変動する世界とイスラーム

                 

T.変動する世界とイスラームの復興

1.はじめに

 プリゼンテーションを始める前に、私の話は、ビジネスマンとしての30年に亘るアラブでの現地体験に基づいたものだということを申し上げておきたいと思います。私が見たもの、感じたことがベースになっているので、視野が狭く、独断的なところもあろうかと思います。また、私の話はアラブ、とくにアラビア湾岸地域の見聞がベースです。

イズラ−ムというと中東を思い浮かべる人が多いと思いますが、イスラームは中東のみならず、アフリカ、南アジア、中央アジア、東南アジアその他に広がっています。現在のムスリム人口約12億人の中、中東はその4分の一、アラブはその5分の一弱を占めるに過ぎません。私がいま頭に浮かべているのはそのアラブ、しかもアラビア湾岸地域です。

2.イスラームの復興

 これについては、まず「イスラームの存在が大きくなったな」ということを体験的に申し上げたいと思います。

 私が中東の地に初めて足を踏み入れたのは1973年、場所はテヘランでした。当時のイランはパフラヴィー王朝の絶頂期、モハメッド・レザー・シャーは欧米モデルの近代化をまっしぐらに突き進んでいました。町に出れば、ペルシャ美人がベールも被らずに闊歩し、軍や石油関係のアメリカ人もたくさん住んで華やかな雰囲気でした。当時イスラームを社会慣習以上に意識することはありませんでした。

 翌年から駐在したレバノンのベイルートは、中東の経済・教育・医療・文化、また交通の中心地でした。そこはアラビア語・英語・仏語・ロシア語・トルコ語などが飛び交う国際都市、宗教を強く意識することはありませんでした。人々は平和と繁栄を享受していました。

 また、当時石油を求めて駆けまわった湾岸諸国は急増する石油収入による国造りの真っ最中。近代化への動きとビジネス一色でした。世界の関心もイスラームではなく、石油とビジネスでした。さすがにイスラーム発祥の地のサウジアラビアに入る時にはイスラームの戒律を強く意識し緊張しましたが、他国では社会慣習以上にイスラームを意識することはありませんでした。

 1973年10月に第4次中東戦争が勃発して、第1次石油危機が世界中を襲いました。湾岸産油国は石油を外交上の武器に使い、石油欲しさに日本外交も「アラブ寄り」に舵を切りましたが、この時迫られたのは「アラブの大義」、イスラームというよりアラブ・ナショナリズムを意識した要求ではなかったかと思います。

 イスラーム復興が劇的に姿を現したのは、やはり1979年(イスラーム暦1400年)のイラン革命以降だろうと思います。欧米型の近代化を目指していたイランに、中世さながらの宗教国家が突如出現したのです。イラン革命は第2次石油危機を引き起こしただけではなく、周辺諸国に大きな政治的・社会的なインパクトを与えました。

 サウジアラビア東部州のシーア派反乱(1979、80年)、バハレーン解放イスラーム戦線のクーデター未遂(1981年)、ソ連軍のアフガニスタン侵攻(1979年)、イラク軍のイラン侵攻(1980年)などが次々に起りました。サウジアラビア反体制派武装グループによるカーバ聖殿占拠事件(1979年)、ジハードによるサダト暗殺事件(1981年)も相次ぎました。レバノンで始まった「弱者の闘争」パターン、ヒズボッラーが始めたトラック攻撃などの特攻作戦で1985年にイスラエル軍がベイルートから撤退しました。これが「イスラーム抵抗運動」の勝利と解釈され、パレスチナでの87年のインテイファーダ(民衆蜂起)につながり、とくに90年代に入ってから、ハマース、パレスチナ・イスラーム・ジハードなどのの武装抵抗運動が進められたのです。

 このように、パレスチナ紛争にもイスラームが関るようになりました。アラブ民族主義が゙衰退して、イスラームが顕在化してきたのです。91年の湾岸戦争でそれまでアラブ民族主義を支えてきたイラク政権が弱体化し、民族主義の衰退は決定的となりました。

 昨年9月11日アメリカで起こった同時多発テロ事件がオサマ・ビン・ラデイン率いるイスラーム原理主義グループの「アル・カイダ」の仕業と断じられ、彼等を匿ったタリバンを倒すためのアフガニスタンへの多国籍軍派遣で、イスラームへの世界の関心は一気に高まりました。日本でもテレビ・新聞も「イスラーム」一色となり、「イスラーム」の書物が全国の本屋に山と並ぶような仕儀となったのです。往時の石油への関心は薄れ、イスラーム花盛りというのが現状です。

3.イスラーム復興とオイルパワー

 私が同時多発テロの生々しいテレビ映像を見てまず頭に浮かんだのは、「アラブの若者が、よくここまできたものだ」、「イスラーム原理主義はイスラームを代表するものではない」という思いでした。

 1960年に創立されたOPECは泣かず飛ばずの状態がしばらく続き、アラビア半島諸国の石油収入が急増したのは、1973年の第1次石油危機以降のことです。この石油収入で各国は国造りに乗り出しましたが、それまで湾岸の人々は近代文明から取り残され、沙漠の中で生きていました。極論すれば、ラクダに乗り、真珠を採り、デーツとラクダのミルクで生残っていたのです。

 人々は、石油開発で初めて近代文明に遭遇しました。その時初めて自動車をみました。電話もそうです。掘削機械や種々の機械にも初めて遭遇しました。私の友人で、自動車の運転を覚えて沙漠の油田で働き、その後町に出て欧米の機器メーカーの代理店となって大金持ちとなったベドウインもいます。国としても、いきなり大統領となったベドウインの首長が、「国連って、それなんだい?」と外人顧問に訊くような状態でした。当時、子供たちが行く学校などはありませんでした。そんな子供たちがいまや欧米の大学の工学部を卒業し、コンピューターを駆使し、航空機まで操縦できるようになっているとは、まさに隔世の感なのです。その上、世界中にテロの国際ネットワークを作り出すとは。

 それを可能にしたもの、それは石油です。私は次にイスラムパワー興隆の背景にオイル・パワーがあるということをいいたい。湾岸諸国の石油生産量は、1970年には816万バレル/日、90年には1080万バレル/日、99年には1340万バレル/日と増え、石油収入も1970年の約50億ドルから、90年には701億ドル、99年には813億ドルと急増しています。いま、サウジアラビアのGDPは、エジプトの1.6倍を超えています。経済的には、サウジアラビアはイスラム諸国No.1の大国です。エジプトは、経済的には、UAEとクウェート2ケ国を足したぐらいの規模しかありません。

 この石油収入によって、湾岸では行政組織が整い、社会的インフラも整備され、さらに医療・教育・住宅などの充実によって、国民の生活が著しく向上しました。人口も急増しています。1970年の湾岸諸国の人口は900万人前後と推定されますが、出生率の上昇と出稼ぎ外国人の増加で、今日では3000万に迫っております。人口が増えるのは、それだけムスリムが増えるということです。イスラーム・パワーが伸びるということです。

 また、住宅の数が増え、新しい町が建設され、また既存の町も膨張を続けています。その中で新しいモスクが、巨大モスクが続々と建設されています。それも、国王や有力者、それに金持ちなどが競ってモスクを寄進しています。私のオマーン人の友人なども、大商人の兄と国会議員の弟が揃ってあちこちににモスクを寄進しています。私は、日本に仏教が入ってきた頃、天皇や有力者たちが競って寺を建立した様も同じかと想像しております。これも、イスラーム復興への大きな力ではないかと思います。

 このオイルマネーは、国内のイスラーム復興の糧となっているばかりではありません。 イスラームの連帯を目指して、この膨大な資金が公私を問わずに湾岸石油産出国から他のイスラーム諸国に流れています。

 インフラ整備、産業育成や教育・医療などのみならず、数々のモスク、イスラミック・センター、大学、病院などの建設に使われ、さらにはエジプトやパレスチナのイスラーム組織にも流れます。財閥の御曹司であるオサマ・ビン・ラデンがアル・カイダに出しお金も、一種のオイルマネーといえましょう。それどころか、サウジアアラビアの王族からアルカイダに金が流れたとして、アメリカがサウジに不信の目を向けていることはみなさんご承知の通りです。

 1969年8月のアクサー・モスク放火事件を契機に、1971年にサウジアラビアのファイサル国王の呼びかけでイスラム諸国会議が結成されました。当初その活動は必ずしも活発ではなかったのですが、いまや加盟国は54カ国に達し、パレスチナ問題などの大事な局面では、その会議の結果が国際的に注目されるようになりました。これもオイル・パワーのお陰かと思います。

 また、ムスリムの5行の1つ、メッカ巡礼者の数は年々増加しています。そのため、「二聖モスクの守護者」を自認するサウジのファハド国王は聖モスクの拡張に巨額を投じています。いまや、毎年世界中から200万人を超える巡礼者が集まってきます。湾岸では数年前からハッジ(巡礼)のテレビ放映が始まっていますが、最近は日本のテレビでも取り上げるようになり、イスラーム・パワーの伸長には驚いております。

 イスラームには、イード・アル・フイトルとイード・アル・アドハという2祭日があります。前者は断食明け、後者は犠牲祭です。イスラーム国家の元首たちはこの時にお祝いの電話をかけあい、祝電を交換します。毎年2回、こういう交流があることもお互いの連帯感を強めるのに寄与しているように思えます。

 なお、イスラーム同士の中でもアラブ・ムスリム同士となれば、親近感はいっそう強まります。アラブの国では、どこでもアラビア語が通じることはご存知でしょうか。その数は20ケ国を越えます。日本語が南アジアぐらいまで通じる、そこでは文化も社会慣習も同じ、そう考えて見て下さい。いかに親近感・連帯感が沸くことか、当然のことなのです。シリアへいっても「俺の祖先はサウジアラビアからきた」、オマーンでも「私の親戚はドバイに大勢いる」、アブダビでも「俺たちはイエメンからきた」などなど、部族的な結び付きも強い。その上、宗教も同じとあっては、身近に感じられるのは当然です

 私が9・11事件のテレビ映像を見て、「イスラーム原理主義はイスラームを代表するものではない」と思ったことについては、その後、イスラムの国の指導者も宗教指導者も、パレスチナのアラファトさえも、ビン・ラデン率いるアルカイダやイスラーム原理主義者を非難していることで納得が行っております。

4.イスラームがすべてではない

 こういう風潮の中で、私が次に敢えて申し上げたいのは「イスラームがすべてではない」ということです。

 ムスリムはひたすら神を信じ、イスラームの戒律を守って生きています。例えば、「お祈り」にしても、この3月にオマーン女性と広島・新潟・千葉などを旅行しましたが、駅の構内、レストラン、屋外で所構わず、衆人監視の中で行っておりました。

 このイスラームの特徴は、これが単に宗教のみならず、政治・軍事・法的規範・社会的規範など一切を規制していることです。いまこれを厳格な意味で実践している国は、イランとサウジアラビアの2ケ国です。イランではその憲法で、イスラーム法学者による統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)を明記しており、また、サウジアラビアでは、宗教的権威の最高指導者でもある国王が政治上の最高権威者として国を統治しています。

 個人的にも、共同体(国)としても、イスラームが大きな影響力を持っていることを私は否定しません。オマーンのカブース王は、王位に就く前に父君によって幽閉された6年間にもっぱら歴史とイスラームの本を読み、「伝統とイスラーム」というオマーンのアイデンテイを確信したといいます。それが国造りの基本となりました。欧米から教えられる一方であったアラビア諸国が石油の富によって欧米と対等の発言権を得た時に、自分たちのアイデンテイテイーをイスラームに見出したのは十分にうなずけることです。

 しかし、私にはどうしてもイスラーム世界を「イスラーム」だけでみると、間違うのではないかと思っています。アラビア半島の人々の生活には、「イスラーム」のほかに、「ベドウイン」、「石油」が大きな影響力を持っています。                                                                                                                                                  

 人々は部族を意識し、ベドウインの伝統・価値観に従って生活をしています。アラブ人の価値は、ホスピタリテイ、気前のよさ、勇気、力、名誉、自尊心(=威厳・品位)、独立と平等、正義、忠誠心、忍耐、ユーモアなどと私は考えていますが、これらは何千年に渡るベドウインの生活の中から生まれたもので、イスラーム以前からあるものです。

 その性癖も、イスラームがいくらいっても変わるものではありません。「自己主張が強い」、「決して自分が悪いとはいわない」、「謝らない」、「金に固執する」、「体面を気にする」、「自分を大物に見せる」などなどは、後述するように、国際的な場面でもよく見られます。

 また、石油による近代化によって、人々の生活や意識が大きく変貌しつつあります。社会的にも、文化的にも、他国との交流は広がっています。70年代以降湾岸諸国にも多数の大学が出来ましたが、多くの学生が欧米の大学で学び、世界の多様な価値観にも触れるようになっています。ムスリムのすべてが一日5回のお祈りを捧げ、伝統的な教えを守っている訳でもありません。湾岸でも、スカートを履き、ベールを被らない女性すら見かけることがあるのです。

 また、イスラーム、イスラームと言っていて、政治・国防・外交や経済問題を処理して行くことは出来ません。湾岸諸国の軍備は、欧米に頼らざるを得ません。経済もグローバル時代、イスラム対○○で対応できるような時代ではありません。石油についても、技術・資金・市場のいずれをとっても、欧米との協調なしには進められないのです。石油市場についても、サウジアラビアは対米輸出国第一位の地位の確保に躍起です。

 国には各々固有の事情があり、個々の判断で動かねばなりません。同じと見られている湾岸諸国でも、その立場には相違があります。ましてや、同じイスラームの国、同じアラブの国でも、同じ政策をとることは来ません。現に、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、アフガニスタン内戦などではイスラーム同士が戦いました。これらを、イスラームだけでどう説明できるのでしょうか。

 イスラームと伝統というアイデンテイテイーを確認したアラビア諸国が、「石油」を通じて知った近代化とうまく折合いをつけながら進んでいるというのが現状ではないかと私は思うのです。

 こういう観点から、私はイスラームがすべてで、「イスラームが分からなければ、世界が見えない」という言い方には賛成できないのです。

 

 

 

 U.パレスチナ問題

  ここで、イスラーム対ユダヤ教の問題として取り上げられているパレスチナ問題についても触れてみたい。

1.パレスチナ問題は宗教や民族問題ではない。

 第一に私が申し上げたいのは、この問題は宗教・民族問題ではないということです。イスラームとユダヤ教は兄弟宗教で、イスラームではユダヤ・キリスト教徒は同じ「啓典の民」として取り扱われていることは既に述べた通りで、歴史的にも、パレスチナ人とユダヤ人は、パレスチナの地で平和裡に共存してきたのです。また、ユダヤ人もパレスチナ人も同じセム族で同じ民族なのです。

2.また、2000年来の問題でもありません。最近起った政治問題なのです。   

 この問題が起ったのは、西欧の2枚舌外交の結果としてユダヤ人がこの地に移住を開  始してからです。1914年の第1次世界大戦当時、イギリスは「反乱を起こすことを条件にアラブ諸国の独立を承認する」書簡(フセイン・マクマホン書簡)をアラブ側と交換しました。1916年に、イギリスとフランスは「第1次大戦後はオスマン帝国の支配地を分け合う」という密約(サククス・ピコ協定)を結び、一方で1917年、イギリスはユダヤ人グループに「パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホームを設立することを支持する」という書簡(バルフォア宣言)を送りました。

 このバルフォア宣言によって、ユダヤ人がパレスチナに向いはじめたのでした。その方法は土地買い入れによったのですが、これがパレスナ問題の発端です。言われているよう

な2000年来の問題ではありません。第2次世界大戦前までにユダヤ人が所有して  いた土地は、まだ5.7%ぐらいでした。

それが、第2次世界大戦後、パレスチナ問題はナチス・ドイツによるホロコーストによ

って、拡大しました。つまりこの悲劇の民の国を認めようという国際世論が高まり、ユダヤ人移住者が急激に増え始めたのですが、その方法は同じく、土地の買い上げによってでした。1947年国連総会でパレスチナ分割決議が採択された時の、パレスチナでのユダヤ人の土地は10%ぐらいまで拡大していたといわれています。

 1947年に国連総会が「56%がユダヤ国家、43%がアラブ国家、残りの1%に当る聖地エルサレムは国際管理地区にする」というパレスチナ分割案を採択しました。これに怒ったアラブ連合軍が攻撃を開始して始まった1948年の第1次中東戦争以来、イスラエルとアラブ軍は4度砲火を交えることになりましたが、パレスチナ問題は現在も未解どころか、テロと報復の応酬で出口の見えない状態になっているのは、みなさまご存知の通りです。

 以上で分かるように、パレスチナ問題はイスラーム対ユダヤ教というような2000年  来の問題ではなく、あくまでも政治問題なのです。

ただ、1987年のインテファーダ以来、ハマスやパレスチナ・イスラーム・ジハードなどの台頭でイスラームが深く関ってきているのです。

  1. パレスチナに同情的な意見が多い。違うのではないか。

 日本にはパレスチナに同情的な姿勢をとる人が多く、ジャーナリズムにもこの傾向  が強い。この春NHKのテレビ解説者にこの点を指摘する機会がありましたが、答えは「人権という立場でスクリーンすると、どうしてもそうなる」というものでした。

 この点で私の見方は違います。次に申し上げたいのは、そのことです。

 まず、第一にイスラエルに国連安保理決議を守れとよくパレスチナ側はいうが、そもそも1948年の国連決議を拒否したのは誰か。それどころか、戦争をしかけたのは誰か。アラブ側です。そして敗れました。戦争に負けたのに土地を返せというのは聞いたことがありません。勝ったイスラエルは条件付ですが、土地を返そうとさえ言っているのです。

 ところが、ハマスなどは、アラブ側が金で土地を売っておきながら、イスラエルの存在を認めないと言っている。共存を認めないという議論には賛成出来ないし、金を貰っておいて「帰れ」は、ないだろうというのが私の論点です。

 かって、エクセター大学アラビア湾岸研究所にいる時に、パレスチナの学生たちと、同様な論争をしたことがあります。「しかも、君たちが好きなロシアは国際法を破って日本の北方四島を占領した。日本人はその理不尽に耐え、一生懸命働いて今日の経済発展を遂げた。君たちは自分で戦争をしかけておいて負けたのに、土地を返せといっている。石など投げる暇があったら、国造りにエネルギーを注いだらどうか」と付け加えたのでした。彼等は憤慨し翌日研究室にまでも押し駆けてきたが、私も1歩も譲らず、なんとか納得してくれました。

 このように、「パレスチナ側は、一方的な主張のみをするな」というのが、私の基本的な立場なのです。アラブ人と付き合ってきた私には、アラブ人の自己主張のみをする態度には耐え難いものがあります。難民問題にしても然り。第一次中東戦争以来、パレスチナ難民のみならず、イスラエル難民も多く発生している。この人たちは、土地や財産を没収され無一文でイスラエルに強制送還されている。こういう事も報道されて然るべきなのです。

 私はベイルート駐在時代に、レバノンの難民キャンプを訪れた事がありました。その困窮ぶりには感じるものがありました。しかし、この難民部落はアラファトが金を集めるのに格好の口実となっている、また、その金が武器購入に回っていると直感しました。いまも、集めた金が武器の購入や自爆テロの煽動に使われている筈です。困窮ぶりは、支配者たちの都合で維持されている面もあるのです。パレスチナ支援と称して日本政府は国民の税金を支出していますが、こういう無駄遣いには,怒りを禁じえないものがあります。

4.中東和平には、共存の基本原則が゙大事

 中東和平の解決には、「共存」の基本原則の合意なしには達成されないと思います。その合意が一旦はオスロ合意で出来たのに、2000年9月にシャロンが神殿の丘を訪問して以来崩れてしまったのは残念なことでした。

 「イスラームの土地を占領しているイスラエルとの和平は容認できない」というハマスのような主張なら、徹底的に殺し合う以外に道はありません。この原則が崩れれば、すべてが「元の木阿弥」どころか悲惨な状態になることは、最近の情勢が明確に示しています。

 その上、イスラームの宗教者が「聖戦」や「殉死」を煽ってはいけません。大体イスラームが禁止している自殺を「殉死」だと言って認めているなどは勝手な理屈だと私は考えています。「イスラーム」、「イスラーム」と「あの世の幸せ」のことばかりに重点をおかせてはならないし、もっともっと「この世の幸せ」を知らせる必要がある。この点で、経済大国となった日本、宗教に寛容な日本の出番が大いにあると考えています。

 イスラーム第4の聖地とされるダマスカスのウマイアモスクはスンニ派やシーア派の聖地のみならず、キリスト教の聖地でもあります。2000年に私が久しぶりに訪ねた時には、スンニ派の人もシーア派の人も、とくにイランからの巡礼団が大勢、それにキリスト教の人も訪れてきていました。こういうことが、かってはエルサレムでも行われていたのです。この状況を早急に再現する必要があると思います。

5.パレスチナの人々の生活を豊かにすることが重要。

 理由はともあれ、パレスチナの人々が悲惨な状態にあることは間違いありません。日常の生活が砲火に曝されています。私もその真っ只中で経験したベイルート内戦のことを思い出しています。水や電気の供給もままならないところで、多くの人が職もなく食べる物もなく日々の生活を送っているのです。その貧困と絶望的な生活の中から、石投げやイスラームを頼りに自爆テロが生まれるのも理解できないではありません。それでも、そこからは何も建設的なものは生まれません。まず争いを止めて平和を獲得するのが第一、その上で生活を安定させることが肝要です。乱暴な言い方ですが、生活がよくなれば、誰がテロや自爆に走るでしょうか。イスラームに過度に依存することもなくなるでしょう。

 この面では、戦後の国民総乞食の状態から、その勤勉さで世界第2位の経済大国になった日本のノウハウが大きな力を発揮すると私は確信しております。

6.アラブ人の日本人感と中東問題での日本の役割

 ちょと横道にそれますが、アラブは基本的に親日的です。とくに日本人に対しては好感を抱いています。最初私がアラブと付き合い始めた頃は、欧米人には畏怖の念を、日本人に対してはすくなくとも自分たちと同等という感じではなかったでしょうか。それが、日本が世界第2の経済大国となったことで、日本人にも尊敬の眼差しが向けられる様になったかと思います。欧米人に対しての評価が落ち、とくにアメリカに対しては、嫌米、反米感情が盛り上がってきているようです。

 「日本はロシアに勝った」、「アメリカとも勇敢に戦った」、「そして世界の経済大国になった。もう少し、アメリカにもアラブ寄りのことを言ってくれないかな」という不満もあるものの、中東は日本と良い関係にあります。その上、日本は宗教に寛容、この世での生活を幸せにする経済面、とくに先方が求める工業化の面では、世界のどこの国よりも貢献出来ます。

 パレスチナ問題をも含めて、もう少し日本からの発信があってもよいのではないかと私は考えております。

7.パレスチナ問題は湾岸諸国の国内不満の捌け口?

 私が目を通している湾岸諸国の新聞のトップ記事は、最近はさすがにイラク問題が浮上してきましたが、総じて「パレスチナ問題」が多く、それだけ関心が深いのです。それに数年前までは見られなかったことですが、湾岸でもパレスチナ支援のデモが行われるようになりました。

 昨年は、サウジアラビアも独自の和平提案を行い、この問題解決への主要メンバーなっています。サウジアラビアはパレスチナ問題には歴史的な関りを持っていますし、またその政治力からして、解決に向けて努力する姿勢は評価すべきでしょう。ただ、国内で問題を抱える国にとっては、パレスチナ問題が解決しない方が国内の目を外に向けさせるというメリットも、結果的にはあるやにも思えます。

 この点は、ビン・ラデインが捕まらない方が結果的にアメリアにとって都合がよいというのにも似ているように思えます。

 また、アラファトにとって、難民部落が金を集めるのに格好の口実となっていたのにも似ているかもしれません。

V.イラク問題

  1. 湾岸戦争とイスラーム

 1990年8月2日未明、イラクは突如クウェートに侵攻しました。当時イラクはイランとの戦争で900億ドルの負債を抱え、経済が危機的な状態にあった。ここで目を付けたのが、クウェートの石油であったといわれています。イラクには、アラビア湾への出口確保も魅力的でした。

 開戦にいたるまでのクウェートとのやりとりなどはいかにもアラブ人の本性が出ていて興味深いのですが、それはさておき、国連決議に基づき1991年1月に湾岸戦争が始まりました。

 イラクは「イスラエルが国連決議に反してパレスチナを占領し続けている。イラクだけがなぜ撤退しなければならないのか」と主張し、またスカッド・ミサイルをイスラエルに打ち込み、なんとかこの戦争をアラブ・イスラーム諸国対イスラエル・アメリアの図式に持ち込もうとしました。

 PLOやイエメンはイラク支援に回りましたが、他国はこれに乗りませんでした。とくにサウジアラビアはイラクを非難し、多国籍軍に基地を提供し、自らもこれに加わりました。オサマ・ビン・ラデインはこれに怒り、やがて自国から追放され、アル・カイダ結成へと進んだのでした。

 私が初めてバグダッドを訪ねたのは、1974年夏のことでした。バグダッド空港に着くや否や英字新聞を取り上げられて、とても不愉快な入国でした。ホテルのテレビでその時初めてフセインを見ましたが、まだ副大統領の彼は「いやに態度が大きい。うさんくさいヤツ」という印象でした。私は、この印象は正しかったといまでも思っていますが、そのフセインは、国際社会の2重基準の矛盾をつき、またまったくの政治・経済問題にイスラームをからませたのです。「利用できるものはなんでも利用する」というアラブ人の本性が出ていると私には思えます。それが、「イラクはイスラームの教義を広めるべく神に選ばれたのだ」、さらに「私はムハンマドの血を引く人間」などと言い出したのですから、呆れました。世俗主義の社会主義者が何をいうかという感じでした。

 これを支持する動きはイエメン、PLOだけではなくヨルダン、マグレブ諸国、東南アジアなどの民衆の間でも起こりました。別面でいえば、イスラームはそれだけ影響力があり、またアメリアに対する反感が強いといういうことでしょうか。

 私には、イスラームが政治に利用されているとしかみえません。

2.悪の枢軸とイラク攻撃

 今年の一般教書でブッシュ米大統領が、反テロ戦争第二段階の敵として、大量破壊兵器を開発し、テロを支援しているイラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指ししました。

最近イランはアル・カイダ兵士の扱いなどで協力的なところを見せ、北朝鮮も対話路線に向っているように見え、その効果があったかなとも感じております。

 一方、アメリカは上記2ケ国への軟化姿勢とは別に、イラクに対しては相変わらず強硬姿勢を変えず、軍事作戦の可能性が高まっています。欧米もアラブ諸国も反対しているというのに、世論調査でも半数のアメリカ国民がこれを支持しているようです。

 問題はアメリカが本当に今後軍事攻撃に踏み切るかどうかどうかです。いまはイラク攻撃は既定路線で、その時期がいつかに問題が移っているようにも見えます。最終的には、イラクの出方、今秋の中間選挙、国内世論の動向、さらには国連決議や国際世論の動向によると思われるが、一国主義化を強くしているアメリカのこと、その行方には目が離せません。

なお,アメリカのこういう態度については、表面的には核開発阻止やテロ対策といいながら、本当の狙いは、ブッシュの再選と景気浮揚などの国内事情のほか、中央アジアでの石油利権やサウジアラビアへの不信などからのこの地における親アメリカ政権の樹立の必要性などを指摘する声もあります。よく検証する必要があります。

3.イラクの対応

 国連の大量破壊兵器査察を行う委員会の委員長をバグダッドに招聘するとか軟化姿勢を示しているが、フセインはテレビを通じて「邪悪な軍隊は、自ら棺おけをかついだまま不名誉な敗北の中で死ぬことになろう」とその対決姿勢を強調している(8/9)。

 この言い様は「アメリカ人を地の海に泳がせてやる」という湾岸戦争時のものに似て、アラブ人の本性が見えるのですが、戦略としてパレスチアン問題とリンクして、またアラブ・イスラーム対ユダヤ・アメリカ対立を訴えるのでしょうか。最近無条件で国連査察受け入れを表明しましたが、その行方にも眼が離せません。