感動の原点C62重連
函館本線山線の記録
昭和41年〜昭和44年
かつて函館本線にC62重連の急行列車が走っていました。その当時は急行「まりも」でしたが、私たちが昭和41年に初めて渡道したときはすでに「ていね」に代わっていました。しかし「ていね」の時代は短く、間もなく優等列車の象徴でもあった食堂車がなくなり編成も短くなって列車名も「ニセコ」と改称されました。 しかしながら巨人C62が2両で過酷な峠路を驀進する迫力はいささかも変わらず、2両の機関車の煙突から噴き出される黒煙と煤で機関士と乗客は顔も服も真っ黒になりました。 雨や雪のときには半径300m、勾配20パーミルの厳しい峠を1750ミリの大動輪が空転で止まらぬようC62は50キロの制限速度を超えて運転しなければなりませんでした。スピードが生命でいったん空転をおこして50キロを切ると速度はたちまち落ちて、ついには上目名のトンネル内で止まってしまったという話は幾度か聞いたことがあります。この上目名を登るC62重連はまさしく蒸気機関車のメカニズムの限界を尽いて走っていたように思われます。私は糸崎から15、16号機が移動した時点で、山陽 のC62は北の壮絶な急行列車にはふさわしくないと思い、44年で渡道を止めて、この2両は見ていません。 私たちの感動の原点でした。 |
補機連結前、機関士は日誌を書き、助士は火力を上げるため投炭しています。 長万部機関区
夕刻せまる機関区を今日の前補機2号機が出区します。 昭和44年 長万部
機関士が後ろを確認しながら「ニセコ3号」の本務機にがっちりと連結されます。ドラマの幕明けです。
北海道の冬の日暮れは早く、次第に夕闇が濃くなる長万部の構内に緊張が高まります。 昭和44年 長万部
夕方4時過ぎで既に暗いので、フィルムは当然トライXを使用しています。連結・給水作業も終わり、出発前の一瞬の静寂。
豪笛2声、103列車長万部出発。ドレーンを目いっぱい吐き出す前にシャッターを切ったのでかろうじて2両目以降が見えます。
ここは熱郛〜上目名間の145km地点です。少し高台からカーブを突進してくる列車が狙える絶好の撮影地でした。 ただ熱郛から歩くには遠すぎて上目名から戻る以外にありませんでした しかしながら上目名からここまで来るにはトンネルを二つ抜けなければならず、そのため上目名の駅長さんにトンネル通行許可をもらい、さらにカンテラまで拝借しました。今思えばおおらかな時代だったのです。 30分ほど線路をくだり二つ目のトンネルを出たところが145キロポストでした。時刻は5時半を回ります。日の長い夏場でないと暮れてしまいます。 フィルムはASA400のトライXを入れてあります。やがて黄昏せまる峠路を「ニセコ3号」C62重連はジェット機音を轟かせ怒涛のスピードで駆け上ってきました。感動の一瞬でした。 昭和44年 熱郛〜上目名 |
上り「ニセコ1号」の前に露払いで来る岩内線からの貨物です。たった3両の貨物を牽いてゆっくりと登って来ました。 昭和44年 小沢〜倶知安
そしてまもなく「ニセコ1号」が上り勾配を怒涛の迫力で驀進して来ました。とても同じ蒸気機関車とは思えませんでした。
雪が降り続くなか、「ニセコ1号」が黒煙を舞い上げて倶知安峠に挑みます。雪と蒸気と煙で本務機の機関士は前方など見えませんでした。そんなとき機関士が唯一目安にしたのがキロポストだといいます。 昭和44年 小沢〜倶知安 |
つばめのマークが輝く2号機が前補機の「ニセコ1号」です。目名側に歩いて行きましたが、雪道は時間がかかります。 昭和44年 上目名〜目名
どうしてもこの位置での角度では本務機が隠れてしまいます。難しいところです。 小沢
前夜の大雪で線路は埋まり、列車は来るかと心配しましたが、スノウプラウで雪をかき分ける為、D51はホーム内を力行してきました。 銀山
雪晴れのサミット上目名駅に侵入する下り普通列車です。生きている駅っていいですね。 昭和44年 上目名
上目名駅に到着の137レ。駅員さんがタブレットキャリア―を機関助士に渡す用意をしています。 昭和44年
上目名では「ニセコ1号」の前にD51の貨物列車が来ます。たいした荷を牽いていないのに喘ぎながらゆっくりと登って来ました。このイメージが残っているせいか次に来るC62重連のスピードが異常なほど早く感じたものです。 昭和44年 上目名〜目名 |
恐竜のような噴煙を舞い上げて高速で上目名に駆け上ります。とにかく早かったのを記憶しています。 昭和44年 上目名〜目名
これが1両のC62から出る煙です。驚きだけです。 昭和44年 目名〜上目名~
シェルターを少し下ったところが149キロ地点でした。「ニセコ1号」がS字カーブを突進して来ます。 昭和44年 目名〜上目名
一瞬の静寂。水銀灯が雪に反射して明るい構内でした。美しく照らし出された「ニセコ3号」です。夏の倶知安とは全く違います。 昭和44年 倶知安
この時は吹雪のため、上りニセコが発車できず立ち往生。構内豪雪で、倶知安駅では二つ目の9600に押されて、キ700が登場しました。
昭和42年にはキ700にはまだ黄色い帯が入っていません。苗穂には配置されていましたが、倶知安区には常備されていたのでしょうか。
ときとして前補機にD51がつくことがあり私たちを落胆させました。下り「ていね」。D51の補機は分かってました。 昭和41年 黒松内
ここは有名お立ち台ですが、風が強く煙が舞って後ろが見えませんでした。遠かったのにちょっと泣きました.。 目名〜上目名
長万部を出発して二股に向かってなだらかな上り勾配を一気に駆け登る下り「ていね」です。この当時は正面ナンバープレート上にも小さな補助灯をつけていました。
6両目に食堂車を連結しています。なだらかな上り勾配なのに力行せずにやってきました。たぶん二股で運転停車の為ですね。 昭和42年 長万部〜二股
上目名から下ってきた上り列車。もう夕方で私は宿に帰るためこの列車に乗りました。熱郛駅も乗客がいたんですね。 昭和41年
私が昭和41年に初めて渡道した時は、小樽築港機関区には、2、3、30、32、44 の5両がいて、27号機は既に廃車になっていました。さらに
30号機も廃車の噂があり、築港機関区に行くと上り「ていね」の重連が出区するところでしたが先頭は何と30号機でした。その時点ではもう
動き回る訳に行かず、とにかく30号機を取る事だけを考え、隣駅の塩谷まで行き、普通に30号機を取ることにしました。これは正解でした。
ニセコの運用ははずれたものの3号機は小樽築港に生き残り山線の普通列車を牽いていました。
この時は3号機のために行ったのではなく、名寄線の帰りだったと思います。 昭和47年 小沢
機関区の庫に休むC6230。向こうには2号機がいます。庫の中のC62たちの静かな寝息は
これから繰り広げられるドラマの序章でした。 昭和42年 小樽築港機関区
巨大なハドソンの陰に隠れるようにB20がひっそりと寝ていました。 昭和42年 小樽築港機関区
最後に再び「ニセコ3号」の長万部出発です。この日の前補機は44号機でした。本線上で一旦待機します。 昭和44年
蒸気に包まれながら、到着した本務機32号機に連結されます。冬の長万部構内はもう薄暗くなっています。
そして16時26分「ニセコ3号」の発車です。44号機は安全弁が抜けて蒸気を吹き上げています。吐き出すドレーンで
本務機も客車も見えません。2両のC62の煙が構内を覆う凄まじい出発シーンです。 昭和44年 冬
この4年間で我々のC62の感動は終わりました。最後の3重連はイベント感丸出しで貴重なC62がピエロの様に見え、とても悲しく見たくもありませんでした。これだけで大感激でした。喜んだ日も泣いた日もありましたが、素晴らしい思い出を沢山ありがとう。 |
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