昭和の首都圏を走った列車③


1960年代の首都圏あちこち


 カメラを持っては近場であちこち撮りに行きました。
不思議な車両や列車も沢山居ました。
 
  
 
 
 

 
時に、101形が東海道線を走っていました。何度か見ています。これは品川発の小田原行です。一体何だったんだろう。
 

 
 
 
 
 

 
当時は山の手線ではなく「YAMATE」と書いてあり、我々も「やまてせん」と呼んでいました。101系を鶯谷ホームからド正面を狙いました。。
 
 

 

 
 

 
山手線が品鶴貨物線をまたいで、目黒駅に進入します。恵比寿寄りには、まだサッポロビールの工場がありました。ここも隔世の感です。
 



 
 
 

 
ここは大崎からの山手線と東海道線の合流点で、電車は山手線の後追いです。全金製で前面窓を10度傾けた改造車です。手前は品鶴線です。
 
 
 

 
 
 

 
浜松町の名物「小便小僧」と101系、72系、初代0系新幹線が並んでいます。 この像は歯科医の小林光氏が寄贈と裏に彫られています。
当初は写真の白の陶器だったのですが今はブロンズ像になっていてだいぶ趣が変わっているようです。新幹線は初期のオリジナルなのに
              全く撮る気はありませんでした。                                                            








尾久は小さな工場の多いところで、すぐ道の上を東北本線が走っています。線路間際でEF65を撮ることが出来ました。尾久客車区の脇です。








EF57が尾久機関区を出区します。まだ正面窓枠がHゴムになっていません。これぞ電気機関車。2号機は早目に休車になりました。







見事に汚れたEF56が急行「おが」を牽引して上野に到着です。これらは昭和37年撮影です。








特急寝台「はくつる」を日暮里まで撮りに行きました。いつもここは工事中で、この時は線路増設の為、ホームをとり壊していました。








成田線のC57が無くなりそうなので、よくここに撮りに行きました。ついでに撮った401形です。白帯がなくなっても格好のいい電車でした。 北小金



国府津機関区のDL



汽車会社製の初の液体式DLで、これは1次車です。国府津の所属ですが、久里浜支区に居て、本線走行もあったようです。 昭和41年 横須賀








戦後米軍が持ち込んだGE製の電気式DLで、これも所属は国府津でした。当時は入れ換え専用だったようです。  昭和40年  横須賀構内








国府津機関区と言えば、電気機関車の区内エリアはEF10のたまり場でした。全く形状の違う1次車と2次車が並んでいました。



珍しいディーゼル機関車



田端機関区にいたDD20です。試作車ですが構内入れ換え専門でした。いつの間にか姿を消していました。DD13で十分だったのでしょう。








これも変わったエンドキャブのDLです。大宮機関区の所属で電気式のDD90です。入れ換え機なのになぜか本線を走ってきました。 昭和39年 大宮




房総の準急列車




房総方面の列車は両国が出発駅でしたが、乗り換えの為、準急は新宿駅から出ていました。本物の「犬吠」のヘッドマークです。







両国駅です。昭和35年に登場した、両国発の本格的準急列車です。キハ25が当初の編成車両だったようです。マークをロープで吊っています。








昭和40年になると房総の準急は殆どが急行型車両となりました。夏の夕刻、岩井駅を通過する「内房」です。タブレットキャリア全盛でした。








昭和39年に夏季房総の海水浴臨として珍しい列車が走りました。80系湘南電車を非電化区間の房総西線に走らせたものです。新宿発の80系は
千葉からパンタを降ろしDD13の重連牽引となりましたが、自連のDD13と80系の密着連結器では連結できず、間に国電改造の緩休車を挟んで
運転しました。更にDD13は重連総括制御が出来ない為、それぞれに機関士が乗務するという、実に手間のかかる列車を走らせたのです。ただ
終点では緩休車は連結器が逆になるはずで、いったいどうやって連結したのでしょうか?謎の列車でした。   昭和39年 岩井駅