京のポール電車
高校生のころ雑誌に京都のポール電車の特集がでていました。これがまたもののみごとに京都の風景に溶け込んでいて、私の胸はまたまた激しく揺れ動きました。京都だけではなく、どうやら琵琶湖のほとりを走っている京阪もまだポール電車らしいことが分かりました。 たぶん今行かなければあっという間にパンタグラフに代わってしまうだろう、恐らく後悔すること間違いなし、と自分に言い聞かせ一人京都に旅立ちました。昭和41年4月のことでした。予想通り三つの路線には美しい車両のポール電車が走っていました。 |
■京福電鉄鞍馬線
まずは出発駅の出町柳です。朝方は曇天であまりいい天気ではありませんでした。デナ21がやってきました。美しい車体の曲線、丸味を帯びた窓の上部とポールのえもいわれぬエレガントな姿にびっくりしました。 写真は以下 昭和41年撮影 出町柳駅 |
次は修学院に移動。宝ヶ池方面に少し歩いて踏切で一枚。ポールと架線の摺れる音がはっきり聞こえました。 修学院〜宝ヶ池
修学院には車庫があって結構沢山の車両が休んでいました。これは宝ヶ池から八瀬遊園に向かう叡山線に使われていたデナ500。 修学院車庫
叡山線と鞍馬本線の分岐点宝ヶ池駅です。デナ23が鞍馬に向かって出発して行きました。私は八瀬方面には行きませんでした 宝ヶ池
八瀬遊園から来た出町柳行が宝ヶ池を発車。本線と合流します。横から見るとポール集電も見え、美しい車両でした。 宝ヶ池
修学院を出て宝ヶ池に向かうデナ500。車体が狭くて阪神の面影を残しています。こんな道路にも踏切番がいました。 修学院
鞍馬線には岩倉行も走っていてここで折り返しました。写真はデナ21を近代化させたデオ200です。 岩倉駅
いよいよ電車は鞍馬の奧深い山々に入って行きます。 二の瀬
電車は急勾配と急カーブに身をよじらせながら終点鞍馬へと向かいます。昔は木が少なくて、すっきり見渡せました。 貴船口
■京福電鉄嵐山線
四条大宮から太秦まで来ました。ここで名刹広隆寺とモボ100を入れて撮るのが目的でした。今でも基本的な光景は変わりません。 昭和41年 太秦
人や車の往来があるのでなかなかいいショットが撮れませんでした。これが一番広隆寺の山門がはっきり写っています。 太秦
トラクターが堂々と走っています。左側には旅館もあったのですね。オロナインのホーロー看板も懐かしい。 太秦
帷子ノ辻から北野白梅町行に乗り換えてやってきたのが高尾口です。桜並木があると聞いていました。 高尾口(現在の宇多野駅)
高尾口から鳴滝方面に下ると7分咲きではありましたが美しい桜並木がありました。桜のピンクとモボの緑が素晴らしいコントラストでした。 高尾口〜鳴滝
高尾口駅の上を道路が走っていてその陸橋からモボと桜と鳴滝の山々を入れてみました。 高尾口駅上から
■京阪石坂線
京阪石坂線の浜大津です。ここにはとんでもない古い車両がポールで残っていました。浜大津駅を発車する京阪三条行です。 昭和41年 浜大津
同じ場所で石坂線坂本行です。この車両は古く、もと阪急の1形で京阪では10形となっています。ドアなどは木製でダブルルーフです。 浜大津
三井寺方面に歩き併用軌道で古豪たちをねらいました。周りの長屋風建物がいかにも京風で、そこをゴトゴトと走るポール電車は絵になりました。
狭い道路に複線の併用軌道は今では考えられません。この両開きドアの新鋭車が来たときはポールとの組み合わせに違和感がありました。
やはりこの10形がよく風景にマッチしています。いかついリベットにアンチクライマー、そしてカウキャッチャー。ゴトゴト音を立てていました。
この貨物電車は解説できません。突然やってきました。中央先に見える「ゆ」の看板は銭湯で、今も名残はあるようです。
こうしてポール電車の撮影行は終わりましたが唯一京津線の連接車びわこ号を撮らなかったのが心残りです。