関西本線・米原
関西本線は、もっぱら柘植〜加太の峠越えが有名です。あまりに沢山の人が撮っているので、あらためて私のありきたりの写真は出す意味はないのですが、このコーナーは蒸気機関車の集大成の意味でもあるので、敢えて出してみます。 また数回行ったけれど、いい写真の撮れなかった米原〜田村間(交直切り替え用デッドセクションがあった)も公開します。余り感激のなかった路線なので、思い出もほとんどありません。柘植のホームで、夜中にホームに入ろうとしたら、駅員さんが、もう列車はないから「入場券は売れない」と断られたことや、柘植駅前の旅館のおばさんが「ここは雨が多く、風邪も強くて、とても住みにくい所ですよ」と言っていましたが、確かに風も強く、数回は雨にもたたられた悪い記憶しかありません。 |
■関西本線・加太越え
関西本線の加太越えの出発駅「柘植」です。貨物列車は後部補機付で挑みます。この頃から短い貨物が多くなったのですが、これは長い方です。 昭和44年
これは後年出来た客車回送のスジで、これだけは前部重連となりました。回送なのでホームからは出発しません。 昭和45年
上の重連の回送客車です。同じ403号機ですが、別の日です。軽かったせいか余り迫力はありませんでした。 昭和45年 柘植付近
結構雨風が強い日で後補機の煙が変な方向に流れています。宿のおばさんの言った通りの悪天候でした。 昭和44年
これまた、とんでもなく短い貨物でした。絵になりません。単機で十分なのに、補機の運用の関係でしょうね。 昭和45年
これも短い貨物列車ですが、後補機はC58です。ここから急勾配となるので、勢いをつけて来ました。学校のすぐ裏を走ります。 昭和44年
列車番号は忘れましたが、この列車はいつもほどよい長さの貨物で、煙こそ出していませんが低速で迫力満点でした。 昭和44年
途中の「中在家信号場」です。列車は本線を通過していきました。タブレット授け器がセットされています。このあと間もなくして立ち入り禁止になりました。 昭和45年
皆さんが撮っている構図ですが、まだ立ち入り禁止になる前で、自由に撮れた時代です。この後は本線下の踏切に「立ち入り禁止」の看板が。。。
これは早朝、柘植発の京都行列車です。(C58牽引客車列車は京都方面しかないです)当時は亀山区の所属でした。 昭和45年
桑名を出てしばらく近鉄と並行して走る上り関西本線。何故か後ろに後補機を付けています。名古屋区のC57です。 昭和39年
調子に乗って柘植から後補機付き貨物列車を大河原駅まで追いかけてしまいました。当時としては長い貨物で絵になったからです。
■米原-田村(昭和41年、42年)
北陸本線米原経由青森行のロングラン特急を直線で狙いすまして撮りましたが、エンジンの排気で汚くなってしまいました。
米原にまだ扇形庫があった時代です。美しいD50に見とれていたら、いきなりドレーンを吐いて出庫してきました。
ここには架線付きのターンテーブルがありました。何故だろう?デフを斜めに切ったあまり好きでない200号がバックで乗りました。
この時は真夏で猛暑日。少し遊んで帰りました。これは切り取り長工式デフで赤プレ(青だったかな?)のD50でした。
米原から北陸本線の次駅・坂田まで歩く途中にガーター式鉄橋がありました。そこに重連で客車列車がきましたが、ド逆光です。
ここが田村駅で、米原とこの間が交直切り替え区間となっています。交流機関車はここまでしか来れません。
田村には勿論ターンテーブルはないので、米原に帰る機関車はバック運転になります。ここはこういう撮り方が一番いいかもしれません。
これは初冬で雪の降った翌日です。どうも急行らしいのですが、列車が特定できません。
もう冬景色ですね。グリーン車もついています。しかし昼間の客車急行は時刻表にはなく、12月の臨時列車かもしれません。
これも記録と言えばそうですが、EF55が交直流の凸型機関車に変身しました。日本の機関車とは思えないスタイルです。
これは初期のボンネット型481系の「雷鳥」です。富山電化に伴い登場した当初は、スカートに60Hz用を示す白帯が入っていました。
たった1両しか製造されませんでしたが、和製ミニクロコダイルと言ったところでしょうか。新造車ではない為、短命でした。
■懐かしい光景
しゅうちゃんは、京都から丹後の方に行っています。加悦鉄道のバケットカー健在のころ。これは遅くまで残っていたようです。 丹後山田
舞鶴線の西舞鶴駅です。隣駅の東舞鶴との間に、急勾配のサミットがあるので、多くの列車は補機を付けました。これはC58の重連です。 2枚とも 昭和40年
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