筑豊・長崎・早岐ほか

車種は豊富でしたが面白味のない路線でした
 

九州の蒸気機関車には最後まで馴染めませんでした。感動も薄かったように思います。一つには感激するような路線や名所が少なかったこともあります。撮りたい撮影地には必ず民家があって、大自然とまではいかなくても、蒸気機関車にふさわしい光景はあまりありませんでした。
鹿児島本線の電化前であれば、C59の牽く特急列車も見れたのでしょうが、我々の時代では間に合いませんでした。
さらに、見たい列車や機関車は東北や北海道ですでに見ているので格別な期待もなく、ただ漫然と撮っていたように思います。
門鉄デフも好きになれず、日本の機関車に、なんであんな似合わないデフレクターを付けたのか不思議でした。
とりあえずは一通り見ておかなくてはいけないので、三回ばかり足を運びましたが、関門海峡を抜けても青函連絡船のような感動も期待感も無かったように思います。まずは折尾から入って拠点の直方、そして原田に向かいました。長崎、早岐にも足を運んでいます。


 
 
 
いよいよ九州に入ります。列車の先頭に付いたのは関門の主EF30でした。これはコルゲートのないトップナンバー1号機です。 下関
 
 
 
  

筑豊本線


 
 
折尾で筑豊線に乗換えました。C55牽引の客車列車が来ました。上にクロスして鹿児島本線のホームがあります。  昭和44年 折尾
 
 
 
 
 
 
 

 
折尾は当時の東京のどこでも見れるような町中の駅でした。ここにD50の列車とは、場違いの感じでした。乗務員は交換の間一休み。

 
 
 
 
 
 
 


確か折尾の中間寄りから筑豊本線と分離して、折尾駅を通らず鹿児島本線の黒崎方面に繋がる短絡線があったように記憶しています。これがその短絡線を行く門司港行の列車で上をクロスするのが若松からの筑豊本線だと思いますが、もう全く覚えていません。

 
 
 
 
 
 


これが、若松からの筑豊本線だと思います。短絡線をクロスするため築堤を登ります。どなたかご存知の方はご教示ください。  昭和44年
 
 
 
 
 
 
 

 
朝の香月線の若松行列車が中間で筑豊本線に合流します。デフなしの本線走行の8620です。門デフよりはるかにいいです。  昭和43年 中間
 
 
 
 
 
 
 

 
中間に到着した香月線若松行列車はいつも長時間停車をしていました。何故だろう? 機関士たちがホームに座り込んでいます。  昭和43年
 
 
 
 
 
 
 

 
中間駅を出発する下り原田行普通列車。このC55は標準的な門デフを付けています。九州では正統派?なんでしょうか。    昭和44年 中間
 
 
 
 
 
 
 

 
面白くないのでC55を流してみました。これもバックが学校?で、すっきり撮れません。デフがエリマキトカゲのようで不気味です。 昭和43年
 
 
 
 
 
 
 

 
ここは平坦地で煙も吐かず面白味はありませんでしたが、列車本数は多く複線化されています。誰もが撮る場所です。   昭和43年 筑前垣生付近
 

 
 
 
 
 
 
 

冷水峠を登るD60牽引の上り客車列車です。磐越東線を思い出させるシーンです。   昭和41年 筑前山家〜筑前内野
 
 
 
 
 
 
 

 
筑豊本線の終点「筑前原田」にはターンテーブルがありました。スポークのC55をたくさん見れたのが唯一の思い出です。   昭和43年
 
 
 
 
 
 
 

 
C5512が向きを変えて筑豊線用の側線に一旦停止していると、D60の上り列車が出発して行きました。   昭和43年。
 
 
 
 
 
 
 

 
翌年も原田駅に立ち寄っています。C55が格好の場所にいたので、形式写真風に撮ってみました。標準の門デフでよかったです。  昭和44年
 
 
 
 
 
 
 

 
筑豊の拠点直方に行ってみました。蒸機は沢山いましたが見慣れた光景なので機関区では数枚撮っただけで早々に引き上げました。   昭和43年
 
 
 
 
 
 
 

 
普通に撮っても面白くないので、こういう瞬間を狙ってみました。キャブの中は暑いんでしょうね。  昭和43年 直方駅ホームから
 
 
 
 
 
 ■貝島炭鉱

筑豊線勝野駅から筑前宮田まで短い盲腸線の宮田線が出ていて、終点の筑前宮田からはさらに貝島炭鉱専用線が走っていました。専用線は六抗と宮田を結んでいて、基地の六抗ではコッペルとアルコの小型機関車が石炭の積み出しに活躍して いました。  昭和44年

 

 
 ここが六抗です。31、32号のコッペル製機関車と、23号のアルコ製の3両がいました。赤プレなので番号が見にくいです。  昭和44年
 
 
 
 
 
 
 

昼に筑前宮田まで積み出す後補機付きの石炭列車があると聞いていたので満を持して待っていましたが、32号機はものすごく煙を吐いているのに、後のアルコ23号機は何故か力行していません。ただ引きずられているだけでした。 

 
 
 
 
 
 

しかも23号機はなぜかバッファ式の連結器で、直接自動連結器のセキに連結できず、機関車の前後に平台貨車を付けて自連に連結可能にしていました。謎だらけの列車です。

 
 
 
 
 
 
 ■「しゅうちゃん」の早岐付近
  

早岐駅は佐世保線佐世保の手前のスイッチバック式の駅です。ここから佐世保線幹線の終点まで行くには、ここで列車は折り返しをしなければなりません。佐世保には転車台がなかったため、機関車は複雑な運用で佐世保と早岐の間を折り返しました。しかしここの機関車の運用は良く変わった様です。いっときは、特急「さくら」がC11のヘッドマーク付きで走っていると言う情報が流れたりしましたが、これも雑誌社の特別取材用だったみたいで、ファンは踊らされていました。
 
 
 
 

 
佐世保から早岐に戻って来た列車ですが、8620とC11の重連の優等列車と言うのも珍しいです。しかも早岐に向って正向きです。両方とも佐世保に向かう時は、バック運転で行ったんでしょうか。どういう機関車の運用になっていたのか複雑で分かりません。  昭和41年

 
 
 
 
 
 


佐世保線にはC57が入ったんですね。左の本線は早岐に向かう佐世保線です。この腕木信号機は国宝級で全国でもここくらいだったのでは? 
 
 
 
 
         


 
肥前山口で分割された「さくら」は佐世保線を早岐に向かいます。次位に簡易電源車マヤ20を付けています。  昭和41年 早岐手前にて
 
 
 
 
 
 
 

早岐はスイッチバック駅で、佐世保に向かう「さくら」は早岐駅で後部にC11が付き、これが先頭本務機となり佐世保に向かいます。むかしのC11 の牽引写真を見ると、これが佐世保に向って正向きで、しかもヘッドマークを付けています。雑誌社ヤラセの演出だと知らないファンは、一生懸命ここまで行ったようですが、実態を知ってその雑誌社に文句を言ったファンもいたようです。この列車の最後尾には先ほどのDD51が付いていて、帰路はヘッドマーク付きのDD51先頭になります。早岐と佐世保駅での機回り時間の省略の為だったようですが、意味のないことをしていたものです。しかも、なぜ佐世保行のC11が正向きでないのかも理解に苦しみます。  昭和41年

 
 
 
 
 
 

 
参考に:これは早岐で「あかつき」に連結するDE10(昔のC11に相当)ですが、立派なヘッドマークを付けていました。(国鉄晩年)
 
 
 
 

■長崎



 
長崎には早岐のC57がきていました。門鉄デフになっていたC57。まあ門鉄式の標準型のC57の形式写真風もいいかも。  昭和40年 長崎
 
 
 
 
 
 
 

 
鳥栖のC60が長崎本線の優等列車を牽引していました。まだ使っていたのか、キャブにはタブレットキャッチャーが付いています。
 
 
 
 
 
 
 

 
長崎機関区は広大な敷地の機関区で、石炭が巨大な貯蔵機に山のように積まれていました。一列で出番を待つ、C60たちです。
 
 
 
 
 
 
 

 
長崎駅が一瞬華やかになる時です。バックで入線してきた20系特急「さくら」号の出発前のひととき。    昭和40年 長崎
 
 
 
 
 
 
 

 
15時40分、ドレーンを勢いよく切りながら長崎駅を出発する上り「さくら」。
 
 
 
 
 
 
 


 
「さくら」が去った後もしばらく機関区で遊んでいました。水銀灯が明るく照らす機関区は幻想的でした。  昭和40年 長崎機関区
 
 
 
 
 
 
■おわりに 
 
 
 
 
早岐には松浦線用のキハ02がいました。ここはC11が主力で8620とともに配属されていました。   昭和41年 早岐機関区
 
 
 
 
 
 
 

 
私は長崎に行ったのに、しゅうちゃんは早岐から松浦線の佐々に行っています。夜の佐々駅はまさに昭和の光景です。
 
 
 
 
 
 

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