関東一円の蒸気機関車


まだ首都圏でも蒸気機関車が活躍していました

 
 
 
■首都圏


 
常磐線日立駅に日本鉱業の貨物入れ替えの為、平区のC50が毎日来ていました。  昭和42年 日立駅構内
 
 
 
 
 
 
 

 
2個ドームなど中途半端な美しさを持ったC50でした。スポーク動輪も綺麗に磨かれていました。脇をED75が往来していました。
 
 
 
 
 
 
 

 
本線を走るC50と言うことを聞いて早朝小山まで行きました。情報がない時で、構内に1両停まっているだけでした。運用も全く分かりません。
 
 
 
 
 
 
 

 
朝、8時過ぎに到着の両毛線の客車列車はC50を期待しましたが、C58でやってきました。   昭和41年 小山駅
 
 
 
 
 
 

 
小山のC50は水戸線、両毛線(ここは客車も?)の貨物列車に活躍していました。   昭和38年 佐野
 
 
 
 
 
 
 

 
佐野で上り普通列車と交換するので行って見ましたが、これもC58でした。これは右側に補助灯を付けています。  昭和41年
 
 
 
 
 
 
 

 
小山機関区の庫とターンテーブルです。ここの主はC50とC58でした。この後しばらくしてDD13も入るようになりました。  昭和38年 小山機関区
 
 
 
 
 
 
 

私は尾久機関区と田端機関区の境が分かりませんでしたが、確かここは尾久機関区だったように思います。田端機関区から行くと、途中に狭い道路があって、それで仕切られていたと思います。朝の成田線の牽引機が引き上げてきました。        昭和39年 尾久機関区
 
 
 
 
 
 
 

 
朝方、成田から2本やって来た1本は、夜の帰りになります。取手行きゲタ電は美しい半流のクモハ60でした。  昭和42年 上野
 
 
 
 
 
 
 

 
常磐線電車のホームには帰りの通勤客が並んでいます。とにかく高いビルがないので、空が広く見えます。   昭和42年 上野
 
 
 
 
 
 
 

 
昼に1本、上野駅から成田線成田行普通列車が成田に戻ります。今では信じられない光景です。     昭和42年 上野
 
 
 
 
 
 
 


昔の日暮里駅です。1,2番線は各停の電車専用で、同じ常磐線でも松戸、我孫子しか停まらない列車は3,4番線に入ったんですね。
 
 
 
 
 
 
 

 
これは同じ成田行きですが、なぜか4番線に入っています。日暮里駅の変遷は複雑で、当時の駅の事情の解説は出来ません。

 
 
 
 
 
 
 

 
日暮里から三河島にかけて線路は上り勾配になるのでここはいつも煙を吐いてくれました。この駅の変貌も凄いです。  昭和42年 三河島
 
 
 
 
 
 
 

 
いつ切り替わったのか知りませんがC57牽引は昭和40年以降で、その前はC58が牽引していました。これは佐倉のカマです。  昭和40年 北小金〜南柏
 
 
 
 
 
 
 

 
我孫子から先の架線のないところで撮る事にしました。何もない切通しを走って来ました。  昭和43年 布佐〜新木
 

 
 
 
 
 
 

 
もっと先まで行ってみました。木下を出発して短い鉄橋を渡る上り我孫子行普通列車です。  昭和43年 木下〜布佐
 
 
 
 
 
 
 

 
劣化でボロボロになったネガを修復しました。どうやら下総松崎まで行ったようです。腕木信号機が見えます。  昭和43年
 
 
 
 
 
 
 

 
結局、佐倉まで行ってしまいました。これは形式入りナンバープレートですが、正面だけですね。キハ35も沢山走っていました。  昭和43年 佐倉
 
 
 
 
 
 
 

 
成田線用のホームに入線した上野行列車は長い客車を牽引して出発、本線に入ります。C58では限界だったかもしれません。  昭和43年 我孫子
 

 
 
 
 
 
 

 
この207号機は昭和40年まで田端にいましたが、既に水戸電化なので謎の列車です。臨時であることは間違いないのですが。  南柏
 
 
 
 
 
 
 

 
水戸電化後も常磐線にはD51牽引の貨物列車が走っていました。このD5150は新小岩のカマです。   昭和38年 南柏〜柏
 
 
 
 
 

 
 

 
 これはネガがお釈迦で、これしか画像はありませんが、なんと柏駅構内の入れ替え風景です。信じられません。

このカマも当時は尾久?にいたらしく、常磐線を走っていました。今では想像もつかない光景です。昭和38年

 
 
 
 
 

 

 
水戸のD51が田端機関区に来ていたのは、間違いなく電化後も貨物を牽引していた証拠です。  昭和38年 田端機関区
 
 
 
 
 
 
 

 
ここは大崎の・山手電車区のはずれです。何やら配給車らしき電車を入れ替えています。電化されているのに何故でしょうね。
昭和37年  大井工場・大崎(山手)電車区だったと思います。詳細は正直分りません。(今の東京総合車両センターの場所?)
 
 
 
 
 
 
 

 
田端機関区にはまだ蒸気機関車が配属されていましたが転属・廃車も進んでいて、このC12と9600もすでに
火を落としています。昭和40年には全滅したと記憶しています。          昭和37年 田端機関区
 
 
 
 
 
 
 

          ■大宮機関区・川越線          



 
割と近くだったと言う事もあり、たびたび大宮機関区には行っています。当時は大工場だった大宮工場がありました。  昭和38年
 
 
 
 
 
 
 

 
独特のコンクリ製の庫が特徴でした。ただ9600とD51しかいませんでしたが。
 
 
 
 
 
 
 

 
大宮からしばらくの区間を高崎線と並行して走りましたが、川越線はこの線路が専用で、架線がありませんでした。  昭和39年
 
 
 
 
 
 
 


川越線には1日1往復の9600牽引の客車列車(通勤通学用?)がありました。朝方に大宮に向かう822レ    昭和39年 日進〜指扇
 
 
 
 
 
 
 


大宮発の下り客車列車は夕方なので撮影は朝方の上り822レを狙うしかありませんでした。    昭和39年 日進〜指扇
 
 

 
 
 
 
 


関東ではあまり見ることの出来なかった通勤型DCキハ30が川越線で走っていました。     昭和39年 日進〜指扇
   
  
  
  
  
  
  
  
 
  
 大宮機関区は、大型ストラクチャーの宝庫でした。ただこれは一体何のための機械なのかさっぱりわかりません。  昭和41年
  
   
  
  
  
  
 
 
 
思いがけずデフなしの9600がいい場所にいたので、横から狙ってみました。デンダにあるのは重油?なんでしょうか。  昭和41年
 
 
 
詳細不明な写真
 



年代不明、駅不明。下り「はつかり」です。昭和35年頃かと。駅は推測するに、勝田駅と思われますが。とにかく中学低学年のころの写真です。
C62牽引の急行もあったのですが下手な上、お決まりのネガ紛失でプリントもありません。 上野駅で撮ったハドソンも既にネガは紛失してます。




 
 
 インデックスに戻るにはブラウザの
「戻る 」を使って下さい