小樽築港機関区に引き上げられる、と言う情報を流した時点で氏はC623の復活を信じ、本誌にも、そして映像にも残すことを決心されたようです。失敗に終われば、フィルムも速報記事も無駄になることを百も承知の上で、ジャーナル社の一大プロジェクトにされたようです。
現に、C62 重連ニセコに取りつかれ「雪の行路」まで製作した実績があるわけですから。
それはそれでいいのですが、毎号のように、C623の動向を、締切に間に合うように送らなければならない、店長の身。辛かったですね。

でもこれらの取材で、色々な方と知り合え、教えていただき、その仮修繕は勿論、最終的には再び3号機を山線に走らせることですが、そういった目的、市民運動などを取材していくうちに、店長自信がある意味「黒幕のように」=言葉が悪ければ「アドバイザー」になってのめり込んでいってしまったのです。店長は自分の会社の手前もあるので、ペンネームを使ったり、編集部の名を借りたりして密やかに行動し続けました。ほとんど毎週のように小樽に通いました。そして情報をジャーナル社に流していたのです。

北海道のC623 の復活過程を逐次送稿していたのも店長ですし、本線走行時に発行された特集号に、そのいきさつを 一気に書いたのも店長です。=店長の残した記事が、C623の復活の過程を全て正しく伝えていると今でも信じています。
ですから、他誌は廃止路線情報のみならず、その後のC623についても毎号抜かれていて、頭に来ていたようです。特写(単なる走行写真ではなく)も店長のモノが多いし、当時では一番のニュースだったC623号機の動静と情報が、全てジャーナル誌に持って行かれるのですから、どこも面白くないわけです。逆に言うと、決して本望ではなかったのですが、他誌を敵に回してしまいました。

もう時効ですから書きますが、3号機が苗穂で本格修繕で復活するときは
店長はある会に、竹島編集長に連れて行かれて、そこで説明した覚えがあります。それはなんの会かというと、鉄道4誌の各編集長が毎月ラフが出来上がるとお互い見せ合って、今月号は特集は何で、こんなトピックスもあります、というお互いの情報交換会だったのです。=今でもやっているのでしょうか。ピクはよく知りませんが、編集長はジャーナルを除いて変わってない筈です。そこで簡単に店長が3号機の動向について各編集長に説明した記憶があります。

C623の本格復活を成し遂げるための市民運動を、側面から応援するシンポジウムを小樽で開催したりしたのは店長のしかけでした。そのために
忙しい竹島氏を小樽までお呼びしました。氏は快諾してくれました。
他のパネラーは北大の堀淳一先生、そして小樽築港機関区元検査長だった山下仁郎氏でした。
もうここまでくると、C623は、鉄道ジャーナル誌の私物ではないので、しっかりした説明と今後の予想を話したわけです。

店長は既に敵を作ってしまっていて、竹島氏も、これではうまくない、と考えられたのでしょう。店長は逆に言うと、決して本望ではなかったのですが、他誌を敵に回してしまいました。
もっとも、店長はそういったことには、もはや全く関心がありませんので、別にどうと言ったことではないのですが、いまだに各誌は私を疎んじていることは事実です。知らない間に、敵を作ってしまったとは、このことですね。逆に言えば、「店長はジャーナル誌のパシリだ」という風評まで流れて、かなり嫌われたように聞いています。

それもこれも、今や店長はもうすぐ古希を迎えますが、みんな過去の懐かしい思い出になっています。
北海道時代は、ジャーナル誌のみならず、旅鉄、別冊などに、店長の写真や記事が載らなかった号はないくらいの時もありました。

お願いごとがあったり、氏に呼ばれたりすると、飯田橋の本社の応接室に通され、それまで氏が執筆していた原稿が一段落すると「やあ、元気ですか」と、缶入りピースを手に取り、美味しそうに煙草をふかす氏の姿が思い出されます。

なにか、これで昭和の一時代が終わった感じがしてなりません。
いまでも、「名寄線の何キロポストで〇列車を撮ってください」という注文が電話口の向こうから聞こえてくるようです。

色々な事情があったのでしょうが、氏が社長も編集長も退いて以降は、お会いする機会はめったになくなりました。
どうしていらっしゃるかな、と思っていた矢先の訃報でした。
後日「お別れの会」があると聞いていますが、爺と氏が、そこまで親しかったことを知っている人は、多分いないでしょう。
どなたが発起人・世話人になられるのか分かりませんが、多分店長なんぞ、名簿にも入らないと思います。
店長は、店長なりに、竹島氏に心より哀悼の意を表し、ありし日の氏からの無謀とも思える注文に応えられたことを誇りに思って、氏との回想にふけりたいと思っています。
                                        合掌