■「なめくじ会」とは

団塊の世代に生まれた私たちの小さい頃はまだ世間のいたるところに戦後の臭いが残っており、経済的にもあまり恵まれた環境ではなかった。
第一、写真機が高価な贅沢品であり実際私が初めてカメラを手にしたのは中学生になってからで、それは父から借りた古いドイツ製のジャバラのカメラであった。
その頃から鉄道が好きだった私は、小遣いの中からブローニー版のフィルムを買っては東京、上野といった大好きな機関車や電車の見られる駅に出掛け、ホームから停まっている列車をへたくそなりに撮って回った。
なにせシャッターは1/100までしかなく走行写真は到底無理、停まっているものでも手ぶれを起こすことが多くまともな写真はほとんどなかった。中には紛失してしまったネガも多い。
東京の世田谷に住んでいた私たちは中学校で数人の鉄道好きの仲間と「なめくじ会」という奇妙な名前の同好会を作り、ほとんど毎日のように集まっては鉄道の話に花を咲かせた。「なめくじ会」の名前は代表的な蒸気機関車だったD51の100番(実際には5両を除く)までの、ボイラー上部に付けられた煙突から蒸気ドームまでの長いカバーが通称「なめくじ」と呼ばれていて、そこから仲間の誰かが付けたと記憶している。昭和35年頃のことである。
この「なめくじ会」は中学を卒業しても残り、高校はバラバラになったものの依然として鉄道趣味を共通項としてひんぱんに集まり、また休みには地方撮影ツアーに出掛けたりと活発に活動を展開した。また持ち回りで各自が鉄道に関する雑感や活動報告を記入する回覧日記帳まで作った。今でもこの回覧帳は残っている。

そのころ、本島三良氏の伝説的写真集「鉄道」が刊行され、仲間のT君がそれを手に入れた。初めて見る本格的写真集でそのときの驚きは今でも鮮明に覚えている。見るもの全員が「すごい!」の一言で、そこには私たちの知らない東北本線奥中山の3重連が力闘を繰り広げる未知の世界があった。
北上山地を越える大型蒸機の大迫力と、花輪線のちっちゃなハチロクがこれまた3台で33.3パーミルの急勾配を竜ケ森に挑む勇姿が印象的だった。
こんな信じられない光景が今も展開されているのだ! 大丈夫、今からでも間に合う!本島氏の写真は私たちに新たな衝撃を与え、さらに行動を活発化させたのである。いったい何回奥中山に足を運んだことか。そのたびに花輪線や肋骨線とよばれた山田線、釜石線、大船渡線にも足を伸ばし、仲間は消え行くみちのくの蒸機たちをしっかりとフィルムに残した。
当時は鉄道に関する情報は少なく列車運用や貨物のダイヤなどは知る由もなく、仲間が現地に行って書き記してくるという極めて原始的な情報収集だった。ただ北海道小樽築港機関区に6両のC62が配属されていて、どうやら函館本線山線を重連で急行を牽引していることが分かった。そのころは「まりも」の時代で、私たちが大学生になり初めて渡道したときは急行「ていね」に替わっていた。常磐線のC62しか知らなかった私は、昭和41年の夏初めて上目名の峠に立ったときC62重連の迫力と轟音の凄絶さに思わず言葉を失った。いったいこれが蒸気機関車なんだろうか。マシンの限界を尽いて怒涛の力行を見せてくれたC62重連のとりこになったのは私だけではない。「ニセコ」になっても雪中を驀進するC62重連を追いかけた仲間も多い。もう遠い昔のことである。


       

「なめくじ会」は当初10人くらいで発足しましたが、50年近くが経った今では消息不明者もおり、また鉄道趣味の世界から去っていった者も多く、現在は3人が細々と「会」の名前を継いでいます。しかし私は少人数になろうともこの「なめくじ会」の名前を消滅させる気はありません。なぜならこの名前には「青春」という珠玉の宝石がいっぱい詰まっているから。



                      ■管理人のひとりごと

私たちは昨年12月にBeeBooksから「写真集・蒸気機関車」というモノクロA4版168ページの写真集を出版しました。部数が少なかったこともありたちまち完売となり残念ながら今では絶版となっています。
もっと沢山作って一人でも多くのファンの皆様にお見せしたかったのですが、絶版となってしまった以上は書物として再制作するわけにもいかず、このたびインターネットの世界で少しでも再掲出来たらと思い本ホームページを立ち上げました。
昭和30年後半から40年前半、今にして思えばよくあの時代に全国を駆け巡って汽車を追いかけたものです。
これらは私たちのいわば青春譜であり、同時に広く全国のレールファンに語り伝えたい写真集です。
奥中山に我々以外に誰もファンがいなかった静かな世界。たまにファンと出会うと列車が来るまで、そしてまた夕方まで何時間も語り合ったよき時代。美唄鉄道で「乗っていくかい?」と機関士が声をかけてくれて4110のキャブに添乗させてくれたおおらかな日々。
これらのメモリーをセピア色となった写真を通じて皆様に捧げます。

                 

追記
70年以降我が国の蒸気機関車が終焉を迎えようとしているとき、遠くヨーロッパでも火を落とす名機がありました。ドイツの01です。
2シリンダの001は東ドイツ国境付近のホフに集結し最後の活躍をみせていましたが、私が渡欧した75年には全機が廃車となっており、かろうじて北部のライネに3シリンダ機の012型が走っていました。
日本ではC53が3シリンダ機として有名でしたが、私はついに3シリンダの音を聞かぬままC53が静態になってしまったことが悔やまれてなりませんでした。 
社会人になってからの西独行きは結構無理なものがありましたが、オーストリアのエルツベルグ線のラック式4シリンダ蒸機も撮るべく合わせて旅行計画を立て75年4月ついに決行しました。
いまだにライネを出発する012と043の豪快且つ異様な3シリンダ音が忘れられません。
エルツベルグ線のフォルデルンベルグでもラック式蒸気機関車が60パーミルの急勾配を登る姿に感動しました。
そもそも私がドイツ01に憧れたのは、ドイツの蒸気機関車の第一人者である篠原正瑛氏が01の生い立ちとその優れた性能そして機械美溢れる姿をなにかの本で絶賛されていたのがきっかけで、思わず私は「その通りだ」と叫んだものでした。
ただ西独に残った01は改造を加えられ本来のオリジナルの01とはかなりかけ離れたものでした。          ところが、70年代後半に東独にオリジナルの石炭炊き01が生きていると聞き、いてもたってもいられなくなり、これまた無謀にも東独行きを決断したのです。
写真にあるようにこれこそが01でした。ドレスデン中央駅で初めて原型01を見たときは感動というよりもしばらく時間が経つのを忘れて魅せられるようにその機械美に見入っていました。

私が我を忘れて感動したのはこの01との対面と上目名でのC62重連の驀進を目の当たりにしたときです。
感動!って本当に素晴らしいものですね。                                          
そういえば最近は感動することが少なくなりました。

なお、私のHNの C62 44 は小樽築港機関区にいた6両のC62のうち、2、3号機はあまりに有名すぎ、27ははやばやと廃車になったし、30号機は故障の多い嫌われっ子だったそうで、結局32か44ということになったのですが出会うことの少なかった44号機から思いを込めて名前をとりました。