日本に一番近いアラブの国ーまえがき
私がオマーンを初めて訪れたのは1974年4月下旬のことであった。東京からホンコン、バハレーンを経由しての長旅、たしかバハレーンに1泊した記憶があるので2日がかりであったと思う。当時、石油会社に勤務していた私は、オマーンでの製油所建設の調査のために訪れたのだが、オマーンは日本にはまだなじみの薄い国だった。
イギリスで教育を受けたカブ−ス皇太子が、1970年7月に宮廷クーデターで父親のサイード国王に代わって即位した。私が訪ねたのは、それまで38年間の鎖国を解いて、外国に対して注意深く門戸を開きはじめたばかりであった。国内的にも、南部のドファール地方では60年代のなかばからの反乱がまだ続いており、国の先行きにはまだ不透明感が残っていた。
当時、外国人の宿泊できるホテルは現アル・ファラジュ・ホテルの旧館のみであったが、われわれ一行が着くと、予約があったにもかかわらず、満員のため他のホテルに移るようにいわれた。世話人の開発省の役人に案内され、真夜中に星を仰ぎながら岩山を越えて、外国人は通常泊まらない小さなホテルに移った。いまも忘れられない光景である。
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私が中東とかかわるようになったのは、日本で「中東元年」ともいわれる1973年からである。当時40歳そこそこの私は、はずかしながら、飛行機に乗ったこともなければ、ましてや外国など行ったこともなかった。多少英語に縁のあった大学を出ていたが、会社に入ってからは国内の仕事が多く、機内の英語のアナウンスの半分も聞き取れないありさまだった。同年3月、イランとの合弁輸出製油所建設プロジェクトのためにテヘランに長期出張、これが私が中東とかかわった最初である。
その年の10月の第1次石油危機勃発後、日本の石油会社や商社はいっせいに、当時の中東の中心地ベイルートに進出した。そうしたなかで私も1974年4月からベイルートをベースに、石油を求めて中東の各産油国を駆け回ることとなった。石油会社の中東事務所長として、1975年1月と7月に、日本で最初のクウエ
ートとの液化ガスと原油のDD契約(産油国政府からの直接購入契約。それまで日本は、いわゆる欧米のメジャー石油会社経由の購入のみであった)の締結にかかわったことは、幸せであった。ベイルートをベースに、出張するところはすべて産油国。つまり、イラン、イラク、クウエ
ート、バハレーン、サウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦(UAE)、エジプト、リビアなどであった。当時のオマーンは62年に石油が発見され67年から石油の輸出が始まっていた。しかし、その生産量は約30万バーレル/日と少なく、また国の先行きの不透明感とあいまって、その後しばらくは訪れることもなかった。
私が、2回目にオマーンを訪れたのは85年4月。石油会社を依願退職し、隣国のUAEでの事業開発を図る小さな会社に転職していた私は、オマーンでのビジネス・チャンス発掘のために、アブダビ支店長とともに訪れたのであった。当時のマスカットは町中が工事現場という感じ。町中に白い砂ぼこりが立ち、トラックが走り回っていた。その年の暮れに、マスカットで初めてのGCC(湾岸協力会議)サミットが開かれることになっていた。それに間に合わせるべく建設中のアル・ブスタン・パレス・ホテルの姿も、まだ脳裏に焼きついている。コンクリートがむき出しになったまま、谷間にひっそりと静まりかえっていた。
オマーンでの事業展開を見送って、私は引き続きUAEでの仕事を東京で統括していた。その後、3度オマーンに行き、しかも住むことになろうとは思いもしなかった。定年後もう1度中東の現場に戻りたいと願っていた私は、退職後にJICA専門家として、オマーン商工省で働くこととなった。マスカットに赴任したのは、1992年1月9日のことであった。
朝10時30分発のタイ航空で成田を飛びたって、マスカットに着いたのが午後11時。迎えの車でアル・ファラジュ・ホテル(新館)まで高速道路を走る。オレンジ色の街灯に彩られ、シンガポールとみまがうばかりの清潔さであった。やや淋しい感じもした。翌日ホテルの六階のベランダからルイの町を見わたした。青い空と、岩肌をむき出しにした異様な形の山なみを背景に、2階建ての住宅がひしめき、その先に高層ビルが立ちならんでいた。私が最初にオマーンを訪れた時には、ルイの町は大半が航空機の滑走路であった。たいへんな変わりようである。
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その後、3年間妻と一緒にマスカットに住んだ。オマーンについての予備知識がないわけはなかった。1924年に地理学者の志賀重昂がこの地を訪れた。その縁で現カブ−ス国王の祖父にあたるタイムール国王が退位後神戸に居住し日本女性と結婚、その間にできたブサイナ姫がオマーン王宮内でいまも健在である。日本の潜水艦が第2次世界大戦の時にマスカット港を砲撃したこと。70年に即位した名君カブ−ス国王の指導の下に、奇跡ともいわれる発展をとげているーこうしたことは知っていた。また、石油についても、オマーンは日本にとって量的には五番目の石油供給国であり、なによりも百隻を超えるタンカーが毎日往復しているホルムズ海峡を守っている国であることなども承知の上でて赴任した。
しかし、住んでみたオマーンは思ってもみないよい国であった。驚きでさえあった。オマーンは、「清潔な国」「人柄のよい国」「インターナショナルな国」「女性が活躍している国」「日本とのつながりに熱心な国」「景色のよい国」「歴史のある国」「香水・花を愛する国」「環境・文化の保存に熱心な国」であり、なによりも「名君をいただく国」であった。この中でも、オマーンの最高のメリットは、オマーン人の人柄のよさだった。
オマーンに住んだ、または1度オマーンを訪ねた人はみな好感を持ってオマーンを去っていく。こんな国は珍しい。小さい国だが、よい国なのである。日本は経済万能主義で、ややもすれば石油だけで湾岸諸国をみるきらいがある。しかし、あまりにも一面的な見方である。オマーンについても少し掘り下げてみると、政治面では「国王のミート・ザ・ピープル行脚」、諮問議会、政治的リーダーシップ、外交面では平和主義の外交、経済的にも石油供給のみではなく今後の発展の可能性、文化的な活動、社会生活、男女や家族のあり方、価値観などで、私たち日本人もいろいろ教えられるものが多い。
私は在住中、オマーンの人たちから日本への熱い思いをきくたびに、「オマーンは日本に1番近いアラブの国」だが、「日本に1番知られていない国」であると残念に思った。そして、こういうよい国があることを、なんとか日本の方がたに知ってもらいたいと願うようになった。
オマーンを知っていただくのにどういう形がよいのかわからず、私なりの方法として、94年の1年間、私が見聞したオマーンの出来事を忠実に追い、それに私の体験を書き加えてみた。つまり、私と1緒にオマーンの1年間を体験してもらうのはどうかと考えたのである。この本が「日本に一番近いアラブの国」オマーンを知る上での一助となれば、望外の幸せである。
また、折りをみて書きためた「コラム」は、息抜きに読んでいただければ幸いである。
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本書は基本的には、オマーンで発行されている英字紙「
Oman Daily Observer」をベースとしている。それ以外は、オマーン情報省発刊の『オマーン1994年』(オマーン広報センターから邦訳あり)、オマーン開発省発刊の「Yearly Statistical Book」、オマーン王立警察発刊の「Foreign Trade Statistics 」、在オマーン日本大使館の各種パンフレットなどを参考とした。