東急玉川線(玉電)
私たちの青春と共に消えた路線でした
私たちは東京の世田谷で育ったので玉電はまさに地元の電車でした。昭和44年に玉川線・砧線が廃止された時は私たちがそろそろ社会に巣立つ頃でもあり、まさに青春と共に玉電は消え去っていったのです。 「なめくじ会」のメンバーも実はそんなに写真を持っていないのです。「なめくじ会」メンバーの「つーさん(T)」は昭和44年になくなると聞いて、しきりに出掛けていきました。 ここでは「つーさん」の撮った玉電を中心に当時を振り返ってみたいと思います。もうひとりの現役メンバー「しゅうちゃん(S)」も昭和38年~42年に撮っていて、ところどころで頑張っています。私は地方の汽車・電車で手いっぱいで、二人が撮っているから私もと、わざわざ撮りに行った覚えはなく、昭和44年以降の玉川線廃止と塗装変更後の生き残った世田谷線の残党を慌てて撮りに行ったと言うお粗末さです。 |
大橋車庫です。高校生の時に見に行きましたが雑然とした所にありました。最新鋭1輪の連接車200形がいました。パンタで登場しました。(T)
30形がいました。40形と共に高床式で中央扉には折り畳み式のステップがついています。最後までパンタにはなりませんでした。(T)
これは玉電を代表する80形です。但しこの96号は木造改造車で新製ではありません。(T)
40形車内です。いかにも古典的です。男性化粧品「エムジー5」の車内広告が懐かしい・・・・ (T)
冬の夕暮れ。雪の渋谷駅です。こんなところに玉電ホームがあったのです。40形が2連で発車を待っていました。(T)
大橋です。ここは246号線で片側3車線の大通りです。当時からここは広かったのですね。44年なのでパンタ化されています。(T)
跨線橋の上から渋谷方向を望みます。バスもクルマも懐かしいのが走っています。場所は特定できません。(T)
★'08年4月29日、「yoshigami」さまより、ここは三軒茶屋とのご指摘をいただき『三軒茶屋から渋谷方面を望む』に訂正します。
三軒茶屋で下高井戸方面とここで分岐します。105号です。これも80形と称していますが木造車の改造で、玉川線廃止後は江ノ電に譲渡されました。(T)
新町の停車場です。ホームも安全地帯もなかったのですね。今はこの下を田園都市線が走っています。(T)
玉電瀬田から終点の二子玉川園まで専用軌道を下ってきます。左の渡り線は砧線との繫ぎのためにありました(T)
瀬田から渋谷方向に向かいます。狭い通りだったのですね。「ジャマ電」と言われたのがよく分かります。後ろは環8です。 昭和42年撮影 (S)
玉電瀬田です。環状8号線と斜め交差になっているので、渋谷行上り200形は一旦停止しています。それにしてもここは賑わっていたんですね。(S)
終点の二子玉川園駅です。右手には建設中の新玉川線のコンクリート橋が見えます。砧線もここから出ていました。(T)
今のニコタマからは想像も出来ない光景で大変貌をとげています。
これは昭和39年に「しゅうちゃん」が撮った二子玉川園駅の貴重なショットです。まだ大井町線が二子橋を単線路面併用で走って
いた頃の並びです。玉電の引込み線が二子橋方面に伸びていて行き止まりホームではありません。左ホーム左側が砧方面行ホーム
だったと思います。 まだ新玉川線工事も始まっていない頃、駅は2面3線式の駅だったのでしょう。間もなく行き止まりの2線駅に
なりました。大井町線のツートンの3450も懐かしいですが 玉電も正面行き先板が落とし込みではなくパタパタ方式でした。(S)
これは砧線には間違いありませんが何も書き留めていないので場所が不明です。お分かりの方がいらっしゃいましたらご教示ください。(T)
★2010年1月8日、「かずくん」さまと「鈴木」さまのご指摘により、ここは吉沢駅に間違いない
とのこと。ここにお礼を申しあげると同時に「吉沢駅にて」とキャプションを訂正いたします。
終点砧本村に到着です。ここには大きな「わかもと製薬」の工場がありました。(T)
昭和38年撮影なので、方向板がパタパタ式です。玉電山下から下高井戸に向かう40型。この頃は日中も40形は走っていたんですね。(S)
玉電山下駅のある日の光景です。(S)
夜の下高井戸駅です。どこまで乗っても20円時代!(S)
玉川線が廃止され、残った世田谷線に慌てて撮りに行きました。塗装は変わっても70形、80形は健在でした。 山下駅(玉電山下から改称)
山下駅を出発する80形。色は変わっても格好のいい車両でした。向こうは小田急線・豪徳寺駅のオーバークロスです。
70型が山下から松原に向って勾配を登っていく後追いです。玉川線がなくなって駅名に付いていた「玉電○○」の玉電は消されました。
と、まあこんな具合で玉電は走っていたのですね。昔世田谷、今は田園都市線沿線に住む私から見るとこの路線ほど廃線後に大変貌をとげた沿線はありません。もっとも社会人になってから今日までの53年の長い間にはそれだけ変わるということなのでしょう。当時の玉電の日常がよく表れていますね。 |