奥羽本線 矢立峠
奥羽本線の碇ヶ関と陣場の間に矢立峠がありました。日本海側の幹線ながらこの区間は単線でしかも峠に向かって双方からの急勾配のため、この区間にD51とDF50を専用補機として使用していました。 ただどちらにも転車台がなかったため、陣場に向かう補機は正向でしたが下り列車の碇ヶ関方面に付く補機は逆向で全く絵になりませんでした。 ここはご覧いただくと分かるとおり、とにかく障害物が多く、呆れるほど好撮影地はなく、すっきりした写真を撮るのは不可能な路線でした。 そして昭和45年 、迂回の新線が開通して蒸気機関車による矢立峠越えは姿を消しました。迫力もなく思い出の薄い路線でした。 写真は昭和43年と44年の撮影です。 |
雪の碇ヶ関に上り普通列車が到着します。この列車はすでに弘前からD51の後部補機を連結しています。ここは有名な温泉町で宿泊したこともあります。 |
碇ヶ関の光景です。上り線に退避している貨物を尻目に、急行貨物が後補機1両で先に出発して行きました。左側上り線には次の発車の普通貨物列車が、後部補機2台で待機します。運用の関係でしょうか。D51 281は長野区にいたので東北では珍しい長工式デフを取付けています。 |
退避線の上り普通貨物は後補機2台で出発して行きました。こっちの方が格好がいいので、すかさず撮りました。
そのあと歩いて撮影地を探しましたが、とにかく電柱がやたら多く、これがやっとです。 以下 津軽湯ノ沢〜陣場間
これは急行「きたぐに」です。A、B寝台つき優等列車で本務機はすでにDD51に替わっていました。電柱とハエタタキの乱立です。
もっと高いところから狙ってみましたが、煙は吐かないし、あまり変わりませんでした。
専用補機のDF50 が先頭に付いた上り貨物列車です。このときも本務機は煙を出していないうえ、貨物が思ったより長くて後部補機が写りませんでした。 ここでは頭に来るほど満足のいく写真は撮れていません。東北でDF50を見るのも違和感があります。 |
矢立に向かって力行する後部補機2台連結の貨物列車です。どうにも撮りようがなく結局こんな写真となりました。ご覧のように邪魔物が多すぎて、どうやってもすっきりした写真になりません。矢立峠で重連後補機付列車をスッキリ上手く撮ったファンはいるのでしょうか。ずっと電柱だらけです。 |
昭和45年8月、D51の前部三重連が走りました。特別仕立ての三重連でしたが ほとんど煙を吐いてくれませんでした。これは2両の後部補機を単に前に付けただけです。ここも工事中の土手からムリムリ撮った1枚です。 昭和45年 津軽湯ノ沢 |
これはなめくじ会の「しゅうちゃん」が湯ノ沢の陣場寄りの山に登って撮った、貨物列車の全編成が入った珍しい写真です。本務機はD51 1、後部に重連補機を連結しています。これも本務機は煙を出していません。 昭和43年 津軽湯ノ沢 |
これは昭和45年8月にNHKの「新日本紀行」の収録のために走った三重連です。ここは唯一のお立ち台で、となりでNHKのカメラマンが16ミリを回していました。 ここでフィルムを回していることを知っていたので、3台の機関車は珍しく煙を吐いていました。普通なら、こんなに揃って煙を吐くことなんてありません。鬱蒼とした山中で、カメラの画角も狭いです。本来は逆向き補機になるので、これはわざわざ大館から3重連に仕立てたそうです。 |
後補機付きの上り普通列車が到着したあと、交換で下り貨物列車が出発します。ホームの白沢側はカーブしているので見えませんが後部に補機を逆向きで連結しています。せっかくのD51トップナンバーの出発なのに煙も吐いてくれません。 昭和44年 陣場 |
陣場を出発する後部補機付き上り普通列車です。白沢に向います。普通はここで専用補機は切り離すのですが、これは大館まで通しだったんですね。 昭和45年 陣場 |
これは最初の時の3重連でしたが、一気呵成に峠越えをするわけでもなく、煙を後ろにたなびかせるようにダラダラと登ってきました。お陰で3両目は煙で隠れてしまっています。奥中山や花輪線のように煙が真上に昇っていません。ブラスト音も歯切れが悪く、音でもダラダラが認識できました。いずれにしても、ここは3台運転が必要な路線ではなかったように思います。 |
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