炭鉱のロコたち

まだ活況を呈していた炭鉱鉄道
 
 

昭和41年の時点で炭鉱鉄道は道内各地に数多く点在していて、幾つかは撮影行程に入れていましたが、限られた日数ではとても回りきれず残念ながら訪れることの出来なかった鉄道は沢山あります。
ただアメリカンロコに凝っていたころで、ボールドウィンの生きていそうなところを狙って予定にいれましたがこれも41年では遅かったようです。
なかでも残念なのは三菱茶志内鉱業用鉄道のボールドウィン製9217やまた雄別鉄道埠頭線の同じくボールドウィン製9224に間に合わなかったことです。
さらに真谷地鉱では2両の8100が解体された直後で、鉄くず置き場に捨てられたシリンダの残骸を見た時はショックでした。
それでも元気な4110を見れたし、さらに一番の幸運は4110のキャブに乗れたことです。朝の美唄で出発を待つ石炭列車牽引の4144の機関士が私たちに「乗ってくかい」と声をかけてくれたのでした。おおらかな時代だったのですね。
やまに向かって登り続ける4144のキャブの思い出は今でも忘れられません。
なお最後に炭鉱鉄道ではありませんが、振られ続けたボールドウィンを黒松内で何とか捉えましたのでここにアップします。



            
                            ■美唄鉄道


夜行列車で早朝に美唄到着。北海道で初めて見るD50が下り本線で発車を待っていました。   昭和41年 美唄
 
 
 
 
 
 

さっそくお目当ての国鉄線路に隣接した美唄鉄道の機関区へ。4144が整備を終えて出番を待っていました。      昭和41年 美唄
 
 
 
 
 
 

庫の中には4122が休んでいました。4144に比べてシリンダカバーの高さが違います。    昭和41年 美唄
 
 
 
 
 
 

国鉄払い下げの9600形・5号機と7号機もいました。現役機が沢山いましたがそんなに列車本数が多かったのでしょうか。    昭和41年 美唄
 
 
 
 
 
 

機関区の奥に元国鉄キハ05のキハ100形ディーゼルがとまっていました。      昭和41年 美唄 
 
 
 
 
 
 

 
 出区の準備が整った2号機。これから朝の普通貨物の常盤台に向かう列車を牽引します。       昭和41年 美唄
 
 
 
 
 
 

 
その2号機の牽く列車の出発を撮ろうと、再び国鉄美唄駅に。ホームから2番目の線路が美唄鉄道発着線の様です。   昭和41年 美唄
 
 
 
 
 
 

朝の常盤台に向かう石炭列車に添乗させてもらいました。加減弁を握る機関士。    昭和41年 4144のキャブにて
 
 
 
 
 
 

投炭を繰り返す機関助士。どちらが機関士、助士ということもなさそうでした。   昭和41年 4144のキャブにて 
 
 
 
 
 
 
 

4144の窓から。もうどこの駅か忘れました。    昭和41年 4144のキャブにて
 
 
 
 
 
 

終点常盤台駅です。帰りは2号機牽引の混合列車で美唄に戻りました。常盤台には転車台がありました。    昭和41年 常盤台
 
 
 
 
 
 

列車がやまを下って美唄に向かいます。常盤台には転車台があるのになぜかバック運転。   昭和41年 列車内から
 
 
 
 
 
 

美唄に到着後、機関車を後ろに付け替えて区に引き上げます。乗客用は国鉄のホームを借りているんですね。    昭和41年 美唄
 
 
 
 
 
 
 

午後3時すぎに常盤台に向かう重連の石炭列車がありました。もっといい所で撮りたかったのですがただ、昼間を利用して隣接する三美運輸のB6を撮りに行って疲れ果て、体がいうことをききませんでした。歩いて南美唄まで行ったのが失敗でした。    昭和41年 美唄付近


 
 
 
 
 
 

上の重連の後追いです。先頭2号機の助士がキャブからしゃがんで外を眺めているのんびりとした光景です。 さようなら美唄鉄道。
 
 
 
 
 
 

                          ■雄別鉄道


夜行で釧路へ。釧路で乗り換えて雄別炭山に向かう途中、山花で釧路行DCと交換しました。      昭和41年 山花
 
 
 
 
 
 

阿寒駅ではC11 1牽引の釧路行貨物列車と交換。このC11は江若鉄道が自社発注した国鉄のC11と同形であり、それを雄別鉄道が譲り受けたものです。 釧路に行ってしまったので、以降は2度と会う事が出来ませんでした。

 
 
 
 
 

雄別ではドイツコッペル製の小さなロコが入れ替えに忙しそうに走り回っていました。雄別は最盛期人口2万人の炭鉱街でしたが
                                今は無人の廃墟と化しています。 昭和41年 雄別炭山

 
 
 
 
 
 

機関区には国鉄払い下げのC11もいました。雄別鉄道はこのC11が主力でした。     昭和41年 雄別炭山 
 
 
 
 
 
 

国鉄C56と同形機の1001号。自社発注機です。赤いナンバープレートが印象に残っています。    昭和41年 雄別炭山
 
 
 
 
 
 

一番奥の山すそに廃車解体まちの8722がいました。英国風のエレガントな機関車でした。もう一両の8721は
現役でしたがこのときは釧路埠頭に行っているとのことでした。           昭和41年 雄別炭山

 
 
 
 
 
 


区の奧の酷いがらくたと一緒に錆びだらけで置いてありました   昭和41年 雄別炭山
 
 
 
 
 
 

 
このコッペルは使い易いらしく、構内をあちこち入れ替えで走り回っていました。    昭和41年 雄別炭山
 
 
 
 
 
 

釧路に戻り埠頭線に行ってみましたが走っていたのはC11だけ。お目当てのボールドウィンと8721にはついに会えませんでした。あとで聞いたことですがこのとき9224は工場に入っていたとのことでした。情報が少なすぎです。    昭和41年 新釧路川鉄橋

 
 
 
  
■北炭真谷地鉱業所

朝の沼ノ沢に真谷地から混合列車が到着しました。残念だったのはすでにボールドウィンは見当たらず4110だったことです。  昭和41年 沼ノ沢
 
 
 
 
 
 

 
 せっかく追分から朝早くここまで来たのに、これでは嬉しさも半分です。客車も壊れそうな古いのが使われていて、ストーブの煙突が見えました。
 
 
 
 
 
 

とりあえず、折り返しの真谷地行きに乗って、炭山まで行きました。ここにはボールドウィン製のロコが走っていたはずでしたが、すでに廃車解体されており構内の鉄くず場にそれらしきシリンダが捨てられていました。タッチの差で遅かったようです。 美唄鉄道から来た4110しかいなかったので数本しかない石炭列車は撮らずに早々にバスで引き上げました。   昭和41年 真谷地駅
  
  
  
  
  
■三美運輸のB6

美唄から南美唄までの3キロを函館本線の支線が走っていました。三美運輸のB6を見に行くため
線路沿いに歩いていると南美唄行の石炭列車がやって来ました。   昭和41年 美唄〜南美唄

 
 
 
 
 
 

南美唄の三美運輸には1号、2号の2両のB6がいて、この日は1号機が入れ替え作業をしていました。 昭和41年 南美唄
 
 
 
 
 
 

                                        1号機が南美唄駅の側線で、しばらく休んでいました。形式写真には最高の位置に停まっていました。                                       



■三菱鉱業茶志内炭礦専用鉄道




ここには待望の元国鉄9200形蒸気機関車(9217)がいたはずなのですが、すでに4110に替わっていました。だいぶ泣きました。アメリカのボールドウィン1Dタイプの美しいコンソリデ―ションに会えるはずだったのに、これもタッチの差。   41年 茶志内炭鉱


 
 
 
 
 
 


  茶志内の東方、茶志内炭鉱までを結んでいた三菱鉱業の専用線で国鉄茶志内駅からわずか2kmのところにあった鉱山です。  41年 茶志内炭鉱


 
 
 

 
ただ不思議なことに、ここは通勤もかねて茶志内まで客車列車が走っていて、その客車が荷物車の合造車でありながら、なんと三軸台車を履いていたことには驚きました。なぜこんな贅沢な客車を使っていたんでしょう。今も謎です。    41年 茶志内炭鉱

 
この様にタッチの差で、8100ボールドウィンも、9200コンソリデ―ションも昭和41年の夏には、いずれも寸前に廃車になっていてかなり 頭に来ていましたが、最後に行った寿都鉄道でようやく8100ボールドウィンに会う事が出来ました。しかし運の悪い北海道炭鉱巡りでした。



                                    ■寿都鉄道・・・・炭鉱鉄道ではありませんが黒松内で

寿都鉄道は午前と午後に2本の列車が設定されていましたが、駅にはこの日は午前の列車は運休表示が。夕方だけの列車しかありませんでした。
仕方なくC62の「ていね」を撮ったりして時間を潰しましたが、「ていね」は前補機がD51という悲運。なんと恵まれない私たち!やっと夕方8100牽引列車が到着しました。

 
 
 
 
 
 

 
到着後は国鉄本線に入り、国鉄の貨物を入れ替えしていました。本当は真谷地でも見れた炭鉱の8100だったのですが、本当にタッチの差でした。(涙)
 
 
 
 
 
 

 
入れ替え作業が終わった後は、寿都鉄道線に戻り、今度はバックで列車の先頭に付きます。もう日が傾いています。
 
 
 
 
 
 

 
バックもサマになるものです。正面は鋳物のナンバープレートなのに、キャブ下はペンキ書きです。もっとも真谷地はナンバーもついていませんでしたが。
 
 
 
 
 
 

 
さて、寿都に戻る最終列車の出発です。このハ6形の半ボギー客車も凄いですね。何処から来たんでしょう。時間があれば乗って見たかったです。
 
 
 
 
 
 

 
黒松内を出発した列車はすぐ国鉄から右手に分かれて黒松内川の鉄橋を渡ります。テンダもナンバーは手書きですね。さようなら8100ボールドウィン。
 
 
 
 
 
もう1年早く行けたら殆どの古典機関車が撮れたのに
今思っても悔しくてなりません。でもこれも思い出。

 
 

 

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