昭和30年代末期の
小田急電鉄


なめくじ会のメンバーは小田急沿線に住んでいましたので、小田急電車は手軽な被写体としてみんな撮ってはいるのですが、われわれ中学生のころの写真ははっきり言ってヘタです。第一カメラが悪く、レンズもまともにピンが会わず、露出もいい加減、加えて現像も粗末なものがあります。ですからこんなに大きく掲載すべきではないのですが、それでもここではマシな写真を選びました。従って結構ムリして大きくしたので、見苦しい点はご容赦ください。
もっといい場所があるのに一つ覚えでそこでしか撮らなかったり、電柱などジャマモノがあるのに平気で撮ったり、恥を覚悟でとりあえず記録としてアップすることにしました。 
う〜ん。実際にヘタでしたね。第一ピンがあっていない!
「つーさん」「しゅうちゃん」そして管理人の写真をおり混ぜてアップいたします。撮影は特記のないのは、昭和36年から39年までです。塗装は茶色の時代から、オリジナル色のツートンに替わっています。なにせ15歳時の写真ですから懐かしさを味わって、1960年の初頭を偲んでください。




 
 
 


小田急の1100形式で唯一荷電に改造され生き残ったデニ1101です。緑色の車体でした。  経堂車庫







 

 
昭和37年には1500形(もう1両の荷電)と組んで、荷物電車で走っていました。新聞も積んでいたと思います。ここは何と豪徳寺の手前です。





 
 
 

これも1500が先頭の荷電です。1500は京王帝都と同型で平凡なので、敢えて撮っていないのでしょう。 昭和38年 千歳船橋〜祖師ヶ谷大蔵




 
 
 


通勤電車だった1200形です。かなり戦後に改造されているのでオリジナルの姿は知りません。東北沢の駅が6両用に延長された時です。 昭和39年
 
 




 
 

ごく日常的に普通列車として走っていた1200形。改造前は運転室ドアが無かったようです。誰も覚えていませんが。 千歳船橋〜祖師谷大蔵




 
 
 


これの誕生からの長いいきさつなど、正確な説明が出来ない車両です。昭和38年には新聞の看板を掲げて単行で走っていました。 世田谷代田




 
 
 


1400形です。当時は1200形とどこが違うのか知らぬままに撮っていました。よく江ノ島「準急」に使われていました。 千歳船橋〜祖師谷大蔵

 
 
 




 
複雑な経緯と車番変更で説明が長くなりますが、とにかく我々が中学生の時撮った1400です。多くの改造の為この時すでに行先方向幕式
になっています。他のオリジナル車は看板も多く、改造車は特に早くから幕式でした。NSEが車庫に入っています。昭和38年 経堂車庫




 
 
 

 
これも複雑な経緯を持つ1600形です。一時期は特急にも使われました。形は何種かあって多少違います。私にはつまらない電車に見えました。




 
 
 
 
 

この駅は旧「生田駅」現東生田です。小田原側隣駅は「西生田」で現読売ランド前です。1600形が準急で通過しました。向ケ丘遊園から先は田舎の光景でした。 昭和38年










小田急初の1700形本格特急格落ち車です。現役時代の写真は誰も持っていません。もうネガをなくしているので
保存のこれしか残っていません。1700形の第一編成です。貫通式の幅広車で堂々としていました。  昭和38年











第1編成は前面貫通式でした。すでに2300形やSE車が登場し、1700形の一次、二次編成は通勤電車化されてしまいました。覆いの付いたライト
 や幅広の車体が特急の面影を残しています。格落ちで外されましたがボディには神奈川県花の大きな「やまゆり」がエンブレムで付いていました。










これはその後塗装もツートンに替えられた元特急車。特急現役時代は、全く記憶にも残っていません。後年の姿です。 昭和38年 渋沢駅










これが二次編成の1700形です。大きく違うのは前面2枚窓になったことですが、これも特急時代の記憶はありません。










我々は改造後の姿しか撮れませんでした。貫通扉がなかったため当初はぶら下げ看板でした。









さらに大きな特徴は、小田急では珍しい張り上げ屋根になったことです。これは普通車に改造されても変わりませんでした。  昭和38年










小田急も戦後は車両不足で国鉄のロクサンが与えられました。20m級の長い車両と初の4扉が異色でした。改造でだいぶスタイルは変わっています。









この写真はまだ地上駅の新宿方面を撮ったものです。登場したてのHE車と、茶色の2両編成の1800形がすれ違っています。茶色の時代は
1800はぶら下げ看板でした。2両編成と言うのが信じられません。小田急新宿駅の地下工事が始まっています。 昭和36年 南新宿から









父から借りた透視式蛇腹カメラで撮った1900形です。ホーム先端に狭い踏切があり、そこから撮ったものですが、電車から距離がとれず、ライト
から上が切れています。4両編成限定のホームでした。 昭和36年頃は貫通式でも、幕式ではなく行先看板だったのですね。私はなぜ小田急の看板
はローマ字書きが付いていたのか分からなかったのですが、今想像すると当時は特に米軍座間キャンプがあったからでしょう。 昭和36年 東北沢









その後、ツートン化された1900形はさらに改造され普通通勤車として使用されました。特急運用にも入った経歴のある車両です。 昭和38年








これまた海坊主のノーシルノーヘッダーの2100形です。丁度小田急が軽量高性能車を生み出す過程で誕生した車両です。 昭和36年 東北沢






 

これも昭和38年には改造されツートンの2100形となり普通の電車になりましたが、高性能車製造のための試作車でもありました。 梅ケ丘









昭和29年には初の直角カルダン駆動、2両固定の2200形が誕生しました。前面2枚窓は普通車としては初めてで、私はこれを最初に見た時は
小田急顔からの変身に驚きました。登場してしばらくの間は、もともと方向幕は着いておらず看板でした。 昭和37年 世田谷代田〜梅ケ丘









HE車の誕生まで4両、6両に対応できるよう2両固定編成で18両が製造されました。これはまだ上の写真と同年なのに行先看板です。小田急は
異種車両同士の連結が見られました。準急マークがついていますね。準急は江ノ島行が多かった様です。   昭和38年 千歳船橋〜祖師谷大蔵






 
 


2200形最後の2両の2217と2218の2両は2200形でありながらスタイル・仕様とも違っていました。むしろこの後に登場
した2200グループの2220形に酷似しています。2200と2220は高性能新鋭車の主流となりました。 昭和36年 東北沢
 
 
 





 
2両固定編成の2220形です。これから平行カルダンになり貫通式の小田急顔で登場しました。 千歳船橋〜祖師谷大蔵






 
 

 
昭和30年登場の特急2300の特急格落ち車です。勿論小学生なので現役は撮っていません。改造後は正面2枚窓は変わらず、2扉セミクロスシートに
改造され、洗練されたスタイルは憧れの的でした。もともと1編成しかなく、めぐり会うのは偶然以外にありませんでした。 昭和36年 経堂車庫
    





 
 


唯一某君の撮った特急時代の2300形です。なんとフジペットで撮ったそうです。暗いから酷い写真です。










SE車が登場の改造後は2+4の6両で相模大野分割運転をしていました。貴重な写真なのにカメラも腕も悪かったんですね。









1編成しかなかった2300形特急を補完する形で2扉2320形の「準特急」型が登場しました。これは更に格落ちした普通車の姿です。 昭和38年








それでも時に急行看板で走る2320形は風格がありました。  新宿駅








何と下手な写真なんだろう。4両固定で普通に走っていました。この電車の乗り心地は最高で、深くて柔らかいソファが優等車を物語っています。









そして登場したのが、2400形HE車です。全てが斬新で、小田急と言えばまずこれを思い出します。オールマイティーでフル活躍していました。










4両固定の前後が短いTcでしたので、いつも通過は、カラカラ・・という軽い走行音でした。ブレーキシューが車輪に当たっている音かと思いま
した。当時ここはわれわれの近くて便利な撮影地で、ここの写真が非常に多いです。警報機もない狭い踏切がありました。 世田谷代田〜梅ケ丘










東北沢駅が6両ホームに延長されたときです。必ずここで退避があり、私が初めて見た「快速準急」が下り通過線を2100形を抜いていきました。 昭和39年






   
 
 
 
 
HE車で驚いていたらその後2600形(NHE車)が登場しました。初の裾絞りの大型車両でした。これは132両も製造された、一大形式グループです。
 車幅が広いにもかかわらずスカートがないので横ぶくれの車両でした。下北沢ホームから撮りましたが、東北沢跨線橋がすぐに見えます。 昭和39年
 
 
 
 

 
 
 
 
 


登場時の2600形です。当初は20m車のため5両固定編成でした。それまでの小田急顔とは違って見えます。昭和39年 千歳船橋〜祖師ヶ谷大蔵 
 
 
 


 
 
 

 
都心近くになっても鳴らしていた、カラーンコローンのオルゴールが懐かしい。私たちの中学校まで美しい音色が聞こえました。 昭和37年 世田谷代田





 
 
 

 
3000形 ロマンスカー「明星」です。経堂駅のすぐそばなのに、警報機もない看板だけの踏切でした。なんとおおらかな時代! 昭和37年










代表的な特急だった「はこね」号です。一度乗ったことがありましたが、アテンダント添乗のビュッフェや飲料販売機があった記憶があります。










3100形NSE車が本格的に走行を開始しました。運転台が上部に上がり絶好の前部展望席車が出現しました。名鉄には後れをとりましたが。 豪徳寺









これも特急の代表格の「はこね」号です。素晴らしいデザインとスタイルに、ため息をつく以外にありません。登場当時の綺麗な車両です。 昭和39年




小田急の電気機関車

当時代々木上原近くにコンクリート会社があり、そこに砂利を運んでいました。






私たちの知る限り、小田急には3種類の電気機関車が走っていました。これは形式ナンバー入りでデッキ付きのデキ1040形です。









さらに切妻形箱型電機のデキ1030形がいました。最後まで残った電気機関車でした。









相模大野の江ノ島線との分岐点下を走るデキ1010形。いつも本線では、トムとトフを牽いている姿しか記憶にありません。




こんな感じで小田急の記録は終わっています。私たちはSE車以前のロマンスカーには間に合いませんでした。
そして黄色と青のツートンから現在のクリームに青帯の塗装となってからはパタッと撮るのをやめてしまいました。それはもう我々の小田急ではなかったからです。

※なお、へたくそな写真はご容赦ください