亀山・梅小路のC51たち


大正8年生まれのC51がまだ現役で走っている、という情報が雑誌に載っていたのは私が中学生の頃でした。1750ミリのスポーク大動輪と英国の面影を残した我が国最初のパシフィックの優美なスタイルの虜になりました。
しかしながら日本全国で活躍していたC51は昭和30年代後半になると雪崩を打つように次々に姿を消していきました。
そして私が高校生になったときには亀山と梅小路に数両を残すのみとなり、全廃はもはや時間の問題となったのです。私はC51への思いを断ち切れず、昭和39年亀山に残ったオリジナルに最も近いC51225を撮るべく夜行列車で名古屋に向かったのです。果たして亀山には美しい姿のC51225がまだ元気に煙を吐いていました。朝方の本線仕業は撮れませんでしたが亀山に戻ってから機関区での半日を一緒に過ごしました。39年頃のネガはかなり劣化していて、綺麗に仕上がりません。
また隆盛を誇った京都梅小路機関区も山陰線の無煙化が進みわずかにC51が1両とC57が3両という寂しい機関区となっていました。私は最後の梅小路を見届けようと、昭和40年には新幹線で京都に旅立ちました。C51はまさに最後の1両でした。僚機の124号機はすでに休車となっていて区の片隅に放置されていました。
朝、丹波口で271号機牽引の園部行を見送ったのがC51との永遠の別れとなりました。本来は保津峡あたりで撮りたかったのですが、機関区での出区を撮ってからでは間に合いませんでした。
私たちの年代では本線を颯爽と快走するC51の晴れ姿を写すことはどだい無理だったのです。これらはなんとか間に合った全廃寸前のC51の姿です。
 
 
 
 ■亀山機関区
 
 

新旧の顔が並ぶ亀山の庫。80系DCがピカピカに輝いていました。「くろしお」用の試運転でしょうか?だとしたら貴重な写真ですね。  昭和39年 亀山
 
 
 
 
 
 
 
 

朝の仕業を終えて亀山に戻ったC51225。C51と感激の初対面でした。     昭和39年 亀山
 

 
 
 
 
 
 
 

整備を終えたあと昼間はしばらく機関区で休んでいました。隣にC50、奧にはキハ30が。    昭和39年 亀山
 
 
 
 
 
 
 

 
 亀山のC50はけっこう遅くまで残っていました。これは後年、加太越えに行った時に撮ったものです。  昭和45年
 
 
 
 
 
 
 
 

ヘッドライトが大型に替わっていましたが化粧煙突、形式入りナンバープレート、スポーク大動輪などオリジナルに近い美しい姿でした。  昭和39年 亀山
 
 
 
 
 
 
 
 

1750ミリのスポーク動輪が美しさを一段と引き立てていました。C51は改造されて本来の美しさを失ったのも多く225号の存在は奇跡でした。  昭和39年 亀山
 
 
 
 
 
 
 
 

 午後遅く、C51は何の仕業か分かりませんが、長い休憩から起きてドレーンを吐いて動き始めました。
 
 
 
 
 
 
 

 
名古屋から関西本線列車を牽いてきた名古屋区のC5780がいました。重油タンクを積んでいます。その前はどこにいたんでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 

いつの頃からか忘れましたが、いっとき参宮線事故車のC51が放置されていました。
 
 
 
 
 
 
■京都梅小路機関区ほか



 
主を失った梅小路機関区の庫。大きな扇形庫に機関車は1両。    昭和41年 梅小路機関区
 
 
 
 
 
 
 
 

 朝の園部行き列車を牽引するためすでに給炭を済ませて、待機していました。梅小路はこのホッパー式給炭設備も独特でした。  昭和40年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 一番奥まで下がって真横を狙いましたが、テンダまで全部入りませんでした。   昭和40年 梅小路機関区
 
 
 
 
 
 
 
 

給炭場から一旦本線に入り、京都駅までバック運転で牽引客車に向かいます。  昭和40年 梅小路機関区
 
 
 
 
 
 
 
 

 区の片隅に留置されていた休車のC51124。車体には随所に錆が出ていました。     昭和40年 梅小路機関区
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こっちが残ってくれた方が良かったと思いつつ、最期の顔を撮りました。

 
 
 
 
 
 

機関区から急いで行ける駅は丹波口しかありませんでした。京都駅で客車を連結した後、定刻に園部行が来ました。ここは荷物用のホームがありました。
 
 
 
 
 
 
 

ここは北方に向うので、逆光は覚悟の上でした。上り列車と交換の為、駅長さんが通票のキャリアを持って間に立っています。このホームページの某読者の方から「この駅長は私の亡父です」とのお便りをいただきました。そんな奇遇もあるんですね。今から67年前の現役のお姿です。


 
 
 

 
C57に牽かれた上り列車が到着して、C51園部行は出発して行きました。私のC51最期の写真です。 いずれも昭和40年 丹波口
 
 
 
 
 
 
 

今はこの辺りは高架になってしまったので、どこだか思い出せません。京都らしさを出そうと思って場所を探していたら時間が無くなり、結局撮るところは裏路地の跨線橋しかありませんでしたでした。奧のマツダオート三輪がいいですね。   昭和41年
 
 
 
 
 
 
 

 
 C51なきあと翌41年保津峡に行ってみました。やってくる列車はほとんどがDF50(これは初期型)の牽引でした。  昭和41年 保津峡
 
 
 
 
 
 
 

 
これもDF50の牽引でした。猛暑の真夏の保津峡。吊り橋を渡ってお立ち台に行く山道を登る気にもなれませんでした。
 
 
 
 
 
 
 

 
何本か列車を待っていると下り客車列車がC57の重連で来ました。このC57190は4次形で和歌山から転属になったものです。似合わない集煙装置をつけていました。この場所は柵も何もない崖淵です。とても危険でしたね。    昭和41年保津峡 

 
 
 
 
 
 ■奈良駅のC51
 
 

 
 なめくじ会の「つーさん」が中学の修学旅行のときに撮ったC51を一枚。自由時間は一目散に最寄の駅に行ったものです。 昭和37年 奈良
 
 
 
 
 

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