オマーン見聞録
遠藤 晴男 著
平成21(2009)年
展望社
オマーン見聞録−目次
まえがき
第一章 オマーンという国
1.国土
多様性に富む国土/オマーンは地質学者の楽園
2.気候
半分地獄、半分天国/サイクロン「ゴヌー」と雪景色
3.住民
70%が自国民、4割近くが15歳未満/民族構成
4.イバード派
イバード派が主流/イバード派の2大特徴
5.オマーン小史
マガンと幸福のアラビア/アズド族の移入/イスラム入信/イマームの選出/
ソハールの繁栄/ポルトガルの占領/ポルトガル放逐/アラビア最古の王朝、
ブーサイド朝/サイード大王/サイード大王/オマーン分裂と衰退
第二章 オマーン・ルネサンス
カブース国王即位/近代的国家建設への道/ミート・ザ・ピープル/民主化への歩
み/憲法制定/経済発展/女性の社会進出/カブース国王と小泉首相
第三章 オマーンと東アジア
私とシルクロード/東西交流の始まり/張騫と班超/東西交流、海の道//オマーン人の海上活動/唐王朝と大食国(アラブ)の交流/ダウ船ソハール号
第四章 日本人のアラブ発見
最初に日本に来た西アジア人/西アジアに行った日本人/最初にアラブ人を見た日
本人/最初に日本に住んだアラブ人/ポルトガル船の来航とアラブ/最初にアラブの地を訪れた日本人/江戸時代のアラブ情報/オランダの献上アラブ産品/幕末とアラブ
第五章 オマーンと日本との交流−ヒト
吉田正春使節団/古川宣誉/伊東祐享/吉田正春/スルタン・トルキー・ビン・サイードの治世/マスカットのいま/福島安正/家永豊吉/スルタン・ファイサル・ビン・トルキーの治世
第六章 志賀重昂とタイムール国王
志賀重昂/志賀、オマーンへ/スルタン・タイムール・ビン・ファイサルの治世
第七章 タイムール国王の滞日とブサイナ王女
タイムール国王の神戸在住/サイード国王の神戸訪問/ブサイナ王女の来日/ブサイナ王女発見のいきさつ/清子アルサイドの墓を訪問/スルタン・サイード・ビン・タイムールの治世/日本海軍潜水艦のマスカット湾作戦
第八章 オマーンと日本との交流−モノ
文献から見る明治期の交易/わが国の統計から見る明治期の交易/外国の統計から見る明治期の交易/日本と中東との交易/第1次世界大戦から第2次世界大戦まで/大戦中/戦後から1969年まで/オマーンの石油開発/ファフード油田への旅
第九章 オマーンと日本との交流の始まり−文化
1.乳香
乳香とクリスマス/乳香とは/乳香の歴史/乳香のわが国への伝来/富山の反魂丹
/兼康の乳香散/アラビア人と香り/乳香の木の日本移植
2.有平糖の伝来
有平糖とアルフェロア/アルフェロアはアラビア語から/有平糖はアラビア起源?
3.アハジージュ
アラブ馬/騎士道はアラブ起源?/国王から贈られたアハジージュ
第十章 1970年以降のオマーンと日本
1 ヒトの交流
戦後最初のオマーン訪問/国交樹立/友好協会の設立/政府要人の往來
/皇室外交
2 モノの交流
貿易/日本とオマーンの貿易のいま/日本企業のアラビア湾岸への進出/オマーンへの日本企業の進出
3 文化交流
日本文化の紹介/青年の船/ばらとさくら/平安日本庭園/スポーツ交流
/学術交流
第十一章 オマーンへのいざない
1.シャルキーヤ砂漠
2.ムサンダム半島とホルムズ海峡
3.乳香の郷
4. マスカットとニズワ
5.ソハールその他
第十二章 日本とオマーン
1.オマーンの魅力
平和な国/きれいな国/景色の良い国/歴史のある国/香水・花を愛する国/
インターナショナルな国/親日的な国/日本に似ているオマーン/オマーンは日本に一番近いアラブの国
2.21世紀のオマーンと日本
補章 アラビアと日本
1.ヒトの交流
山岡光太郎/田中逸平/横山正幸/山下太郎と杉本茂/国交樹立/友好協会/
国家元首の来日
2.モノの交流
明治期から第2次世界大戦まで/戦後の貿易/アラビアと日本の貿易のいま
3.文化の交流
ヒトコブラクダの渡来/コーヒーの伝来/デーツの輸入/野菜・果実など/イスラ
ムの伝来
主な参考文献
第一章 オマーンという国
1.国土
多様性に富む国土
オマーンはアラビア半島の東南端、北緯16度40分(フィリピンのマニラ北方200キロにあるダグパン市近辺)から26度20分(慶良間列島近辺)、東経51度50分から59度40分に位置し、北東部はオマーン海、南部はアラビア海に面し、北部と北西部でアラブ首長国連邦(UAE)と、西部でサウジアラビア、南西部でイエメンと国境を接している。
海岸線は、ムサンダム半島からオマーン湾に面して南東に伸びる約700キロと、そこからアラビア海に面して南西に伸びる約1000キロ、これに島嶕部を入れると延べ3165キロに及ぶ。
国土の面積は約30万9千500平方キロメートルで、日本の約4分の3の広さである。
国土の約3パーセントが平野部、約15パーセントが山岳地で、残りの約82パーセントが不毛の沙漠である。アラビア半島というと砂漠を想起するが、オマーンの国土は山岳地・平野・砂漠と 多様性に富んでいる。
山岳地は、オマーン湾に沿って西ハジャル山脈と東ハジャル山脈が走っており、南部のサラーラ周辺にカマル・カラ・サムハム山脈からなるドファール山系がある。西ハジャル山系始点のホルムズ海峡を臨むムサンダム半島はほとんどが1800メートルにも達する山岳地帯であり、それらが海からそそり立つ様は北欧のフィヨルドそのものである。この地は「アラビアのノルウェー」と呼ばれている。
なお、ムサンダムとUAE領内のマドハはオマーンの飛び地領となっている。
西ハジャル山脈には標高2500メートルを越える山々が連なる。最高峰はジャバル・アフダル(緑の山)山脈のジャバル・シャムス(太陽の山)で3017メートルの高さを誇る。アラビア半島では、イエメンのナビ・シュアイブ山(標高3760メートル)、サウジアラビアのジャバル・サウダ(標高3133メートル)などに次ぐ高さである。
首都マスカットから北には、海と山脈に囲まれた幅15キロから80キロ、長さ300キロ以上におよぶバティナ平野が広がる。オマーン海からの湿気が西ハジャル山脈にあたって雨を降らせ、ファラージュと呼ばれる独特の灌漑システムによる湧出水の利用と地下水を汲み上げる井戸水によって、農業が営まれている。南部のオマーン第2の都市サラーラ周辺の平野部にも多少の耕作地帯がある。
西部と南西部はサウジアラビア最大のルブ・アル・ハーリー砂漠に連なる砂漠が広がっている。マスカットの南にもシャルキーヤ砂漠がある。比較的小さな砂漠ではあるが、地質・地形・動植物などでさまざまな特色を持つ砂漠とされている。
オマーンは地質学者の楽園
オマーンの地形は、オマーン湾に沿って伸びるハジャル山脈とそれ以外の比較的平坦な岩石砂漠に大別される。ハジャル山脈は主としてオフィオライトのナップ(水平に近い面に沿って、大規模に側方移動した異地性岩塊)で構成されている。他方、比較的平坦な沙漠地帯は南部のドファール地方も含めてアラビア卓状地の安定した前カンブリア紀(古生代)の基盤岩類で構成され、これを白亜紀末から第三世紀の地層(およそ6500万年前以降の地層)が覆っている。
約2億年前から約1億8000年前にパンゲア大陸が北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に分裂したことで、その間にテチス海が誕生し、この中央海嶺では火山噴火や熱水活動とともに海洋地殻が生み出された。9500万年前になると、ゴンドワナ大陸から切り離されたアフリカ大陸や当時これと地続きだったアラビア半島やインド亜大陸を乗せたプレートが北上を始める。このプレートとテチス海の海洋プレートが衝突し、この海洋プレートがアラビア半島部分に乗り上げた。
これが岩石化したのが、オフィオライトである。海洋プレートは海底から4から7キロメートルまでの海洋地殻とその下のマントルから構成されている。これが陸上に乗り上げたことで、オマーンでは居ながらにして海洋プレートの上部をほぼ原形のまま観察することができるのである。
しかも、オマーンの地上に露出しているにオフィオライトは厚さ15キロにも及ぶ世界最大規模のものであり、世界中の地質学者の楽園となっている。わが国からも毎年のように大勢の研究者たちがオマーンを訪れている。
なお、ヒマラヤ山脈は、9500万年前にゴンドワナ大陸から切り離されたインド亜大陸(現在のインド半島)がユーラシア大陸と衝突してできたものである。
また、最近、オフィオライトを形成するかんらん岩が温室効果ガスの主成分である2酸化炭素ガスを吸収して地球温暖化の進行を抑える効果があることが研究者の間で言われている。2酸化炭素ガスがかんらん岩と結合して、方解石のような硬い鉱石(方解石の細かな結晶が、再結晶して大きくなったものが大理石である)を形成するというのである。興味深い説である。
2.気候
半分地獄、半分天国
オマーンの気候は地方によって異なる。
マスカットおよび北のバティナ海岸地方の気候は、夏は高温多湿であり、雨はほとんど降らない。冬季に少量降るだけである。4月から10月までが夏季で、とくに5月から8月は最高気温が45度前後に、最低気温も30度近くまで上がる。車のボンネットで卵焼きが出来るほどの暑さである。
11月になると温度が下がり始め、とくに12月から2月の気温は最高27度前後から最低14度程度に推移し、毎日が晴れで日本の秋のような快適な気候が続く。筆者が「アラビアの気候は、半分天国、半分地獄」というゆえんである。
内陸部の気候は、これより夏の気温は高目で、冬の気温は低目、湿度も低い。なお、ジャバル・アフダル山脈では、冬季気温は零度以下に下がる。また8月から1月までは他よ
り降雨も多い。
南部ドファール地方の気温は、年間を通じて最高が30度台である。暑いイメージのア
ラビアでは考えられない気温である。6月から9月には強い季節風(モンスーン)でインド
洋深部の冷たい水が巻き上げられ、それが空気を冷やすからである。また、この時期には
毎日細かい雨が降り、山は一面の緑となる。アラビアでの貴重な避暑地として、国の内外
から大勢の観光客が訪れる。湿度は年間を通じてマスカット並に高い。
サイクロン「ゴヌー」と雪景色
2007年6月1日に東アラビア海で発生したサイクロン「ゴヌー」が5日にオマーン東南部を襲い、豪雨、高波、暴風によって、マスカットを初め周辺地域に多大の損害をもたらした。死者数十名、被災者2万人超、被害額は4千億円という大惨事となった。
サイクロンが上陸したのは30年ぶり、これほど強いサイクロンに襲われたのは百年ぶりのことだと言われている。
2008年2月4日には、ジャバル・アハダルで気温がマイナス4度まで下がり、一面雪に覆われ、その写真が現地の新聞に載った。ここでは冬季にはみぞれも雪も降るとは聞いてはいたが、アラビアでの雪景色の写真は珍しい。
隣のアブダビの砂漠でも数年前に雪が降った。2007年6月には16頭のらくだが落雷で死んだ。場所はアブダビ首長国西部の砂丘の上。持ち主の男性が近くで放牧をしていると、突然空が暗くなり、雨が降り出した。驚いた何頭かのらくだが群れを離れて砂丘に登ってきたら、稲妻が光り、雷が落ちて、16頭が死んだという。聞いたこともない出来事であった。
そういえば、アラビアには最近雲がよく出るようになっている。2007年のマスカットの毎日の気温を調べたら、最高温度が42度で、50度近い温度は皆無である。
一時的なのか、地球温暖化の影響なのか、緑が増え都市化している人工的な要因によるのか、上述の異常気象を含め、アラビアの気候が変わってきているように思える。
3.住民
70%が自国民、4割近くが15歳未満
オマーンの人口は2774万人(2010年国勢調査)で、そのうちオマーン人が196万人、外国人が82万人で、外国人の割合は約30パーセントである。外国人が8割 を占める隣国のUAEなどとは趣が異なる。
また、オマーン人のうち、15歳未満の子供が占める割合は37.5パーセント (2006年推計値)であった。最近時では42.7%(2008年7月)という推定値もある。いまの日本の13.7%(2006年推計値)に比べると約3倍のシェアーを占める。
民族構成
国民の大部分はアラブ系であるが、歴史的・地理的な経緯により、非アラブ系の東アフリカ系、パキスタン系、インド系、イラン系オマーン人がいる。
東アフリカ系とは、1828年にオマーンの支配下に入ったザンジバルから、1964年に起こった革命によって追われ帰国したオマーン人たちで「ザンジバリー」と呼ばれている。
パキスタン系とは、パキスタン南部のバルチスタンやシンド州から3百年前に移住してきた人々の子孫で「バルーチ」と呼ばれている。全人口の約20%を占めている。
インド系とは、昔オマーンからインドに移住し、ここ3百年ぐらいの間に戻った人びとで「ラワーティア」と呼ばれている。多くは、マスカット市内のマトラ地区を拠点に手広く商売を営んでいる。
なお、アラビアには、セムにはカハタンとアドナンという2人の子孫がいて、前者を遠祖とする南族と後者を遠祖とする北族があるという伝承がある。
オマーンのアラブ系には、旧約聖書創世記に出てくる方舟で知られるノアの子のセムにはカハタンとアドナンという2人の子孫がいて、前者を遠祖とする南族と後者を遠祖とする北族があるという伝承がある。
オマーンのアラブ系には、紀元前2世紀ごろから現在のイエメンから移住しはじめた南族とその後にアラビア半島北から移住してきた北族の2つの流れがある。
4.イバード派
イバード派
オマーンの国教はイスラムと定められている(国家基本法、第一章第2条)。イスラムというと、2大流派のスンナ派とシーア派が思い浮かぶが、オマーンはいずれとも異なるイバード派である。
イバード派とはイスラム初期に多数派(後のスンナ派とシーア派)から分派したハワーリジュ派の流れを汲む派である。第4代カリフのアリとシリア知事のムアーウィアがカリフの座をかけて争った時に、アリが武力ではなく調停にゆだねたことを不満として、アリのもとを退去した者たちがいた。657年のことである。これが、ハワーリジュ(「退去した者」の意)派である。アリが善、ムアーウィアが悪なのに、どうして調停に応じるのかと反発したのである。
結局、アリは661年にハワーリジュ派の者によって暗殺されてしまう。アリの死によってムアーウィヤがカリフとなってウマイヤ朝を開くと、ハワーリジュ派はこれとも激しく対立したが、699年に戦いに敗れ、壊滅的な打撃を蒙った。
イバード派は、他宗派に対して排斥的な態度をとるハワーリジュ派から別れて、7世紀末にバスラで成立されたとされる。初期イスラム社会の実現を理想とし、教義的にはスンナ派の原形ともされ、2派は非常に近い関係にある。
創始者はニズワ近郊のフイルク(Firq)生まれのジャビル・イブン・ザイド・アルアズディである。ジャビルは、居住地バスラからメジナやメッカを数十回も訪れ、預言者ムハンマドの教友や妻アイシャにも会い、コーラン、伝承、イスラムの歴史、ムハンマドの私生活までも学び、当時バスラ随一のイスラム神学者といわれた人である。
イバード派の名前は、アブドラ・イブン・イバード・アッタミームの名前に由来する。アブドラはジャビルと師弟の関係にあったが、秘密裏に活動したイバード派にあって、その教義やハワーリジュ派への反対を声高に主張したことから、彼の名前がとられたようである。
8世紀半ばにウマイヤ朝の弾圧がきびしくなると、イバード派の人びとはバスラを離れ、ジャビルの生まれ故郷のニズワに移り、そこでイバード派イスラム政権を築いた。イバード派は、現在はオマーンを初め、東アフリカ沿岸部、リビアのトリポリ地方、アルジェリア南部、モロッコの1部に分布している。
オマーンでは、イバード派が主流派で50〜60%、スンナ派が30〜45%、シーア派が3〜5%を占めていると推定されている。
イバード派の2大特徴
イバード派の特徴は二つある。第1は、穏健かつ合理的な宗派であり、他宗派、他宗教に対して寛容であることである。最大の特徴は、特定の家系や階級の出の者に生まれながらのイマーム(イスラム共同体における政治と宗教指導者)継承権はない、それは民衆の選挙によるべきであるとの主張にある。血統によるイマームの選出を明確に否定する。この点は、指導者をクライシュ族出身に限定するスンナ派や、ムハンマドの娘婿の第4代カリフ、アリの子孫に限定するシーア派とは異なる。
その寛容性から、オマーンにはインド人居住者のためのヒンズー教寺院やキリスト教徒のための教会があることも付け加えておきたい。
マガンと幸福のアラビア
アラビア半島の東南端に位置するオマーンはアフリカ、ヨーロッパ、東アジアとの交易ルート上にあり、オマーン人は古くから外部世界と交わってきた。
オマーンの銅がダウ船で輸出されたことで、紀元前3千年ごろのシュメールではオマーンは「マガン(Magan)」の名で知られていた。
紀元前2千3百年の石版に「アッカドのサルゴン王がディルムン(Dilmun, 現在のバハレーン)とマガンからの船がいつも埠頭に接岸していることを誇った」と記録されている。
「マガン」とは、シュメール語で「海の民」という意味であり、紀元前2050年のシュメールの碑文はオマーンの船大工にも触れている。
一方、紀元前2350年ころに、乳香が南部のドファール地方から南メソポタミアに輸入された記録が確認されている。それ以前に香りとしての輸入記録があり、これに乳香が含まれているとすると、実際の乳香の輸入はさらに1000年以上遡れる。当時乳香はドファール地方からルブ・アル・ハーリー砂漠を横切っていまのカタール近くのゲラに運ばれ、そこから船でメソポタミアに運ばれていた。
紀元前10世紀ごろ、シバの女王がイスラエルのソロモン王を訪ねた時に乳香を持参したことも旧約聖書に記録されている。
その後ギリシャ、ローマ時代になると、神を祀る祭事以外にも乳香の需要が増加し、南アラビアはその輸出による富で大いに栄えた。当時、南部アラビアは「アラビアン・フェリックス(幸福のアラビア)」と呼ばれていた。
アズド族の移入
伝承では、現在のオマーンの主力部族であるアズド族がマリク・イブン・ファヒムに率いられて、イエメンからオマーンに移入したとされている。1世紀末のマリブ・ダムの崩壊や親族内のトラブルが原因とされる。
ファヒムはマスカット南のカルハート付近に上陸し、当時ソハール近郊に首都を構えてこの地を支配していたペルシャの代表に「定着する土地」を求めたが断わられ、騎馬隊のアズド軍と象を使うペルシャ軍がニズワ郊外で戦った。この時ファヒムが敵将を一撃で倒して勝負が決し、ペルシャ側が和平を申し出たという。
実際のアズド族の流入はこれより早いのだが、その後何世紀にもわたった。最初はカルハートや東南沿岸部のジャーランに定着したが、その後内陸部深くにも移入した。
6世紀前半にアラブ側とペルシャ側の合意が成立し、ペルシャ軍はソハールに撤退し、アラブ側が西部の山岳地帯、沙漠、その他をジュランダ朝の下で治めることとなった。
アズド族は南族に属する。オマーンの現王家はこの流れを汲む。
イスラム入信
オマーンにイスラムがもたらされたのは早く、ムハンマド存命中の630年のことである。預言者ムハンマドがメッカ近郊のヒラ山の洞穴で天啓を受けたのは40歳のころで610年といわれている。公然と伝道を始めたのが614年、迫害を受けて生地のメッカからメジナに移ったのがヒジュラ歴元年の622年のことである。したがって、オマーンの入信はかなり早い。使者がムハンマドの手紙を持ってくると、当時のジュランダ朝の統治者は直ちにイスラムに改宗した。
イスラム軍は正統カリフ朝初代カリフアブー・バクルのころにはアラビア半島を征服し、第2代カリフウマルのころから半島外にその版図を拡げたが、これに参加するために、多くのオマーン人が当時ペルシャ征服の拠点であったバスラに移りはじめた。このなかには、幼いジャビル・イブン・ザイド・アルアズディの手を引く一家の姿もあった。
637年には、オマーン軍は大国ペルシャ南部への陸海からの攻略に参加し、ササン朝(226−651年)の滅亡につながる決定的な勝利に貢献した。オマーン軍はさらにイラク、モロッコやアンダルシアなどの他地域の攻略にも参加した。
イスラム勢力の伸張に重要な役割を果したことで、やがてバスラに「オマーンのアズド族」グループが出現し、当時の知事の知遇も得て、665年から683年にわたって繁栄し、その後も絶大な力を振るった。
702年にアズド族の指導者が亡くなり、新しいイラク知事が着任すると情勢は一変した。
知事は「アズド族」に根深い不信感を持ち、これをきびしく弾圧した。そこでアズド族が出身地のオマーンに戻り、オマーンにイバード派が伝わったのである。
知事は手を緩めずに、さらにアズド族の避難所となったオマーンを攻撃する。形勢不利となった当時のジュランダ朝支配者は、結局東アフリカのザンジバルに逃れた。イスラムが東アフリカに最初に伝わったのはこの時である。
イマームの選出
その後、ウマイヤ朝のオマーン支配が緩み、アッバース王朝が成立した751年にオマーン内陸のニズワでイバード派の初代イマームが選出された。
この選出は、バスラでの試練を踏まえて、オマーンの地に真に理想的なムスリム国家を樹立しようという理想主義に根ざしたものであった。
イマームは、精神的支柱のみならず、時代によっては政治的、軍事的な指導者の役割を担ったが、このイマーム制度はその後1千年に亘って続くことになる。
ソハールの繁栄
9世紀にオマーンで北族系と南族系2派の抗争が始まり、前者の要請でアッバース朝のバーレーン知事が介入し、オマーンは恐怖政治の下におかれた。その間でもイマームの選出は続いた。
その後バーレーン知事が撤退し、9世紀から10世紀にアッバース朝カリフの力が衰退すると、古代から有名であったオマーンの海上活動が活発化し、ソハールが「世界の商業中心地」として繁栄した。オマーン人は湾岸とインド洋を支配し、その船がアフリカ、マダガスカル、極東などとの貿易に従事した。シンドバッドがソハール港から船出したといわれるのはこのころの話である。
ソハールは、10世紀末にバグダッドを占領してイラクを実質支配したブワイワ朝の侵略を受け、多くの船が壊され、多数の住民が殺され、衰退へと向った。その後もセルジュク・トルコやペルシャや内陸部のオマーン人の侵略が続き、14世初期には廃墟の村となった。
ポルトガルの占領
ヨーロッパの貿易路に革命を起すことになるヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ったのは1498年のことである。
ヴァスコ・ダ・ガマの水先案内を務めたのは有名なオマーン人船乗りのアハメッド・ビン・マジッドであり、皮肉なことにそれによってそれまのインド洋でのアラブ人の優位性を失われることになったといわれている。
ポルトガル国王からインド知事に任命されたアフォンソ・デ・アルブカークがカルハート、マスカットなどのオマーン沿岸に来航したのはそれより数年後の1507年のことである。彼の野望は紅海とペルシャ湾の2つの水路を押さえることで、湾岸貿易の拠点であるホルムズを占領し、そこに城を築いた。
マスカットには、1587年と1588年に築城したミラニ砦とジャラリ砦が現存している。
ポルトガルの放逐
1624年にイマームに選出されたヤアルブ朝始祖のナシール・イブン・ムルシッドはまず国内の統一に踏み出し、居城のルスタックを拠点にナハル、次いでサマイル、イズキ、さらには内陸部のニズワ、イブリ、アブダビとの国境にあるブレイミなどを統合した。
次に、ポルトガルが支配していた沿岸部のマスカットやマトラ、北部のソハールや南部のスールなどに目を向けたが、その解決は1649年の彼の死後に後を継いだ従兄弟のスルタン・イブン・セイフの手に委ねられた。スルタンは1650年にポルトガルに占領されていたマスカットを掌中に収め、ポルトガル人をインドや東アフリカに放逐し、さらにこれを追って、1698年には東アフリカのモンバサを手中に納めた。
彼は捕獲したポルトガル船で強大な海軍力を得、国は大いに繁栄した。今日、オマーンで名城とうたわれるニズワ、ジャブリン、ハズム城などはこの時代に築城されている。
この王朝は後半期になり後継者を巡る内粉が国内の南族と北族系の2大豪族を巻き込んで広がり、国は分裂状態になった。その時にイマームがペルシャに援軍を要請したことから、マスカットやマトラをペルシャに占領される羽目になった。
アラビア最古の王朝、ブーサイード朝
当時、ペルシャの攻撃に唯一耐えていたのが、ソハール城を守っていたブーサイード朝の始祖のアハメッド・イブン・スルタンであった。
彼は優れた勇気、旺盛な気力、進取の気性、寛容な人格者として知られていたが、その後ペルシャを駆逐したことで、イスラム教イバード派住民の支持を得て1744年(年次については諸説あり)にイマームに選出された。
アハメッドの治世は1783年まで約40年続いた。この間に反対勢力を抑えて国内を統一するとともに、対外的にもオマーンの勢力拡大を図った。1775年までにその海軍力は軍艦34隻を有するまでに膨れ上がり、バスラからのペルシャの放逐、インド西海岸の海賊の殲滅を果たした。平和時にはこれらの船を貿易に使い、主としてアフリカ東岸との交易を進めた。ヤアルバ朝がポルトガルを放逐して以来、アフリカ東海岸のキルワやザンジバルは当時、すでにオマーンの支配下にあった。
ブーサイード王朝の治世は現在のカブース国王に引き継がれており、ブーサイード朝はアラビア最古の王朝となっている。アラブ全体でも、モロッコ王室に匹敵する長さである。
「セイイッド」の誕生
アハメッド以降の海外との交易の進展でマスカットなどの海岸地方が栄え、オマーンでは内陸部に比べて海岸部の重要性が高まった。ブーサイード朝第三代国王となったハマッド・イブン・サイードは1784年に首都をルスタックからマスカットに移し、称号も従来のイマームではなく「セイイッド(Sayyid)」を使うようになった。これによって、統治から宗教色が薄れ、オマーンは世俗的な統治に移行した。
住民によるイマーム選出は、オマーンで主流のイバード派の伝統であった。これから離れることは、その統治の正当性が問われることになる。これが20世紀に入って内陸部に住むイバード派住民の反政府運動の基因となった。
サイード大王
「サイード大王」と称されるサイード・ビン・スルタンは始祖アハメッドの孫にあたり、ブーサイード朝の直系第三代目で第6代の統治者である。その治世は1804年から1856年までの半世紀以上に及び、この間オマーンはインド洋を英国と二分する海洋帝国として繁栄を謳歌した。
当時、英国はフランスとの競合や英国を苦しめ始めたラス・アル・ハイマのカシム族制圧のために、この地域で支配的な力を持つオマーンとの連合を望んでいた。一方、オマーンもラス・アル・ハイマとの勢力争いやワッハブ宗運動を奉じるサウジアラビアの侵略に苦しんでおり、英国の力を必要としていた。
サイードは、英国との間に構築した密接な関係を背景に、その勢力をインド洋やペルシャ湾、アフリカ東部に及ぼした。第4代の統治者の時に版図に加えたパキスタンのグワダル地方やザンジバルはもちろんのこと、湾岸でも、バーレーンが一時期オマーンの統治下に入り、ペルシャのバンダラアバスもオマーンの影響下に入った。
サイード大王はとりわけザンジバルが気に入り、ここをマスカットと並ぶ第2の首都とし、ザンジバルでの丁字(クローブ)の栽培および奴隷貿易などによって巨万の富を手に入れた。因みに、ザンジバルはいまでも世界の丁子生産の90パーセントを占めている。当時、オマーンの影響力はアフリカ東海岸のみならずコンゴにまでも及び、ブーサイード朝の繁栄は絶頂期を迎えた。
サイード大王の時代、オマーンは英国のビクトリア女王とも誼を通じ、1833年には米国と通商友好条約を締結、1840年にはアラブ諸国としては初めて米国に友好使節団を派遣した。使節団を乗せた商船「スルタナ号」は同年4月にニューヨークに到着し、アラブ世界で最初にアメリカを訪れた船となった。
オマーン分裂と衰退
サイード大王が1856年にマスカットからザンジバルに帰る船上で、62歳で急死すると、同行していた息子たちと異母兄弟であるマスカットにいた息子たちの間に後継者問題が起り、英国の仲介によってオマーンはザンジバルとマスカットに2分された。
富裕なザンジバルの分割、これに続くオマーンの国内政治の混乱、1862年の英国蒸気船就航によるオマーン船舶の競合性の喪失、1873年の奴隷貿易の廃止などによって、オマーンの海洋帝国としての勢力は短期間のうちに衰退してしまった。
その後の数十年間、オマーンは王家内の闘争と裏切りの歴史へと暗転することになる。
第二章 オマーン・ルネサンス
カブース国王即位
カブース現国王は、サイード・ビン・タイムール前国王とドファール山岳部族であるマアシャニ族族長シェイク・アフマドの娘モウザの長子として、1940年11月18日にサラーラで生まれた。前国王の唯一の嫡出男子であり、ブーサイード朝直系の第8代目、統治者としては第14 代目に当る。
サラーラで初等教育を受けた後、16歳の時に父王の意向で英国サフォーク州の私立学校に留学し、1960年に士官候補生としてサンドハースト王立士官学校に入学した。62年に卒業し英国陸軍スコットランド連隊付参謀として6ケ月間ドイツで作戦任務に就いてから英国ベッドフォード州議会で行政制度を研究し、64年にオマーンに戻った。
英国から米国経由で帰国の途中に日本にも立ち寄っている。ホテル・オークラに2泊されたという。
帰国後6年間、カブースはその親英的で西洋的な態度に危惧を抱いた父王によってサラーラで幽閉のような生活を強いられた。一軒の家を与えられ、イスラム法とオマーンの歴史を学ぶだけの日々であったという。
父王との接触も稀にしか許されず、たまに訪れる訪問客に「自分に責任ある地位を与えるよう」国王への助言を依頼したとも聞く。国王の拒絶的態度と圧政に苦しむ国民の姿を見て、カブースは「国王には退位してもらわなければならない」との結論に達し、その後の劇的な変化を惹き起こすこととなった。
1965年にサイード国王の保守的で専制的な統治への不満からサラーラやオマーン内陸部で反乱が起こった。1970年1月には国王支持であった英国のマスカット政務官の引退によって英国の態度がカブース寄りに変わり、国内的にもカブースへの協力のネットワークがサラーラやマスカットに拡がっていった。同年5月にはカブースは叔父ターリック殿下からの協力を取り付けた。そして、同年7月23日未明に宮廷クーデターが決行されたのである。このクーデターで負傷したサイード前国王は渋々ながら退位文書に署名し、英国空軍機で傷の手当のためにバーレーンに立ち寄った後に英国に向かった。
「私は、その時サウジアラビアのアルコバルで旅行代理店のマネジャーとして働いていた。そのニュースを聞いたのは、夜10時のBBC放送であった」「私たちがそのニュースを聞いたのは、タンザニア中央部のタボラで洋品店を営んでいた時でした」「私の家がマトラで小さな本屋をやっていた22年前の7月23日午後5時30分、店の客からそのことを知らされた」「その日は真夏の暑い日でした。午後マトラにあった英国の銀行でマシーンオペレーターとして働いている時にそのことを聞きました」「私はたまたまUAEから来ていた従兄弟からそのことを聞きました。私が英国のサザンプトンでOレベルの試験に挑んでいる時でした。子供ながら、事の重要性は分かりました」「その時、私はマスカットに住んでいた父母や兄弟と離れてザンジバルの高校で勉強中でしたが、そのことを聞いて国に帰らなければと決心しました」「それは夏休みの時だったと思います。私はまだ15歳、ドバイで勉強している時でした。家族が興奮しながら話していたのを覚えています」、「その時、私はタンザニアのダルエスサラーム工業学校の学生でした」「私はハンガリーの大学院で学んでいる時にそのことを聞きました」「その時、私は家族とバグダッドに住んでいました。私が女学校に通っている時でした」「私は当時13歳、仲間とサハムの農園で遊んでいる時にそのことを知りました」「私は東アフリカのブルンジにいる時に先生から聞きました」
以上は、1992年7月23日付けの「オマーン・オブザーバー」紙のルネサンス・デー記念特集に紹介された、一般のオマーン人の投書からの抜粋である。
「オマーン・オブザーバー」紙の記事はさらに続けている。
「われわれはいけにえに山羊を捧げ、200人ほどで音楽を奏でてこの出来事を祝った。1957年、私は13歳の時にオマーンからダウ船でマフート港にいき、そこからラクダの背に揺られながら2週間かかかってタブラに着いたが、1973年には飛行機で国に帰ることができた」「私はニュースを確かめるためにマトラの街に飛び出した。市庁舎の告知板にスルタン・カブース新統治の始まりが掲示され、人々は『スルタン・カブース万歳、万歳』と叫びながら、歌や踊りでその日を祝った」「夕方6時マトラの事務所を出ると人々が大声で楽しそうに押し合いながら歩いていた。これは本当のことか、夢ではないかと頬をつねりながらその日を祝った」「私は自分の中で希望が大きく膨らむのを感じた。これで外国ではできない普通の生活が送れると確信した」「クウェートで父からその話を聞いた私は、これでオマーンが暗黒の時代から抜け出せる、私はオマーン人なのだという誇りをもって友だちに電話をかけまくった」などなど。
その日のオマーン人の幸せな気分が手にとるように分かる。その日からオマーンの人々の新しい生活が始まったのである。無知と野蛮に別れを告げ、希望を持って努力を始めた日、ルネサンス・デーのスタートであった。
同26日に、カブース新国王は国内と世界に向かって次のように宣言した。
「私は前から父の統治能力のなさを募る不安と大いなる不満をもって注視してきた。いまや、私の身内と国軍は私に忠誠を誓った。旧国王は、もはや国を去った。私は早急な近代的政府の樹立に真っ先に取り組むことを約束する」と。
新国王はクーデターの数日後には初めてマスカットを訪れ、熱狂的に迎えた群集に対して、「国の将来と国民の幸福についてのビジョン」を次のように示した。
「国民よ!私は可及的速やかにあなた方の生活を明るい未来のある繁栄したものに一変させるよう務める。あなた方もこの目標に向かって自分の責務を果たして欲しい。わが国はかっては世界に知られたな強大な国であった。われわれが一致協力して努力すれば、あの輝かしい過去を復興し、世界で責任のある地位を占めることが出来よう」と。
ほぼ同時に叔父のターリク殿下も帰国して首相となり、8月8日には新内閣を発足させ、国名も「マスカット・オマーン」から「オマーン」に変更した。
近代的国家建設への道
即位した現カブース国王が直面したオマーンの緊急課題は、国内の政治・行政機構の整備と治安の維持もさることながら、まずは各国から国として認めてもらうことであった。それまでサイード前国王の下で鎖国を続けてきたオマーンにとって、それは死活問題であった。
新国王はアラブ連盟への加盟申請をした後で、海外から呼び戻して首相とした叔父ターリックとともにイランやサウジアラビア、アルジェでのアラブサミット、さらにはロンドン、パリ、ワシントンなどを精力的に訪問し、1971年9月29日にはアラブ連盟への加盟を、同10月7日には国連への加盟を果たした。その後もIMF(国際通貨基金)、IBRD(世界銀行)、WHO(世界保健機構)、UNESCO(国連教育科学文化機関)その他機関のメンバーとなった。2国間でも、英国、米国、アラブ諸国など各国の承認を得るのに続々と成功する。
2003年時点でオマーンは135ケ国と外交関係を結び、アラブ湾岸協力会議(GCC)など13の湾岸機構、アラブ連盟など35のアラブ機構、イスラム諸国会議機構など14のイスラム機構、国際連合など39の国際機構、その他5つの機構に加盟している。
その外交方針は、当初から内政不干渉、主権の相互尊重、平和的共存、善隣外交の4原則を貫いている。
個別の外交関係では、「基本的には親西側的な政策をとっている。とくに歴史的なつながりが深い英国との関係は緊密であり、米国には基地を提供している」「他のGCC諸国と異なり、1990年のイラクのクウェート侵攻後もイラクとの外交関係を維持し大使館を閉鎖しなかった」「基本的にはパレスチナ支持であるが、1996年にはイスラエルと相互に通商代表部を設置した(2000年以降に閉鎖)」「1990年にサウジアラビアと、1992年にはイエメンと、2002年にはアラブ首長国との国境を画定した」ことなどが特筆される。
カブースが最初に行った国内施策は、不条理な規則の廃止であった。曰く、マスカット大門の日没3時間後の閉門、夜間歩行者のオイルランプの携行義務、内陸部のマスカット間貨物移動への関税賦課やその他の個人的自由束縛などの廃止であった。
1960年代末には、前国王の圧制から逃れてバーレーンやクウェートなど湾岸だけでも5万人を超すオマーン人が住んでいたが、クーデター後にはこれらの海外に在住していたオマーン人が帰国した。また、前国王によって入国を拒否されていた、1964年の革命でザンジバルを追われたオマーン人たちをも、新国王は快く国に迎え入れた。
ドファールで反乱を起こした者にも恩赦を与えた。因みに、1965年から続いたドファール反乱には、英国軍の支援を得て軍事攻勢を強めるとともに、反政府軍の有力者たちの新政権への登用やドファール開発プログラムの優遇的な策定などの懐柔策によって、1975年には完全に鎮圧した。
また、国王は約束通りに近代的な政府組織の樹立にも早急に取り組んだ。叔父のターリック首相によって、8月8日には早くも教育、保健、内務、法務の4省が、その後まもなく外務、経済、通信および公共サービス、情報、社会労働、国土、イスラム、国王府の各省が設置された。
さらに、1974年の建国記念日に、内閣は国防、外務、情報、内務、教育、法務、国土、通信、建設、商工、農業、漁業、石油鉱物、保健、労働社会福祉、イスラム、国王府の各省に改編され、また2名の無任所大臣が任命された。現在の内閣の基礎は、この時に築かれたといってよかろう。
新政権が発足してまもなく、スルタンが全権を持つ古い専制的家長的なアラブの権力システムを志向するカブース国王と立憲君主制への漸次的な移行を指向する叔父ターリックとの意見の相違が表面化し、1971年12月にターリックは滞在先のドイツから辞表を提出して、政治の第一線から退いた。それ以来、国王が首相、外務大臣、国防大臣を兼任し、財務大臣、国軍最高司令官を兼任する現在の体制が出来上がった。
カブースが主導するこの体制の下で、オマーンはまず教育並びに保健施設の向上を目指す開発プログラムに着手し、道路・電気・通信などの近代的な社会基盤や電気・水・各種工業などの産業基盤を整備し、石油やガスなどの国内資源の開発を進めた。
国王自らが英国での体験を次のように語っている。「士官学校で学んだ価値観はその後の私の一部となっている。すなわち、規律というものは単に他人に課すだけではなく、優秀なチームリーダーたる者が自分に課すものである。また、真の奉仕者とは見返りを期待せずに与えることであり、大事なのは自分ではなくてチームである。そして、責任には義務が伴う」と。
この体験に則って、国王は自分の立場を「私はオマーンという国と国民のために働いている。国と国民が、私が即位した日から想像していた状況にあることを見るのは、私の喜びである。私は自分を権力者とは思わない。私は使命を担っている者と自分を思っている」と述べている。
カブース国王は、40年近くこの心構えで国の近代化に取り組んでいる。中東学者の福田安志は「英国で教育を受けたカブース国王は、王権の維持のために国民の支持が不可欠なことを理解しており、国王になった当初は、庶民に変装して町へ出て国民のカブース国王への評判をきくことがしばしばあった。・・・あるときカブースはタクシーの運転手に身をやつし町へ出て客を拾い、運転しながらその客に『カブース国王をどう思うか』と尋ねた」と書いている。
筆者がオマーンに赴任した1990年代初めには、「街でロングボデイの車を見かけたら、カブース国王かもしれないよ」とオマーン人からじかに聞いた。日本の皇太子殿下が訪オされた折に国王が事前チェックのためにお忍びでホテルを訪れられたことや日本企業がソハールの製油所を建設している時に国王が現場を突然視察されたと聞き、「福田の話は十分ありうる話」と納得している。
いまのオマーンの近代化はカブース国王の献身的な国民への奉仕と賢明な指導力によって築かれたのである。
アラビア半島で最も閉鎖的で後進国であったオマーンを、今日のような近代的な国家に変貌させた同国王は国父として国民の敬愛を一身に受け、アラブ世界だけではなく、世界的にも名君として尊敬を集めている。
カブース国王が即位した1970年には、学校が3校、病院も小さいものが一つ、舗装道路が10キロのみであったという。それが、いまや学校は1260校、舗装道路も20000キロを超え(2007年)、病院も整備されている。GDPも一人当たりで、16000ドルに達している(2006年)。オマーンの変貌振りは、目を見張るばかりである。
カブース即位後のオマーンの歩みは「オマーン・ルネサンス」と呼ばれ、いまもその歩みが続いている。以下に、さらに政治や経済の進展ぶりをトピック的に取り上げる。
ミート・ザ・ピープル
カブース国王が1976年以来取り続けている興味深い施策の一つが、毎年国中を巡幸するミート・ザ・ピープル・ツアーである。1ヶ月にも亘るこのような国王の旅は極めて特異であり、そのようなツアーを行なったアラブの国家元首は前UAE大統領のザイド・ビン・スルタン・アル・ナヒヤンアブダビ首長以外にはいない。
自らが車を運転し、砂漠でキャンプをしながら国内をくまなく訪れる国王には、大勢の大臣、顧問、それに高官たちが随行する。ツアーの哲学は、政府メンバーは一般人の質素な生活水準から遠く遊離してはならないというものだという。すべての国民には、この巡幸時に国王に面と向かって問題を提示し、苦情を申し立て、提言をする権利がある。その際、関係する大臣がその場に呼び出され、出来ることはすべて即決される。
私も、ミート・ザ・ピープルの行列に2回出くわして、国民の歓迎ぶりを肌で感じることができた。あちこちの町や村から集まってきた群衆が、国旗や国王の写真や歓迎のボードを掲げて国王が運転する車が通る道路脇を埋め尽くす。中には、先生に引率された学童の一行も立ち並ぶ。やがて、白い房のついた国王の車が目の前を通る。国旗が振られ、国王の写真や歓迎のボードが掲げられる。群衆の中には、道路に飛び出して行って車に花束を投げつける者もいる。たいへんな歓迎ぶりであった。ニズワからマスカットに帰る途中だった筆者もすっかり興奮してしまい、いつのまにか最前列に立っていたことが思い出される。
私がオマーン商工省に奉職中に、ミート・ザ・ピープル・ツアーで砂漠にキャンプ中の国王に会って、自動車の整備工場開設の相談に訪れたオマーン人の若者に応対したことがあった。「君、本当に国王に会ったか」と聞き返し、「こんな若者でも国王に会えるの!」と驚くばかりであった。ごく普通の国民が国王と膝を交えて話しが出来るのである。
2005年2月に講演のために筆者がオマーン内陸部にあるブレイミ大学を訪れた時にも、国王のミート・ザ・ピープルの移動と重なった。当時のブレイミ知事は筆者の英国の大学時代の友人、数日前にマスカットから電話した時には「講演を聞きに行くよ」と言ってくれていたが、当日は姿を現さなかった。残念ではあったが、国王が来られたというのだから、国王と住民の橋渡しをすべき知事が国王に同行するのは当然と納得した。
また、筆者が初めてオマーンに在住した時に、オマーンの人々がいつでもFAXで国王に相談ができること、また国王から必ず返事がくることも耳にした。
民主化への歩み
アラビアの王国に議会があることを知っている読者は少ないと思われるが、オマーンにも議会がある。オマーン議会は、諮問評議会と国家評議会とからなる。このことは、1996年に制定された国家基本法第58条に規定されている。
その歩みをみると、1981年11月にスルタン・カブースの勅令によってまず国家諮問評議会が設立された。開発諸政策を実行する政府にオマーン人が意見を述べ、また政府が掲げた政策の順守を督励することを目的とし、議長も含めて45人すべてが国王によって任命された。
私が2度目にオマーンを訪れた1985年には旧知のオマーン人が初代の国家諮問評議会議長を務めていて、彼を訪ねた時に通された議長室が荘大だった記憶がいまも脳裏にある。
1991年11月には、政府への国民参加をさらに拡大すべく、国家諮問評議会に代わって諮問評議会(マジュリス・アッシューラ)が設置された。当初はオマーンの59のウイヤラ(県)を代表し、59名の議員と議長とで構成された。勅令では議員は選挙によると公表されたが、実際はやや異なる仕組みとなった。何千人かの重要市民が参加して選考した各ウイヤラの議員候補者3名の中から法務担当副首相が1名を選び、その候補者名簿を国王に提出し、国王が最終決定を行い、また議長も任命するというものであった。議員の任期は3年間とされた。
その後政府の介入は徐々に減らされ、2003年には21歳以上の男女全国民による完全な普通選挙に移行している。
国家評議会(マジュリス・アルダウラ)は1997年に創設された。目的は政府が作成する法案審議、経済各分野での投資促進、行政改革の実行と業務の改善、人材開発などの調査である。なお、議員は国王の任命によるが、元大臣や元次官などの政府関係者や経営者や知識人などから幅広く選ばれている。
「オマーンはイスラム国だが、スンナ派やシーア派とは違うイバード派が主流である。イバード派の特徴はイマームを出自ではなく選挙で選んできた」ことが特徴である。オマーンにはもともと選挙の伝統があることを強調しておきたい。
憲法制定
アラビアの王国に憲法なんかあるまいと思っている読者が多いと思われるが、オマーンには憲法もある。1996年に勅令によって国家基本法(憲法)が公布された。基本法は7つの章と81の条項からなる。7つの章では「国家と政治制度」「国家政策指針−政治・経済・社会・文化・安全保障指針」「国民の権利と義務」「国家元首、閣僚評議会、首相・副首相・閣僚、特別評議会、財務」「オマーン議会」「司法」「総則」を規定している。
第一章第5条では、政治形態は王政であり、王位はセイイッド・トルキー・ビン・サイード・ビン・スルタン(カブース国王の曾曽祖父)の男子後継者に世襲されること、また王位継承者は健全な精神を持ったイスラム教徒で、イスラム教徒のオマーン人を両親に持つ嫡出男子でなければならないことが規定されている。
同第6条では、後継者は王位が空位になってから3日以内に王族会議で選ばれると規定されている。さらに、王族会議で後継者が決定できない場合には、国王が在任中にあらかじめ王族会議宛ての書簡で指名した次の国王を国防会議が任命するとある。
カブース国王は独身であり、当然子供がいない。このため、後継者の決定が紛糾すると見る向きが多いが、私は基本法の規定に従ってなんの問題も無く粛々と決定されると見ている。
第17条では、「すべての国民は法の下に平等であり、等しく国民の権利と義務を有する。性、出生、人種、言語、宗教、宗派、居住地、あるいは社会的地位により差別されることはない」と規定されている。アラブ世界というと、イスラムと部族主義がすべてのような論評がテレビや新聞などで多く見られるが、こういう規定のあることも指摘しておきたい。
経済発展
デーツ、ライム、海産物を輸出し、食料品や綿製品を輸入していたオマーン経済は1967年に石油が生産されて以来、石油依存型経済へと大きく転換した。
石油収入によって、当初カブース国王は空港、港湾、学校などの基礎的なインフラ整備に意欲的に取り組み、1976年からは5ヶ年計画を策定して経済運営を行っている。因みに、2009年は第7次5ケ年計画(2006年―2010年)の4年目に当たる。
オマーンの国家運営は、着実な進展が特徴である。経済面でも、依怙地なまでに5ケ年計画を遵守しながら、着実に経済進展を実現してきている。
第4次5ケ年計画の最終年の1995年に、急速に変化する世界経済の中でオマーン経済の方向を正しく位置づけるために、内外の有識者を招いた国際会議を開催して「オマーン・ビジョン2020」を策定した。主な政策の柱として、安定的な経済・財政の推進、民間部門参画の拡大、経済の多様化、人的資源の開発の4つが定められた。1996年以降は、この方針に従って5ケ年計画が策定され、運営されている。
オマーン経済はこのビジョンに沿って順調に推移している。
マクロ経済的にも、石油生産の減退にも係わらず、LNG(液化天然ガス)生産やとくに石油価格の高騰によって、GDP(国内総生産)は着実に増大している。因みに、GDPは、ビジョンが策定された1995年には5262百万RO(オマーン・リアル、1RO=2.60USドル)、であったが、2000年には7639百万RO、2005年には11890百万RO、2007年には15512百万ROと拡大している。
民間部門参画の拡大では、発電所、下水処理システム、シーブ国際空港、通信事業の民営化が実施されており、また大型の民間プロジェクトも着々とでき上がっている。
経済の多様化については、「オマーン・ビジョン2020」では、GDPへの石油の寄与を1996年の41パーセントから9パーセントに減らし、ガスを同年の1パーセントから10パーセントに、工業部門を同年の7.5パーセントから29パーセントに増やす計画となっている。これも、官民の大型プロジェクトの進展によって、遅れ気味ではあるが、着実に実現に向っている。
曰く、カルハートでのLNGプラントの拡張、ソハールでの肥料プラント、石油化学関連プラント、オマーンで2番目の製油所、アルミニウム精錬所、製鉄工場、スールでの肥料プラントやサラーラ・フリーゾーンでの石油化学工場などなど。多様化の中で重要な位置を占める観光部門でも、大型リゾートやホテルの建設プロジェクトが数多く進行している。2009年にはオマーンでも待望の緑のゴルフ場が完成する。
筆者は2007年にソハール工業地帯を訪れる機会があった。工業地帯では港湾や大型製油所、石油化学工場、アルミ工場などがすでに操業に入っていた。建設中の工場も含めてその壮大なスケールと活気を目の当たりにして、ソハール工業地帯がアラビア半島で有数の工業地帯になるだろうことを確信した。
人的資源の開発というのはいわゆるオマーン人化の促進である。まだまだ外国人労働者への依存度は高いものの、オマーンでは銀行でのオマーン人化はすでに90パーセントを超え、政府機関でも石油部門でも80パーセントを超えている。政府も食料小売業やトラック運転業など職種を定めてオマーン人の就業を図るとか、各種の職業学校に補助金を出してオマーン人の職業能力の向上に努めている。
女性の社会進出
オマーンは、アラビア半島ではバーレーンと並んでもともと女性の社会的進出に抵抗の少ない国柄である。とくにカブース国王は早くから女性に経済社会開発への貢献を求めてきた。
政治的には、限定的ではあったが1994年にすでに女性に参政権が与えられており、2003年にはこれが全女性に拡大された。その結果1994年には初めて2名の女性諮問評議会議員が誕生し、いまは14名の女性国家評議会議員がいる。また、女性大臣も4名いる。つまり、高等教育省、社会開発省、観光省、伝統工芸院の4大臣である。女性の次官もいる。
オマーン人女性の職場進出も目覚しく、2006年では政府機関内のオマーン人職員の40パーセント近くを占めるに至っている。銀行などでは女性の姿が目立つ。私がオマーンで工場を視察に訪れはじめた1990年代に比べると、最近は縫製工場などでの女性の姿も目立つようになった。ホテルのレセプションやレストランでのオマーン人女性やスーパーのレジでのオマーン人女性の姿も見られるようになった。他の湾岸諸国では見られない光景である。民間企業の女性のトップも出始めている。
サウジアラビアなどではいまだに女性の自動車運転が禁止されているが、オマーンでは女性の自動車運転は当たり前のことであり、2000年には女性のタクシー運転手も認められた。オマーンでは2000年には女性パイロットが誕生、2004年には民間航空会社の女性パイロットや女性飛行機整備士も誕生している。
オマーン国内各地にオマーン婦人協会が婦人の啓発、識字運動、障害児の介護、地域社会の開発、伝統工芸の保存などに尽くしている。女性の社会的地位の向上へのこの協会の貢献も忘れてはならないであろう。
カブース国王と小泉首相
小泉内閣では、首相個人の国民的人気もさることながら、「メールマガジン」と「タウンミーテイング」も新鮮な試みであった。私も、基本的に結構なことと思って見ていたが、これが首相自らの発想なのか、誰から提案されたものなのかにも興味があった。
1970年の即位以来のカブース国王の統治で、有名なのが、「ミート・ザ・ピープル」である。ここでは、ごく普通の国民が国王と直に話しが出来ることも知った。やらせがあったと聞く、小泉内閣の「タウンズミーテイング」とは比べようもない。
この他に、オマーンでは国民が国王にFAXや手紙を出すことも自由。しかも、必ず返事が来ると仄聞している。
小泉内閣が誇った「メールマガジン」や「タウンミーテイング」は、オマーンでは30年以上前から行われていることなのである。これが、私が「これらが始まった経緯を知りたい」としたゆえんである。小泉内閣の時に、「日本もようやくオマーン並みになったか」とひとりほくそ笑んだものであった。
カブース国王は1940年11月18日生まれの現在68歳である。小泉元首相とは年恰好も似ている。それに、カブース国王もバツイチで独身である。この点も、小泉首相と同じだ。
元首相の就任時に「ファースト・レデイはどうなるのか」などと危ぶむ声もあったが、カブース国王を見ている私は「なにをバカなことをいうのか」と思っていた。国王はアラビア半島の賢人として世界中で名高く、「ファースト・レデイ」なしに立派に公務をこなしている。
国王の趣味の一つが英国在任中に学んだという西洋クラシック音楽である。1985年には王立オマーン交響楽団まで結成した。この点でも音楽やオペラフアンの小泉首相と共通する。この意味から小泉元首相と国王との会談が待たれたが、いまはそれも叶わない。残念なことであった。
第三章 オマーンと東アジア
私とシルクロード
2000年8月30日(木)の昼下がり、私はキルギスにあるバラサグン遺跡内に立つブラナの塔上にいた。バラサグンは、10世紀から12世紀にかけて栄えたカラハーン王朝の首都遺跡の1つである。カラハーン王朝とはイスラムに改宗した最初期のトルコ系王朝である。
もともとは高さが45メートルあった塔は15・16世紀の地震で上の部分が崩壊し、いまは24メートルしかない。それでも、塔に登らずに真下の広場から見上げる妻の姿が豆粒ほどにしか見えないほどの高さであった。
その夏カザフスタンを訪ねていた私と妻は、かねてから念願であったイシュク・クル湖まで足を伸ばすことにし、首都ビシュケクからの途次にパラサグン遺跡に立ち寄ったのだった。
イシュク・クル湖は、天山山脈の奥深くに横たわる「中央アジアの真珠」といわれている幻の湖である。大きさは琵琶湖の9倍、高度1600メートルのところにある。627年(629年という説もある)にインドへの求法の旅に長安を出発した玄奘三蔵も訪れており、明治13(1880)年から14(1881)年にかけて日本人として初めて中央アジアに入った西徳二郎もこの近くを訪れ、その著「中亜細亜紀事」の中で、「熱い海(冬も凍らない)」として紹介している。ソ連時代には、軍事施設があったために外国人の立ち入りが禁止され、井上靖が訪問の夢が叶わずにたいへんに残念がったと聞いている。
塔上には、夏の太陽がさんさんと降り注いでいた。真っ暗闇の塔内を登ってきたばかりの私には、その光はとりわけまぶしかった。塔上で開放感一杯に背伸びをする身体をキルギスの風が心地よく吹き抜けた。視界は360度。見渡すと、北にはザイリスキー・アラタウ山脈の山々が間近に迫り、南西方向には遠くキルギスキー・アラタウ山脈が見える。南には4000−6000メートル級の天山山脈の山々、夏だというのにどの山の頂も白い雪に覆われ、日差しを浴びてまぶしく光っていた。
眼下には、見渡す限り緑の田園風景が広がる。田畑を縦横に走る道路沿いに植えられたポプラ並木の葉が、日差しの中で風に揺れながら裏返り、白くひらめいている。「これが、あのシルクロードか」と私は何千年もの悠久の歴史を想いながら、搭上に立ちすくんだ。
玄奘三蔵が突厥の王に歓待を受けた砕葉城(スイアーブ)があったアク・ベシムの遺跡もここからは北西に6キロ、すぐ近くにある。因みに、砕葉(スイアーブ)は唐の詩人李白が生まれたところともされている。玄奘もいま私の眼下に広がるこの地を通っている筈である。馬の背に揺られながら、のどかな風景に心を和ませたに違いない。
2年近くに及ぶ玄奘のインドへの旅が数知れぬ危険と想像を絶する困難なものであったことから、西遊記に記されたシルクロードは妖怪とともに茫漠たる砂漠や異様な火焔山、厳冬の天山山脈のイメージが強いのだが、こんなにのどかな田園風景もあったのかと驚かされた。
東西交流の始まり
この道を通じた中国と中央アジアや西アジアとの交流の歴史は、玄奘三蔵の時代よりもはるかに古い。
新石器時代から殷時代(紀元前1600年−1046年)までに中国と中央アジアや西アジアとの間にすでに交流があったことを示す遺物が多く発見されている。中国起源説もあるが、紀元前3500年前の彩文土器は西アジアからユーラシア大陸を伝わってきたと考えられている。さらに、城郭都市、戦車、文字の使用、圜丘、太陰暦、12進法などでも西アジアとのつながりが想像される。また、殷墟にはメソポタミアから伝わった青銅器と東トルキスタンなどからの玉製品が残されている。
紀元前2000年にヒッタイトに始まった鉄器も紀元前600年にはすでに中国に伝わっている。紀元前1000年ごろにアッシリアに伝わり、さらに中国に到達したといわれている。
中国古代王朝西周の穆(ぼく)王の西域遠征記録である「穆天子伝」には、王が崑崙山脈の麓を通り、現在のカザフスタンのアルマティやキルギスのイシュク・クル湖らしきところに到達したことが書かれている。穆天子は紀元前約947年から同928年ごろに在位したといわれる西周第五代の王である。このころすでに西域とのルートが開かれ、西域の情報が中国に伝わっていたのだろうか。
その後の春秋戦国時代の中国の文献である逸周書や春秋左伝にもイリ川西の大夏国や大月氏国の名などが記されている。
因みに、大夏国はアフガニスタン北部のバクトリア(現在のアフガニスタンのバルク地方)にあった古代ギリシャ人が建てた国である(紀元前246年−紀元前138年)。また、大月氏国は春秋戦国時代(紀元前770年−紀元前221年)ころから祁連山脈の北麓(現在の中国甘粛省地域)に勢力を拡張したイラン系遊牧民の国であるが、モンゴル高原で勢力を拡大した匈奴から逃れて紀元前176年ころにパミール高原を超えてアム・ダリヤ川流域に移動し、大夏国を支配下に置いた国である。
張騫と班超
「穆(ぼく)天子伝」の真偽には諸説があり、現在は戦国時代に書かれた中国最古の小説とされ、穆王が実際に西域に行ったとする説は少数のようである。
したがって、歴史上中国からこれらの地を初めて訪れたとされるのは張騫である。張騫は前漢王朝(紀元206年−紀元8年)の武帝から大月氏国への使者に任命され、従者百余人を与えられて紀元前138年に西域に派遣された。漢王朝が長年に亘って苦しめられていた匈奴を挟撃するために大月氏国と同盟を結ぶのが目的であった。匈奴とは、紀元前5世紀ごろから5世紀にかけてモンゴル高原を中心とする北アジアで勢力を振るった遊牧民族である。
匈奴の王が侵略した大月氏国の王の頭蓋骨を杯として酒を飲んでいたとされ、武帝が大月氏国はこれを屈辱に感じ復讐に燃えていると読んでの張騫の派遣であった。張騫は大月氏族の出、一族に会いたいという願いも彼をこの旅に駆り立てた。
しかしながら、張騫は出発してまもなく匈奴に捕らえられ、匈奴の首都龍城で10年余りも抑留されてしまう。その間に同じ大月氏国出身の女性と結婚し子供も設けて幸せに暮らしていたが、やがて意を決してそこを脱出し、漢王朝の使者として再び西を目指した。
そして、天馬の供給国として知られたイリ川流域の烏孫国、シル川の中・下流域にあった康居国(現在のカザフスタン南部にあった王国)を通り、大宛国(中央アジアのフェルガナ地方にあったイラン系民族の国家。現在のキルギスとウズベキスタンに分属。名馬「汗血馬」で知られた)、大月氏国、大夏国を訪れ、紀元前126年に帰国した。出発してから13年後の帰国であった。艱難辛苦の旅であり、帰国したのは百余人中張騫を含めてわずかに2名であったという。
派遣目的であった肝心の軍事同盟は、豊な土地で平和な生活を謳歌していた大月氏国の女王にいまさら匈奴と戦争をする気がなく、不成功に終わった。
しかしながら、この張騫によって、それまで西域のどの地域にどういう国があるのかを正確に把握していなかった漢王朝に初めて西域の詳しい情報がもたらされた。
この旅で経験したさまざまな話、とくに烏孫国の天馬に興味を持った漢の武帝は、匈奴に苦しめられていた烏孫との軍事同盟締結を企図して、紀元前115年に張騫に再びの西域行きを命じる。その時張騫自身は烏孫国に止まりその先には進まなかったが、部下たちをさらに大宛国、康居国、大月氏国、大夏国、安息国、身毒国へと派遣した。安息国はイラン北東部にあったスキタイ系遊牧民が建てたパルテイア王国のことであり、身毒国はインドのことである。つまり、この時に漢王朝が初めてイランとインドに接触したのである。
この2度目の旅では張騫は烏孫の使者数十人と馬数十頭とともに帰還したが、帰国後1年余りで死んでしまう。その後大夏国などに派遣されていた副使たちが、それぞれの国の多くの人たちを連れて帰還し、こうして漢と西域の国との道が開かれたのである。
この旅で張騫と部下たちはペルシャ人から初めてアラブのことも知ったと思われる。紀元前91年ごろに書かれた「史記」と紀元84年ごろに書かれた「漢書」には、これらの旅のことが書かれており、「条枝国」の記述がある。これはシリアのことで、アラブの国のことが中国の文献に公式に記述されたのはこれの時が初めてとされている。
また、これらの書には、奄蔡(えんさい、いまのクリミヤ半島)や黎軒(れいけん、いまのアレキサンドリア)の名も見える。
これ以来漢王朝は、安息、条支、身毒(インド)、奄祭などの国々に百人から数百人に上る使節団を年に数回、時には10回以上も送った。これらの使節団が絹や玉や他の品物を携えて黄河の西を渡り、パミール高原を越えて中央アジア、安息国、身毒国、条支国に達し、東ヨーロッパにこれらの品々を運んだ。一方、西からはブドウ、柘榴、目宿(うまごやし)、天馬などが漢にもたらされた。これが有名な「シルクロード(絹の道)」の始まりである。使節団は帰還まで数年から8、9年かかったという。
このシルクロードは国が乱れた王莽の時(紀元9‐23年)に一旦閉鎖されたが、後漢(25年−220年)になって、もう一人の冒険家の班超が再び開いた。紀元445年に書かれた「後漢書」によると、紀元94年に班超は焉耆(えんき、現在の新彊ウイグル地区の中部)を再び征服し、50以上の国々が人質を差し出し、また安息国や大食国も貢物を献上したとある。
また、彼の命を受けて大秦国(ローマ帝国)に派遣された部下の甘英は、当時最も遠い西の国に行った中国の使者となった。紀元97年に条支国(シリア)の地中海沿岸にまで達している。彼はそこから船でローマに行こうとしたが、ペルシャ人からの誇張された航海の危険性情報に驚いて中止し、結局目的地のローマに行き着くことができなかったとある。
なお、後漢書には、「安息国自り西行すること3千4百里にして阿蛮国に至る」という記述がある。日本では阿蛮国をハマダンとされているが、中国の学者はこれを「オマーン国」とし、オマーンの名が中国の文献に記述されたのはこの時が初めてとしている。
東西交流、海の道
漢時代に中国人によって東アジアから西アジアへの陸路いわゆる「シルクロード」が開かれたが、その後アラブ人などによって紅海、ガルフ、インド洋を越え、マレー半島から中国南岸に至る海路が開かれた。オマーンは古くから航海の民としてまたその造船技術で非常に有名であり、オマーン人もこの西から東への海路の開拓に大きく貢献した。
紀元1世紀に書かれた「エリュトゥラー海案内記(Periplus of the Erythraean Sea)」(作者不詳、ギリシャ人航海者であるという)には、季節風「ヒッパロスの風」を利用して船がエジプトやイエメンからインド北西部に航行していたさま、中国産の絹織物や生糸が陸路インド東部に運ばれそこから海路インド南西部や北西部に運ばれたこと、中国には容易に到達することが出来ないことなどが書かれている。因みに、この案内記には、オマーンのマシーラ島やマスカットの南にあるカルハットと思われる町や緑の山のことも記載されている。
同世紀に書かれたプリニウスの博物誌にも、ヒッパロスの風を利用したアラビア南岸からインド西南岸に至る航路のことが記述されている。
つまり、この時期にはアラビアから中国に通じる海路はまだ形成されていない。宮崎正勝によると、2世紀になると、ローマ商人の交易活動はインドを越えて東南アジアに及んだという。つまり、ローマ帝国マルクス・アウレリウス。アントニヌス帝の使者が、ベトナムの日南部にたどりつき象牙、犀角、タイマイなどをもたらしたことが「後漢書」に書いてある。航海の範囲がアラビアからベトナムにまで広がっている。
ローマ時代の歴史家アミアヌス・マルセリヌス(325/330−391年以降)の著、” The Chronicle of Events”には、紀元360年頃のユーフラテス河畔バタニ(Batanea)で例年9月に開かれる見本市が陸路や海路で運ばれたインドや中国の陶器その他の物品を売買する大勢の商人たちで賑わったことが書かれている。このころには、中国とアラビアは部分的ではあっても海路でもつながっていたと思われる。
また、仏典を求めて399年に長安を出発した中国僧法顕が6年間の大旅行のあと中部インドに到達し、3年間修行する。その後ガンジス河を下り、409年にインド東北部にある現在のタムルクを出帆し、セイロン経由で3年後の412年に現在の青島の東に戻ったと宮崎正勝はその著「ジパング伝説」に書いている。セイロン島には、当時イエメンの「サバ」の商人と見られる「薩薄」商人が多く住んでいたことも記載されている。
エジプトからアラビア半島を通じてインドの東岸に広がった海路が5世紀にはインドから中国にまで拡がっていたさまが見て取れる。
「アラブのヘロドトス」ともいわれる高名なアラブの歴史家であるアル・マスーデイ(896−956AD)の著“Meadows of Gold and Mines of Gems””にも、「往時には、中国の船がオマーン、シラーフ(いまのブシェール近辺)、バハレーン、バスラなどを訪れていた」と書かれている。これらの船はユーフラテス川を遡り、古都バビロンから3キロ離れたヒラでアラブ商人たちと交易をしたとある。ここで往時とはいつのことななおかは定かではない。
少なくとも5世紀までには、つまり劉宋の時代(紀元420年−479年)に中国の貿易船がガルフの港に停泊していたことが南宋書などの中国の古文書に記録されているとする論文もあり、かなり早くに中国船がシラーフ、ウッブラ(いまのアバダン近辺)、バスラ、バーレーン、オマーンなどに直行することが出来、アラブの船もそれらの港から中国に航行していたと見られる。
ここで「シルクロード」について簡単に付記しておこう。シルクロードとはドイツの地理学者リヒトホーフェンが1877年に「ザイデンシュトラーセンSeidenstrassen(絹街道)」という語を使ったのが始まりで、古代中国特産の絹が西へ運ばれたために名づけられたという。彼のシルクロードは長安からサマルカンドまでと現在のアフガニスタン北部のバルフまでの2本の道であった。
これを30年後にシリアまでとしたのが、同じドイツの東洋学者であるアルベルト・ヘルマンである。それらの絹はコンスタンチノープルやローマにはシリアから海路で運ばれていたという。
その後、オアシスの路を示した「シルクロード」の概念は広がり、現在では、ヘルマンが言った中央アジアを通るオアシスの道に加えて、アジアの北方の草原地帯を通るステップ道、南方のインド洋やアラビア海を迂回する海上の道の3つを含めるのが普通になっている。
オマーン人の海上活動
ここで古くからのオマーン人の海上活動をやや詳しく見ておこう。
湾岸諸国の中で古くから名前が知られていたのは、バハレーンとオマーンである。そこには水があり、古くから人が住むことが出来た土地だったからであろう。アラビア半島南西部の山脈に降った雨が地下水となって半島の砂漠の下を横切って流れ、それがバーレーン島や近辺の海に湧き出しているといわれている。また、オマーンの国土の15%は山地で、そこに降る雨のために、オマーンは水が比較的豊富である。
バハレーンでは島の各地に泉や井戸があるが、私が1973年に初めて訪れた時に見た豊かな水をたたえた「アダリ・プール」、そこからごうごうと音を立てて流れる川を見た時の驚きはいまも鮮明に記憶に残っている。砂漠の国で思いもかけない光景であった。
オマーンで有名なのは国内に4000以上もあるファラジュと各地に点在する泉である。因みに、ファラジュとは、水の配給システムであり、水源からの灌漑路システムである。紀元前2500年ごろのファラジュ跡も発掘されているが、1500年以上前に作られ現存しているものもある。オマーン北東部に位置するバティナのグリーンベルト地帯の農産物はこのファラジュとハジャール山脈から流れる地下水によって育まれている。
これらの水の存在によってバハレーンとオマーンはメソポタミアとインドを仲介する木材などの貿易貨物の集散地として古くから栄えた。中でも、アラビア半島湾岸の東南端の出口とインド洋の入り口に位置したことと、沙漠や山に囲まれていて陸上交通が難しいという地勢がオマーンを海に向けさせた。
紀元前4000年のシュメール人がオマーンを「マガン」と呼び、アッカドのサルゴン王がデルムーンとマガンからの船に言及したことは既述した。
そのオマーンの海上活動は紀元前2000年ごろに突然止まり、オマーンの名前が歴史から忽然と消えてしまう。しかし、紀元前1000年ごろにメソポタミアにアッシリア帝国が建設されると、オマーンは再び歴史上に登場し、メソポタミアとインドの中継地として栄えた。。
なお、オマーンの1000年に亘る空白期は歴史上の謎となっている。この時期にオマーンからレバント地方への移民が行われ、世界史上有名なかのフエニキア人はオマーン人であったとも言われている。興味深い指摘である。そういえば、スール港という同じ地名がオマーンとレバノンにある。
オマーンは、その後湾岸諸国と西の紅海・アフリカ、東のインド・マレーシア・中国との通商へとその活動を拡げていった。世界で最初に船にマストと帆を使ったのはオマーン人であるとも言われている。
古くから豊富な航海経験を有し、航路上の障害、海流や風の季節的な変化や島々、避難所、補給地などを熟知していたオマーン人は中国への海の道を開き、中国の絹を西に運ぶのに大きく貢献した。後世のアラビア語の文献(Al-Istakhriや前述のAl-Mas’udi、いずれも10世紀の歴史家や地理学者が書いた)にはこの詳細が記述されている。
それらによると、バスラかシラーフで小船から貨物を集積した大型船がソハール、マスカットに向かい、マスカットで給水後インド南部のコルハム・メレ、セイロンを経由後にベンガル湾を渡ってアンダマン諸島に到着、さらにマラッカ海峡を経て広東に到着した。この本道の他に、アンダマンからジャワに行く道やアラビア湾とシンド(現在のパキスタン)を結ぶ道があったらしい。
唐王朝と大食国(アラブ)の交流
中国とアラブの関係は、唐時代(紀元618年−907年)に大きく進展し、宋時代(紀元960年−1279年)と元時代(紀元1279年−1386年)にさらに発展する。
東に強大な唐、西にサウジアラビアのメッカから興ったイスラム勢力がアラブを統合して偉大な国家が建設されたことで、その相互関係が進展した。予言者ムハンマドもハディースの中で中国のことに言及している。正統カリフ朝第三代目カリフ・オスマーンが統治していた651年に大食国は初めて中国に公式使節団を送り、その後のウマイヤ朝(661年−750年)、アッバース朝(750年−1256年)にかけての651年から798年までの間に39回も公式使節団を送っている。
因みに、わが国の遣唐使は、630年から894年までの間に18回任命され、うち実際に15回派遣されている。それに先立つ遣隋使は607年から614年の間に4回派遣されている。日本が第2次遣唐使を送ったのが653年だから、アッバース朝の最初の使節団が長安を訪れたのはその2年前ということになる。
751年には、アラブと唐の間で歴史的な一大決戦が行われた。アブ・ムスリム将軍が率いるイスラム軍が高名な高仙芝将軍率いる唐軍を破ったタラスの戦いである。奇妙なことに、この戦いが両国関係を悪化させることはなかった。タラスの戦いの一年後にアッバース朝は初めて中国にその使節団を送り、また、757年に玄宗皇帝の時に起った安氏の乱(755年−763年)の鎮圧を助けるために兵を唐に派遣している。この後に多数のアラブの兵士が中国婦人と結婚してそのまま中国内に残り、中国回教徒の祖先となった。
タラスの戦いの結果、製紙技術が中国からアラブに伝えられたことはよく知られている。アラブ人は製紙技術に長けた中国人捕虜を使って最初の製紙所をサマルカンドに建設し、次いでバグダッド、ダマスカスに製紙所が建設され、その紙がヨーロッパにも供給された。因みに、ヨーロッパ自身が製紙を始めたのは12世紀に入ってからである。
アラブ兵士とは別に、この時代には早くから多くのアラブ人が商人や旅行者として中国を陸路だけではなく、海路を通じて訪れている。唐時代の主要な貿易港は広東、泉州、揚州であった。その中で広東は海路での中国への入り口にあたり、8世紀始めにはムスリム、ユダヤ教徒、キリスト教徒と拝火教徒合わせて12万人にも上る外国人が住んでいたと記録されている。また、泉州や揚州はもちろん、当時の都長安にも大勢の外国人が住んでいたことも記録に残されている。国籍別の資料はないが、この中には当然多くのアラブ人が含まれていた。
この時代のオマーンと中国との関係を特筆すれば、オマーンは中国品の主要な市場であったのみならず、そこには重要な港があった。アラブの文献にはマスカットの名前が繰り返し挙げられ、マスカットはシラーフとともに中国との交易上ガルフで最も重要な港と記されている。
8世紀中ごろには、オマーン人アブー・オバイダ・アブドッラー・ビン・アルカシムが最初の中国への航海を行っている。彼は長い間中国に住みつき、乳香を商った有名な商人である。最後には故国に帰っている。他に、長い間住んでいたバスラから中国に渡り、アルカシムに合流したオマーン人商人アルナダール・ビン・メムーンも有名である。この2人に加えて、多くのオマーン人が中国に渡り、一般的に中国婦人と結婚をして子孫を残し、貿易のみならずイスラムの普及にも貢献した。
ソハール号
マスカット市の南東部に中東隋一と謳われるアルブスタン・パレス・ホテルがある。シーブ空港から車に乗り、ホテルを目指してルイ地区とワデイ・カビール地区を通り過ぎると、両側面に馬の彫像のついたトーチがある急勾配の坂道にさしかかる。この坂道を登り切り、そこからの急坂を走り降りると、眼下のロータリーに大型のダウ船が見えてくる。「ソハール号」である。イギリスの有名な冒険家であるティム・セヴェリンがカブース国王の援助を得て建造し、20名のオマーン人主体の船員を乗せて1981年11月から8ケ月かけて実際にソハール港から広東までを航海した船である。
マスカットの西北280キロに位置するソハールは古くから栄え、中国の唐の時代には、ここから多くの船が広東に向った。十世紀に入ってソハールはイスラム世界最大の港となり、その繁栄は頂点に達した。アラビアン・ナイトで有名な船乗りシンドバッドもこのころにソハールから船出したといわれている。
ソハール号は、そのシンドバッドの航海を再現すべく165日かけてソハールで建造された。材料は、インドから輸入されたチーク材と国内のココナツヤシの木の皮。一本の釘も使わず、ココナツヤシの木の繊維で編んだロープを使って往時の工法そのままに作られた。
なお、この航海の一部始終は、「シンドバッドの海へ」(ティム・セヴェリン著、横尾堅二訳、筑摩書房、1986年)に詳述されている。
第四章 日本人のアラブ発見
最初に日本に来た西アジア人
中国と中央アジアや西アジアとの交流が始まったのは、日本では縄文時代(約1万2000年前〜)のころのことである。張騫が二度に亘って西アジアを訪れたのは日本では弥生時代(紀元前3世紀〜3世紀)の初めに当たり、班超が再びシルクロードを開いたのは「楽浪の海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来たり献見すと云う…」と漢書地理志に書かれているように日本はまだ小国分立していた弥生時代中期のことであった。
海を隔て且つ国が分かれていても日本は古くから朝鮮半島や中国と交流してきたが、遠い西域やましてやアラブの国々や人々と接触するのはずっと後のことである。中国でいえば唐時代、日本では飛鳥時代に入ってからのことである。
日本書紀巻第二十五孝徳天皇の項に「白雉5年(654年)の夏4月に、吐火羅国(とからのくに)の男2人・女2人、舎衛(しゃえ)の女1人、風に被ひて日向(ひむか)(宮城県)に流れ來れり」とある。
第二十六斉明天皇の項には、「5年(659年)3月の戌寅(つちえのえとら)の朔(ついたち)に、天皇吉野に幸(いでま)して、肆宴(とよのあかりきこしめ)す。庚辰(かのえたつ)に、天皇近江の平浦(ひらのうち)(
このトカラの国はどこであろうか。諸説あるが、学界ではいまのタイのメナム河下流にあったドヴァラヴァテイ王国)とする説が優勢のようだ。ここでは、このトカラの国はトカレスタン、いまのイランの東北角でアフガニスタン西北部の国境線に沿う辺りとし、イランのササン朝がアラブ軍に破れて641年に滅亡したためイラン人が東に逃れ唐の長安に達し、さらに日本に流れ着いたという小村不二男説に従っておこう。
そうすると、これらが日本で一番古い西域の人についての記述であろうか。なお、舎衛とはインドのガンジス河中流のシュラーヴァステイのことで、舎衛の女は吐火羅人の妻である。
さらに、「続日本書紀」には、「天平8(736)年8月庚午(23日)遣唐副使・従五位上の中臣(なかとみ)朝臣名代(なしろ)らが、唐人3人とペルシャ人1人を率いて〔帰国のあいさつのため、天皇に〕に拝謁した」、同11月戌寅3日 「天皇は朝堂に臨御し、詔して、遣唐副使・従五位上の中臣朝臣名代に従四位下を授けた。…準判官で従七位下の大伴宿禰首名・唐人の皇甫(こうほ)東朝・ペルシャ人李密翳(りみつえい)らには、それぞれ身分に応じて位階を授けた」とある。
元明天皇による平城京への遷都が710年であるから、これは奈良時代のことである。これがペルシャ人の来日に関する最初の記述であろう。
同じ年に、後に日本に帰化したインド人僧の菩提僊那(ぼだいせんな)が来日している。遣唐使多治比真人広成(たじひのまひとひろなり)らの要請によるもので、菩提僊那はその後奈良の大安寺に住み、751年には僧正となり、翌年東大寺開眼供養の導師を務めた。
また、「唐大和上東征伝」に、後に唐招提寺を建立した唐の高僧鑑真が754年に来日した際に随員3名が同行したことが記録されている。その1人は安如宝である。安息国(西アジアの王国、パルティアのこと)の出身者は「安」を姓にしたというから、彼は西アジア人であったであろう。他の随員は、マレーシア地方とベトナム人と考えられている。
西アジアに行った日本人
遠野治之の「正倉院」によると、7世紀から8世紀ごろまでに西域やインドへ向かった日本人は1人もいないという。
「西域方面では、長安以西へ足を延ばした人さえ見あたらない。海路では、734(天平六)年、帰国の途中、林邑(りんゆう、現ベトナム南部)に漂着した遣唐使平群広成(へぐりのひろなり)らが拾える程度である。・・・中国側の文献にも、インド、東南アジアへ旅した朝鮮の僧侶は出てくるが、日本人の名はついに見出せない」とある。
インドについては、「日本人が登場するのは9世紀に入ってからである。9世紀の初めごろに金剛三昧という日本人の僧がインドから帰還したことが唐の書物(酉陽雑俎、ゆうようざっそ)に記録されていること、平城天皇の皇子真如親王がインドに行くために63歳の老齢で貞観4(862)年に入唐し、865年に広州から海路インドに向かい、シンガポール付近まで行ったが、そこで病没した」とある。
親王は嵯峨朝の初めには皇太子の地位にあったが、810(弘仁元)年、薬子(くすこ)の乱で嵯峨天皇との抗争に破れて平城天皇が失脚すると、皇太子の地位を譲って出家し、空海の弟子になった人だという。
この時期に西アジアに行った日本人は一人もいなかったのである。
最初にアラブ人を見た日本人
聖武天皇の天平勝宝5年(753年)の正月一日に遣唐副使の大伴古麻呂が、諸外国の使節とともに唐での正月の朝貢の席に出席した。見ると、新羅の席が日本より上位にある。大伴古麻呂はこの席次に激しく抗議し、日本が新羅の上席にランクされるよう糺した。その結果、日本は東側の大食国の上席に、新羅は西側のチベットの次席へと席次がひっくり返ったという。この時出席していた大食国の代表はアッバース朝の使節団であったろうと思われるが、日本人がアラブ人を見たのはこの時が初めてであった。
その時の様子が「続日本紀」の巻第十九孝謙天皇の項で以下のように記述されている。「天平勝宝6年正月丙寅(30日)〔遣唐〕副使・大伴宿禰古麻呂は唐国より〔帰国して平城京(ならのみやこ)に〕至った。古麻呂は〔天皇につぎのように〕奏した。
大唐の天宝12年(753年=天平勝宝5年)、歳星(木星)が癸巳(みずのとみ)にある年の正月一日癸卯に、〔唐の〕百官人と唐に朝貢する諸外国〔の使節〕は朝貢を行いました。
天子(玄宗皇帝)は、蓬莱(ほうらい)宮の含元(がんげん)殿において朝貢を受けました。この日〔朝貢において唐の朝廷は〕古麻呂〔の席次〕を、西側にならぶ組の第二番の吐蕃(とばん)(チベット)の下におき、新羅(しらぎ)の使{の席次}を、東側の組の第一番の大食国(ペルシャ)の上におきました。〔そこで〕古麻呂は〔つぎのように〕意見を述べました。「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢しております。ところが、今〔新羅〕は東の組の第一の上〔座〕に列(つら)なり、我〔日本〕は逆にそれより下位に置かれています。〔これは〕義にかなわないことです〕と。その時、〔唐の〕将軍呉懐実は、古麻呂が〔この席次に〕に従わない様子を見てとって、ただちに新羅の使を導いて西の組の第二番の吐蕃の下〔座〕につけ、日本の使{古麻呂}を東の組の第一の大食国の上〔座〕につけました」と。
日本の遣隋使は607年からの7年間に4回派遣され、遣唐使は630年から894年まで18回任命され、実際にも15回は派遣されている。大伴古麻呂は第12回目の遣唐使の副使である。アラブ側も651年から使節団を派遣し始めている。したがって、それ以前に日本人がアラブ人に会っていただろうことは想像に難くない。しかし、記録上は、大伴古麻呂がアラブ人を見た最初の日本人ということになろう。
また、アラブを意味する「大食国」の文字が日本の書物に初めて載ったのはこの時とするのが研究者の定説のようである。
なお、続日本紀の編者は、「大食をペルシャ」と注を入れているが、大食(タージー)は、イラン人が北アラブ部族をタージクと呼んだことに由来し、狭義にはアラブ、広義にはペルシャ人をも含むイスラム教徒の呼称である。ここでは、狭義のアラブとすべきであろう。
最初に日本に住んだアラブ人
小村不二男の「イスラーム史」によると、アラブ人が最初に日本にやってきたのは永和2年(1376年)のことであるという。以下にその記述を摘記する。
「今から六百年も昔に京都のど真中にひとりのアラビア人が住んでいた。場所は三条烏丸で、・・・。室町初期の将軍足利義満の頃のことで、その名はヒシリと一般に呼ばれていたが、京都五山の1つである相国寺の僧絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らが留学先の中国(明)から京へ連れて帰ってきたのである。彼は日本入国後に摂津の楠葉、つまり今の
そして、「以上は『大乗院寺社雑事記』に所載されたものからの摘記であること」が記述されている。
大乗院寺社雑事記とは興福寺大乗院第17代門跡尋尊が宝徳2(1450)年から永正5(1508)年までの49年間に亘って記した日記であるが、尋尊と西忍の交流が46年の長きにわたったこともあって、この雑時記のあちこちに西忍に関する記述がある。原文を見ると、父ヒシリのことは「大食人」ではなく「天竺人」とある。天竺とはインドのことである。それではヒシリはインド人だったのであろうか。
研究家の森田恭二はこれについて、「天竺人とあらばインド人とも考えられるが、アラビア人あるいはペルシャ人の可能性もあろう」と書いている。また、中東学の泰斗前嶋信次は西忍のことをムスリムだったらしいと書いている。浅学菲才の筆者には確かめようないが、森田・前嶋の解釈も踏まえ、小村の説に従って、ここではヒシリをアラブ人とさせていただく。当時、天竺ははっきりとインドと限定されていた訳ではなく、漠然と西の方を指していたと考える方が自然かもしれない。
私はこのヒシリがオマーン南東部に多く住むアル・ヒジリ族やアル・ハシミ族につながらないかとも夢想している。
友人のオマーン人の歴史学者に「これに関する古文書がオマーンに残っていないだろうか」とも聞いてみた。彼からは、「オマーンの古文書はイスラムに関係するものがほとんどだ。そのことに関する記録はまずあるまい」という答えが返ってきた。ヒシリの国籍については、どうにも確かめようがないのが現状である。
ポルトガル船の来航とアラブ
安土・桃山時代になると、海外との交流はヨーロッパにまで広がる。つまり、ポルトガルとの接触である。
天文12(1543)年8月12日にポルトガル船が種子島に漂着し、日本に初めて鉄砲を伝えた。ヨーロッパの貿易路に革命を起すことになるヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えたのが1498年、アフォンソ・デ・アルブカークが紅海、オマーン沿岸、ホルムズ、インド沿岸に到達したのはそれより数年後の1507年のことである。 そのポルトガル船が日本にやってきたのは、オマーンよりも約40年遅れてのことであった。
ヴァスコ・ダ・ガマの水先案内を務めたのはオマーン人の有名な船乗りのアハメッド・ビン・マジッドであり、オマーンに最初にやってきたポルトガル人のアフォンソ・デ・アルブカークの水先案内人もオマーン人の船乗りである。筆者は、日本に最初にやってきたポルトガル船にもオマーン人が乗ってはいなかったかと調べてみたが、その痕跡はまったく見当たらない。
シャムからシナに向う途中に暴風雨に遭って種子島に漂着したそのジャンク船には船客百数十人が乗っていたとされるが、中国人・ポルトガル人・南洋人だったようである。
天文18(1549)年7月3日にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸している。ザビエルが来日した船にもアラブ人船乗りの記述はない。
この時にゴアからザビエルに従ってきて彼の日本での布教を助けたのが有名なヤジロウである。彼は薩摩の出身で若いころに人を殺しマラッカに逃れ、その罪の告白のためにザビエルを訪ねた。ヤジロウはその後ゴアに送られ、天文17(1548)年にその地の司祭から洗礼を受けている。彼はインドまで行ったが、それより先のアラブの地は訪れていない。
天文20(1551)年のザビエルの離日時には5人の日本人が同行した。そのうち鹿児島のベルナルドのみがポルトガルに到着している。日本人で最初に西洋に渡った人物とされているが、彼らはマカオ経由でゴアに立ち寄り、そこからまっすぐにインド洋を横断し、アフリカの希望岬をまわってポルトガルに入っているので、アラブの地を見ることはなかった。
天正10(1582)年には、九州のキリシタン大名が4人の少年をローマに派遣した。いわゆる天正遣欧少年使節団である。少年たちは3年の歳月をかけてローマに到着し、教皇に謁見して天正18(1590)年に日本に帰着した。彼らもマカオとゴアに立ち寄り、そこからインド洋を横断し、アフリカの希望岬をまわってポルトガルに入った。復路も同じコースを経ているので、彼らもアラブの地を見ることはなかった。
慶長14(1609)年に前フイリッピン長官ドン・ロドリンゴ・デ・ビベーロが乗ってメキシコへ向かった船が上総国夷隅郡に漂着した。翌年彼がメキシコ商船に便乗して出発する際に、徳川家康の命令でメキシコとの通商交渉のために日本から京都の商人田中勝助を長とする使節団が派遣された。この田中らが太平洋を横断した最初の日本人とされている。
当時のメキシコはスペイン領。上記を契機に、伊達政宗はスペインとの通商を目的に
家臣支倉常長らの慶長遣欧使節を派遣した。支倉一行は慶長18年(1613)に陸奥国月の浦を出帆し、太平洋を横断してメキシコに、その後大西洋を横断してスペインに到着し、元和6(1620)年に日本に帰着している。帰路はメキシコ・マニラを経由しているので、彼らもアラブの地を見ることはなかった。
最初にアラブの地を訪れた日本人
貿易のために当初キリスト教を容認した江戸幕府は、統治上の理由からこれを禁止するとともに、大名たちが貿易によって力をつけるのを防ぎ貿易を幕府の独占とするために鎖国に踏み切った。すなわち、慶長18(1613)年にキリスト教を禁止し、翌同19(1614)年には宣教師、修道士、日本人関係者など計105名を5隻のジャンク船に乗せてマニラとマカオに追放した。
マニラ行きに乗せられたキリシタン大名の高山右近や内藤如安やその家族や家臣たちとは別のマカオに追放された中にはペトロ岐部がいた。彼の父は水軍岐部氏の出でキリシタン大名大友氏に仕え早くに受洗したロマノ岐部、母はマリア波多である。兄と同じく生まれながらのキリスト者であったペトロ岐部にとって、司祭になることが幼少の頃からの夢であった。
マカオに追放されたのは、彼にとってはむしろ幸せであったかもしれない。彼は不遇だったマカオを脱出してローマに行き、元和6(1620)年に異例の早さで長年の夢であった司祭になる。
彼がなによりも凄いのは、キリシタンの迫害が続き殉教者が続出していた日本に、殉教覚悟で布教のために帰国したことであった。
すなわち、元和9(1623)年にリスボンを出発して、カナリヤ諸島経由で希望岬を回り、モザンビークに寄航、そこから一気にインド洋を渡りゴアに着いた。その後、マカオに着きしばらくそこに滞在する。寛永4(1627)年にはタイのアユタヤにも足を伸ばし、当時4百人の日本人キリシタンが居住していたという日本人町に2年間ほど滞在し、そこで山田長政にも会っている。因みに、全盛時にはアユタヤに3千人の日本人が居住していたという。
ペトロ岐部は死を覚悟して寛永7(1630)年にフィリピンのルバング島を出発して、薩南の七島諸島に来たころ台風に遭い、船が難破して口之島の岩に乗り上げたところを島民に救助され、薩摩の坊津まで送り届けてもらう。坊津では、薩摩藩の厳しい監視の目をかいくぐり、そそり立つ巨岩の陰に小舟をつけて16年ぶりの帰国を果たしたという。
その後「口之島の漁師」というふれこみで長崎のキリシタンの家にかくまわれたが、寛永10(1633)年ごろにそこを離れ、東北の水沢に潜伏して布教活動を続けた。
しかし、寛永16(1639)年に捉えられ、鎖で縛られたまま江戸に送られ、「穴吊るし」というひどい拷問を受け、最後は火で焼かれて亡くなるのである。享年52歳であった。迫害や拷問に耐えかねて棄教する者も多かった中で、彼は最後まで「神を信じて」殉教したのである。
「九州男児ペトロ岐部の信仰に生きた純粋さと勇気に畏敬の念を持って」と松永伍一はその著書「ペトロ岐部」に書いている。なお、この項のほとんどを松永の記述に頼った。
ここではペトロ岐部の信仰心と生き方を紹介するのが目的ではない。彼に言及するのは、彼こそが最初にアラブ、しかもオマーンの地に足を踏み入れた最初の日本人だと考えられるからである。彼がローマで司祭になるためにマカオを出発したことは記したが、その後ゴアで海路を行くマンション小西とミゲル・ミノエスと別れて、彼は単身で陸路をとってローマを目指した。
「彼はマスカット行きの船の下級水夫となってゴアからマスカットに着いたのだろう。さらに、別の船に乗りバンダルアバスに行き、ブシェール、アバダン、バグダッド、ダマスカス、そして聖地エルサレムに入ったようだ。1619年の秋から暮れではないか」と松永は書いている。
この時代に、アラビアの砂漠を単身横断し、3千キロの道のりを歩いた日本人がいたのである。驚きである。
ペトロ岐部の旅については一切の記録が残されていないという松永は、「あるポルトガル人神父が『もし彼がその旅の日記を書いてくれていたら、探偵小説よりも面白いであろう』と書き残していること」、「金持ちのマルコ・ポーロはラクダの背に乗っての大遠征旅行をしたが、『東のマルコ・ポーロ』わがペトロ岐部は砂漠を無銭旅行で聖地エルサレムまで踏破したのだ。元和4(1618)年にゴアを発ってから約一年半の難行苦行の、そして光輝にみちた世界にたどりつく『生命の道』の実践行であった」と書いている。
ペトロ岐部が生か死かの厳しい酷暑の砂漠を横断する中でベドウインの村に泊まったことは想像に難くない。日本人として初めてヒトコブラクダを見、初めてラクダのミルクを飲み、またデーツ(なつめやしの実)を食べたに違いない。
彼がその当時のマスカットをどう見たのか、その記録がないのが本当に悔やまれる。当時マスカットはポルトガルの占領下にあった。蜂起したオマーン人にポルトガル人が駆逐されたのは、それから約30年後のことであった。
江戸時代のアラブ情報
江戸幕府は、ペトロ岐部たちを国外に追放した後、元和2(1616)年にはヨーロッパ船の来航を平戸・長崎に限定し、寛永元(1624)年にはスペイン船の来航を禁止した。その後、寛永10(1633)年には奉書船(朱印状のほかに老中奉書という許可証をもった船)以外の海外渡航を、同12(1635)年には日本人の海外渡航と帰国を禁止した。
さらに、第三代将軍徳川家光は島原の乱後の寛永16(1639)年にキリシタン対策強化のためにポルトガル船の来航を禁止し、寛永18(1641)年には平戸のオランダ商館を長崎の出島に移した。こうして鎖国下の貿易港を長崎だけとし、オランダと中国の船の来航だけが許されることになった。
もともとオランダの商人はポルトガルのリスボン港でポルトガル人が運んでくる東洋の物資を手に入れ、ライン川を遡ってヨーロッパ内陸に売りさばくことで利益を得ていた。プロテスタントの多いオランダは天正9(1581)年にカトリック国のイスパニアからの独立を果たしたが、この報復としてポルトガル国王をかねていたイスパニア国からオランダ船のリスボン入港を禁止されて東洋の物資が入手できなくなった。そこで、彼らは自らアジアへ進出することになったのである。
慶長5(1600)年に辛うじて太平洋を横断したリーフデ号が豊後に漂着し、体調を崩した船長に代わって航海士ウイリアム・アダムス(イギリス人)が大阪で家康に拝謁して、わが国とオランダとの接触が始まった。オランダの貿易が布教を伴わなかったことや将軍への贈り物攻勢もあったのだろう、慶長14(1609)年に家康から通商の朱印状を得て、イスパニア、ポルトガル船の来航が禁止された後、オランダは日本と関係を持つ唯一のヨーロッパの国となったのである。
イギリスも慶長18(1613)年に日本に派遣された使節団が徳川家康や秀忠に拝謁して、オランダへ与えたと同様の朱印状を得て平戸にイギリス商館を設置したが、元和9(1623)年に日本との貿易の不振から営業を停止し、日本市場から撤退した。
このような状況から、江戸時代には日本とアラブとの直接的な接触は皆無であった。しかし、この鎖国の時代にも、長崎でのオランダと中国との接触を通じて日本にはアラブの情報はかなり入っていた。
杉田英明の「日本人の中東発見−逆遠近法の比較文化史」を手引きにしながら記述を進めると、西川如見の「華夷通商考(宝永5年、1708年)」では、「アラビア」の項で沙地(沙漠)について「・・・又此国に日本道三百餘里の沙地あり。大風起るときは沙を吹て浪の如く、行旅の人偶(たまたま)是に遇(あふ)ときは、即(すなわち)沙浪(しゃろう)の為に埋まる」とある。
さらに、紅海につていて「・・・又此国の西に八百里程の入海(いりうみ)あり。此海の潮水(てうすい)常(つね)に赤きこと血の如し。是を西紅海(さいこうかい)と云。」とあり、さらに「此海の西にバビロウニヤと云國あり」とバビロニアに言及している。
また、ジュデヤ(ユダヤ)の項に「西天竺(さいてんじく)の西、ハルシャ(ペルシャ)に近し。・・・此属類の國にマタスコと云國アリ。・・・」とダマスカスのことが紹介されている。
また「エジツト(エジプト)」の項で「・・・此国に大河あり。エラ河(ニロ川とも云)。河水毎年大に發す。土民共(とも)其水の漲(みなぎ)りの多少を見て歳(とし)の豊歉を知(しる)と云。此国の人も天文の學をする由。星を見る學なんどは殊外(ことのほか)精し。・・・」とナイル河の氾濫や天文学の発達が紹介されている。
「華夷通商考」は、如見が長崎で見聞した世界事情を、主として通商の関係から述べたものである。「紅海の色を赤きこと血の如し」と書いているが、アラビアをおどろおどろしい地と想像していたのだろうか。
江戸時代の百科事典である「和漢三才圖繪」(寺島良安著、正徳2年、1712年ごろ)にも、アラブの総称としての「大食(だいし)」やアラブの国々や関連の情報が載っている。
「大食」の項では、「海の西南一千里に在り。山谷の間に居り。有る樹枝の上に花生ず。語を解せざる入首(人種)の如し。人借問すれば惟笑ふのみ。頻りに笑えば輙ち(すなわち)凋み落つる。大食國の總名には 國千餘あり、其属、麻離抜(ミルバート)、白達(バグダッド)、吉慈尼(ガズナ)、眉路骨(ムルヒドン)、勿斯離(ミスル)、其餘は未だ知るに及ばず」とある。
各大食国についての記述もあるが、オマーンに関係したものだけを拾ってみる。
「大食勿抜(ソハール)」の項では、
「・・・大食勿抜は海邊(=辺)にて天気暖めること甚だしく、乳香の樹を出す。 日を逐いて刀を用いて樹皮を斫り乳を取り、毎年春末に一等有り、飛禽天より降る。白糸鶉の如し。肥えて味佳なり。大魚有り、高さ二丈餘り長さ十丈餘り。人敢へて食はず。膏を刳りて油と為し 筋骨を屋桁に作るべく、背骨を門扇に作るべく 背筋を春臼に為す。又た龍涎有り。塊と成り、治の岸人競い取りて貨賣す。案ずるに所謂大魚は鯨か」と「乳香」、
「鯨」、「龍涎」に触れている。龍涎とは、龍涎香(りゅうぜんこう)のことで、マッコウクジラから採取する、松脂に似た香料のことである。
ソハールでは採れない乳香をソハールの産物として紹介している。「刀を用ひて」と小刀で樹に傷をつけながら採取するさまの描写は合っているが、場所には誤りがある。
また、「麻離抜(ミルバート)」の項では、「廣州より舶を発して、北風に乗りて四十日にて至る。地を藍里博と名づく。蘇木、白錫、長白膝住を買ひ、次年の冬に至りて、再び北風に乗り、六十日、方さに其國に至る。博易官豪 金線桃花帛を以て 頭を纏め 金銀を以て銭と為し交易す」とターバンに触れている。また、土産品として「没薬」の文字も別途見える。
新井白石の「西洋紀聞(正徳5年、1715年ごろ完成)」では、世界の大陸や海、また国々を説明している。アフリカの記述の中で紅海を示す西紅海(せいこうかい)に、またアジアの諸国に関する記述でハルシャに触れているが、アラビアに関する記述はまったくない。
なお、「西洋紀聞」は、宝永5年(1708年)に切支丹禁令をあえて冒して日本に潜入し、布教を企てた宣教師ヨハン・シドッチを白石がみずから尋問した結果書かれた世界事情紹介とキリスト教批判の書物である。
同じくシドッチの尋問から得た知識を基に幕府報告を目的に書かれた「采覧異言(さいらんいげん、正徳3(1713)年」にはアラビアの記述があり、馬、乳香についても触れている。
オランダの献上アラブ産品
中国とともに貿易を許されていたオランダは将軍や幕府高官や長崎奉行などに対して珍品の贈り物作戦を展開した。後には日本側からも欲しい品物の要望を出すようになり、それが注文書 (Eisch Boeken) の形で残されている。
その品物は多種多様であった。曰く、各種織物、ラクダ・馬・ジャコウネコなどの動物、植物、鏡・薬味台、眼鏡・ガラス製品類・皿・ランプなどの日用品、薬品や薬剤ビンなどの医薬品、鋏・外科用の両刃のメスなどの医療器具、ナイフ・インク・紙などの文具類、バター・酒類・ワイン・サフランなどの食品やアルコール飲料、琥珀や石などの宝石、時計・望遠鏡・顕微鏡・八文儀などの科学器具、ピストルや火薬などの武器、辞書・百科事典・暦・専門書などの書籍、地図や地球儀、製図器や釣鐘形潜水器などにまで及んでいる。
この中には、中東に縁のある「サフランの種」、「ラクダ」、「サフラン」、「地図」、「地球儀」、「テリアカ」などが含まれている。これらの品々の説明時にアラビアのことが話題に上っていたと想像される。
幕末とアラブ
寛永16(1639)年以降続いた鎖国は、徳川幕府がペリー来航の翌年の安政元(1854)年にアメリカ合衆国と日米和親条約を締結することによって終結した。ついで安政5(1858)年にはアメリカ総領事ハリスとの間で日米修好通商条約がれ、引き続きオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約が締結された。その後国内では尊王攘夷運動が高まり、安政の大獄(安政5〔1858〕年)、桜田門の変(万延元〔1860〕年)、相次ぐ外国人の殺傷事件など内憂外患の状況が続くことになる。
それでも万延元年には日米修好通商条約批准のために、咸臨丸(司令官は木村摂津守、艦長は勝海舟)が護衛艦として随行したことで有名な遣米使節団(正使は新見豊前守、目付は小栗上野介)が初めて米国に派遣された。遣米使節団はワシントン、ニューヨークを訪問後、大西洋を渡ってアフリカのルワンダに寄航、そこからまっすぐジャワ島のバタビア(現在のジャカルタ)まで航行し、香港を経由して帰国したので、アラビアの地には立ち寄っていない。
護衛艦の咸臨丸は、ハワイを経由してサンフランシスコに到着、そのまま帰国しているので、アラビアとは全く関係がない。
文久元(1861)年には開市(江戸・大阪)・開港(兵庫など)延期交渉のために遣欧使節団(正使は竹内下野下守保徳)が、文久3(1863)年には横浜鎖港談判のため、フランスに使節団(正使は池田筑後守長発)が派遣されている。さらに、慶応元(1865)年には柴田日向守剛中を正使とした遣仏使節団が、慶応3(1867)年には小野友五郎一行の遣米使節とロシアとの間でカラフトの国境画定のために小出大和守秀実を正使とする遣露使節団が派遣されている。
当時ヨーロッパへの航路はアデン・スエズ・アレクサンドリア・ポートサイド・カイロなどに寄港しており、ヨーロッパに派遣された使節団に参加した日本人が最初にアラビアの地アデンを見ることになる。
その見聞が本に纏められて残されている。多少難解な点もあり重複する記述もあるが、以下に順次紹介する。
まずは、文久元(1861)年の竹内保徳を正使とした第1回遣欧使節団に参加した福沢諭吉はその著「西航記」に以下のとおり記述している。
「二月十二日夜第二時、亜丁(アデン)に着。○亜丁はアラビアの南岸、紅海の海口にあり。人口二万許(ばかり)。交易盛んならず。千八百三十九年より英国の所轄に属し、唯だ海軍用の為蔵庫を設けて、印度支那に往来する軍艦の欠乏品を給するに備るのみ。土人の習俗、印度人と大同小異」と。
筆者にはアラビア人とインド人とはまったく違って見える。咸臨丸で米国は経験しているが、この時の福沢には初めてのアラビア人とインド人は同じに見えて、区別がつかなかったのであろう。
同使節団に随行した市川渡はその著「尾縄欧行漫録」に、
「二月十三日晴 寒暖規八二度
今丑牌後亜刺比亜ノ内亜丁港著海岸ヲ距五丁許ノ所ニ投錨ス港門西に向テ開灣内左右相距凡一里弱最炎熱ノ土地故船上ヨリ望ム所衆山磊河宛モ焦土ノ如ク尺樹ノ寸草ノ生スル無随テ又涓流滴水モ之無シ依テ海濱ニ潮ヲ蒸溜セシメテ飲水ヲ貯フル所アリ人家凡百戸許モ有ヘシ碇泊ノ船モ水纔三雙許ヲ見ルノミ旅館等モ無之但煤石積蓄所ハ岸邊に之アリ英国ヨリ衛府ヲ建テ又戌卒二千七百人ヲ置トソ土人拳毛黝黒大抵印度人ニ類シテ却テ野鄙愚陋ニ見エタリ今朝ヨリ煤石ヲ運入スルニヨリ船中黒塵ニ汚サル土人小船ニテ椰葉製ノ籠類及臥席駝鳥ノ卵又「レイット」ト云乾果實ヲ賣リ来ル之ハ味略乾柹ニ類セシモノ也巳牌ヨリ御三使上陸セラル此時岸上砲臺ニテ祝砲十五發セリ未牌後歸船セラル申牌後ヨリ蒸気ヲ盛ニシテ北西ニ向テ發ス…」。
炎熱の地のゆえに焦土のようで一木一草もない山、水のない川には驚いた様子がよく分かる。「住民はインド人に似て拳まで毛があり肌は青黒く、野鄙愚陋に見える。椰子の葉で作った篭や駝鳥の卵又「レイット」という乾燥した実を売りに来た。味は干し柿に似ている」とある。「レイット」は「デーツ」のことであろう。デーツは英語である。イギリス人から聞いた「デーツ」という言葉が「レイット」と聞こえたのであろう。
市川によると、アデンに上陸したのは御三使、すなわち正使の竹内保徳、副使の松平康直、監察の京極高朗とその従者ということになる。この人たちが記録上アラビアの地に最初に上陸した日本人たちである。岸上砲台は英国人の陣地、祝砲15発をうったというから英国も使節団には敬意を表したことが分かる。
同じく同使節団に随行した益頭駿次郎はその著「欧行記」に以下のとおり記述している。
「…此港は亜刺比亜洲内の一港にして地勢は山嶽多く悉く焼化山にて樹木なく家數至て少く炎熱殊に甚しく温器は八九十度餘・・・殊に此港寂寞の地にて各國商船の入津稀なり軍艦は石炭を積貯のため入港すと云又土地の産物を考るに一體炎地にて樹木蕃殖せさる程の土地に付青物の野菜等は更に無之外国の品物以生活を得ると云茲にデードと云ものあり夏目にひとし其の味甘くして我国乾柹に凡彷彿たり右デード平日食料となせし由五穀を不食木實以生得ると云・・・此地牛馬少なくラクダ獣有之牛馬は水なくしては生活得すラクダは水なくして生を得云故に諸品轉送にラクダを相用ひ日用を要用なせし由・・・三使上陸せしか我其外は上陸なし故に委曲は地勢記し難く風説にて記而己其地見聞せさりしは遺憾少からす・・・」とある。
温度90度を摂氏に換算すると、摂氏32度。ましてや90度余りとなれば、暑い筈である。益頭はデーツをデードと記しているが、実際に食べて、その味は「日本の干し柿に似ている」、「アラブ人が穀物を食べなくともデーツで生きられる」と書いている。さらに、ラクダにも言及し、上陸して実際に見聞できなかったことは遺憾と書いている。
同じく同使節団に随行した淵邊徳蔵の「欧行日記」の記述もほぼ同じであるが、
「・・・夜半後港に入る亜丁港なり英人はアーデンといふ」、「・・・土人皆黒色にして半身に布を纏ふのみなり」、「・・・陸上皆駱駝を駆て物を運送すまま馬車もあり」、「・・・土人小舟或は筏に乗り来て産物を賣る中ニも駝鳥の卵殻ハ徑五六寸にして堅質陶器の如し又鮮美なる鳥羽を賣る西洋人皆求て婦人の頭飾となす」とある。
淵邊は御三使について上陸したらしい。ラクダを見て興奮したに違いない。
池田長発を正使とした翌年の文久3(1863)年の遣欧使節団に参加した岩松太郎はその著「航海日記」に以下のとおり記述している。
「・・・○夕陽に至り遥か先にアデン相見へ○亜刺比亜國の内のアデンとはケ様書くと云鴨丁…○夜五ッ時鴨丁へ入る艦を留め大砲壹パッを放發す其よりも碇をおろし碇泊す夜中には候得共夜景随分絶景に相見る…○夜入風無くして暑さ強く一同困り僕も曉迄不寝」、
「・・・○今曉艦板上登り見るにかもめ舞来り小舟は来る向島を見る随分美なり皆岩山にして所々に異人館有る○皆岩山其間々に人家有之…○・・・○鴨丁は英の支配地也○使節方御上陸に相成留三郎御共○名倉上陸し左右を見るにラクダ、ロバ澤山に有之と云由又亜刺比亜人の内にヤロウの者共も有之候と云由し○彼の地の者を見るに頭は毛焼て皆ちゝれ或は坊主はざんぎり躰の黒き事墨を流すが如し○両三人にて商船の内にぼら、さより二五六本程求め料理し食す代半トル○八ツ時頃使節方御歸宿相成御供の者噺には當地の人は皆賊と云事なり然る所馬車に乗り候者の扇子むちなそ取にけ候と云由・・・○暑さ強し○寒暖慶八十六度餘○艦板上へ登り涼み候に蒸氣粉多くして涼む事不叶因無據寝屋入り臥す」と。
暑さにはこたえたようである。夜は暁まで寝られなかったとある。ボラやさよりをどのようにして食べたのであろうか。それにしても「アラビア人がみんな賊である」とか淵邊の「土人皆黒色にして半身に布を纏ふのみなり」という記述などは、明治時代に日本にやってきた欧米人たちの日本人に関する記述によく似ているのには驚く。
幕末に来日した英国の外交官アーネスト・サトウはその著「一外交官の見た明治維新」で、初めて日本に着いた時に東京湾で見た漁師について「彼らは、腰のまわりに白布をまとっているだけだった。目と顎しか見えないくらいに、青い布で頬かぶりをした者もいたが、ほとんど裸体に近かった」、また「自分の『給仕(ボーイ)』をなかなかの悪党とにらんでいたが、果たしてそうであった。・・・数脚の椅子と一個のテーブルの代金として大工へ支払った金の中から、この給仕めがうんと掠りを取ったのを知った」と書いている。
慶応3年(1867年)にパリでの万国博覧会のためにヨーロッパを訪れた徳川昭武一行もアラビアではアデンに停泊している。
これに随行した渋沢栄一は航西日記の中でアデンについて次のように述べている。
「・・・土地赭皟にして山に樹草なく地に潤澤なし磽确瘠薄の地なり人民は即亜剌比亜人種にて印度に比すれば強壮にして品格又陋シ・・・土人羊を牧するを業とし負載多くは駱駝を用ゆ○土産駄鳥の羽(歐州婦女子の帽子の飾に用ゆ)同卵豹皮木彫七蒲葵の團扇石蠺なり旅客あなば携來て之を鬻ぐ但銭を乞い價を貪る甚し上陸の時心を用ゆべし・・・」とある。
「アラビア人はインド人より強そうだが、品性卑しい」と書いているが、駝鳥の羽などの土産品を吹っかけながらしつこく売りこんだことからこう断じたのだろうか。
なお、スエズからポートサイドまでのスエズ運河が開通したのは、明治2(1869)年11月27日である。安政6(1859)年に着工してから10年後のことである。当時スエズ運河はまだ完成していないので、これらの使節団はスエズ港で下船し、そこからカイロ、さらにアレキサンドリアには汽車で行き、そこから再び船でヨーロッパに向かっている。
第五章 日本とオマーンとの交流の始まり−ヒト
吉田正春使節団
明治政府は明治13(1880)年に国情・商況調査のために、いわゆる「吉田正春(せいしゅん)使節団」をペルシャとトルコに派遣した。
このきっかけとなったのは、明治7(1874)年から4年間ロシアの全権公使を務めていた榎本武揚と参事官の西徳三郎がヨーロッパを訪問中のペルシャ王ナッスル・エデンシャにサントペテルブルグで謁見し、席上王から「日本との通商を希望する」ことが表明されたことである。当時の外務卿井上馨は、この機会を捉えて使節団をペルシャから、さらにオスマン・トルコにまで足を伸ばさせた。
なお、トルコについては、明治9(1876)年に在英公使館の書記生であった中井弘が帰国の途中立ち寄った際に、外務大臣から「日本との国交を結びたい」という旨を伝えられていた経緯がある。
近代化を進めようとする明治新政府の外交上最大の問題は領土の画定と不平等条約の改定であった。トルコとペルシャは当時わが国と同じく不平等条約で苦しんでおり、日本政府は両国の動向に関心もあった。
古川宣誉
吉田使節団の副団長格であった陸軍工兵大尉古川宣誉が、ペルシャに行く途次にマスカットに上陸している。これが、記録上日本人最初のオマーン訪問であった。
明治24年(1891)3月に刊行された古川著の「波斯紀行」(参謀本部)に基づいて、その経緯を以下に述べる。
当時陸軍省参謀本部に奉職中であった古川はペルシャ視察の命を受けて、明治13(1880)年4月6日に軍艦「比叡」に乗船して品川沖を出港した。艦長は伊東祐享(いとうすけゆき)海軍中佐。同行人は、団長の外務省御用掛吉田正春、大蔵省商務局から大倉組商社副社長横山孫一郎と同社社員の土田政次郎、七宝焼磁器商後藤猪太郎、小間物商藤田太吉、金銀細工物商三河鑄二郎の計6名。
比叡は、「印度洋航行の命を受けて演習のため日本を出発したが、ペルシャ湾の主要港まで使節団一行に便宜供与をするとの約束があった」と後述の吉田の著書「波斯の旅」にある。これも当時海軍卿に転任していた榎本武揚の計らいによるものであった。
より速い郵船でペルシャのブシェールに向うことにした吉田らと香港で別れた古川は「比叡」での航海を続け、吉田らとまた合流したシンガポールからさらに単身「比叡」に搭乗して、ボンベイまで航行した。6月19日にそこで「比叡」の艦長や諸士官に別れを告げて単身郵船「ソコトラ」号に乗り換え、カラチを経由してマスカットに到着した。明治13年6月25日のことで、品川を出港してから80日目のことであった。
その時の様子を古川は以下のように記している。
「廿五日(金曜)晴九十度
午後十二時三十分亜刺伯ノマスカット港ニ着ス…亜刺伯東北海岸ノ1海港ニシテ兼テオーマン王國ノ都府タリ・・・往古ハ版圖頗ル廣ク比路直斯坦及印度等ニ於テ許多ノ地ヲ領シタリシカ國政漸ク衰ヘ方今ハ土耳其(トルコ)ノ附庸トシテ亜刺伯ノ東北海岸及内地小許ヲ領シ回教ヲ奉シ現今ノ國王ヲサイタケト稱ス・・・比叡艦ノ該港ニ至ルヤ國王艦中ニ来リ牛羊菓實等ヲ贈ル艦長モ又王宮ニ至リ其辱キヲ謝ス・・・」と。
さらに、マスカット湾の様子については、「此マスカット港ハ石山ノ間ニ在ル一小灣ニシテ圍繞スル所ノ巌上絶テ一杯ノ土半點ノ緑モ見ス港口ノ左方海中ニ一大巌島アリテ上ニ圓臺形ノ砲臺アリ又港内左右ノ巌山ニモ同形ノ砲臺アリ・・・市街ハ港灣ノ盡頭ニ在リ人口七百餘王宮アリ英国の領事館アリ港内碇泊セル洋船八隻ヲ見ル其内土耳其商船一隻アリ・・・」と。
古川はカラチで「ソコトラ号」で知り合ったマスカット駐在英国領事のグラント陸軍少佐の好意で英国領事館に行き、そこで案内人をつけてもらって市内を見物している。
その印象については、次のように記している。「・・・市街ニ至ルニ其景況實ニ奇ニシテ街?ト稱ス可キノ處ヲ見ス原来家屋ハ皆日光モニ曝乾シテ作リタル煉瓦ヲ以テ建築シ人馬ノ通行スベキハ僅ニ六七尺ニ過キス・・・其左右或ハ商店アリ少許ノ布帛又ハ雑穀食物等ヲ賣ルヲ見ル此市街ハ僅ニ方三四丁に過キス其外部ニハ壁アリテ之ヲ繰リ一城郭ノ形ヲ為ス・・・郭ノ内外都テ樹木ヲ見ス巌山瘠土ノ間ニ人家散點シタル景色ハ問ハスシテ極熱ノ地タルヲ知ルヘシ草木ノ眼ニ入ル者唯梛樹六七株アルノミ是ニ至リ烈日炎熇居ル可ラサルヲ以テ英ノ領事館ニ帰リ小憩セリ・・・」と。
見物から戻った英國領事館で、マスカットは極熱の地で気温が華氏で120度(摂氏48.8度)以上になり地球上第一の熱地であること、当時マスカットにはグラントの他英商人が一名居住しているだけで他に西洋人は居ないこと、またこの地の良いのは飲料水だけと聞いたと記している。
古川が訪れた6月はマスカットで一番暑い月で、30度後半から40度−45度の暑い日が続く。マスカットに初めて英国の政務官が駐在したのは、寛政12(1800)年のことである。しかし、マスカットの暑さで政務官が三代続いて病死したことから、文化7(1810)年には駐在が廃止され、その後30年間はブシェールの湾岸駐在政務官がその任務に当たった。その後サイード大王下での繁栄によってオマーンの重要性が増し、天保11(1840)年にマスカット駐在制度が復活された。古川に暑さのことを説明したグラントの頭にも、このことは刻みこまれていた筈である。
古川は国王の名前をサイタケと記している。当時の国王はトルキーである。多分敬称である「セイイッド(Sayyid)」をつけて「セイイッド・トルキー」と言ったのを、古川には「サイタケ」と聞こえたのであろう。
「・・・午後三時半本船ニ帰リ夜九時抜錨波斯ノジャースカニ向ケテ發ス」とあるように古川はその日にペルシャのジャースカに向った。マスカットに滞在した時間は僅かに3時間であった。
なお、古川は幕臣の出(1849−1921)。戊辰戦争で江原素平(麻布中学校の創立者)とともに下総で戦った。その後、徳川氏の移封により設立された沼津兵学校に第三期生として入学。兵学校廃止とともに上京し、以後陸軍の工兵分野で活躍した。日清・日露戦争にも出征し、明治39年に中将となっている。嘉永2(1849)年−大正10(1921)年。
伊東祐享
古川が出発してから数日後に「比叡」がマスカット港に入港している。オマーンを二度目に訪れた日本人は比叡艦の乗組員であり、伊東祐享艦長、村瀬軍医などはオマーン国王に拝謁した最初の日本人であった。
比叡艦が入港すると、国王トルキーが牛、羊、果実を持って船を訪問し、答礼として伊藤以下が王宮を表敬訪問した。このことは、7月10日にブシェールで「比叡」を迎えた時に伊東などから聞いた話として古川によって記述されている。
後述の吉田もその著「波斯之旅−回彊探検」でこの時のことを「我比叡號の此地に着するや、國王は牛一頭、羊四頭、泥棗(デーツ)、葡萄、槾菓(マンゴ)數籃を贈り、且つ艦長以下を己の宮殿に迎え頗る歓待したり、…」と記している。
伊東は鹿児島藩士の出。薩英戦争に参加。幕府の海軍操練所に学び、明治維新後海軍軍人となった。日清戦争時には連合艦隊司令官を務め、黄海海戦で中国側の大型主力艦を撃破して大勝利を収めた。この時、東郷平八郎が「浪速」艦長として、伊東の指揮下で活躍している。伊藤は明治31(1898)年に海軍大将に、日露戦争後に元帥に栄進した。天保14(1843)年−大正3(1914)年。
吉田 正春
吉田正春も明治27年4月に紀行文「波斯之旅−回彊探検」を刊行している。シンガポールで古川と別れた吉田と横山らはブシェールに向かう途中にオマーンを望見し、「元より阿刺比亜の地は広漠たる砂漠の極端なれば、別に目を遮ぎる程の山獄をみざりしは必然なり、然れども阿曼國(オマーン)海岸の山脈は中々峻抜なるものにして、其餘勢は此邊に到りて盡きたるとは云え、若しも距離が稍々一望し能ふ丈に接近し居りしならば、全く目を遮るものなしとも云え難し、・・・」と記述している。
その後、吉田と横山らはバーレーンに立ち寄っている。この地を訪れた最初の日本人の貴重な記録なので、概略をここで記載する。
「馬波連島(バハレン)は波斯灣中に於て著名なる一島にして、阿剌比亜洲端の波斯に向かって窄狭したる中位に當り、佛錫港を距る九十英里の左岸にあり、・・・余等が此島の一灣に投錨して遥かに椰楡林中の赭壁を見たりし時は、如何なる市街にやと想像せり、・・・上陸したればとて見物すべきものもなく、市街の二英里外に天延の炭酸曹達を湧出して一大泉地を驢馬を僦(やと)ふて其地に赴きしが、又一驚を喫したり、・・・椰林中の小徑を旋轉して數十分にして其泉池に達せしかば、矢庭に泉池に俯して一掬の曹達水を飲みし時は、頗る輕快を覺えたり、此の泉池は直徑五六尺に過ぎず、水光瀲灔(れんえん)として澄明なる事恰も鏡の如し、余等が船中に於て温暖なる水を飲み、僅かに焦熱を凌きたり身躰には、暫らく此の泉池の傍を去る能はざるの情を起さしむ、・・・島酋の居住は左傍の椰樹林中に紅旗を飜へしたる一巨屋にして、此の一島の生殺與奪の大權を掌握す、殊に寳庫と自慢するは同島灣中に於て撈取する所の真珠なり、年々歐洲へ輸出する高四五十萬弗に下らず、此地の産に限り光澤も充分にて、歐洲貴紳の社會にては馬波連真珠の名譽最も高く、一把の領飾(えりかざり)は美人の嫁資を傾くるに到るよしなり、或説に因れば土人の撈取方甚だ拙し、若しも良巧なる器械を用ふるを知らば、其利百倍なりと云ふを聞きて、余は迷海の深さ利海の深さを測量するの器械なきを歎じたりき、對岸の佛錫港に向って抜錨する迄は島中に終日縱歩せしが、日没に及んで此の奇妙なる一島を辞し去って、其翌朝佛錫港に達せり・・・」とある。
吉田が訪ねた泉はどこであろうか。筆者が初めてバーレーンを訪れた1973年に単身訪ねたアダリ・プールはもっと大きく、そこから水がごうごうと音を立てて流れていた。別のところかもしれない。
当時湾岸では吉田が触れている真珠取りが盛んに行われていた。この真珠取りは2000年以上も前に始まり、爾来湾岸の人々の生活を支えてきたが、1930年代になって御木本幸吉の養殖真珠の出現によって衰退が始まった。
御木本が世界で初めて真珠の養殖に成功したのが明治26(1893)年、ロンドンやニューヨークに支店を出して世界的に認められたのは昭和4(1929)年のことであった。しかし、太平洋戦争中は縮小を余儀なくされ、業績を伸ばして世界的地位を築くのは戦後の昭和20年代のことである。これによって、アラビア湾岸の真珠取りは1950年代にほぼ壊滅した。
吉田と横山らは、古川や「比叡」より先にブシェールに到着した。そこでじっと古川や「比叡」の到着を待つよりは、アラビア奥地を見ようと、同行の商人らを残して、吉田・横山とインド人通訳の3人は「亜剌比亜河(チグリス・ユーフラテス河のこと)」を遡り、バスラとバグダッドを訪ねることにした。
吉田がブシェールを出たのは6月21日、古川がマスカット手前のカラチ港に入港する1日前のことであった。
吉田と横山はその途次に、日本人として初めてクウェート港に立ち寄っている。
「翌日午後コワイトと云える阿剌比亜河口の碇泊場に達せり、船中の奇観として記すべきは、此のコワイト酋長某は二幼児を携え先頃より孟買港に遊びたりしに、此日圖らずも余と同船したりし、酋長は骨格偉大にして頭は金絲にて縁縫せし駝毛織(カスミア)を纏いひ、・・・身には樺色の「アバス」(野羊の毛を以て織りたる物なり)濶袖無領(くわっしむりょう)の長服を着し、・・・食事の時は甲板の上に絨氈を敷かしめて之に正座し、一盆に盛りたる米と肉と「カレー」汁を手指を以て撈食す・・・扨て船は舶船の位置を定めたると同時に前面より端艇(はしけ)二隻を艤(よそほ)ひ、十餘人の婦人皆面部を裛(つゝ)み、恰も我邦に於る古代の上被(かづき)と一般なる服装して此中に團座し、酋長を出迎えの爲に來たりし、・・・船よりは数百個の木綿及び穀物を積み卸せしを看れば、遥か前面に當って黄沙の堆畔に置き排(なら)べたる如き家屋も必らず一條の貿易場と知らす、・・・コワイトより阿剌比亜河口に進航す、土人これをシャッタラ、アラブと稱す・・・」とある。
吉田らは上陸しなかったが、船中でその服装、食事、女性などを物珍しげに観察している。女性が顔を隠しているのを見て、日本古代の女性がかぶった上被を想起している。
この後吉田と横山はバスラとバグダッドを訪れ、バビロン史跡に向ったが、華氏130度(摂氏54.4度)という猛烈な暑さとなり吉田が日射病に倒れて断念し、20キロぐらい手前のところからバグダッドに引き返した。
筆者が初めてバビロンの遺跡に立ったのは昭和51(1976)年11月3日、文化の日であった。同行したS商事のSさんと「一億人を超える日本人のうち、今日の文化の日にバビロンの遺跡に立っているのはわれわれだけ」と悦に入ったものであったが、百年も前に吉田・横山が近くまで来ていようとは。
吉田ら一行はブシェールからテヘランに向かう途中、ペルセポリスの遺跡にも立ち寄っている。筆者も1970年代にペルセポリスは数回訪れたが、百年も前に日本人が訪れていたとは思いもよらないことであった。
吉田・横山は酷熱のために疲労困憊の中でブシェールに戻り、古川や随行の商人たちに合流している。「比叡」もすでに入港していた。
これについて、古川は以下のように既述している。
「十日(土曜)晴九六度
午前三時半早起四時三十分小舟ニ駕シ比叡艦ニ至リ艦長其他士官ニ會ス聞ク本艦ハ六月二十六日孟買ヲ開帆シ亜刺伯ノマスカットニ三日間ヲ費シ而シテ昨日始テ本港ニ到レリト
午前九時下艦同十一時帰寓シ又比叡艦ノ事務ノ為メ外務官ノ衙門ニ至リ更ニ寓ニ歸衙リタルニ吉田横山二氏ノバグダッドヨリ歸ル…」と。
また、吉田は、
「只余が一行と共に比叡號の來着を迎ふるを共にすること能はざりしは遺憾なりし、余が阿剌比亜より歸り來る三日以内に比叡號は無事に到着し、バンダラ・ ブッシールの沖合に旭日の旗を飜へし居れり、余は艦長と共に佛錫港の知事及び外務代辨を訪問し、彼等の接待を受け又彼等を艦中に招宴せり、五六日間にして比叡號は余等が一行を捨てゝ歸路に上り、・・・」と書いている。
この時代に日本の軍艦がブシェールにまで行っていたのには驚かされるが、古川も吉田もこの地で日の丸を見て、感激したことは想像に難くない。
吉田正春は、土佐藩参政吉田東洋の長男。父の横死の後、母の実家の後藤家で養育された。後藤象二郎は従兄弟。吉田は外務省御用掛として使節団団長を務め、明治15(1882)年には伊藤博文に随行してヨーロッパ諸国で憲法起草調査を行なった。ハインリッヒ・フォン・シーボルトの「考古説略」を翻訳。嘉永5(1852)年〜大正10(1921)年。
スルタン・トルキー・ビン・サイード
ここで、軍艦「比叡」を訪れ、後に伊東らが王宮に訪ねたスルタン・トルキーについて記述しておこう。
スルタン・トルキーはサイード大王の第6子である。ザンジバルとオマーンの分裂後トルキーの兄スワイニがオマーン第7代目のスルタンとなったが、その時ソハール知事であったトルキーは王位を狙って兄のいるマスカット攻撃をしようとした。
その後和解した兄スワイニは、ソハール訪問中に息子サリムによって殺害されてしまう。1866年のことであった。トルキーもその場で捕らえられたが、それを脱して、第8代スルタンとなったサリムを王位から引きずりおろすべくマトラを陥れ、その後マスカットに迫った。しかしながら、サリムを王とするイギリスの調停によって、トルキーは息子のファイサルを連れてグワダルに移住し、しばらくはそこを治めていた。
その後もスルタンになる望みを捨てなかったトルキーは、サリムの跡を継いだ傍系王族で不人気の9代目スルタンのアザンと戦ってこれを破り、サイード大王の没後15年目の1871年に第10代目のスルタンとなった。
しかしながら、1874年に地方豪族がマスカット奪取を試みた。翌1875年にトルキーは病気と内乱のためにいったんはグワダルに逃れたが、同年に健康と気力を回復して密かにマトラに上陸して復活した。1877年にも国内の反対勢力がマスカット攻撃を始めたが、これを英国の援助で制圧した。1883年にも地方大豪族とトルキーの弟との連合軍の攻撃を受
けたが、英国と一部豪族の協力によって再びこれを退けている。そして、その治世は彼が亡くなる1888年まで続いた。
1871年のトルキーの勇気ある行動によって、その後王位が彼の息子ファイサル、その息子のタイムール、その息子のサイード、さらにその息子で現在の国王であるカブースまで直系の統治が続くことになったのである。
古川や伊東らがマスカットを訪れたのは、明治13(1880)年のこと、スルタン・トルキーが国内の相次ぐ反乱に気を緩める暇のない時期のことであった。
なお、1784年以来「イマーム」に換わって「セイイッド」の称号が使われるようになったことは前述したが、19世紀後半から統治者が「スルタン」という称号で呼ばれるようになったことも付記する。
マスカットのいま
いまから128年前に古川と伊東が訪れたマスカットについても少し述べておこう。
いまマスカットというと、南北40キロに亘り65万人が暮らすグレート・マスカットのことであり、古川や伊東が訪れたのはその中でいま「オールド・マスカット」といわれている地域である。
メイン道路をマトラの方から車を走らせる。マトラの町並みを外れてすぐのリヤミロータリーのところを右折して道なりに進むと、山道に出る。この道路が1929年にオマーンで初めて作られた舗装道路である。山道を登ると、左は切り立った岩山、右側は低いコンクリートの防護壁で隔てられた断崖となる。その道をしばらく走ると、左手の岩山が途切れる場所がある。そこに車を止めて、左手を見ると眼下にマスカットの町が一望できる。
この見える範囲が、オールド・マスカットの町である。約1キロ四方にも満たない狭いところである。遠く左手にポルトガル時代の1587年に作られたミラーニ城が、その右手に1974年にいまの形になった国王が執務されるアラム王宮が見える。
王宮には、国王が執務されている時には国旗が掲げられる。旗があれば、国王が居られるのである。遠く正面には1588年に建てられたジャラーリ城が見える。目を凝らすと、ミラーニ城の手前に、国王が公に礼拝されるアル・ホールモスクも見える。
マスカットとは、アラビア語で落ちるところという意味であるという。なるほど、逆に海から見ると、いま立っている岩山の断崖が海に落ち込んでいる様に見えたのであろうと納得がいく。
現在オールド・マスカットの人口は3万人足らずであるが、サイード大王在位中は5万人を越えていたという。その恵まれたロケーション、天然の良港、豊富な水などによって、マスカットが古くから有名であったが、とくにオマーンがソマリアからモザンビークまでのアフリカ東海岸、対岸のバルチスタン地方を勢力圏に入れて一大海洋帝国を形成したサイード大王時代には、アラビア半島でマスカットはアデンと並ぶ重要な港であった。それがオマーンの勢力の低下で1970年には人口は5千人にまで低下していたという。
スルタン・トルキーの治世にも1875年に反政府軍の攻撃を受けているが、ここは幾度となく権力を争う戦いの場となった。とくに、1650年には、オマーン軍が4千人ともいわれる屍を乗り越えてジャラーリ城やミラーニ城の城壁を攻め登り、ポルトガル人を放逐したのを想起しながらその岩山を見上げるといっそう感慨深いものがある。
マスカットへの訪問は、昼よりも夜間の方がはるかに魅力的であることも付記しておきたい。真っ暗闇の山道を過ぎて、突如左手前方下にぱっと広がるマスカットの夜景は感動的である。
ミラーニ城、アラム王宮、ジャラーリ城が暗闇の中にライトアップされて浮かぶ姿、それらがマスカットの入江に映える景色は、この世のものとは思えない幽玄さがある。マスカットの大門をくぐり、アル・ホール・モスクを通り、ミラーニ城のところを道なりに左折、王立ヨットハーバーの入り口に車を止めて眺めるマスカット湾の夜景は絶品である。
福島安正
明治時代にその後マスカットを訪れたのは、当時陸軍大佐であった福島安正と忘れられた国際人と称される家永豊吉である。
福島安正は松本藩の下級武士の出である。苦労の末、26歳の時に登用試験に合格して中尉に任官し、本格的な職業軍人となった。明治16(1883)年から北京公使館付武官、同19(1886)年に印度に派遣され、印度全土を廻る初の海外遠征で名をあげた。
明治20(1887)年からベルリン公使館付武官、その後明治25年から26年にかけて単身騎馬にまたがり、ロシア、シベリア大平原、蒙古平原、満州を経てウラジオストックから東京に帰国して国民の喝采を浴びた。
明治28年10月に東京を出発して同30年3月に帰朝するまで、中国、香港、シンガポール、タイ、エジプト、ギリシャ、トルコ、キプロス、レバノン、セイロン、ビルマ、印度、オマーン、ペルシャ、コーカサス地方、中央アジア諸国、などを廻った。福島がオマーンを訪ねたのはこの時であった。
福島は悪天候のためにマスカットでは上陸することができなかったが、その時のことを「波斯紀行」の中で以下のように記している。明治29(1896)年11月26日のことであった。
「夜来北方の強風浪を揚げて船體の動揺甚だしく、翌二十六日午前七時既に摩斯科特(マスカット)に達したが、港口の北に開けるより波濤高く、荷物を搭載すること能はず、空しく錨を投じて風波の収まるのを待った。港内には支丹の軍艦一隻悄然として舊位置に在り、其他嶄然たる岩山の保壘、依然として舊観を存し、宮殿の紅旗も亦翩翻として居る。船長、紅旗を望んで曰く「ハヽ−支丹は既に凱旋したのか」…汽船に搭載すべき貨物二百五十噸があるといふので、切りに風波の収まるのを待ったが、終日其勢減ぜず。此日汽船一隻も喀拉支(カラチ)より入港したものは、途上暴風に遭って非常に困難したという事であった。我汽船の通過した分港(ブンダバラス)以来の風波は蓋し其の餘波であろう。
此夜風少しく衰えたるも、翌廿七日拂曉より又威力を加え来って、到底積荷の目途無きに及んだので、午後三時解纜比爾支斯丹(バルチスタン)の瓜達爾(グヮダル)に向った。
…」とある。
私事になるが、筆者は1974年から約2年間丸善石油(現コスモ石油)の代表としてベイルートに駐在した。そこには思い出がいっぱい詰まっている。そのベイルートを福島は日本人として初めて明治28(1895年)に訪問している。
家永豊吉
家永は熊本バンド(明治期のプロテスタントの源の一つ)の一人。柳川に生まれたが、熊本洋学校を経て同志社に入学。22歳の時に渡米、オベリン大学を1885年に卒業、さらにジョンズ・ホプキン大学に進み、1890年に博士号を得て帰国した。
その後東京専門学校、慶応大学などの教授を務めた。97年に外務省に入り、後に再び渡米し、コロンビア大学で日本に関する講義を担当してが、事故のため米国で亡くなった。
家永は、人名事典の類にはどこにも記述されていないが、当時類まれな国際人であり、「忘れられた国際人」と称されているゆえんである。
家永は外務省在勤中に、台湾政府の最重要施策であった阿片制度関係調査の命を受けて明治32年5月からインド、ペルシャ、トルコ、エジプトなどを視察して同33年3月に帰国している。
当時ペルシャは阿片の産地で、大量の阿片を台湾に供給していた。その台湾は日清戦争後に日本に割譲されたが、阿片は日本では禁止の毒物であった。この問題解決のために家永が派遣され、この途次にマスカット港に立ち寄ったのであった。
家永は明治33年に刊行した「西亜細亜旅行記」の明治32(1899)年5月19日の項でマスカットについて以下のように記述している。
「十九日午時前奇絶怪絶とも評すべき吾人未會見の佳景吾人の面前に現れたり赤色或は黒色を帯ひたる花崗岩の巉々たる斷岸絶壁の鋸もて截りたることき輪?を以って屹立するあり岸上樹木とては箇の灌木をも生ぜす唯た見る五百乃至六百呎の絶壁突如として海上より聳出し一帯の海岸線を形成す遠く之れを眺めは前方見渡すかぎり銅色にして毫も緑葉を帯ひさる阜峰伏相連續せり此の天然城壁内に一小灣あり灣内に一小平面地あり是れすなはち桝勝戸(マスカット)市の在る處なり桝勝戸(マスカット)市は一小市たるもオーマン王國の主都たり國王の宮殿(宮殿なる語は少し物過きるを覺ゆ)は質素にして堅牢なる建物にして屋上に紅色旗を翻へして市の西隅に在るを望見するを得へし而して市の東隅に當りて全市を下瞰すへき位置に於て英國駐在館官廳の屹立つするあり…或る家屋より米國の國旗翻へると見受けたりしか米人は此地に於て些少の棗貿易の外多くの利害を有せさるを以て・・・領事館の事務を代理者に委任シ・・・」と書き記し、「国王は独立の支配者ではなく英国から保護金を給与され、英国の外交家、政治家に実質的に握られている」こと、「英国にとってロケーション的にオマーンが必要である」ことなどを述べた後で、マスカットの暑さについて以下のように書き記している。
「・・・桝勝戸(マスカット)は如何に軍事上若しくは戦略上重要の地たるにせよ夏時此の地に遊ぶは決して望ましき事にあらぶ其炎熱の甚しき到底堪え得らるべきものにあらす・・・十九日の夜此地に着船せし時心氣頗る不穏を感し眠を催し難きを以て試に袖中寒暖計を検するに華氏百十五度を示せり時宛かも夜十一時四十五分なりし聞く六月より八月迄の間は炎熱最も高く普通の寒暖計は破裂の惧れあるを以て高度に昇騰し得る寒暖計を用ひて大陽の射熱度を計りしに華氏一八九度なりしと・・・偶安眠を得るあるも流汗の全身を浸すか為に忽ち夢破るゝの覺悟なかる可らす衣衾枕頭共に流汗滴にて恰も海水より出るか如し・・・」と記している。
1994年のことだったろうか。当時マスカットに住んでいた筆者は妻や日本人の友人数人とマスカット港外に釣りに出かけたことがあった。その帰り道にマスカット湾手前で見た峨々たる岩山の奇観はいまもはっきりと記憶にある。
しかも、そこには白いペンキで無数の文字が書かれていた。あるものは高所に、あるものは波打ち際に、白いペンキの文字が延々と続く。昔、このマスカットを訪れた船乗りたちが船名、名前、日付などを残して行ったものだという。中には、18世紀の後半、ネルソン提督がまだ海軍士官であった時に乗っていたミネルバ号の名前もあるという。この白いペンキが、岩山の奇観をいっそう引き立たせている。家永もこの景色を見たのだと思うと、いっそう感慨深いものがある。
家永は到着の翌日にマスカットを出港している。
「二十日正午桝勝戸を抜錨し船は今やオーマン海上波穏やかなるところにありて進行せり左舷亜刺比亜の佳にして奇なる岩石の巒峰を望み時に巨大なる海豚の波間に跳るを見る微風面を吹き来り心気漸く清涼を覺え頗る此幸福なる變化を喜びぬ己にして…」
家永が書き残しているのは、マスカット市内で筆者の好きな場所の一つであるハムラ岬辺りの風景であろうか。妻と二人でよく訪ねた所である。イルカは見なかったが、ウミガメが悠々と泳いでいるのを断崖の上からまじかに見たことがある。あのきれいな青い海はいまも鮮やかに目に浮かんでくる。
なお、福島が訪れた4年後の明治32年(1899年)に、家永豊吉もベイルートに立ち寄り、さらに北のトリポリや南のシドンも訪れている。頭が下がるばかりである。
なお、家永は日本を出発する前に台湾から東京の外務省にあいさつに出向いた時に、福島にも会って、ペルシャ旅行の指導を受けている。
スルタン・ファイサル・ビン・トルキー
副島と家永がマスカットを訪れたのは、1888年に父トルキーの没後を継いだ第2子ファイサルの治世の時であった。その王位継承は、19世紀中ごろからのオマーン衰退後初めての平和的でスムースなものであった。ファイサルは第7代スワイニ国王の娘である従姉妹との結婚による一族と内陸豪族との良好な関係とザンジバルからの財政的支援を得て当初は順調に支配を固めたが、やがて彼を英国寄りとする豪族や宗教指導者たちの信頼を失っていった。
1891年には、英国との間に「オマーンはその土地を英国以外に譲渡したり、売却したり、抵当としたり、占有させたりしない」という領土割譲に関する条約を締結した。
1895年には、ザンジバルの新スルタンがオマーン支配を目指し、これに呼応する国内主要部族によってマスカットの王宮も占領されてしまう。この時ファイサルは、次ぎのスルタンとなる当時7歳のタイムールたちを守りながら、勇敢な后とともに戦った。この危機的な状況の中で后は英国大使館に助けを求めたが、大使館はなんの行動も起してくれず、ファイサルの英国への不信感が募ることになる。その後、ファイサルは反抗勢力との和解によってマスカットを守りぬくが、英国からは外国人への損害の賠償責任も負わされた。
この時、フアイサルはインド洋での英国の影響力を弱めようとこの地域に進出を始めたロシアとフランスに接近した。しかしながら、いったんフランスに認めたマスカット近郊のジッサ湾での石炭補給港の許可も、英国旗艦艦上に呼び出されて「公に撤回すること、さもなければ王宮と首都を砲撃する」と英国に脅されてファイサルは撤回させられてしまう。1899年2月のことであった。
公開の場での屈辱的な屈服はファイサルには耐え難いものであった。その後、ファイサルは不機嫌の日々を過ごし、唯一の解決は退位以外にないとも考えるようになった。1903年に英国側から退位の申し出も断られたファイサルは政治を大臣任せとするようになる。
内陸部への影響も薄れ、1913年になってイバーデイ派の熱狂的支持者であったいくつかの内陸部族が1871年以来途絶えていたイマームを選出して、スルタンに対して反乱を起した。狂信的で排外的な彼らの主張は、不信心な者たちの条約締結や武器貿易の禁止に反対、また関税はイスラムの教えに背くというものだった。
同年6月、7月、8月にはニズワ、イズキ、サマイルなどが反乱軍の手に落ち、海岸のバチナ地方への道も占拠された。ファイサル先王は9月にマスカットに隣接するマトラの先のルイにあるアル・ファラージュ砦の守備隊を倍増し反乱軍に備えたが、10月に肝臓癌で急死してしまった。
福島がマスカットを訪れたのはファイサルがマスカットを自力で守り抜き英国への不信を募らせ始めたころ、家永が訪れたのはフランスに接近して英国船上で屈辱的な屈服をさせられた直後のことであった。
第六章 志賀重昂とタイムール国王
志賀重昂
日本とオマーンの交流史の中で特筆すべきは志賀重昂(しげたか)のマスカット訪問であろう。日本近現代人名辞典(吉川弘文館、2001年)に基づいて志賀を紹介する。
志賀は文化3(1863)年に藩士志賀重職の長男として現在の
その後長野県で中学教諭を務め、同18(1855)年から軍艦「筑波」に搭乗して対馬を皮きりにオーストラリア、ハワイなどを廻り、その見聞をもとに「南洋時事」を刊行して文名が広まった。
その後は政治運動に身を投じ、同21(1888)年に三宅雪嶺らと政教社を創立。発行した雑誌「日本」の主筆として「国粋保存旨義」を提唱、欧化政策と藩閥政府への反対、大同団結運動と初期帝国議会の在野党支持を主張した。その後官僚生活を経て明治35(1902)年、明治36(1903)年には衆議院議員にも当選したが、同37(1902)年の落選後に政治活動から遠ざかった。
同30(1897)年ころには政教社とも離れている。札幌農学校在学中から登山と旅行を愛好し、地学に関心を抱いた志賀は著書「日本風景論」(明治27年)によって地理学者として認められるようになり、その後地理学に関する多数の著述を公にした。
その内容が各地への旅行、実地踏査の精彩ある叙述と政治・経済的な主張を含む啓蒙的なものであったことから多くの読者を惹き付けた。明治43(1910)年の第一回世界周遊以来しばしば海外に出かけ、その足跡はヨーロッパ、アジア、南北アメリカ、アフリカにも及んだ。
志賀は大正11(1922)年に第二回の世界周遊に出かけた折に、南米のアンデス山中で石油を捜索する西洋人の姿を目撃して、「将来の世界は一言にて尽きる、曰く油の多き国家は光り栄へ、油の無き国は自から消滅する」と断じ、「誰が云ひ初めけん『油斷大敵』と、大敵どころか油が斷ゆれば國が斷ゆるのである。『油斷國斷』である」とも記している。
その後、日本が石油確保のために太平洋戦争に突入し敗戦の憂き目を見ることになったのを考えると、まさに卓見であった。
さらにチリから帰国する船中で読んだ新聞雑誌からトルコの復興、イスラム教徒の誇りの高まりを知り、また途中立ち寄った米国でローザンヌ国際会議がメソポタミアの油田争奪で紛糾したことを聞き、日本の社会に
(1) 世界的関が原の日の近づきたる事
(2) 日本は宜しく石油政策を確立すべき事
を知らせなければならない、そのために1日も早いメソポタミアとアラビア行きを思い立ったのであった。
志賀は大正12(1923)年12月に第三回目の世界周遊に出発した。オマーンを訪れたのは、この時である。地理学者でもあり、思想家でもあった志賀は、日本をこの地球上で生き続けさせなければならない、そのためには三つの問題を解決しなければならないと確信していた。つまり、増え続ける日本の人口にどう対処すべきか、重要性を増す石油を日本はどう確保するのか、白人と有色両東西人種の関ケ原対決がやがて来る、その時に日本は東につくのか西につくのかであった。
志賀はその著書「知られざる國々」に以下のように書いている。
「志ある士は一人にても多く、1日にても早く回教系諸国…印度以西の亜細亜諸國、阿弗利加の北岸諸國…を視察し、以て来るべき世界的關ケ原に於ける日本の去就進退に就き十二分の豫備知識を博されんことを望む。これが此の問題を解決すべき第一着の手段である故である」と。
志賀はアラビア諸国を当時のヨーロッパの外交紛糾の温床と見ていたのである。
志賀、オマーンへ
インドの旅を終えた志賀はバルチスタン、南ペルシャ経由でアラビアに向かった。彼は「印度パルチスタン境上のラス・マウリ海角を廻った時、是より西は西洋系統の國(地中海々岸)に行くまでは復た燈臺を見るべからずと聞き、アこれが所謂『文明』の見納か今から闇黒境に入るのかと思った刹那、一時は心細い気持ちがした、然し又爛熟し盡したる『文明』に向ってサヨナラと告げ是よりして眞に日本に知られざる國々に行くのかと思ひ返へすと、精神は頓に緊張し来って座ろに勇みに勇み立った」とその時の気持ちを書いている。志賀60歳の時のことであった。
オマーンについては、「オーマンは亜刺比亜大半島の東端に位し波斯灣の口に在る獨立國で、面積一萬四千方里(朝鮮の大サ)人口五十萬、海岸線四百里、國都マスカットは巌崖を隔てゝムトラに接し、人口合して二萬。一個年貿易高七百五十萬圓、輸出は棗椰子の實(歐米諸國に輸出し、特に米人は最も嗜む)、乾魚(スルマイと稱ふる鮪の如き魚、乾燥して印度より錫蘭までも輸出す)、鱶の鰭、盬、柘榴、レモンに過ぎぬ。輸入は米、砂糖、珈琲、綿布、石油、日用雑貨。・・・」と説明している。
さすがの志賀もアラビアの一人旅には怖気づいていたようである。カルカッタで新調した防暑服を着て、そこで買った防暑帽子を被り、心気一転天竺ハイカラになりすまして、マスカットの町に乗り込んでいる。
異教徒すなわち外国人を排斥するアラビア人の敵愾心を幾分なりとも和らげるために、「ハヤ、アラサラート(祈禱すべき時は來れり・・・二回唱)、ハヤ、アラルファラー(祈禱する為に我等は起てり・・・同上)、アルラホ、アクバル(大なる哉神よ・・・同上)、ラ、イラハ、イルララー(あなた様の外には神は在しませぬ・・・回唱)」とイスラムで定められたサラート(礼拝)の言葉を唱えることと「サジク(友達)」、「エー(はい)」、「ラー(いいえ)」、「チャム、キマ(これはいくらですか)」、「シノ、ハザ(これは何ですか)」という5つのアラビア語だけを頼りのアラビア一人旅であり、さすがの志賀も心細く、頼山陽の詩の一節を朗吟しながらオマーンに入ったとある。昔頼山陽が肥後から薩摩に入ろうとした時に、関所役人から怒鳴りつけられ、入るのを諦めようかと思ったが、詩を作って勇を鼓舞したことを思い出しての行動であった。
礼拝の言葉まで唱えたことは、志賀がひどくアラビア人を警戒していたことを示している。その緊張の様がよく分かる。当時の日本には、アラビアは恐ろしいところというイメージだったのだろう。
オマーンの国都のマスカットについては、「マスカットの所在と云へば、何と形容すれば可なるか、予の目撃したる世界各地に於て此に似寄った處とては無い。鏡の面よりも平かなる深甚の海水より大巌石の絶望は空を抉りて列び立ち、一草一樹の之に生じるもの無く、
『奇警』など云ふ軟弱の描寫にては盡くせぬ、『峭抜』もダメ、『峻極』もダメ『峻嶒』でも及ばぬ、流石の自稱漢學者、第八流詩人も適切なる形容詞のないのに窮した、九泉喚び起す吾が和田垣博士の魂、君何と一字で形容するかと問へば、例の莞爾としてForbiddenカネと答へらるゝ音容が髣髴する、如何にも人の入り来ることを遮り禁ずるが如き概である。此の人を遮り禁ずるが如き大巌岩の絶望の上には、保壘と硝楼とが相連り、砲門は我を下瞰し…街衟は狭いと云っても狭く、王宮の大通りとて幅八九尺に過ぎぬ、最も狭いものは幅三尺にも満たぬ、・・・」とある。
マスカットを訪れる人はいまでもあの蛾々たる岩山が屹立する特異な風景をどう表現すべきかに苦しむと思われるが、志賀も迷っている。「人が入るのを拒む」という表現しかないと筆者も感じている。それは日本では到底見られない風景である。
王宮への道すがら、「日本人を初めて見たりとて、往来の人々に物珍しげに打ち眺められながら」、志賀は婚礼の行列に会っている。その情景を「男女凡そ三十人、多くは女で、前列の二男子が鼓様のもの、二男子が太鼓やうのものを敲き、次に一女子が香を焚き、次に一男三女子が各々頭上に大皿を戴き、これに次で女の群衆が調子を会はせ歌ひつつ城壁の外に向けて練り行くのである」、「…予が来ると、行列は一斎に予に向て眼を注いだ。予は左の方なる石の上に登って『君が代』を歌った。一同は聲を揚げて笑った…」と書いている。60歳にして、『君が代』まで歌ったというのはよほど気持ちが高ぶっていたのだろう。
やがて志賀は王宮に辿り付き、国王への拝謁を申し出る。「知られざる國々」の記述はさらに続く。
「王宮は海岸の波うち際に立てる三層樓である。宮門に行くと、衛兵は誰何した。予は日本字の名刺を出した。衛兵は携へて内に入った。程も無く靴を穿てる人が出で来たり、片言の英語にて來意を問うた。此人はバルチスタン人で、マスカット市内有名の富豪で王宮の御用出入商人であった。予は萬里の日本より此のオマーン国に來り、折角國都にも來りたるが故に、一度國王殿下に拝謁し、オマーンと日本と親交せざる可らざることを言上し、且つ日本國民をして殿下の風采を想望せしめたしと思ふと答へた。二三分たつと、此人は再び来り、國王殿下に貴下(志賀)の意思を言上したるに、陛下には嘉納し給へりと傅へた。衛兵は三層樓に予を案内した。…」。
「内に入ると、海を見下す露臺の此方、奥まった處に、普通の亜刺比亜人よりは色の最と白く、鼻の下に揃へる鬚を蓄へ、畫に描ける諸葛孔明の如き年齢四十バカリの好丈夫が頭の上より純白雪の如きカシゥミル絹を被り、素足のまヽ悠然と西洋輸入のソファに腰かけて居る、低聲なる英語もて『ヒズ・マジェスチー』即ち『陛下なり』と告ぐる者がある、實に好丈夫其人がオーマン國王であるを知った。・・・」
「・・・予は起立して敬禮すると、王は気持 き微笑を面に湛へつヽ手真似してソファに座せよと云はる。予は座した。王曰く、能くも此處まで来て呉れられた。アラビスタン(亜刺比亜人の國)も日本と同じ亜細亜の内に在るにあらずや、歐羅巴は歐羅巴人の為す所に任ず、亜細亜は亜細亜に所在する御互が任ぜざる可らず、何故に日本人は疾くアラビスタンに来らざるや、アラビスタンに来りて商賣し、工業を興し、依て以て彼此の親交を圖り、依て以て我がアラビスタンを改善しアラビスタンを復興するを得ば、即ち御互に大を成す所以にあらずやと。予答へて曰く、陛下の言々正に是れ外臣が陛下及び陛下の人民に對して一日本人として請はんとする所のものである。御意の存する所、外臣詳かに之を我が國人に傅ふることに努むべしと。王曰く、足下若し此國に於て見聞する所を日本に於て發表することあれば、其の記事を我に贈れ、又アラビスタンの歴史を著述する際あれば我に報ぜよ、写真圖畫の類を足下に送るべしと。予曰く、外臣突如と陛下の國に来り、親しく謁を賜ひたる一事すら實に望外の賜である。況んや優握の御語を賜はる、感激何ぞ堪へん、・・・」
「東につくのか西につくのか」を模索する旅で、「よく来られた。アラビアも日本も同じアジア。日本人はもっとアラビアに来て、商売をし、工業を興し、親交をうち立てて、アラビアを改善、復興することができればお互いによいではないか」と言われて、志賀は
「それこそが私が申し上げようと思っていたこと」と答え、さらに「言われたことを日本の人びとにも伝えます」と誓うのであった。
「発表したら、送って欲しい。必要なら関連する写真や絵図などを送る」と言われ、志賀は「突然来たのに謁見を与えられたことでも望外の喜びなのに、手厚いお言葉をいただけるとは」と感極まったのである。
志賀は特別な土産もないからと国王に日本郵船阿波丸船長から貰った日本製の絹の扇子を贈り、国王の親書を所望した。国王は気軽にこれに応じ、以下の親書を授けている。
「此書の所有者ヤバン(日本人)シャガ(志賀)は洋暦一千九百二四年二月二八日此處を
訪問せり。
一千三百四二年(回教紀元)ラジャグ月(七月) マスカット チムル(帖木児)」
この時国王タイムールは38歳であった。この出合いがさらなる発展を見せようとは、二人はまだ知る由もなかった。
志賀は、さらに以下のように綴っている。
「予は王に別を告げた。王曰く、何處なりとも見物したき處あれば行かれよ、案内者を附すべしと。予曰く、重ねゞ優握の御語を賜はり益々感激に堪えぬ、此の上は唯々御苑を拝観するを得ば幸甚なりと。王曰く、我が庭園とな、こは先考王遺愛のものである、我が代となっては然までに手入もせず人に示す程のものでも無いが、足下にして宜しければ何時にても行き観られよとて、二人の衛兵に案内命ぜられた。…」
志賀はこの後、バーレーン、南イラン、クウェート、バグダッド、シリア沙漠を横断しダマスカス、ベイルート、アンマン、キプロスなどを訪ね、ヨーロッパ・北米経由で、大正13年(1924年)7月に帰国した。
そして、タイムールに約束した通り、志賀はこの旅のことを「知られざる國々」の一篇として大正14年(1925年)に出版し、その2年後の1927年に63歳で死去した。
志賀の墓は
東公園内の動物園には、「ミミ」というラクダがいる。30歳近い牝ラクダである。かれこれ20年くらい前の話になるが、これは前に筆者が勤務した会社の社長がアブダビの富豪から寄贈されたものであり、このラクダの納入には筆者が立ち会った。その時に筆者はあの公園内に志賀の銅像があることは知らなかったが、これもなにかの縁だったと感慨深い。
スルタン・タイムール・ビン・ファイサル
志賀が謁見を許されたスルタン・タイムールは1886年にファイサル先王の長男としてマスカットに生まれた。母は第6代スルタンの娘である。
長男であることと由緒正しい生まれから、タイムールは早くから皇太子と目され、教育のために「インドのイートン校」と言われたインドの名門校Mayoカレッジに送られている。1903年には父王の代理としてインドを公式訪問し、その後ビドビドの県知事などを務めた。
1913年10月にファイサル先王が肝臓癌で急死してしまったのは、イマームに率いられて反乱を起した内陸部族がニズワ、イズキ、サマイルなどを陥れてマスカットに隣接するマトラの先のルイのアル・ファラージュ砦に迫っていた時であった。
タイムールがちょっと枕元を離れて隣の部屋に居る間のことで、その死に目には会えなかったという。3日間の喪が明けた後にタイムールがブ・サイード朝の第12代スルタンの地位に就いた。タイムール27歳の時のことであった。
幸いなことに、タイムールは英国の支持を受けていた。先王の死の直前に大隊の半分を支援のために派遣していた英国は、その後すぐに4百名の歩兵をマトラに派遣した。その後アブダビの仲介によって反乱側と和平の話し合いが行われたが、実らなかった。
1915年1月になって、再び反乱軍は月明かりを頼りに3千人の軍勢でマスカットを攻撃したが、訓練が行き届いていた7百名の英国軍はこれを撃退した。
次の国王となるサイードは当時まだ5歳、父タイムール国王とマスカットの王宮の屋根に登って、遠くの砲撃の音を聞いたという。6月には反乱軍の一部がマスカット近郊を急襲したが、これも打ち破った。
その後、英国の仲介によって1920年の9月、現在国際空港があるシーブでスルタン・タイムールと18の部族からなる反乱軍との間で和平協定が締結された。この協定は、内陸の部族に固有の案件についてある程度自治権を認める、オマーン全体へのスルタンの主権や対外交渉権などを破棄しないというものであった。
しかし、内戦による戦費、それによる経済の停滞によってそれまでに逼迫した財政はいっそう悪化し、この窮状から逃れるには英国からの借款に頼らざるをえなかった。このように軍事的にも経済的にも英国の支援を受けざるをえなかったオマーンは形式的には独立国ではあったが、実質的には英国の支配下に入っていた状況にあった。
タイムールはオマーンの独立を維持するために、内政面でも外交面でも必死に諸策を講じた。外交面ではフランスから武器を購入し、オスマン帝国に経済的支援を求めるなど英国支配への抵抗を示している。しかしながら、これらに失敗し挫折したタイムールは次第に政治への熱意を失っていった。
1918年には病気治療と称してインドに行ってしまい、「帰って来るように」という英国の要請にもかかわらず、1920年には退位を表明している。この時は英国の説得で思い止まったが、オマーンに帰っても大半を南部のドファールで過ごし、またインドとの間を行ったり来たりした。
インドでも英国の監視下におかれたタイムールは、英国の度重なる忠告、勧告、説得にもかかわらず、英国の湾岸駐在代表に1931年11月17日付けの下記の手紙を送って、退位してしまう。
「…かってのように、マスカットに帰ると私の病状が悪化することが心配される。従って、前に貴下への個人的な書簡やマスカット政治統治官への書簡にもあるように、残念ながらマスカットへは帰れません。・・・私への個人的な手当の減額は受諾します。・・・政府に私の退位を伝えていただきたく、本日を持って統治権から手を退き、私の息子であるサイード・ビン・タイムールを後継者のスルタンといたしました。・・・」
長男サイード自身も父王の滞在先に赴き、翻意を促したが成功しなかった。そして、1932年1月に英国の承認を得て、翌月2月にサイードが第13代スルタンに即位した。
第七章 タイムール国王の神戸滞日とブサイナ王女
タイムール国王の神戸在住
退位したスルタン・タイムールがその後インドからセイロンに向かい、1932年にはビルマに渡ったことが確認されている。それからの2年あまりの消息は不祥だが、セイロン、シンガポール、メッカ、ボンベイなどにいたようである。
スルタン・タイムールは昭和10(1935)年3月に世界漫遊の船旅の途中に神戸に立ち寄った。
日本に来たいきさつについては、
「この中の『15年前にやってきた友人』が志賀であったのではないだろうか」と
この時に、タイムールは神戸のダンス・ホールで当時19歳の大山清子と知り合った。
清子への思いに駆られた前国王は翌11年6月に再び日本を訪れ、日本での永住を決意し、清子と明石で日本式の三三九度の結婚式を挙げた。
その後家財整理のため帰国し、同9月に再々来日したが、このことは、「アラビヤの豪族 愛人の懐へ帰る みなと神戸の娘朗らか−契りは固し」という見出しで、以下のように大阪神戸新聞(昭和11年9月18日)に大きく報じられた。
「観光の旅でふと知り合った日本女性に、熱砂そのまま灼くような熱情を傾けて日本を永住の地と決め、港都神戸に国際ロマンスの話題を投げたアラビヤオマンの豪族千万長者、T・F・T・アルサイド氏(48)は、愛人の元神戸キャピトル・ホールのダンサー大山清子さん(20)に、“家財を纏めてきっと歸ってくる”と誓った通り十七日朝、神戸入港のドイツ船シャルンホルスト号で従僕パッシャ君(24)を伴って再び來朝した。
昨年三月、観光のために來朝、旅のつれづれにキャピトル・ホールで端なくも
十七日朝、第四突堤に清子さんは母親や親戚の人々とともに出迎え愛の巣として用意された葺合区中尾町の坂の上の真新しい瀟洒な洋館に入った。同家を訪れゝばアルサイド氏と清子さんは早速、新家庭のための買物に外出して留守、まだ家具もないガランとした階下には豪奢な大型のトランクが十数個積まれてロマンスの家らしく見られたが、アルサイド氏は清子さんのために二万円を投じて近く新住居が建てられるなど噂が、港都の話題を賑はしている」と。
なお、この時にはタイムールのことを「アラビアオマンの豪族」と紹介しており、記者はタイムールが前オマーン国王であったことまでは把握していない。
その後
タイムール国王の滞日についての記録は外務省外交資料館には一つしか残されていない。すなわち、「外国元首並皇族本邦訪問関係雑件」ファイルの「アラビア・オーマン國王一行来朝ニ関スル件」(昭和12年12月7日)である。
同12月23日には当時のサイード国王(当時28歳)と弟のターリック殿下が世界観光のかたわらタイムール前国王を訪ねる時の事前調査レポートである。
以下がその概要である。
「…(タイムール国王は)一九三二年遂ニ長男タル現サルタンニ譲位シ爾後閑居ノ生活ニ入リセイロン及シンガポールに滞在約半歳ニシテ回教ノ聖地メッカニ入リ約八ケ月後孟買ニ転ジ昭和十年四月初メテ本邦ニ渡来セルモノナルガ動静左記ノ如ク深ク身分ヲ秘シテ暴露ヲ怖レツヽアリ」、
生活及家族関係、「西村旅館滞在中書記トシテ雇イ入レタル
言動概要、「西村旅館ニ長期滞在シ館主西村貫一トハ相當親交ヲ結ビタルモ自己ノ身分ヲ秘シ西村ヲシテ唯ダアラビアの大地主ノ放蕩児ノ如ク想像セシメ居タリ・・・回教礼拝日ニハ市内神戸區中山手通二丁目回教寺院ニ参拝シ回教徒間ニハ屡次接觸ノ機會アルモ在神印度人アラビア人及トルコ・タタール族間ニ於テハ単ニ『アラビアノ貴族』ト認メ居ル程度ニ過ギズ 屡々京都奈良方面ノ述遊ヲ為シ又舞踏ヲ好ミテキヨ子同伴宝塚會舘花隈ダンス・ホール等ニ出入リス」
交友関係、「親交者ト認ムベキモノナク本名ト接觸シ談話ヲ交換スル程度ノ間柄ナルは回教徒タル印度アラビア・トルコ・タタール族ノミニシテ欧米人ニシテ相来往スルモノ無シ」と。
なお、この記録は「大川キヨ子さんとタイムール国王は内縁関係ヲ結ビ…」としているが、四人妻を持ってよいというイスラムの知識のない役人の書いたものであり、訂正さるべきは当然である。清子さんはタイムール国王のれっきとした妻であった。
また、10月10日にブサイナ王女が生まれたことにも言及している。
サイード国王の神戸訪問
昭和12年12月23日に実子のサイード国王と弟のターリック殿下が父を訪ねるべく、
来日した。
これについて、同年12月24日付けの神戸新聞は、「前オーマン(アラビア)國王が神戸で国際愛の巣 きのう愛児の現國王兄弟が遥々と父君訪ねて微笑まし歓談」という大きな見出しで以下のように報じている。
「駱駝に乗った隊商が砂漠ゆき交ふアラビアの國オーマン王國の華やかな王位を惜しげもなくかなぐり棄て昨年秋來朝、
かたはら久しく御對面のなかった御父君を異国の空に訪ねて二十三日神戸入港の箱根丸で船路を遥々來朝した
この朝愛児を迎える元國王は船の岸壁に着くのを俟ちまねタラップが降りるや船から降り立った國王と王弟はいきなり待ち構へた父君にひしと感激の頬をする寄せ六年振りの父子對面の劇的場面と見せた後打ちつれてトーアホテルに一先づ落ちついた
一方はるばる故國から愛児二人を迎へる歡びの中尾町アルサイドさんのお宅では朝からオーマン王國の真赤な國旗と日章旗を掲げて歡迎のお化粧を施し、玄關、應接間には豆電気を點し、日本好みのデコレーションで美しく飾りたて夕刻國王と王弟殿下を迎へこゝで初めて元國王と國際結婚して玉の輿に乗った大山きよ子夫人(21)と晴れて親子の對面を交し数年振りに故國の思ひ出話に団欒の一夜をおくった」と。
6年ぶりに愛息たちを日本で迎えたタイムール国王の喜びようがよく分かる内容である。
清子もここで初めてサイード国王たちにお目見えし、生まれたばかりのブサイナ姫も初めて異母兄たちに抱いてもらったものと思われる。
さらに記事は続いている。
「・・・現在の国際情勢から元國王の肩書を厳秘にしてゐたが、流石はアラビアの南端人口七十萬を擁するオーマンの元國王だけあってその風格は自づと窺はれるものがあった」と。タイムールが元国王の肩書きを厳秘にしていたことに言及し、もはや「アラビアオマンの豪族千万長者」とはしていない。
上述の外交資料館にある報告書は、サイード前国王来朝自体に関しては、
「右(サイード国王)ハ
なお、筆者がイギリスのエクセター大学で探し当てた1938年2月1日付けの在日英国大使から本国宛ての報告書には以下の記述がある。
「…マスカット・オマーンのスルタン、サイド・ビン・タイムール国王は五週間の日本訪問を終え、1月27日に汽船「竜田丸」でサンフランシスコに向けて横浜を出発した。
国王は汽船「箱根丸」で香港から十二月二三日に神戸に到着し、ホテルに滞在した。国王には弟君のターレック・ビン・タイムール殿下と2人の秘書と職員、それに2人の召使が随行した。国王の主目的は1932年に退位し、2年間に亘って日本人妻と神戸で生活している実父タイムール前国王を訪問することであった。外国の新聞には載らなかったが、スルタンの到着は日本では報じられ、国王はインタビューに応じるのは拒んだが、神戸に滞在中新聞記者に悩まされた。
私は在神戸領事に国王が東京に来られる時に大使館でご夕食を差し上げたいこと、また大使館で宿泊され是非について国王のご意向を聞くように依頼したが、・・・国王は東京では大使館訪問は楽しみにしているが、日本滞在中はお忍びを徹底したいので、国王のための饗応はごく私的なものであることを希望した。また、大使館での宿泊については、最大の行動の自由とプライバシーの点から、すでに東京のホテルを予約している。スルタンは新聞記者に付きまとわれ、国王と随員ともこれまでの日本の印象は全くよくない。
短い京都訪問の後、一行は1月10日に東京に到着した。…お忍びを守り抜けるかの危惧から突然計画が変更され、東京にはたった1夜を過ごしただけで急いで横浜のホテルに移り、日本出発まで少なくとも新聞記者には気付かれずにそこで過ごした。
私の招待を受けいれ、1月18日には大使館でのささやかな昼食会にやってきた。
…1月24日には二名の随員とともにかねてより希望していた開会中の国会見学を果し
た。翌1月25日には国王はアメリカ大使館での昼食会に出席した。…1月27日にスルタン一行は汽船「竜田丸」でサンフランシスコに向った。実父タイムール国王も同行したが、同国王はすぐに神戸に帰ると思われる。
スルタンと一行の日本の印象が好印象とは遠く離れたものだった。神戸では1度ならずホテルのスルタンの部屋まで押しかける新聞記者につきまとわれ、神戸や京都では警察がいつもながらのしつこさであった。多くの観光客がそうであるように、国王一行の接触はガイド、ホテル従業員、タクシー運転手、店員、骨董屋やがめつい連中に限られ、それが日本人の知性や効率の低い評価につながった。東京では一行からの要望で大使館員が相撲や歌舞伎や車での観光に同行した。全体として、日本訪問は楽しみが少なく、時間を持て余したようである。これまでのところ、国王は『世界周遊でもっとも面白くなかった』と打ち明けた。国王と日本高官との間に話し合いが持たれてはいない。…」。
サイード国王は日本にはよい印象は持てなかったようである。残念なことであった。
ブサイナ王女の来日
「日本に定住したタイムール国王と清子は深く愛し合い幸せな夫婦であった。家には使用人や召使がいて、清子は一切家事をすることもなく高価な宝石やドレスを身につけ、二人で食事やダンスにも出かけ、幸せな生活を送った。しかし、これも長く続かずかなかった。清子が結核に罹ってしまう。タイムールは、夫人を立派な病院に入院させた。だが、清子は入院生活を嫌いよく自宅に戻った。
当時、結核は不治の病。これではブサイナ(日本名は節子といっていた)や自分にまで病気がうつり、一家全滅になってしまう。困惑したタイムールはブサイナを清子の母に預け、日本を離れボンベイに落ち着いた。この間の昭和14年11月に清子は23歳の若さで死んでしまった。
翌年タイムールは再来日し、清子の墓の建設を終えると、ブサイナを連れて日本を去った。ブサイナが3歳の時である。
その後、ブサイナはタイムールの第一夫人(サイード国王の母)に預けられ、完全なオマーン王室の王女として育てられる」。
以上は、元朝日新聞
その日記が最後に書かれた日、つまり昭和14年6月11日付けの項に、清子は以下のように綴っている。「ブセイナのために生きたい・・・。病魔に負けてたまるか。勝たなければならない。可愛いブセイナのために。神様なにとぞお味方下さい。我が子でありながらそばへもよって行かれない、このような悲しいことがありえようか。可愛いと思えばこそ、我が子の手にもようさわらない。この病気さえないならばと、幾へん考えることか」と。
清子の悲痛な叫びが伝わって文章である。
再び、
また、
その後、本格的なスイートホームが建設された神戸市青谷も訪ね、「二人の愛は永遠のもの、ここを永住の地を定める」と碑文に書かれたアラビア文字を取り出したノートに書き留めた。なお、この碑文はその後ご親戚の方が拓本にしてブサイナ王女に届けられたと承知している。このことは、昭和53年12月18日付けの朝日新聞に「両親の“愛”の碑文、拓本プレゼント」、「オマーンの混血王女へ」、「40年前神戸で刻む−叔父の大山さん来日時の約束実現」という見出しで報じられている。
この碑文は数年前まで残っていたが、その後その場所にマンションが建てられた時に撤去されて現存しないので、いまでは写真でしか見られない。清子との幸せな生活は戻らないと考えたのであろう、結核の清子を残して日本を離れる時にタイムールは「石に刻んだ“愛の言葉”は消して欲しい」と清子の親戚に頼んだというが、その願いは数十年経ってマンション建設によって奇しくも叶えられることになった。
また、
タイムールは昭和20年から21年にかけて一時オマーンに帰国して、ブサイナに会っている。ブサイナ8歳の時である。それが、ブサイナが父を見た最後であった。タイムールはその後もボンベイに住み、昭和40年に亡くなっている。
ブサイナ王女発見のいきさつ
2006年11月に、「オマーンからお忍び来日、結婚、王女誕生」、「妹シンデレラのようだった」、「中東シンデレラ物語」などの見出しで、神戸新聞や産経新聞などに、タイムール、清子・ブサイナのことが大きく報道された。清子の妹さんたちが「ブサイナ王女は元気だろうか。また再会できれば」との願いも書かれている。
いまでもこれだけのニュース・バリューがあるということは、このロマンスとブサイナ王女の存在が一般には知られていないということであろう。筆者が「オマーンにオマーン人と日本人の間のハーフのお姫様がいるんですよ」というと驚く日本人が多い。
ブサイナ王女に関する情報は日本でどのように広がったのであろうか。
1971年にオマーンを訪れた当時外務省の鰐淵和雄は「オマーン旅行記」(中東通報,No184,1971・4)の中ですでにブサイナ王女について触れている。これが、おそらく、王女についての最初の記述であろう。
それには、「ブサイナ嬢も成人して本年33歳となり、いまだ独身でマスカットの居住している」、「マスカットでターリック首相に会見した際に、同首相は異母妹に当るブサイナ嬢のことに触れ、『自分も父親(タイムール)と一緒に約二ヵ月滞日したことがある。事情が許せば来年でも妹を連れて訪日し、妹に母の祖国を見せてやりたい。云々』と極めて親しげに語った」、「『妹は我家の直ぐ近くに住んで居り、本日貴方達の姿をのぞき見していたかもしれない』と付言した時には、急に胸が熱くなるのを覚えた」、さらに「ブサイナ王女が鰐淵等が持参した日本の広報映画を見られて『未だ見ぬ母の祖国の姿に接し、非常に喜んでいた、云々』を同首相から聞き、鰐淵が彼女が画面を熱心に見つめている姿を想像し、
いささか感傷的な気分に浸った」と書いている。
しかしながら、ブサイナ王女の存在を広く知らしめるきっかけになったのは、朝日新聞笹川特派員が書いた「回教の国の混血王女−アラビア半島のオマーン」という見出しの記事(昭和48年5月17日付け朝日新聞夕刊)であろう。笹川はカイロ支局から東京に帰任の途中、1973年5月にオマーンに立ち寄った。
笹川の記事を抜粋すると、「オマーン王家のある重要人物と会うために、40度の炎熱の中を車を飛ばした。ブサイナ姫の写真を見せてもらうことになっていた。ブサイナ姫。この王女の話を知っている日本人はごく少ない。会った人は、1人もいない。・・・私があったこの重要人物が、『王女の写真を持っている』と明かしてくれたのは4日前だ。むろん、王女に会いたいと頼んでみた。『不可能です。あなたは男だから・・・』という答えだった。・・・『では写真を見せていただくだけでも』、『よろしい』、こうしてようやく【日系王女】のカラー写真と対面することになったわけだ。・・・男である私には、どうしてもこれ以上ブサイナ王女に近づくことはできなかった・・・最後に―写真を見せてくれた人物は『日本女性が来訪するならいつでも会わせてあげる』といった。だから、ブサイナ王女が日本人の前に姿を現すのは時間の問題である」とある。
笹川がどのようにブサイナ王女のことを知ったのであろうか。筆者には1968年からアブダビに駐在をした友人がいる。先日会った時に、たまたま笹川特派員のことに話が及んだ。彼が言うには、「私が在勤中に笹川特派員がカイロからやってきた。私がアブダビで働くオマーン人から聞いていた日本人と混血のブサイナ王女の話しをした」とのことであった。面白い話である。
笹川は男性なので王女との面談は叶わなかった。そこで「週間朝日」が前述の
「私が、オマーンという国を知ったのは、1973年5月17日の朝日新聞夕刊紙上であった。「回教の国の混血王女」と題する記事に、私は何故かひどく心をひかれた」、「翌日編集部に行くと、何と「ブサイナ姫の取材にオマーンへ行け」という編集長の命令であった」と。
清子アルサイドの墓を訪問
平成16年10月16日(土)に筆者もたまたま清子アルサイドの墓を訪れる機会に恵まれた。当日の午後神戸の大学で講演を頼まれていた筆者は、前日から泊まっていた神戸三宮駅近くのホテルを早朝に出て、JR
あらかじめ
2人であちこちと走り回ったが、なかなか見付からなかった。「たしか、入口近くにある一番大きな墓の筈」と再度探すも見付からなかった。1996年英国エクセター大学のアラビア湾岸研究所にいる頃に、幕末に英国外交官として来日し、日本の近代化に大きな影響を与えたアーネスト・サトウの墓が近くのオタリー・セント・マリーにあるというので探しに出かけたことがあった。あの時もイギリス人の牧師さんと2人で墓探しに走り回ったが、それ以来の墓探しであった。
「諦めざるを得ないかな」と覚悟しつつ、墓地から一段高い通り道に上がって、見下ろすとカタカナ文字が目に入った。「ありましたよ!」と遠くを探す運転手に声をかけて墓の正面に回ると、「妙法曼殊院清苑爵光日華大姉」とある。右側には「前オマーン国王夫人、清子アルサイド 享年23歳」と刻まれ、裏には「昭和15年5月 タイムール・F・アルサイド建立」とあった。
私は持参したオマーン特産の乳香を焚いて、静かに前国王夫人の冥福を祈ったのである。
私のかねてよりの念願の一つが叶った瞬間であった。
有名なアラビア学者の田中四郎は、その著の中で「どうしてFなのだろうか。アラビアではBの筈である」と首をかしげているが、それよりも私には墓に仏教の戒名がついているのが不思議に思えた。清子は結婚に際してムスリムに改宗している筈である。
なお、{F}は父ファイサルの「F」であろう。「・・・の子供のという意味のB=binは省略されることがよくある。
スルタン・サイード・ビン・タイムール
1932年から1970年までは第13代スルタンであるサイード・ビン・タイムールの治世である。
サイードは1910年にマスカットで生まれた。11歳の時に父タイムールと同じインドの学校に学び、アラビア語の学校で教育を終えさせたいという父の願いから1927年から2年間はイラクで学んでいる。帰国したサイードは1929年に閣僚会議議長となり、1932年に21歳で退位を望んだ父タイムールの跡をついで王位に就いた。サイード大王以来のサイードという名前の国王はオマーンの衰退の流れを変えるだろうと英国からも期待された。
実質的な英国の支配から独立するには、まず膨大な負債から脱却することが必要と考えたサイードは支出を収入以内に抑えることに集中した。また、独立を達成する一つの方法が世界各国の歴訪であった。昭和12(1937)年にまず父の居る日本を訪問し、次に米国、英国、フランス、イタリア、インドを歴訪し、米国ではルーズベルト大統領とも会見している。昭和19(1944)年3月には同様の趣旨からエジプト、エルサレムを訪問している。
第二次大戦中の軍事的財政的な英国の援助と1937年にオマーン全土の石油利権を取得したイラク石油からの石油利権支払いによって、彼のオマーン支配の望みも見え初めていた。英国からの完全な独立を果たすのに石油収入が必要であるが、その石油はオマーンの内陸部にある。したがって、内陸部の支配を確立できれば彼の独立への思いは達成されるのであった。
このために内陸主要部族との和解や部族間の紛争の仲介に乗り出し、その成功によって支配者としての権威を高め、また諸部族の協力を得られることとなった。1937年から1945年末にかけてのことのことであった。「伊27潜」がマスカット湾に現れたのはこの間のことである。
しかしながら、1955年にサウジアラビアの支援を受けたイマームを中心とする内陸部部族の独立的な動きが発生する。それは制圧したものの、1957年に再び反乱軍との間に内戦が起こる。英国の支援を受けたスルタン側が1959年初頭には最終的にこれを鎮圧した。
なお、これに先立つ1952年には、サウジアラビアがオマーン北西部のオアシス都市のブレイミに侵入する事件も起きていた。
これらの争乱の戦費調達のためにサイードはグワダルを手放したが、それでも財政・軍事的に英国に頼らざるを得なかった。この中で、サイードはマスカットを離れ、サラーラに移ることを選択した。1958年のことであった。隔絶が英国のオマーン実質支配に対する最良の対抗策であったのだろうか。
当初サイードの独立への手段として追求した支出抑制はその後目的そのものに転化した。1964年の商業的石油生産が確認されてからも、石油による収入増をサイードは国の開発に積極的に使おうとはしなかった。治世の初期には乏しい財政の中でマスカット、マトラ、サラーラの3ケ所に学校を建て、若いオマーン人をバグダッドに留学させた彼が、開発や教育に使う金を惜しんだのである。
一方、国内自由通行の禁止、日没3時間後のマスカット市の門の閉鎖、ラマダン中の禁煙や歌舞音曲の禁止、女性の服装など社会的に厳しい規制を敷いた。また、秘密のネットワークやラジオ・電話などでマスカットの情報を克明に入手し、人々を厳しく監視した。
このため、サイードに対する国民ばかりか王族からも不満が高まった。1965年には足元のサラーラで反乱が起こり、翌年には彼の暗殺未遂事件まで起こった。これによって、サイードはますます殻に閉じこもり、外出もしない状態になってしまう。
これが1970年の息子のカブース国王へのクーデターにつながるのである。サイードはクーデターの場で退位文書に署名し、傷の手当のためにバハレーン経由で直ちにロンドンに移送され、その後はロンドンの「ドーチェスターホテル」に住み、1972年にそこで亡くなっている。
一般的にサイードにはよいイメージがないが、J.E.ピーターソンは石油の富と西洋の思想や技術に直面した周辺の統治者と比べて以下のように語っている。「サイードはカタールのアハマッド首長のように浪費家にはならなかった。また、追加的な収入があると注意深く開発にお金を使用し始めたから、アブダビのシャクブート首長のような型の守銭奴でもない。『王国が置かれた状況は1932年から1970年に急激に変化した。これに比べて、サイードは変わらなかった』ことは確かであろう」と。
なるほど、ほとんどが石油会社や軍用と国王用ではあったが、オマーンには1970年以前に1000台以上の自動車が輸入されていたし、渋々ではあるが、病院や電話の敷設も進められていた。
一方、海外で働くオマーン人の帰国がまったく禁止されている訳ではなかった。家族に会うために定期的に里帰りする者もいたし、土地やタクシーを購入するに銃弁な蓄えを持って永続的に帰国する者もいた。
筆者は、「英国の実質的な支配の下で、イマームを信奉する内陸有力部族の反乱を押さえ、石油開発を進めた、国の財政も健全な形で息子のカブースに引き継いだ。なによりもその治世は38年間に及んでいる」ことで消極的な面ばかりの統治者ではないと評価している。惜しむらくは、英国の支配からの独立の意識が強すぎて、前向きな投資が遅れ、時代遅れの国内規制を変更しなかったことである。
日本海軍潜水艦のマスカット湾作戦
日本は昭和16(1941)年12月8日に太平洋戦争に突入した。前年の昭和15(1940)年9月には日独伊三国同盟が締結されており、昭和17(1942)年初頭には日独伊協同作戦に関する軍事協定に調印された。それによって、作戦区域が東経70度以西が独伊、それ以東は日本と決められた。
当時ドイツはベルギー、オランダ、フランス、デンマーク、ノルウェーをすでに占領し、チェコ、ハンガリーやバルカン諸国も手中に納め、ソ連にも攻め入っていた。さらに北アフリカ、エジプト、スエズ運河の制圧を試みていた。
ドイツは敵側の防備や補給が充実しないうちに要地の占領を完了したいので、日本海軍は「アフリカの東岸を北上する敵側補給動脈を撃滅する作戦を実施してもらいたい」との催促、要望を受けていた。当時ドイツの北アフリカ作戦を指揮していたのが、「砂漠の狐」として恐れられていたロンメル将軍であった。
敵側補給動脈撃破には、北アフリカ作戦のみならず、連合軍の対ソ援助ルートの一つであったペルシャ湾ルートの壊滅という狙いもあったようである。
第2次世界大戦前の日本海軍の潜水艦の使用方針は、作戦任務を第一義とし海上輸送破壊作戦には重点をおいていなかったが、ここに至って日本は通商破壊戦の実施方針を明確にし、これに取り組むこととなった。
これに基づき昭和18(1943)年5月1日にペナンを出港した第八潜水戦隊第十四戦隊の「伊27潜」が、6月28日午前午前4時5分にマスカット港でアバダン港からのアスファルトを荷卸し中であったノルウェーの貨物船「ダプー号」(1974トン)を撃沈したのである。
イギリスの公文書には、「英国の捕鯨船アトモスフエア号が生存者の救助に向かったこと、英艦バサースト号も流出物の回収のために派遣されたこと、その時に魚雷の航跡も魚雷も見えなかったが、後で漁民たちが潜水艦や魚雷発射や水の盛り上がりを見たように言ったこと、当日が晴れで海が静かであったこと、アトモスフエア号が再びマスカットに派遣され、尾部とエンジン部に多くの日本文字と390番という文字の書かれた21インチの魚雷尾部を回収したこと」、「魚雷がドイツ型であったこと」「本船にはノルウェー人の高級船員とインド人船員が乗っていたが、11人が死亡し2名が重傷を負ったこと、積荷の荷揚げに当たっていた3人の検査人と26人の労働者も死亡したこと、生存者が47人であったこと」などが記録されている。
これだけの死傷者を出したこの攻撃は、マスカットの人々にとっては驚天動地の大事件であったであろう。この事件はいまから約60年前のことであり、オマーン人で記憶している古老も少なからずいると思われるが、筆者は先に来日したオールド・マスカット出身で現地の有力新聞社社主のイッサ・アル・ズジャーデイ氏と懇談した際に同氏の体験を次ぎのように聞いた。
「私は当時まだ5歳だった。突然大きな音がして町全体が揺れた。私は無我夢中で港に向って走った」と。
なお、撃沈された「ダプー号」の船首についていたベルが、記念として以前マスカットの王宮の隣にあった在オマーン英国総領事館に隣接してあった同総領事公邸の玄関ホールに飾られていたという。
因みに、「伊27潜」はこの作戦で赫々たる戦果を収めている。同年2月23日に艦長に任命されたばかりの福村利明当時海軍中佐に率いられた同艦は5月1日にペナンを出て、同7日にはモルジブ諸島南東部でオランダ船を撃沈した後、6月3日にはタンザニアからペルシャ湾に向っていたアメリカ船「モンタナ号(4898トン)」をマシラ島沖で撃沈、6月24日には灯油を積んでアバダンからボンベイに向っていたイギリスのタンカー「ブリテイッシュ・ベンチャー号」をオマーン湾で撃沈、6月28日にマスカット湾内で上述のダプー後を撃沈後に、さらに7月5日には、バラストを積んでモンテ・ビデオに向ってオマーン湾を航行中のアメリカ船「アルコア・スペクテーター号」を撃破して、7月14日にペナンに帰着している。
イギリスの同公文書には、「1943年6月には北部アラビア海でこれまでになく日本の潜水艦が活動したこと、グワダル沖で奇妙な艦船を見かけたという数多くの報告が寄せられていたこと、マシラ島からインドに向かっていた米国輸送機によって6月7日にマシラ島の北西16キロで一隻の潜水艦が初めて確認されたこと、6月9日には潜水艦を爆撃したが失敗したこと」なども記録されている。
「伊27潜」は昭和19年2月4日に第5次のアデン方面交通破壊作戦のためペナンを出発し、2月14日にモルジブ諸島南西において英商船を撃沈したが、護衛中の英駆逐艦の攻撃を受けて撃沈されている。「伊27潜」は昭和17年2月24日に竣工しているから、ほぼ2年の寿命であった。また、艦長福村利明は、2階級特進によって、その後海軍少将に栄進した。
この事件は、スルタン・サイードの治世下の出来事であった。
第八章 日本とオマーンの交流−モノ
文献から見る明治期の交易
日本とオマーン間の交易が始まるのは明治以降のことである。しかし、明治期の交易について明確な資料はない。したがって、この期の日本とオマーンの交易は当時湾岸地域を訪れた日本人の記述や日英の関連統計などをたぐって、推定する以外にない。
明治13(1880)年にオマーンやテヘランを訪れた古川の「波斯紀行」や吉田の「波斯之旅」には当時の日本と湾岸地域との交易に関する包括的な記述はない。単発的な記述があるだけである。
古川は少量のお茶が輸出されたと記述している。
横山らが多くの貿易品を携行したことも書かれている。同行した商人が七宝焼磁器商、小間物商、金銀細工商であり、陶磁器や七宝焼その他をサンプルとして持ち込んでいる。一行が訪れたのは酷暑の6月末からであり、あまりの暑さに「日本紙ハ其質變シテ粘力ヲ失ヒ刀剣鞘及び漆器ノ接續面相乖離スルヲ見ル」とあるので、紙や刀剣鞘や漆器も持ち込んでいる。
このような状況から考えると、1880年ごろは湾岸地域との貿易はまだ調査段階にあり、実際の輸出入はほとんど行われていない。せいぜい日本の陶磁器や雑貨がこの地域に届いていた程度と見て間違いない。
日本とオマーンの関係も同じようであったと想像される。そういえば、マスカット市のルイにある国立博物館で日本製の大きな壷が飾ってある。あれも江戸時代にオマーンに届いたものだろうか。
古川は、ペルシャの貿易品については以下のように記している。日本とオマーンに関するものではないが、当時のペルシャ湾内での貿易の一端が想像できるので摘記する。
「此國ト貿易ヲ爲ス所ノ各國ハ南ニ印度亜剌伯アリ北ニ露西亜及土耳古曼部アリ而シテ遠ク來往スル者ニハ英佛和蘭アリ然ルニ其貿易終ニ未ダ盛大ナラザルハ・・・先ツ南部波斯灣ヨリ印度ニ輸出スル者ハ乾藥、煙草、鴉片、蠟、胡桃、杏(アーモンド)、棗椰子、硫黄、酒、生絲、絨氈、纒腷(ショーウワル)、刀劍、馬等ノ類ニシテ其印度ヨリ輸入スル者ハ木綿、木材、茄菲、米穀、染藍、砂糖其他小間物ナリ・・・又此國ト英國トノ直接貿易ニツキ・・・此七十八年中(1878年)ニ英國ヘ輸出セシ物品ハ鴉片ヲ以テ第一ト爲ス・・・輸入セシ主品ハ木綿ニシテ・・・又北部ニ於テ土耳古ヘ輸出スル者ハ穀物、生糸、木綿、其他皮類、絨氈、纒腷、織物、鹽等ニシテ土耳古ヨリ輸入スル者ハ金銀及各種ノ歐人製造ノ需用器物ナリ・・・露國ヨリも亦其國境ヲ經テ是地ニ輸入ス其雜貨ハ毛布、金飾絲、纒腷、金鈕(キンボタン)、剪刀(ハサミ)、鋏、剃刀、洋燈、時器、眼鏡、望遠鏡、陶器、絹、絲細工、及鐵銅細工等ナリ其中鐵細工ハ概ネ露西亜ヨリシ銅版ハ西部歐羅巴ヨリシ彩繍ノ飾絲或ハ器玩等ハ佛人之カ利ヲ專ニス・・・」とある。
さらに、前記の輸出品、すなわちペルシャの物産のうち、「絨氈、印花布(サラサ)、生絲及絹、毛布、茶、鴉片(アヘン)、紙、砂糖、葡萄及酒、馬、真珠」などについて詳述している。
吉田の本には、僅かに「波斯湾に於ける重立つたる貿易品は、ケルマン地方の羊毛、羊皮及び絨毯其他の毛織物類及び阿片、綿花等にして、印度地方へ向け輸出するは、1月四五回の印度汽船の船舶に依頼するのみ・・・」、「波斯の産物といへば限りあるものにして、絨氈(じうせん)(シラズを以て最良とす)、毛織物(ケルマンを以て最良とす)、野羊の毛、葡萄酒(土人之を「シヤラアブ」と稱す)、波斯棗(「デェツ」と稱す)、黄木(染料に用ふ「ロナス」と稱す)、綿花其他金物細工(真鍮又は鐵にて象眼篏彫(ぞうがんはめぼり)を爲したる者等)又更紗の類(イスパハンを最良とす)なれども、實に歐洲人の巨額なる金額を費やすは阿芙蓉(テービーム)なり、フハルシスタンの高原よりラリスタンの低地に於多額の産出を爲す・・・)との記述がある。
また、福島安正の「土領亜拉比亜紀行」の中に、「18日(=明治29年5月18日)午後大尉(当時ボンベイ英国領事館陸軍大尉ホワイト氏のこと)と共に領事館の短艇に搭乗して、溝渠を遡ること大約四哩、布蘇拉(ブソラ)の市街を見る。
布蘇拉は總督を置いて、人口大約三萬、・・・其汚穢なる事論を俟たず。街路狭隘、市中大なる市場あるも、其地固有の物産無く、皆轉運販賣の食料雜貨に過ぎず、一も記すに足るものが無い。店頭處々日本の早附木(はやつけぎ)(燐寸)を見る。凡そ緬甸・印度・波斯・亜富汗・土耳其・阿曼、到る所我が早附木見ざるはなく、又其の粗製の悪評を聞かざるは無い。奸商等一時の利益に汲汲として前途の利害如何を顧みず、嘆息の至りである」とある。
これからみると、当時オマーン(阿曼)に早附木が輸出されていたようである。
福島はさらに「テヘランでアルメニア人に誘導されて日本品の雑貨店にいったが、店頭に陳列された貨物がすこぶる美しく愉快きわまりなかった」、さらに「テヘランで総理大臣秘書官の大将の邸宅に招かれたが、室内装飾品が日本品であったこと、食卓の器や皿もすべて日本品であった」と書き残している。室内装飾品や食器類というと、陶磁器類、扇子、日本関係の写真などであろうか。
家永はテヘランでペルシャ国王陛下と謁見している。「西亜細亜旅行記」の中に、国王が「昔時通親の交なき此兩國民は今や文明の餘澤と貿易の進渉とに依り日々接近するの域に進まんとせりイランの阿片は現に日本の新領土なる臺灣に於て其土民の需用に應ずる為め其重もなる市場を發見しイランの珍奇なる毛氈は日本家屋の装飾を添え日本の玩具若しくは製造品はイランの缺を補ふことも亦尠とせず・・・」とある。
これから見ると、当時イランから台湾に大量の阿片が輸入され、絨毯が日本に来ていたことは確かである。また、日本の玩具も当時すでにイランまで届いていたようである。
わが国の統計から見る明治期の交易
明治15(1882)年に日本で初めて発行された統計集「第1回日本帝国統計年鑑」には、明治7年から13年までの物品別輸出入統計と明治10年から13年までの国別輸出入統計が載っている。「年鑑」では、「明治6年以前の統計は日本には備わっていない、詳らかでない」と記されている。また、明治10年以前の輸出入国別統計も詳らかではないとある。つまり、日本で物品別輸出入統計を取り始めたのは明治7年から、国別輸出入統計を取り始めたのは明治10年からのことである。
前者の物品別輸出入統計によると、輸出の部で陶器が明治7年から、磁器が明治12年から、摺付木が明治11年、七宝品が明治12年から記載されている。後者の国別輸出入統計によると、国別仕向け地では、米、英、仏、清、伊の順で、アラビアどころかインドの名前もない。もちろん、オマーンの名前は載っていない。
第2回日本帝国統計年鑑(明治16年刊行)によると、明治14年の主要輸出品は、生糸、茶、石炭、樟脳、板昆布、漆器、陶器である。その中には、もちろん摺付木、磁器、七宝焼の名前もある。
わが国で初めて外国航路が開かれたのは明治8(1875)年のことである。日本郵船の前身である郵便汽船三菱会社が横浜−上海間航路を開設している。日本郵船が初めてボンベイ航路を開設したのが明治26年(1893年)、隔週ごとの日本とヨーロッパ航路を開設したのが明治29(1896)年であり、中東での寄港地はアデン、スエズとポートサイドであった。
日本船が湾岸に入るのは昭和に入ってからのことであり、それまで日本製品はアデンやボンベイから湾岸までは他国の船で届けられていたのである。
因みに、第8回および第18回の日本帝国統計年鑑からインド向けの各輸出品を拾ってみよう。明治21年では、米、石炭、磁器及陶器類、熨斗絲、漆器類、仮銅其他熱銅類、真綿の順で続き、あとは屑絲、絹布手巾、屏風、青銅器類、マッチ、竹器類、扇子、絹布類とある。それから10年後の明治31年では、石炭、羽二重、摺付木、絹織物、米、洋傘の順で続き、寒天、樟脳、屑絲、木蝋、扇子、綿織物となっている。
この中にマスカットに移送されたものがあった筈である。
明治期の現地訪問者の記述と日本の統計を総合すると、明治期の日本からオマーンへの輸出品は早附木、陶磁器、七宝焼、扇子などの雑貨類などと考えられる。米も届いていたかどうか。またマスカット港に寄港する船舶用として石炭も行っていたかもしれない。
一方、当時のオマーンの輸出品といえば、デーツ、魚、塩、ざくろ、レモンぐらいであったろうから、日本への輸入は皆無であったと断定してよかろう。
なお、明治時代に日本がエネルギー大国だったことがあまり知られていないので、付言する。明治政府の方針によって、石炭は紡績業と並ぶ国の基幹産業に育っていった。その結果、上海を例にとると、日本の石炭は古川らが日本を出発した明治13(1880)年では全石炭輸入量の80%を占めている。
石油にしても、明治34(1901)年の国別石油生産量を見ると、1日当たりロシアが約233千バレル、アメリカが190千バレル、インドネシアが11千バレル、ルーマニアが4.6千バレル、ビルマが4千バレル、日本が3千バレルという数字がある。日本は当時世界第6位の産油国であった。
外国の統計から見る明治期の交易
Britain and the Persian Gulf (1884−1914) という英国の資料を見ると、この間のオマーンの主たる輸入先は、インド、イギリス、フランス、米国、ドイツ、ベルギーであり、主たる輸出先はインド、ペルシャ、米国、アラビア湾となっている。なお、前者では、フランスが1910年から激減、米国が3位にのし上がっている。また、ドイツ、ベルギーからの輸入は各1907年、1906年から始まっている。輸出入国の中に、もちろん日本の名前はない。
日本と中東との交易
日本と中東全体との交易について概説すると、トルコとの交易がもっとも早い明治10年(1877年)に始まり、ついでエジプトからの綿花の輸入と綿布の輸出が明治31(1898)年に始まっている。ただし、トルコとの交易は、5千円、4千円、18千円などごく小規模で始まり、エジプトとの交易が始まった明治31年では、トルコとの輸出入が62千円、エジプトとの輸出入は472千円であった。
ただ、日本の輸出入統計が整備されたのが明治7年から、国別輸出入統計が整備されたのは明治10年年以降であるので、トルコとの交易の開始は実際にはもう少し早かったかもしれない。
日本が開国してから輸出総額の半数以上を占めた生糸と並んで日清戦争以降に日本の主要製品となったのが綿織物であった。この原料輸入地は中国、次いでインド、アメリカの順で拡がっていった。明治30年代からは、原料供給地の一つとしてまた製品の輸出地としてエジプトとの交易が拡がったのである。
また、当時綿布以外の日本からエジプトへの輸出品は、銅、陶磁器、絹製品、漆器、鉄道用枕木、その他であったが、量的には限られていた。
なお、日本郵船が香港/バンコク航路を開設したのは、明治39(1906年)のことであり、インド、エジプト間航路の開設の方が早い。この方面との綿花・綿織物の貿易量が東南アジアとの貿易量より多かったからであろう。
第1次世界大戦から第2次世界大戦まで
日本の中東向けの輸出が大きく伸びたのは、第一次大戦中(1914−18年)のことである。ヨーロッパ諸国が数千万人もの死傷者を出す激しい戦争で輸出どころでなくなり、中東も、アフリカ、アジア、オーストラリアなどと同じように、綿製品や工業製品の輸入先をヨーロッパから日本に切り替えたことによる。
因みに、エジプトの場合、日本からエジプトへの輸出は大正2年(1913年)に比べて同5(1916)年には約4倍、同7(1918)年には約21倍に急増している。
一方、同期間の輸入の増加は約1.2倍、約1.3倍であった。
なかでも、目だったのが日本の綿製品の進出であった。ヨーロッパからの供給途絶の他に、品質はイギリス製品より劣っていたが、日本船で運ぶことによる低運賃、安い人件費と生産性の向上、それに円安からくる製品の安価さも低所得の中東諸国には魅力であった。 日本は第一次世界大戦で実際に戦うことはなかったが、連合国側について戦勝国の立場を得たのもこの輸出には好都合であった。
この結果、戦後の1920年代には日本は中東諸国にとって綿製品の重要輸入先となり、1930年代には湾岸地域諸国でも日本が第1位か2位の輸入相手国にのし上がっている。
湾岸向けの輸出は、上述のボンベイ経由と昭和3(1928)年に日本郵船が開設した横浜―リバプール航路の途次に寄港したアデン経由でインド商人の手で行われたが、昭和8(1933)年には山下汽船が日本で初めてのペルシャ湾への不定期航路を開設し、昭和9(1934)年からはこれを定期航路とした。同年には日本郵船も湾岸に配船を始め、その後三井大阪商船もこれに続いた。
1930年代以降に日本から湾岸地域へ直接荷物を運べるようになったせいか、日本帝国統計年鑑では昭和10(1935)年からイラン、イラク、アラビア(サウジアラビア、クウェート、オマーン、カタールおよびイエメンを含む)が独立した輸出仕向地として表示され初めている。
「アラビア東岸酋長諸国−コーウェイト、バーレイン島、トルーシャル・オマーン、東洋研究所資料2第八十七號C」(昭和18年7月印刷)はこの辺りの事情を以下のように記述している。
「わが国とペルシャ湾の関係は1934年に山下汽船がペルシャ湾航路を開設して以来特に深くなっていた。此頃、世界的な不況とその他に由来する真珠業の不振の為土人の購買力は減少し、何よりも廉價品が歓迎された状態にもあったので、ペルシャ湾に強固な商業的地位樹立せんとしてゐた我国にとっては極めて有利な状況にあったのである。
我国からの主要貨物はバスラ、モハメラ向けのセメント、コーウェイト、バーレーン及びマスカット向けのセメント及び米、モハメラ向綿製品、セメント及びガラス製品その他で、多くはボンベイの印度商人の手を經て輸出されてゐたが之等日本商品は競争國の商品に較べて問題にならぬ程の廉價と日本商人の努力とにより各競争國の脅威となって居た。
日本製の陶器、ガラス器、雑貨は灣内到る所に勢力を占め、殊に日本綿製品は土人の最も歓迎する所となり、次第に英国品を駆逐する傾向があった。但し、日本製セメントは英国側の観方によれば英、伊、ユーゴスラビア及びバルチック諸國のセメントと競争したが品質に劣る為成功したとは言えないと云ふことになって居る。
又、日本製マッチはスエーデン及びロシア製マッチと競争し何れよりも廉價であり相當な成績を上げた。
斯の如く我国の進出は目覚しいものがあったが、我国が此等湾岸諸国の輸出品購入の途を講じなかった為甚だしい片貿易となり、イラク、イランの貿易業者から日本に對して反對がでたが、近年モハメラから大量の綿を輸入し、その他ガムトラガント、古鐡等の輸入を見るに至りその前途は大いに期待を持たれ始めた際今次大戦が勃発したのである」と。
また、同資料は、オマーンの貿易については、次ぎのように記述している。
「輸入商品の主たるものは米、綿布、コーヒー、砂糖でインドからは大量の米、綿布及び砂糖を、イランからは若干の再輸出品の雑貨を英国からはランカシャーの綿製品、煙草類及び酒類を輸入する。日本製品の進出状況が次表によって明確に認められる如く躍進的なものがあり、1932年から2年間に於ける前記輸入額の減退は主として廉價な日本製品の進出に原因する」と。
1932・33年度国別輸入額(単位:ルピー)
1932−33 1933−34
日本 − 412,494
インド 2,000,563 1,618,870
イラン 256,263 266,868
英本国 151,380 130,488
アフリカ 81,803 39,884
ドイツ − 33,180
アデン 12,430 16,095
アメリカ 14,672 7,224
その他 954,507 483,119
合計 3,471,618 3,008,222
(Economic Conditions in the
さらに、「日本商品中、殊に綿布の進出は著しく、これを同2年間に於ける統計によってみれば次ぎの通りである」と。
(単位:ルピー)
1932−33 1933−34
日本 − 362,579
インド 172,966 117,674
英国 43,765 28,190
イラン 7,706 −
その他 359,049 21,260
(Economic Conditions in the
「斯の如き日本製綿布の躍進は日本商社が是等市場の特異性を研究し、土人の嗜好に適した廉價品を齎した為であり、英国製綿布の需要が品質優良なるにも拘らず年々漸減し凋落の途を辿るのはその價格が土人に對して高價に過ぎる為で、インドの製造家及び商人も此事を熟知しながらインドの工業能力を以てしては如何にしても日本製綿布には對抗出来ない」とも述べている。
以上からして、日本からのオマーン向け輸出品は綿織物、セメント、米、陶器、ガラス器、マッチなどでの雑貨であったようである。
なお、オマーンからの輸出については、「重要な輸出品は乾魚と棗椰子とである。乾魚と鹽魚はインド及びセイロン向けで、棗椰子實の産額の7分の六はインドに行き、7分の一の上等品は英国に輸出される。1932年−33年間に汽船で輸出された乾鰯の總額は31万6875ルピーに達し、その中22万7450ルピーがドイツに行き、鰯以外の乾魚は21万6360ルピーで、その中、20万6485ルピーがセイロン島に輸出された。棗椰子實の輸出額は76万1300ルピーでその大部分は前述の如くインドへ行く」とある。
1932年―33年後の主要仕向け地別輸出額
1932−33 1933−34
インド 1201322 1250969
ドイツ 277550 182030
セイロン 206735 88860
イラン 125347 86125
ペルシャ湾沿岸 78525 109152
その他 137855 263760
(内支那) (21625) (11550)
(Economic Conditions in the
支那向け輸出の一部が日本に入っていたことは考えられるが、日本向けの直接輸出は皆無であった。
なお、東亜研究所の資料のクウェートの項には以下の記述がある。
「1935−36年度に於ける関税統計によると、我が國は全輸入品の9.2%、インド43.2%、英5%、その他となっているが、インドからの輸入貨物中には、ボンベイ及びカラチに於ける代理店を通じて來る日本品が大部分を占め、その他イラク等からの輸入品にも大量の日本品のあることは否まれず日本品の進出は著しいものがある。米と茶とは大部分インドから輸入されるが、米は一時日本米の廉價による挑戦されたことがあり茶も亦廉價の點で日本茶がインド茶を脅かすに至っている。コーヒーはシンガポール・コーヒーとムバサ・コーヒーとが市場を二分し、マラバ・コーヒーは高價なため需要が少ない、最低銘柄のザラメ糖はエジプトとジャワから結晶糖はオランダ及び英国から來るが高價である。綿製品は日本が他國品を殆んど駆逐し圧倒的進出をなし、英国製の毛布も日本産の毛織物の挑戦をうけ、其他各種の日本産絹絲及び人絹絲は、その低廉な價格の為需要が極めて大きい。更に日本産のセメントもインド・セメントに對し挑戦し、日本産自轉車も進出を企てたが、品質粗悪の為堅牢な英国製品には及ばず、日本産マッチも相当な進出と見てゐるが、どうようの理由でスェーデン及びソ連を脅かすに至っていない。弾薬及び武器の輸入は英国政府の許可がなくては不可能であり、酒類、薬品類は輸入禁止になっている。この他奥地からベドウイン隊商により馬、駱駝、羊などが齎らされている」と。これから見ると、オマーン向けにあるいは自転車もあったかもしれない。
また、クウェートからの輸出については、「輸出の主なものはインド向けの真珠とイラク向けの正貨及獣皮、その他棗椰子ノ實及び馬である」と記述している。
第2次世界大戦中
昭和14(1939)年9月に第2次世界大戦はまずヨーロッパで勃発したが、しばらくは日本と中東との貿易が途絶えることはなかった。昭和15(1940)年にフランスが敗れると、イタリアがドイツについて連合国側に参戦し、ヨーロッパの戦争が中東にも広がった。その結果、スエズ運河が日本船に閉鎖されて、日本貨物はバスラ経由で送られたこともあった。昭和16年にはエジプト、イラン、イラクが日本と断交し、日本の商社の中東事務所も次々に閉鎖されて、この地域との日本の貿易は途絶した。
戦後から1969年まで
戦後の日本とオマーンの経済関係は、1949年の日本からの輸出で始まっている。日本外国貿易年表の1949年版によると、その輸出の内訳は以下のとおりである。
なお、輸入は0である。
昭和24年度オマーン向け輸出(単位:円、%)
綿織物 31,205,270 (72.4)
布巾製ゴム底履物類 6.895,615 (16.0)
マッチ 1,593,000 (3.7)
皿、丼、茶わん 642,130 (1.5)
喫茶用具(組物) 473,110 (1.1)
自転車 277,140 (0.6)
錠及びかぎ(鉄鋼製のもの) 133,560 (0.3)
ま法びん(ケース入りのもの) 767,070 (1.8)
洋がさ(綿布張のもの) 159,900 (0.4)
その他 954,702 (2.2)
合計 43,101,497 (100.0)
一方、オマーン側からの対日輸出は1954年から単発的に始まり、1967年からの原油輸出によって本格化した。
日本とオマーンの貿易(単位:100万円)
輸出 輸入
昭和24(1949)年 43 −
25(1950)年 32 0
29(1954)年 154 487
30(1955)年 150 324
35(1960)年 100 −
40(1965)年 278 2
42(1967)年 302 5188
43(1968)年 824 18312
44(1969)年 − −
1954−55年のオマーンからの輸入は、外国産のバター、えび、コーヒ豆、原油及び精製用粗油となっている。
また、昭和45(1970)年−46(1971)年も輸出入は0である。これはオマーンの政情不安、宮廷クーデター、その後の国家承認などのためである。
貿易収支は、原油の本格的輸入により1967年以降今日まで日本側の大幅入超となっている。
昭和43年3月にバーレンからオマーンに入った当時外務省の野草茂基は、「マスカットやマトラのスークに、日本製の電気器具、カメラ、魚網、漁具が豊富に陳列されていた」と記述している。日本からの当時の輸出品はこういうものであったのだろう。
1971年にオマーンを訪れた同じく当時外務省の鰐淵和雄は、「マスカットのスークで雑貨、電気製品、缶詰食品等の日本製品がかなり見られ、日本製の車もよく目につく。聞いて見ると、現在オマーンにはトヨタだけで約六百台、日産、マツダ等を合わせると千台以上になるだろうとのこと」と記述している。
オマーンの石油開発
オマーンの原油開発の歴史は古い。1924年にはアングロパーシャン石油が最初の探鉱利権を許可されて地質調査を行ったが、油兆がなく1929年にその権利を放棄した。1937年にイラク石油の子会社のPCO(Petroleum Concession Oman)がオマーン全土の石油利権を獲得し、1942年にPDOD (Petroleum Development of Oman and Dhofar)を設立したが、1951年にドファール地域の利権を放棄してPDO(Petroleum Development of Oman)となった。このPDOが1956年から掘削を開始したものの商業性のある油田の発見に至らず、1962年になってPDOによってイバール油田、1963年にナテイー油田、1964年にファフード油田が順次発見された。長い苦闘の歴史の末であった。
1967年にファフードとマスカットのミナ・アル・ファハル間のパイプライン及びミナ・アル・ファハルでの積出施設が完成し、石油の生産と輸出が始まった。
石油生産量は、1967年の47.5千バレル/日から、1970年には336.1千バレル/日、1980年には280.0千バレル/日、1990年には658.0千バレル/日、2001年には955.8千バレル/日に達したが、2000年代に入って減退し、最近時の2008年には76万バレル/日となっている。
ファフード油田への旅
筆者がオマーン内陸部のファフード油田をシェル社の技術者の案内で訪ねたのは、1974年4月下旬のことであった。オマーンへは羽田から香港、バハレーン経由の長旅であったと記憶している。オマーン訪問の目的はオマーン初の製油所建設プロジェクトの企業化調査のためであったが、油田も見ることになり、われわれの一行4人が10人ほどの油田作業員とともにシェル社のプロペラ機でファフードに飛んだ。
マスカットからの緑のバチナ地方の上空からまもなく、左旋回してすぐにジャバル・アフダルの山岳地帯に入ったが、峨々たる岩山に当る夏の日差しがまぶしかったことを覚えている。
ファフードに着いたのは夕方近く、日が傾き初めていた。さっそく油田を見るべく、シェル社の英人技術者の案内で油田事務所を出た。事務所は砂漠の中の台地の上にあり、やがて断崖絶壁に行き着いた。そこで、足元の岩場を見ると、二枚貝などの化石がごろごろ転がっている。そこが海の底であったことに驚いた。
断崖から見渡せば、夕暮れの中で一木一草もない土漠が地平線まで180度広がっていた。目を凝らすと、正面の地平線からこの台地目掛けて油井やぐらの列がすぐ近くまで延々と続いている。同行の英国人エンジニア−が「あれは、みんなIPC(イラク石油)の子会社PDOが石油を求めて掘り続け、油が出ずに結局断念した空井戸の跡だ」と説明してくれた。
「あれが最後の空井戸のやぐらだ」と指差す台地から左前方100メートルのところ。そこから約400メートルの右前方に一本ポツンと油井やぐらが立っている。「あれは?」と尋ねると、あれがファハド油田の第1号井だ」という返事が返ってきた。その距離、僅かに400メートル。片方は、出油を信じて延々と地平線の彼方から掘り続けてきたやぐらの列。しかし、左前方100メートルのところで断念。片方は、「よし、ここだ」と狙いを定めて掘って出油をみた油井だという。
「この非情は地下の断層のせいだった」とかのエンジニア−が説明してくれ、そして最後に「ジス イズ オイルビジネス(これが石油ビジネスなんだ)と付け加えた。たった400メートルの断層が「天国と地獄」を分けたのである。その怖さ、非情さを思い知った。
第九章 日本とオマーンの交流の始まり−文化
1.乳香
乳香とクリスマス
乳香を知らない人が意外に多い。まずは乳香の説明から入ろう。
クリスマスになると、キリストが誕生した時に東方の三博士が贈り物を持って馬小屋を訪れる話が語られ、その絵もよく目にする。しかし、その贈り物がなんだったかについて語られることはない。
聖書のマタイによる福音書の第二章九から十一節に「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリアのそばにいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」と書かれている。
マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも、マルコがサヴァの町(テヘランから南西五十マイルに相当する)の人から聞いた話として、「東方の三聖人がペルシャのこの町からイエス・キリストの降誕を驚嘆するために行ったこと、・・・三聖人がパルタザール、ガスパール、メルキオールといったこと、この三聖人が誕生した予言者のもとに赴くのに各自が黄金・乳香・没薬の三種の供物を持参したこと、もしその嬰児が黄金を取るようなら地上の王者であり、乳香を取るなら神、没薬なら医者だと言われたこと、・・・この嬰児が三種の供物を三種ながら手にするのを見た時、三聖人の心中には、これこそは神であり地上の王者であり医師であるとの確信が湧き出た…」と書かれている。
箱根にある「ガラスの森博物館」には、この時の様子を示すガラス細工が展示されている。その説明文の中に三聖人の名が「パルタザール、ガスパール、メルキオール」と記されているから、東方見聞録の記述によったものであろう。
東方の三博士がキリスト誕生の際に持参したお祝い品の一つが乳香りであった。これで少し乳香に親しみを持っていただけたであろうか。
乳香とは
乳香とはどんなものであろうか。乳香はオマーン南部のドファール地方とイエメン、ソマリアにだけ繁茂するカンラン科のある種の木に深く疵を付けるとしみ出てくる芳香性の樹脂である。木の高さは3mから10m、ミルクがしたたり固まったような色と形をしているところからこの名がある。燃やすと甘く優雅な香りが漂う。オマーン産乳香が世界最高級品とされ、なかでも青みがかった透明な白色のものが最上質とされている。
乳香の歴史
乳香は没薬とともに、神や天を祀る際の最上不可欠な焚香料して、前20世紀以前から古代エジプトとアッカドやシュメールなどで使用されていた。「神のもの、さらに神そのもの」ともされていた。その歴史は古い。
トルコ南部からメソポタミアまで版図を広げた古代エジプト王朝の唯一の女王であったハトシェプスト(前15世紀)がブントに遠征隊を送った様子を描いた有名な壁画がいまもルクソールに残っている。そこには、ブント人が乳香と31本の乳香樹を積み込む様、首都テーベ(現在のルクソール)でハトシェプス自身が乳香の量を測っている様が描かれているが、当時乳香はブントの産物の中で一番のものであった。ブントはいまのソマリアと考えられている。
シバの女王がイスラエルのソロモン王を訪ねた時(前10世紀ころ)のことが、「シバの女王はソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようと、非常に多くの従者を連れ、香料と非常にたくさんの金と宝石とをラクダに負わせて、エルサレムのソロモンのもとに来て、その心にあることをことごこく彼に告げた。…」と旧約聖書歴代志下第九章一節に記されている。シバの女王の国はイエメンとみなされることから、この香料が乳香であったことは間違いない。
この乳香は、往時オマーン南部のドファール地方から陸上と海上を通じて各地に運ばれた。
陸路には、ドファールからルブアルハーリー砂漠を北上して、現在のUAE近くのゲラに運ばれ、そこから船でバビロンに通じる路であった。
また、ラクダの背に揺られながら、マリブやメインを経由し、紅海沿いにアラビア半島を北上してメッカやメジナを通ってペトラやパルミラに行き、さらにレバノンやエジプトなどに達する道などがあった。ギリシャ・ローマにそこから船で運ばれた。
海路には、イエメンのカーナに向う道(シャブワ経由でマリブへと運ばれた)、カーナから紅海を遡る道(途中で陸揚げされてアフリカやアレキサンドリアに運ばれた)、ペルシャ湾に向かう道、さらにはインドや中国に通じる道などがあり、これらによって乳香は世界中に運ばれていた。
ドファール地方のオマーン第二の都市サラーラの北約200キロに古代都市ウバールの遺跡がある。1992年にアメリカの衛星によって発見され、その後発掘されたウバールは5千年前から2千年前の「乳香の道」の重要な拠点であったとみられている。
また、サラーラの東約30キロにあるサムハラム遺跡はかって乳香で栄えた都市であり、そこから望むホール・ルーリは往時乳香を積んだダウ船が東西に船出して行った港であった。
アラビア半島というといまは石油が想起されるが、古代のアラビア半島南部は乳香の富によって栄え、この地方は「幸福のアラビア」として知られた。
当時乳香は金と同じ価値があったといわれている。すぐにぴんとは来ないかもしれないが、現在香木の「伽羅」が金よりはるかに高価であることを知れば、実感も湧くであろうか。因みに、現在は金一グラム約3千円に対して、伽羅の小売価格は一グラム約1万円である。
なお、需要が絶頂期であったローマ時代には、ローマでの乳香価格は現在価値に直してグラム4千2百円程度であったという。
乳香のわが国への伝来
日本への香料の伝来については、日本書紀の巻22に「推古天皇の三年(595年)、夏・四月、枕水、淡路島に漂著れり。其大きさ一圍、島の人、枕水を知らずして、薪に交てて竈に焼く。その烟気遠く薫る。即ち異なりとして之を献る」という記述があり、これが香木に関するわが国最初の記録とされている。
もともと日本には香木がなく、香気があるとされたのはせいぜい杉、樟木、桧などであった。
香料は日本には仏教の伝来とともに中国・朝鮮を通じて初めてもたらされた。わが国への仏教伝来は552年である。しかし、仏教は4世紀後半には百済に伝わっていたのだから、実際の香料の日本伝来は上記の日本書紀の記述より古い古墳時代のことと考えられる。
仏教伝来の根源である中国も香料の生産国ではなく、古くはキビガラなどの植物を乾燥したものを焚いて芳しい香気を感じていた程度であったらしい。香料は仏教移入前にも西域から中国に伝わっていたと思われるが、仏教が伝来し仏教寺院の権力が確立されて以来その使用が増加し、やがて中国の権力者の生活にも広く普及していった。
香料は、唐のころには西域経由の陸上ルートやペルシャ・アラビアと中国南部をつなぐ海上ルートを通じても求められるようになり、それが遣唐使や僧などを通じて日本にも伝えられたのである。
その中の1つに乳香があった。奈良・平安時代にはすでに日本に入っていたとみられる。
天平19(747)年の法隆寺や大安寺の財産目録に他の香料とともに「薫陸香」の名が見える。
また、天平勝宝8年(756年)に光明皇后が聖武天皇の七七忌に天皇の御遺愛品を奉献されたことによって始まった正倉院宝物には、天応年間(781年)や天長年間(832年)にすでに「薫陸」が加えられていた。
これら「薫陸」と称される香料はなんであったのだろうか。一般的には、「薫陸」は乳香の別名と説明されている。しかし、「薫陸」の中身については変遷があった。
香薬史の大家である山田憲太郎はこの辺りの事情を以下のように説明している。
「薫陸という言葉はインド系の樹脂香料であるクンズル(インド乳香)の音を写したものであろう…中国では、遅くとも六世紀、多分四世紀以来、薫陸という名の香料が知られていた・・・4・5世紀ごろの薫陸の内容が初めからアラビア乳香を中心としたものであったとはどうしても言い切れない…ではインドのググル(インド没薬)とクンズル(インド乳香)の二つが中国人のいう薫陸香であろうか。・・・しかし、アラビア乳香の伝聞もかなり正確であり、中国に伝播した初期の薫陸香は、たとえインドで偽和加工されたものであってもアラビア乳香を含有していたことは事実であったろう。…インドに輸入されたアラビア乳香はインド産の偽乳香や偽没薬に混合されて、まぎらわしいほどまでに混雑した芳香樹脂となっていた。そして中国人は、これら全体の樹脂を薫陸香と通称していたのである。…8世紀に純品のアラビア(=オマーン)乳香が伝来すると、薫陸香はアラビア乳香を中心とするものに変わってしまった…」と。
さらに山田によると、中国で初めて乳香という名が上げられたのは、739年の陳蔵器の「本草拾遺」であるという。そこには、「乳香は薫陸の一種である」という一文があるという。このように、乳香という名称は中国では8世紀の前半に知られ、明白にアラビア乳香をさしていたという。
754年に日本に渡来した唐僧鑑真が750年ごろに揚州から出帆し、南方海上に漂流し海賊の家に滞在した際の記述に「乳頭香」の文字が見える。日本では、後年にこれが乳香になったといわれている。
仏教とともにもたらされた匂いは、平安時代に入るとわが国でも仏前に焚く焼香儀礼から切り離されて一部宮廷人の生活の対象として趣味的にも観察されるようになった。貴族たちは、練り香により種々の香りを楽しみ、衣服に香りを焚きこんたり、匂い袋、体身香、香浴場、諸化粧料としても盛んに使うようになった。練り香の処方を書いた有名な香道書に「薫集類抄」《藤原範兼(1107−1165)著》があるが、ここでもまだ乳香の表記がなく、乳香は薫陸として記録されている。
我が国で乳香が薫陸ではなく、乳香という文字で記されるのは平安時代後期(十二世紀後半)に入ってからのことである。「香薬字抄」という密教教義と儀礼研究のための書に「乳香は蓋し薫陸の類なり…」とある。
富山の反魂丹
乳香が使われたのは香りとしてだけではない。古くから薬としても使用されてきた。産地のドファール地方でも、各種疾病の万能薬としていまでも使われている。
日本でも乳香は各種疾病の薬に幅広く調合されている。いわく、胃腸虚弱、気付け、暑気あたり、狭心症、神経痛、打撲傷、創傷、生理不順、初生児疾患などなど。
その一つが富山の代表的な総合胃腸薬「反魂丹」である。この薬は富山藩二代目藩主の前田正甫公自身が薬草の栽培を奨励し、製造の研究をし、その販売を命じたとされている。もともと備前岡山から富山に伝えられたとされるが、時期には2説あり明かではない。他の説では室町時代初期応英永年間(1392−1427年)ともされているから、正甫の時代より300年は古い。
伝えられるところによると、「正甫が元禄3(1690)年に江戸城へ参勤していた。その折に、岩代の三春(現在の福島県)城主秋田河内守が、脇腹を抱えてにわかに苦しみ出した。たまたまそこに居あわせた正甫が、やおら印籠より反魂丹を取り出して与えたところ、たちまちのうちに河内守の腹痛は治まった。その一部始終を眺めていた全国の諸大名が反魂丹の霊験あらたかなる効き目に驚き、自国で販売してくれるようわれもわれもと懇願した」ことがその動機となったという。
また、「ある武士が母親の病気回復を願って立山に登ったところ、阿弥陀如来が現われて薬を授かり、直ぐに母親に飲ませようと帰宅したが、既に死んでいた。しかし、せめてもと死んだ母親の口にその薬を含ませたところ、母親は生き返り、「あの世で阿弥陀様に『まだ来るのは早い、早く返れ』と背中をたたかれて息を吹き返した」という。体に魂を返してくれる薬という意味でこの名がつけられたという。
この反魂丹の処方には23種類の薬草が使われているが、その1つとしてかってオマーン領土であったザンジバルの「丁子」とともに「乳香」が使われている。
なお、元禄時代のこの反魂丹売りが越中富山の売薬の始まりであり、文久年間(1861−1863年)では行商売薬人は2千2百人もいたという。この売薬行商は明治以降も続き、大正や昭和20年ごろに全盛期を迎え、1万5千人が全国を廻ったとされている。反魂丹はその主力製品であった。
弥次さん喜多さんで有名な享和2年(1802年)に発行された十返舎十九の「東海道中膝栗毛」の中にも、旅の携帯必需品として反魂丹のことが書かれている。{・・・道中なさるおかたには、なくて叶わぬぜにと金、まだも杖笠蓑桐油、なんぼしまつな旦那でも、足一本ではあるかれぬ。その上田町の反ごん(「云」の下に「鬼」という字)丹、コリヤさってやのしらみ紐、ゑっちうふどしのかけがえも、なくてはならぬ・・・}と。
兼康の乳香散
もう一つ江戸で有名であったものに、乳香散がある。
江戸の有名な川柳に「本郷も兼康(かねやす)までは江戸の内」とあるように、江戸時代に市街地の景観を見せていたのはいまの本郷三丁目あたりまでであったという。この「かねやす」は享保年間(1716‐36)に口中医師の兼康祐悦(ゆういつ)が本郷三丁目の東角に薬種小間物店として開業し「乳香散」なる歯磨粉を売り出したところ、江戸庶民の間で大評判となり、大いに繁盛したという。
このヒット商品「乳香散」に「乳香」が処方されていたかどうかの記録は残されていないが、名前からして乳香が使われていたと断じてよかろう。
「かねやす」は本郷三丁目に現存しており、筆者はこれを確かめるべく店を訪ねたが、「先祖のそういう話は聞いているが、戦時中の空襲でなにもかも焼けてしまって確かめるすべがない」というのが家人の話であった。なお、同名の「かねやす」は、いまは薬屋ではなく洋品店になっている。店の横壁には上記の有名な川柳が掲げられている。
なお、反魂丹や乳香散が人気商品となった江戸時代は鎖国の時代であり、中国とオランダの両国に限って長崎においてのみ通商が許可されたが、当時の貿易記録に乳香の名前が見える。鎖国下にも日本とオマーンはつながっていたのである。
西川如見の増補華夷通商考の巻之1と2の中華十五省の中の陜西省、雲南省、東京(トンキン)などの土産にも乳香の名前があり、それらの港から日本に船が来ていたことも記されている。
アラビア人と香り
オマーンだけではなくアラビア半島では、香りは日常生活に欠かせないものとなっている。
筆者が第一次石油危機直後に石油を求めてアラビア半島を西東と走り回り始めた頃、交渉相手のアラビアの政府要人が香水の匂いと共に会談に現れるのには「えっ、男子が香水つけるの」と驚いたものであった。アラビア男性は、いまも日本の平安貴族よろしく香水をつけて職場に出勤している。
平安貴族たちは各々が独自の原料と処方で作り上げた練り香を楽しんだという。オマーンにはいまでもボフール(Bokhur)という同じような練り香がある。これは沈香や白檀その他種々の香木を練り込んだもので、各家や各店ごとにその処方が異なり、オマーンの人たちはその違いを誇り、楽しんでいる。家に客を迎える時にはこのボフールが焚かれるのが通例である。
オマーンでは、高さ30−40センチの三角形の木枠をよく目にする。マスナッド(Masnad)と呼ばれているものである。「これって、何?」とほとんどの日本人が訝るが、これは日本でいえば伏せ籠である。往時衣服に香を焚き染める時に使ったが、オマーンでも同じ用途に使われている。日本のもののように豪華なものではないが、構造は同じものである。日本の平安時代がそこにある。
昔、アブダビのベドウィンの部落に妻と泊まった時に、寝る前に友人のシェイクが現れて、「二人とも、手を出せ」と言って、私と妻の手の平になみなみと香水を注いでくれたことがあった。アラブの人はベッドインする時にもたっぷりと香水を使っている。あれは、われわれ夫婦も香水をたっぷりつけて楽しめということだったのだろうか。
現地で乳香は、ホテルやレストラン、さらに家庭でも毎朝焚かれる。リフレッシュのためでもあるが、もともとは悪魔除けの意味がある。夕方、田舎辺りの方家畜小屋で焚くのも、後者の意味からである。また、出産時には、安産やお祝い、魔除けの意味から焚かれる。結婚式にも乳香はかかせない。
その他、香りの外に薬用としての用途も広い。消化、整腸、鎮痛剤、傷、止血、殺菌などに効くとされ、ガムのように噛んで歯を強くし、口中の清涼感を保つのにもよいとされる。南部のサラーラでは、乳香のチュウイングガムが売られている。記憶力がよくなると言って、水に加えて毎日飲んでいる大学教授にもお会いした。利尿にもよいらしい。
虫除けにも効くという。以前住んでいたマスカットのわが家に蛇が入り込んだことがあった。「乳香を焚くと蛇が退散する」と聞き、部屋を閉め切って乳香を燃やしたら、蛇はいつの間にかいなくなっていた。
香水といえば、オマーンの至宝「アムアージュ」(アラビア語で「漣」の意味)にも一言触れておきたい。アラビア香水はフランス香水などとは比較にならない千数百年に及ぶ長い歴史を持っているが、「アムアージュ」は、この伝統を復活させるために1983年にマカットに建てられた工場で伝説的なフランス人調香師ギー・ロベルトによって作り出され、いまはマスカットに建てられた工場で生産されている。
通常の高級香水の成分は40−50種類のようだが、アムアージュは120種類もの成分を混ぜ合わせている。もちろん、最高級品の乳香も使われている。容器が純金を使った豪華なものであることにもよるが、世界一高価な香水として知られ、現在欧米や中東など20ケ国以上で売られている。
乳香の木の日本移植
最後に乳香の樹を通じた日本とオマーンの交流について触れておきたい。
筆者は、日本には乳香の樹は現存しないと承知している。
このような中で、最近日本で乳香の苗木を育て始めた人がいた。久留米の香舗「天年堂」取締役の木下忍氏である。筆者と同氏とが2004年1月に「オマーン日本親善協会創立30周年・マスカットフエステイバル2004年」の記念講演に招かれたことは記述した。
この折に木下氏が萩日本大使のご好意でマスカットの大使公邸にある乳香の小枝を切らせていただき、それを持ち帰って挿し木をしたのである。しかし、木下邸に植えられた約20本の挿し木は全滅、佐賀大学に依頼した約同数の挿し木のうち2本が、二冬を越して60センチほどの苗木に育った。
このことは2005年3月23日付けのオマーンの英字紙「タイムズ・オブ・オマーン」に大きく報じられた。記事はかねてから親交のある同新聞社社主からの依頼で筆者が寄稿したのだが、そこには以下のように書かせてもらった。
「自然は二つの国の結び付きを固めるのに重要な役割を果たすことができる。アラビアの自然の香り、伝説の乳香がまさにこれを実践した。オマーンからの小枝が日本の温室に植えられた。そして、それが成功した。両国間の国民の間に広がる善意によってオマーン・日本の関係が強固なものとなっている」
成長を続けたこの2本の乳香の木がオマーン・日本の友好の証として大きく育ってくれることを関係者一同が願った。この小枝が日本への帰路ドバイ空港でミッシングとなり、その到着まで数日間はらはらさせられた因縁の小枝であったればこそ、なおさらその思いが強かった。
しかし、2006年6月に2本とも突然枯死してしまった。残念なことであった。
2.有平糖(あるへいとう)の伝来
有平糖とアルフェロア
ポルトガルと日本の関係は1543年のポルトガル人の種子島漂着によって始まった。
漂着したのは百余人を乗せた大船、乗っていた2人のポルトガル人によって日本に鉄砲が伝えられたことは既述した。
その後フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために1549年に来航した。また、インドのゴアで日本人パウロ・ヤジロー(ザビエル来日の機縁をつくった薩摩武士)に会い、ザビエルから日本の事情を聞き日本伝道に燃えたルイス・フロイスが日本にやってきたのは1562年のことである。京都を追われて困っていたフロイスが初めて織田信長に謁見したのが永録12(1569)年、彼はその後18回も信長に謁見している。
その時にフロイスが献上したのもの中で、信長に感銘を与えたのが「金平糖」と丸い棒状でいく筋もの色が入った「有平糖」だったといわれている。砂糖がまだ高価で普及していなかった当時には、その甘さは硬さや鮮やかな色とあいまって、信長や武士たちを魅了したのだろう。
「金平糖」のことは知っていても、「有平糖」のことは知らないという人が案外多いかもしれないが、ちょっと気をつけて見ると、「有平(あるへい)」と呼ばれるものが、意外と身近にある。
「デパートに入っている有名店でも各観光地のお土産店などでも、「有平糖」は売られている。さまざまな色の筋の入った細長い飴玉である。以前箱根の土産店でも見たことがある。
そういえば、理髪店の前ではくるくると廻っている赤・青・白の看板を目にするが、あれは「有平棒(あるへいぼう)」と呼ばれるものである。飴玉に色と形が似ているからであろう。
また歌舞伎役者が顔に描く白や赤の豪華な隈取りのひとつを有平隈(あるへいぐま)と呼ぶ。
長崎では「有平糖」は飴ではなく、慶長仏事、祭礼儀礼には欠かせない糖蜜、砂糖の細工菓子のことをいうようだ。長崎くんちのときに飾り物として大きなへぎ板につけられる恵比須、大黒天の面や、結婚式の際の海老糖、千代結びなどの細工菓子すべてが有平糖である。また、茶席でも添え菓子として用いられているという。
この「あるへいとう」という名前はポルトガル語の「アルフェロア(Alfeloa)」から来ており、これに「有平糖」という漢字を当てたとされる。
入江一郎の「長崎舶来言葉」にも、じゃがたらお春の生涯を息子と二人で悲劇的な小説にした西川如見の「長崎夜話草(やわぐさ)−長崎土産物南蛮菓子色々」の中に、この有平糖が「アルヘル」の名で出ているとある。入江はポルトガル語のアルフェロアが「アルヘル」になったり、「アルヘイル」になったりしている間に、「有平糖」になったと書いている。
アルフェロアが「有平糖」になるころには器用な日本人の技術が加わり南蛮菓子変じて「和菓子」になり、喜田川守貞が1839年から30年かけて書いた江戸時代の風俗の百科事典ともいうべき「守貞漫稿」には、「有平・金平とも昔は舶来したが、近頃は舶来ではなく日本各地でいろいろの店がこれを製造している。白砂糖一種を煮て練り、白あるいは紅、黄、萌黄などを加え、種々の形を模造する。また、有平は種々の形を手造りにしているものが多い。しかし、近年京阪地方では、白砂糖を練り型に流し焼いた後に、筆・刷毛などで彩色し、鯉、鮒、ウド、竹の子、蓮根その他種々の形のものを作っている。まるで本物のようにうまく出来ている。名づけて金花糖(きんやとう)という。嘉永のころ(1848年以降)になって江戸にも伝えられた」とある。
「有平糖」の元になったポルトガル語の「アルフェロア」は、昔は「一般的に砂糖菓子のこと」、今日では「お菓子を作るための砂糖」を意味する。
因みに、一昨年訪ねたイギリスのエクセター大学で知り合ったポルトガルからの女子留学生に「アルフェロアを知っているか」と訊ねたところ、「聞いたことがない」という答えが返ってきた。その後彼女はポルトがルのお母さんにまで電話をして聞いてくれたのだが、「お母さんも知らないと言っている」との返答だった。「アルフェロア」はいまのポルトガルでは一般人には通じないようだ。
アルフェロアはアラビア語源
筆者は杉田英明の「日本人の中東発見」の中で、このポルトガル語の「アルフェロア」がアラビア語の「アル・ヘラ−ワ(al- helawa)」が語源であることを知った。この「アル・ヘラ−ワ」というアラビア語は「砂糖菓子」や「デザート」という意味である。
他に同じ意味の「アル・ハラーワ(al-halawa)や「アル・ハルニヤット(al-halwiyat)という言葉もあるという。
大体、「アル」の付いた言葉はアラビア語源が多い。例えば、「アルコール」、「アルカリ」「アルジェブラ」などである。しかし、この「有平糖」がまさかアラビア語語源であるとは思いもよらなかった。
「有平糖」を説明している日本のどの本も、またインターネット上で「有平糖」を宣伝しているどの店も「有平糖」はポルトガルから伝えられたとしている。その先の「有平糖」がアラビア起源であることに言及したものはない。その意味で、杉田によってもたらされたこの情報は、私にとってすこぶる貴重で感動的なものであった。
オマーンに「オマニ・ハルワ(Omani halwa)」という銘菓がある。オマーンで客を迎える時には必ずオマニ・コーヒーと一緒に供される菓子で、食感は日本の外郎(ういろう)に似ている。原料は澱粉、卵、砂糖、水、ギー(水牛などの乳から作るバター様のもの、インド料理で広く使われる)、サフラン、カルダモン、バラ水、ナッツ類で、これらを加熱した大釜の中で2時間ほど攪拌しながら作り上げるものである。
筆者が何回も訪れたマスカット近郊のバルカにある「オマニ・ハルワ」の工場は老舗製造元としてとくに有名である。この工場からハルワが湾岸諸国に広く輸出され、また世界中のオマーン大使館にも供給されていると聞いている。
この「オマニ・ハルワ」の「ハルワ」も「アル・ヘラーワ」と同じ語源のものである。
有平糖はアラビア起源?
筆者は、日本の「有平糖」とこの「オマニ・ハルワ」がポルトガルを介してつながっていると考えている。
ポルトガル人がアラビア湾岸に進出した際に拠点としたのは、マスカットとホルムズ(現在のバンダル・アバス)である。ホルムズはイランである。とすれば、「アル・ヘラーワ」というアラビア語がポルトガルに伝わるのは、オマーンから以外には考えられない。
しかも、アネイザ族のウトビ支族であるクウェート人とバーレーン人がそれぞれの地に移住したのが1720年と1783年ごろ、いまのカタールの人たちが属するアッ・タミール族の支族アル・ムッサリム族がいまのカタールに入ったのが18世紀末である。バニヤース族であるアブダビの人たちが水を発見してアブダビに移動したのが1761年、それから分かれたラシード族がドバイに移住したのは1833年のことである。すべて、ポルトガルがオマーンから放逐された1650年よりずっと後のことである。
これから見ても、このアラビア語がオマーンからポルトガルに伝わったとするのが、自然であろう。 「日本の『有平糖』とは材料、色、形、また味もまったく異なるなるオマニ・ハルワが、実はポルトガルを通して日本で有平糖になった。大発見!」と筆者は意気込み、ポルトガルとオマーン交流史を専攻しているオマーン人研究者などにも接触した。
日本の文献には「フロイスが信長に有平糖を献上したこと」がきちんと記録されている。ポルトガルの文献にも「アル・ハルワがオマーンからもたらされた」とする記録がオマーンまたはポルトガルに残っているのではないか、それを確かめるにはアラビア語とポルトガル語ができる研究者に頼る以外にはないと思ったからである。
しかしながら、オマーンやポルトガルで「アル・ハルワがオマーンからポルトガルに伝わって、Alfeloaになった」という決定的な情報はいまだ発見できていない。
最近、日本テレビの荒尾美代氏が有平糖のルーツを探して旅をし、1992年にその著「謎学の旅」にまとめていることを知った。
同氏によると、リスボンのお菓子屋で「アルヘイトウっていうのは知らないね」と言われて、リスボンの南西1千キロの洋上に浮かぶマディラ島を訪ね、アルフェロアが糖蜜から作られた茶色い棒状のもの、いまは作られていない。アルフェニンは砂糖から作る砂糖菓子だが、やはり作られていない。でも、テルセイラ島にはまだ残っているかもしれないことを掴み、さらに北西1千2百キロにあるアゾレス諸島の中心的な島であるテルセイラ島を訪ねている。そこで、鳥やひょうたんの形をした砂糖菓子、アルフェニンを見つけて、「これが日本のアルヘイトウの原形に違いない」と書いている。
その労には、頭が下がる。ただ、同氏も、アラブとの結び付きに言及しても、そこからオマーンマまでのつながりには到達していない。
3.アハジージュ
アラブ馬
アラビアというとラクダやラクダレースの方が知られているが、馬は崇高でアラブ文化を象徴するもとされている。馬はコーラン「駿馬」の章にも、
「慈悲ふかく自愛あまねきアッラーの御名において・・・・・・
鼻嵐(はなあらし)吹き疾駆して、
蹄に火花散らしつつ、
暁かけて襲撃し
砂塵濛々まき起こし。
敵中ふかくおどり込む」
という記述がある。夜明けと共に敵部落を急襲する馬の姿を描き、それでアラブ人は誓言したという。
このアラブ馬はどこからきたのであろうか。
オマーンのある本には、予言者ソロモンがアズド族(オマーン人の先祖)に馬を与えたのがアラブ人に馬が伝わった最初であるとある。あくまでも伝承であろう。
本村凌二の「馬の世界史」によれば、アラブ馬の成立にはいろいろな伝承があるが、本村は、「紀元一世紀頃には、北方からやってきたベドウィンが、さまざまな軍事技術とともに馬を南アラビアに導入することになったのではないか」、「アラブ馬ときわめて近い類縁関係にあるカスピアン・ポニーは紀元前3千年期のメソポタミア時代にさかのぼる品種であり、この北方産馬がアラビア半島に次々と輸入されていったことは十分考えられる」、「これらの馬が、乾燥した過酷な環境の中でベドウィンの手で淘汰され、その結果、アラブ馬が誕生したのではないか」と述べている。
さらに、アラブ馬の世界各地の馬産に比類のない影響を与えたというが、木村はその理由について「すべての品種の中でアラブ馬がもっとも純血であること、この純血の故にアラブ馬にはことのほか優性遺伝の力が備わったこと、アラブ馬が純血交配でも異種交配でも洗練されたより高い資質をもつ子孫を生み出せることになった」としている。
不毛といわれる土地で独立したベドウィンの各部族が点在して生活する環境、ラクダなどの家畜の飼育による血統の認識能力と特定部族内の純血種保存の伝統を考えると、純血アラブ馬がベドウィンによって作られたことがよく理解できよう。
ヨーロッパで東洋馬が知られたのはイスラム軍が砂漠の軽快な馬に乗って攻め入った時である。イスラム軍の馬が当時のヨーロッパの大型馬に比べて速力と持久力に優れていることを知ったヨーロッパ人が「東洋馬」を「西洋馬」に交配して優れた軍馬をつくりだすことを考え、馬の改良が始まったといわれている。
現にサラブレッドがイギリスの土産馬をアラブ馬など三頭の種牡馬で改良したものであることはよく知られており、母系としては17世紀のイギリスに持久力と速力に優れたウマがあり、その中から選ばれた少数の牝馬を基礎として交配されたという。
オマーンからの馬の輸出については、マルコ・ポーロが『東方見聞録』のなかでドファールやカルハートからのアラブ馬の輸出に言及している。
「市(デュファール市)は海岸に位置し良港を有している。多数の商船・商人がこの港に来往して莫大な商品をもたらしてくる。これらの商人はアラビアその他の地方で飼畜された馬匹をここで入手して輸出するのであるが、この馬匹貿易による利益は莫大である」、「なお、この都市(カラトゥ市=カルハート)から多数の良馬がインドに送り出されており、商人たちはこの馬匹貿易で巨大な利潤をあげている。この地方および上記の諸地方からインドに輸出されている良馬の数はたいへんなもので、実に信じかねるくらいの数量にのぼっている」と。
また、マルコ・ポーロに並ぶアラブの旅行家イブン・バットゥータも『大旅行記』の中でドファールからの馬の輸出について、「そこからは、純血種の馬がインドに積み出される」と記述している。
騎士道はアラブ起源?
また、アラブにはホロセーヤ(Horosaiya)といわれる馬に乗る人の心得があり、これがヨーロッパに伝わって日本の武士道に対比される騎士道(Chivalry)に影響したとも聞いたことがある。
「日本の武士道とよく比肩されるヨーロッパの騎士道がアラブとつながっている?」と、イギリスで文献を検索して見たが、これについての文献がほとんどないというのが現状である。
国王から贈られたアハジージュ
カブース国王はとりわけ伝統的な馬の飼育、血統の維持、各種の馬術競技の奨励に熱心であり、純粋アラブ馬の繁殖と飼育を手がける王立厩舎をサラーラとマスカットに設立している。現在の馬の数は約900頭。
因みに、オマーン全体では、3百50頭の純血アラブ馬、1百50頭のサラブラッドと1千5百頭の純血オマーン馬の合計2千頭がいるという。
オマーンでは、競馬や馬のショーも盛んである。馬はラクダより格式の高いものとして国民的な行事の際に行われている。
マスカットの町でもオマーン人の騎馬姿がよくみられるが、筆者も何回か出席した11月18日の建国記念祝典での巧みな馬乗りショーの数々、きらびやかな装具をつけたアラブ馬による華麗なパレードは圧巻であった。
1994年11月9日(水)から11日(金)まで皇太子同妃両殿下が両国親善のためオマーンを訪問された。ご成婚後最初の外国旅行であった。当時JICA専門家としてオマーン商工省に奉職していた筆者は、日本からの報道陣担当として一部の区間で両殿下一行に随行する栄に浴した。
ご訪問第二日目、両陛下は朝ヘリコプターでニズワに向われ、オマーン独特のファラージュ(水路)とニズワ城をご見学された。その後にニズワ郊外の砂漠に設置された国王専用旗のなびくロイヤル・テントでカブース国王陛下と会見され昼食をともにされた後に、ラクダとアラブ馬のショーをご覧になった。砂漠の中での整然としたラクダの行進、アラブ馬の曲乗りなどを両殿下は心行くまで楽しまれたことは想像に難くない。
そして、砂漠に太陽が沈みかかる頃まで続いたショーの後に、国王陛下から両陛下に純血アラブの牝馬一頭が贈られた。名前は「アハジージュ(アラビア語で『歓びの歌』の意)」。4本の足のうち3本に白い斑がある白斑3肢(はくはんさんし)と呼ばれる名馬である。
現代でも、中東において純血アラブ馬を贈答することは相手に対する友情と敬意の最高の表現とされている。それも名馬が贈られたのである。
アハジージュはオマーン宮内省王立厩舎所属のオマーン人厩務員と英人獣医に付き添われて平成7(1995)年5月にオマーンを出発、6月に宮内庁に到着し、7月には皇太子同妃殿下との再会を果している。その後、11月に栃木県の御料牧場に移り、いまも元気に過ごしている。
武市銀治郎の「富国強馬−馬からみたき近代日本」によると、外国種の馬の輸入の概略は以下である。
「天正19(1591年)正月に、遣欧少年使節団の帰朝時に、宣教師バリアーノは豊臣秀吉に152センチメートルのアラビア馬を献上し、当時121センチメートル程度の標準体尺の本邦馬しか見たことのなかった洛中の貴賎の目を驚かせた」、「アラビア馬に比べると、日本馬は小さくあまり優雅でもなく秀吉の厩舎の中の最良のものでも駄馬のようだった」、
「寛永十一(1634)年、オランダ商館からの贈り物としてペルシャ牡馬一頭が江戸に到着、将軍家光に献上され、さらに、寛永十五(1638)年、同じく家光に赤ペルシャ馬一頭が献上された」、
「四代将軍家綱の時代の寛文八(1668)年にペルシャ牡馬二頭がアビシニアからバダビア経由で到着している。この馬は日本の牝馬との間に子馬をもうけたが、それらは在来馬よりも非常に優れて見事であった」、「延宝三(1675)年には、さらにペルシャ馬が献上されている」。
さらに、「八代将軍吉宗は、洋馬に対する嗜好と熱意がとくに強く、享保10(1723)年から元文2(1737)年までの間にオランダ人を介して少なくとも洋馬27頭を輸入し、下総佐倉、下総小金原、安房嶺岡、甲斐甲府、陸奥三戸の牧に分与し、洋馬増殖と本邦馬匹の改良を図った」とある。
また、同書には、「慶応三(1867)年フランス皇帝ナポレオン三世は、その帝室内厩に飼養していたフランス産アラブ馬二十六頭を徳川政府に贈ってきた」、「ナポレオン三世より幕府に贈られたアラブ馬の中で唯一「高砂号」の血がその子「吾妻号」(明治三年生まれ)を通じていまも残されていて、今日におけるアラブ馬系馬の約六分の1を占める」とある。
以上から考えると、アハジージュの贈与は純血アラブ馬の日本への伝来として、歴史上に残る画期的な出来事であったといってよいのかもしれない。
平成9(1997)年4月にアハジージュとアングロアラブ種のホーエーダイオーとの間に子馬が誕生している。「豊歓(とよよし)」と名づけられたこの馬は、現在皇居内の厩舎に育てられていると聞く。
オマーンの誇りである「アハジージユ」と「豊歓」が、今後とも日本オマーン友好の印として健やかに過ごすことを心から祈りたい。
第十章 1970年以降の日本とオマーン
日本とオマーンの交流がヒト、モノ、文化の各面にわたって本格化するのは、カブース国王が即位した1970年以降である。以下にその進展について述べる。
1.ヒトの交流
戦後最初のオマーン訪問
中東調査会の「中東通報」第151号(1968年6月)に当時外務省中近東アフリカ局中近東課事務官であった野草茂基の「マスカット・オマン瞥見」という記事が載っている。
「夢の国−マスカットへ」という書き出しで、「同年3月2日にバーレーンから飛んだこと、マスカット・オマーン(1970年以前の国名)の陸と海の景色がそれまでのドハ、アブダビ、シャルジャの景色とまったく違ったこと、当時マスカットにはホテルが1軒もなく、英国総領事に家に泊めてもらったこと、マラリア汚染地区のため到着早々に総領事夫人からマラリアの薬をもらったこと、マスカット市内見物は道が狭く車が使えず徒歩で行ったこと、屋外での喫煙禁止の注意を受けたこと、マスカットやマトラのスークで見た日本製品のこと」などが見聞として書かれている。
同誌第184号(1971年4月)には同じく外務省中近東課の鰐淵和雄が「オマーン旅行記」という手記を寄せている。カブースによるクーデターから半年後の1971年1月30日から2月3日までの5日間の訪問であった。
当時の高瀬駐クウェート大使に同行してのオマーン行きで、カタールのドハを飛び立ち、ドバイ経由でマスカットに着き、さらにサラーラに飛んでいる。「翌日のスルタン・カブースとの謁見では、スルタン自らが茶菓のサービスをしたこと、その後サラーラの町と郊外見学をしたが、驚いたことにスルタン自らがランドローバーを運転して案内してくれたこと」、さらにスルタンに対する国民の人気、信頼などの国民感情を以下のとおり記述している。
「城門を出ると、路傍で遊んでいる子供たちや道行く大人たちが口々に『カブース万歳』を叫びつつ、拍手または敬礼をする。中にはわざわざ家から飛び出してきて、ランドローバーに近づき右手を胸に当てて敬意を表する者もある。また婦人達も家々の戸口に現れて、黄色い声を張り上げてスルタンを賞賛する文句を叫んでいた。これに対してハンサムなスルタンはハンドル片手に一々答礼していた」と。
さらに「スルタン主催の晩餐会で上映された日本の広報映画『日本1970年』と『エキスポ70』をスルタンが熱心に観賞したこと、マトラとマスカットにも当時ホテルが皆無であり、2軒建設中であったこと、マスカットのスークで日本商品がかなり見られたこと、当時トヨタ車が約6百台、日産とマツダを合わせると日本車が千台以上走っていたこと、後にブサイナ姫も映画を見て『彼女は未だ見ぬ母の祖国の姿に接し、非常に喜んだという礼状がオマーン側から届いたこと』などを記録している。
オマーンからの石油輸入が始まったのが1967年、1968年には日本製品がオマーンに届いていることから、野草や鰐淵より先に戦後オマーンを訪れた日本人がいたことも想像されるが、その記録は見付からない。
国交樹立
現カブース国王が即位した時のオマーンの緊急課題が国家承認を得ることであったが、1971年にはアラブ連盟や国連への加入を果し、2国間でもイギリス、アメリカ、アラブ諸国などから続々と承認を得ることができた。
この中で、日本は1971年6月1日にオマーンを承認し、翌1972年5月8日に外交関係を樹立している。オマーンが国連に加盟する4ケ月以上前のことであった。大使館は同年12月15日に開設された。当初は在クウェート大使、その後在サウジ大使がオマーン大使を兼任した。1983年1月には臨時代理大使が、同年3月には加藤淳平全権特命大使が着任した。
在オマーン日本大使館が実際に開館したのはこの時であるが、オマーン側はそれより早い1979年4月に在日大使館を開館している。
因みに、周辺国を見ると、在サウジアラビアの日本公使館開設は1956年(1958年に大使館に昇格)、在クウェート日本大使館が1963年、イエメンが1970年、アラブ首長国連邦、バハレーン、カタール、オマーンがともに1972年となっている。
実際に現地で日本の公使館・大使館が開館したのは、サウジアラビアが1960年、クウェートが1963年、アラブ首長国連邦とカタールが1974年、オマーンが1983年、バハレーンとイエメンが1988年である。
友好協会の設立
1973年9月26日に、日本側では「日本・オマーン親善協会(Oman- Japan Friendship Society)」が設立されている。会長には安部晋太郎、名誉顧問には中谷武世が就任した。
当時慶応義塾大学の4年生であった柳澤宗夫は、それより前の1972年6月に単身オマーン王国を訪問し、民間人として初めて同国元首カブース国王に謁見を許された。
柳澤は翌73年5月に再度訪オし、同行した帰国途上の朝日新聞笹川前カイロ支局長を国王陛下に紹介、その後マスカットで兄の医師の紘氏も合流して、同国政府最高経済顧問を務めていたイギリス人を通じて、港湾管理、医療サービス、農業の3点へ日本の技術協力を要請された。
オマーンがすっかり気に入った柳澤宗夫は、帰国後日本オマーン親善協会の設立を願い、その活動に身を投じた。宗夫の父を通じて協力を求められた当時昭和海運の幹部社員であった椎名建太郎らもこれを後押しして、上記の日本・オマーン親善協会設立が実現したのである。
一方オマーン側では、カブース国王の許可の下に、1974年3月21日の政令によって、「オマーン日本親善協会(Oman-Japan Friendship Association)」が設立され、名誉会長には国王特命代表のスウェイニ・ビン・シハブ・アルサイド殿下が就任した。
オマーンが外国との友好親善団体を結成したのはこれが初めてのことであった。日本に対する親近感の現われであろう。
4月24日のマスカットでの設立記念式典には、中尾宏氏(衆議院議員)団長以下16名の表敬ミッション一行が出席した。前年の建国第三回記念式典に参加したミッションに引き続いての派遣であった。
スウェイニ殿下は、式典でのあいさつで、「わがオマーン王国50年来の古きよき友人である日本国との友好親善協会をスルタン・カブース・ビン・サイード陛下のご承認により設立いたしましたことは、わが王国臣民のこの上ない喜びとするところであります。・・・」と述べている。
50年前といえば志賀重昂がオマーンを訪問した1924年のこと、日本オマーン交流史の中での志賀の役割の大きさが分かろうというものである。
また、28日に開催された日本側の答礼レセプションでのあいさつで、団長の中尾も次のように述べている。
「とくに日本の地理学者志賀重昂大先輩が50年前の1924年2月28日午前にオマーンを訪問され、現国王スルタン・カブース陛下の祖父タイムール陛下にお目にかかり、日本オマーン両国の発展を論ぜられたことは、両国が決して見知らぬアラブの国と東洋の国であることを否定いたすところでありましょう。今回のわれわれのオマーン訪問は志賀重昂先生オマーン訪問50周年を記念するとともに・・・」と。
同11月には、スウェイニ殿下が国王陛下の名代として代表団を引率して訪日された。
当時の朝日新聞(昭和49年12月1日付け)は、「維新の先輩に学びたい」という見出しでその来日を以下のように伝えている。
「アラビア半島の先端にあるオマーン王国から、同国第二の実力者といわれるスウェイニ殿下を団長とする一行10人の親善使節団が30日、羽田に着いた。オマーンは4年前に鎖国を解いたばかりで、いまは『中世』から『近代』へと脱皮中。日本の明治維新のころと同じような状態という。開国後初の公式使節団の派遣先として日本を選んだのも『維新の先輩』として学びたいものがあるからとか。後継首相も決まらない日本の政府に失望−なんてことにならなければさいわいである」と。
宮廷内クーデターについては、「現国王は皇太子時代、英国に留学して学問を身につけ、自国の近代化を夢見て帰国した。しかし、進歩と変化をいっさい受け付けない父の国王は、皇太子を邪魔者扱いにし、離宮の奥深くに幽閉してしまった。宮廷内で皇太子擁立派がクーデターを起こし、無血革命に成功したが、このとき幽閉中の皇太子を救出しようとしたところ、離宮内に落とし穴があったり、物が落ちてきたり、戦国時代の日本のようであった」とある。
また、鎖国については、「日本の江戸時代を上回る徹底した鎖国と専制の時代であった。貿易相手国は英国だけ。国民は、海外渡航はもちろん国内での移動も禁じられた。書物は宗教書だけ、集会も夜間外出も許されなかった。新聞やラジオもなく、歌を歌うことすら禁じられ、小学校も全国でたった三つだけだった」とある。
1989年12月には、JICA同窓会がオマーン日本親善協会の下部機構として設立された。メンバーは若い世代が多数を占め、積極的に活動している。
広島での第12回アジア競技大会(平成6(1994)年10月)の時に、
設立以来、同協会は日本とオマーンの青少年の交流、親善使節団の派遣、講演会の開催など活発な活動を展開している。
2001年11月には国会議員間の友好促進のために日本・オマーン友好議員連盟(会長は衛藤征士郎衆議院議員)が結成されている。
政府要人の往来
日本側要人としては1980年の園田直特使(当時は前外務大臣)の訪オが最初であろう。1967年からの原油輸出によって日本ではオマーンへの関心が高まり始めていたが、1979年のイラン革命でホルムズ海峡の安全性確保への関心が集まり、オマーンの重要性が一気に高まった。一方、オマーンはその必要資金を先進工業国に求めた。日本はこれには技術協力付与によって応えることとし、園田の訪オはこの方針を伝えるためのものであった。
この訪問時の日・オ合意が、その後のJICAの専門家派遣や開発調査、国際協力銀行による円借款などの出発点となった。
1984年には宇野総理特使(当時は前通産大臣)が訪オし、国王にも拝謁している。なお、同特使には日オのために尽くしていた中尾宏前衆議院議員も同行した。
1985年には、当時の藤尾正行自民党政調会長が首相特使として建国記念式典に出席した。 1990年には、当初予定されていた海部総理大臣の中東訪問がイラクのクウェート侵攻で延期されたため、8月に中山太郎外務大臣が日本の外務大臣として初めてオマーンを訪問し、同10月には海部総理大臣が日本の総理大臣として初めてオマーンを訪問して、カブース国王と意見交換を行った。
その他には、1987年には日本・オマーン協会会長と同理事として藤尾正行・尾身幸次衆議院議員が訪オしている。
その後20年間の間に日本の現職大臣がオマーンを訪問したのは、2008年5月の上川内閣府大臣だけである。オマーン側からは、副首相、外務担当大臣、石油大臣、国家経済相、商工大臣、文化遺産相、運輸通信大臣、スポーツ大臣などの訪日が続いている。さらに、ヨーロッパ、アジアとくに中国、オーストラリアなどの王室メンバー、首脳や大臣の訪オが続いていることから見て、淋しい限りである。
オマーン日本親善協会会長を務めるザワウィ国王顧問の来日は1986年以降で10回を超える。
皇室外交
政府要人の往来とは別に、両国皇族の相互訪問が両国の親善を増進している。
順を追うと、オマーン日本親善協会代表団を率いて1974年に訪日したスウェイニ・ビン・シハブ・アルサイド殿下は、昭和天皇のご葬儀に国王代理として参列するため1989年2月にも来日している。
1990年11月の今上天皇の即位に当たっては、当時文化遺産大臣であったファイサル・ビン・アリ・アルサイド殿下が来日した。
1994年11月には、皇太子・同妃両殿下がオマーンを公式訪問した。ご成婚後初めての外国訪問で、その時にはサウジアラビア、オマーン、カタール、バハレーンを訪問された。
オマーン側からの答礼として、1997年に閣僚評議会担当副首相のファハド・ビン・マハムード・アルサイド殿下ご夫妻が訪日されている。その後、文化遺産大臣であるハイサム・ビン・ターリク・アルサイド殿下が2002年に、2008年には外務省賓客として来日している。
2.モノの交流
・貿易
オマーンからの原油輸出が始まってから継続的に行われるようになった日・オ間の貿易は、拡大の一途を辿っている。
輸出では、1970年から2005年までに591倍に増えている。
品目別には、加工品と機械類及び輸送機器が1970年、1980年、1990年、2000年、2005年で各91.3%、95.3%、90.3%、96.9%、98.1%と大半を占めている。中でも自動車は、1980年、1990年、2000年、2005年で各31.1%、54.1%、72.1%、70.0%と日本の最重要輸出品となっている。
他に目立つのは、鉄鋼、一般機械、自動車用タイヤ、電化製品、音響機器、特殊機械などである。第一次世界大戦から第二次世界大戦後すぐまで主要輸出品であった綿織物は2001年では0.7%と1%をも割っている。
1970年以降の輸出実績は以下のとおりである。
オマーンへの輸出(単位:1000ドル)
1970 1980 1990 2000 2002
食品と動物 10 497 518 867 1206
(生きている物に限る)
飲料及びたばこ 19 555 45 463 896
粗製品 300 105 127
(非食用、燃料を除く)
鉱物性燃料、潤滑油 27 14 36 504
及び関連製品
動物及ぶ植物油、油脂、ろう 4 −
化学及び関連製品 11 908 3912 4630 6706
加工品(主に原料分類による) 1865 68067 76537 76886 138445
機械類及び郵送機器 281 221727 301997 641825 1225854
雑品 160 11901 35395 14361 11018
特殊取扱品 2 542 389 2620 5579
合計 2351 304228 419106 741794 1390335
注)1.OECD統計による。
1.四捨五入の関係で個々を足したものと合計は一致しない。
一方、輸入では、1970年から2005年までに42倍に増えている。
品目別には、原油と石油製品(2000年以降はLNGも含む)が1970年、1980年、1990年、2000年、2001年で各100.0%、99.9%、99.6%、99.4%、99.4%とほぼ全量を占めている。
2005年の石油以外のオマーンからの輸入品は、魚(まぐろ、えび、もんごういかなど)、野菜(いんげんまめ)、デーツ、大理石などである。
なお、いんげんまめは端境期である日本の冬場に供給されていて、その輸入量は年間1000トンを超した。
また、2000年に開催された「九州・沖縄サミット首相会合」の時に沖縄会場となったのが、
オマーンからの輸入(単位:1000ドル)
1970 1980 1990 2000 2005
食品と動物 850 4054 9264 9467
(生きている物に限る)
飲料及びたばこ 47
粗製品 128 620 317
(非食用、燃料を除く)
鉱物性燃料、潤滑油 64958 1731732 1903584 2022649 2716066
及び関連製品
動物及ぶ植物油、油脂、ろう
化学及び関連製品 196 337
加工品(主に原料分類による) 2706 1614 5479
機械類及び郵送機器 57 31 1141
雑品 2 1132 546
特殊取扱品 182 476 267 103
合計 64959 1732764 1911054 2035772 2733456
注)1.OECD統計による。
1.四捨五入の関係で個々を足したものと合計は一致しない。
日本とオマーンの貿易のいま
最近時の2007年のオマーンとの貿易は。JETRO統計によると、輸入額が4212億円、輸出額は2964億円で、日本の1248億円の入超となっている。
輸入のうち、石油と液化天然ガスが4187億円で全体の99.4パーセントを占める。他はわずかに25億円である。その中で目を引くのは、いんげん豆の輸入である。金額は5億円ながら、世界で一番の輸入先である。冬場に日本各地のスーパーの店頭に並ぶいんげん豆のほとんどがオマーン産である。
他には、銅、魚、ペニシリン、大理石、衣類などがある。魚はウニ、貝柱、まぐろ、いか、いせえびなどが5億円ほど輸入されている。
輸出のうち、自動車および自動車部品が2316億円で全体の78.1パーセントを占めている。このうち、自動車は2070億円、69.8パーセントである。他には、石油掘削用のパイプが172億円で5.8パーセント、工業機械が158億円で5.4パーセントなどが続いている。
日本企業のアラビア湾岸への進出
湾岸諸国への日本企業へのアラビア半島への進出は、一言で言えば北からと言える。
この地域で最初に石油が発見されたのはバーレーンで1932年のことであった。ついで1938年にサウジアラビアとクウェートで、1940年にカタールでも発見され、戦後の1958年にUAE、1962年にオマーンで発見されている。
生産を開始したのは、バハレーンが1933年、サウジアラビアが1939年、クウェートとカタールが第2次世界大戦後の1949年、UAEが1962年、オマーンが1967年であった。
この原油生産開始に対応して、クウェート、バハレーン、サウジアラビアなどのアラビア北部の国々への貿易取引や企業進出が早くから行われた。石油開発面でも1960年と1961年にアラビア石油がサウジアラビア、クウェートに、1967年にアブダビ石油がアブダビに進出した。
私がアラビア湾岸を初めて訪ねた1973年のころ、湾岸に工場といえるものは数えるほどしかなかった。イランのアバダン製油所、サウジアビアのカフジ製油所とラスタヌラ製油所、バハレーンの製油所、それにカタールのウム・サイド製油所やバーレーンのアルミ工場だけであった。
当時、オマーンには工場といえるものは皆無であった。
オマーンへの日本企業の進出
以下にオマーンへの日本企業の進出について分野別に述べる。
石油開発
日本企業のオマーンでの石油開発への進出は1970年代以降のことである。
1975年には住友石油開発がフランスELF社所有のオマーンでの生産分与契約鉱区に参入した。1978年に第1号井でルブアルハリ砂漠(虚無の砂漠)の中でサ−マ油田を発見、1980年から原油を生産してきたが、2001年に撤退した。
次いで1981年に、ジャペックス・オマーン(石油資源開発等が設立)と日本石油(現新日本石油)が相次いで陸上油田の生産分与契約に調印した。日本石油から権益譲渡を受けたオマーン石油開発は、商業量の石油を発見するに至らず1987年に撤退した。
一方、ジャペックス・オマーンは1989年6月にダリール油田を発見し、1990年7月から生産を開始、1995年には第2次開発作業によって生産能力を1万バレル/日にアップした。しかしながら、同社は石油公団問題への自民党政治家の執拗な介入で、2002年にはこの油田を手放なして撤退した。
その後この油田は現地資本と中国の合弁会社に買い取られてしまった。現在の原油価格高騰の状況と日本オマーンとの協力のシンボルでもあったこの石油利権をむざむざと中国に渡してしまったことを考えると、国家的損失であった。
2000年代になってからは、2002年に三井物産と三井石油開発がフインランド政府系総合エネルギー会社フォータム社より35%の権益委譲を受けることで現地生産に参加、同年から原油引取りを開始している。2006年には、オマーン・アブダビの両政府とオキシデンタルの合弁会社から別鉱区の権益の15%を取得し、現在探鉱を進めている。
LNG
1993年6月に、内陸部の天然ガスをスール北方15キロのカルハートに建設するプラントまで輸送、LNG化して輸出しようという合弁事業契約が締結された。
これに基づき1994年に設立されたオマーンLNG会社には、オマーン政府51%、シェル30%、トタール(仏)5.54%、KOLNG5%、パルテックス(ポルトガル)2%に混じって、日本の三菱商事、三井物産が各2.77%、伊藤忠が0.92%の比率で参加した。
同プラントは1999年12月から操業を開始し、現在年間約660万トンのLNGを生産している。長期契約に基づいて2000年4月に韓国ガスに、同11月に大阪ガスに出荷されて以来、極東や欧米向けの短期販売も含めて出荷も順調である。
さらに、2005年12月から年間330万トンのLNGを生産するカルハットLNGが稼働した。この会社には、オマーンLNGが36.6%のシェアを持ち、別に伊藤忠、三菱商事と大阪ガスが各3%の株を保有している。
いまや、オマーンは年間1000万トンのLNG生産国に成長している。
プラント輸出
日本のプラントメーカーは1980年代にオマーンに進出し、オマーンの国造りと発展に貢献している。
1981年から1982年にかけて三井造船がオマーン最初の製油所であるミナ・ファハール製油所(50000バレル/日)を建設した。
この製油所は1986年から1987年には生産能力を50000バレル/日から85000バレル/日への増強を行い、さらに1993年にはガソリン製造装置の改造も行っている。
ついで、1982年に日立造船がグブラ(マスカット市内)で淡水化装置と発電プラントを建設し、以降第2次、4次、5次の建設に携わっている。2000年にはバルカ第一期発電・造水プロジェクトも受注し、2003年には完工した。なお、このプロジェクトは、オマーン政府が民営化の一端として、初めて民間会社に建設・運営・保守及び水・電力の供給を行わせたもので、受注先はオマーン政府ではなくAES社(米国)であった。
1983年には、石川播磨重工がオマーンセメント会社のルセイーユ工場(マスカット近郊)を建設している。
また、1984年には新潟鉄工がイバルでガス処理設備を建設し、1992年にはその能力アップと拡張工事も行っている。1997年には石川島播磨がルセーユセメント工場の増強工事を行っている。
さらに、石川播磨重工は1996年サラーラ港のコンテナークレーン6基を受注し、2001年に納入を完了している。
LNG製造装置・出荷設備(年産660万トン)は千代田加工がフォスターウイラー社と合弁で受注し、1996年に着工し2000年に完工、さらに2002年にはカルハットLNGの施設も受注し、2005年に世界最速記録で完工させた。
2003年には日揮がソハールの製油所建設を受注し、2006年に完成した。
なお、LNGプロジェクトに関連して、三菱重工と川崎重工が二隻のLNG船、「ソハールLNG」と「マスカットLNG」を受注し、各2001年、2004年に引渡しを行っている。さらに、オマーン政府はLNG船を4隻発注しているが、そのうち三菱重工と川崎重工が各1隻ずつを受注した。
この6隻のうち4隻はオマーン側と商船三井、2隻はオマーン側と商船三井・三菱商事と商船三井・伊藤忠との共同所有となっている。
2004年には三菱重工がソハールで肥料工場の建設を受注、また神戸製鋼が2005年に直接還元鉄プラントを受注し、目下建設中である。
JICA技術協力
オマーンでJICA(Japan International Cooperation Agency、国際協力機構)は有名である。
JICAの国際協力は技術協力と無償資金協力に大別され、前者はさらに研修員受け入れ、専門家派遣、開発調査、それとプロジェクト技術協力に分類されている。オマーンにはこのすべてが供与されてきている。
最初のJICA研修員は1975年5月に来日している。実に四半世紀以上も前のことである。警察からの派遣であった。
オマーンから日本に受け入れたJICA研修員は2006年3月末で514人に達している。その分野は政策立案、貿易、鉱工業、運輸、通信、警察その他の各分野に及び、職業も官僚、ビジネスマン、大学教授など多岐に亘る。名簿をみると、中に現職の大臣や次官の名も見える。
なお、研修事業を行っている日本の機関としては、JICAの外にUNIDO(国際連合工業開発機関)とAOTS(海外技術者研修協会)がある。これも含めるとオマーンからの研修員の数は同じ2006年3月で700人を超えている。この内、UNIDOとAOTSの研修員は各2名と196名である。
一方、日本からオマーンに渡った日本人JICA専門家は、最初に派遣された1986年から2006年3月までで152名に達している。派遣場所も農業水産省、商工省、石油ガス省、情報省、運輸通信省、住宅省、電力水利省、外務省、地方自治・環境・水資源省、職業訓練センターなど多岐に亘る。
筆者も、1992年から3年間と1996年から1年間専門家として商工省に奉職したが、裸で付き合った若いオマーン人との交流はなにものにも代えがたい経験であった。当時のカウンターパートの中には現職大臣になった者もおり、他も商工省や民間で重要な職責についている。
JICA技術協力には、上記以外に開発調査もあるが、この数も2006年3月現在で30件に上っている。その分野も工業開発基本計画、産業統計情報センター設立計画、漁業訓練計画、道路施設整備計画や農業開発基本調査など多岐に亘る。国の基本計画を決めるものだけに、オマーン側への貢献度は極めて高い。
さらに、専門家派遣・JICA研修・機材供与を一体としたプロジェクトタイプ技術協力として1992年から2000年まで漁業訓練計画を実施しているが、この関連で漁業品質管理センターの設立に無償協力も行っている。
民間技術協力
民間の技術協力もさまざまな形で行われている。
プラントを受注した石川島播磨重工、日立造船、千代田化工、日揮など各社もオマーン人研修生を引き受けてきている。
また、出光興産は1990年代以降JCCP(国際石油交流センター)のスキームでオマーン人の研修生受け入れ、専門家派遣、石油産業基盤整備への協力などと行っているが、1998年には政府と技術協力契約を締結している。またオマーン製油所会社運営のために3年間製油所長を含む技術陣を派遣した。
最近は、コスモ石油もオマーンへの技術協力を活発化している。AOTSのスキームを利用して、トヨタで学んだ現地研修生も多くいる。
また、経産省外郭の造水促進センターもSQUと協定を結んで、油濁海水浄化技術調査に技術協力を行っている。
最近とくに刮目すべきは商船三井のオマーン政府への技術協力である。
オマーン政府は自国産天然ガスの海上輸送を中核とする海運業の振興を重要施策に掲げている。古くから「海の民」として知られてきたオマーンにとっては賢明な施策であろう。
これに即して、商船三井は、2002年以来船舶管理、運航、新造船監督業務に加え、オマーン人乗組員の育成に携わっている。LNGのみならず、原油タンカー、LPG船、プロダクト船の共同保有や事業協力も行なっている。
そのために現地事務所を開設し、数人のスタッフを常駐させている。
3)文化交流
日本文化の紹介
生け花・茶の湯などの文化使節団の派遣などは1970年代から始まっている。
筆者がオマーンに住むようになった1990年代以降も、日本文化紹介によるオマーン側との交流が続いている。
「日本週間」と名づけられた行事が1992年、1995年、2002年に開かれ、その中で剣道、空手、和太鼓、生け花、茶道、琴、尺八、折り紙、兜、着物や帯、浮世絵、音楽演奏などの日本文化が紹介されている。
第一回の1992年の日本週間は、現地オマーン日本親善協会主催日本大使館の後援によって開催され、日本オマーン協会も協賛して大規模なミッションを派遣した。
これ以外にも個別的な日本文化紹介が継続的に行われている。その範囲も、「弦楽四重奏公演」「日本人形展」、「尺八・琴・三味線演奏会」、「生け花デモンストレーション」、「マジックショー」、「写真展」、「日本版画展」、「書道のデモンストレーション」、「ビリー・バンバン公演」、「日本の現代建築展」、「空手指導」など多岐に亘る。
その他に、「日本庭園」、「日本の工業発展」、「日本経済」、「オ日間の貿易」、「茶道」、「日本画」、「陶芸文化」、「オ日交流史」、「日本の香」などの講演会や「寅さんシリーズ」を初めさまざまな日本映画の映写会が開かれている。
マスカット市が例年1月か2月に開催している「マスカット国際フエステイバル」への日本の団体や個人の参加も増えている。
これらの行事の他に、自動車や電気製品などの販売も日本文化紹介の重要な部分をなしている。世界の先端を行く製品、効率的で気配りの行き届いた製品などはまさに日本文化の体現である。オマーンの人たちは、日本の工業製品を通じて、日本を知っていくのである。1997年のマスカット国際見本市には、多数の日本企業が参加した。
マスカット国際見本市は毎年開催されており、オマーン側では引き続いての日本企業の参加を切望している。
意外と知られていないのが、オマーンの子供たちへの日本のアニメやTVゲームの進出である。ほとんどのオマーン人の子供たちがこれにはまっているといっても過言ではなかろう。大人たちもこれに付き合いながら、日本を知っているのである。
青年の船
内閣府が青年国際交流事業の一つとして実施しているものに「世界青年の船」がある。日本と諸外国の18歳から30歳までの青年が船内で共同生活を行い、文化交流活動、デイスカッション等を通じ、相互理解を深め、友好親善に資することなどを目的とする。
私がハミースたちに会ったのは1992年10月マスカットから北西100キロほどにあるナハル城であった。6、7人のオマーン人のグループに、「サラマレーコム」「シェ・アハバル?(何か情報がある?)、シェ・エルーム?(何か科学的な情報がある?)」とオマーン式の挨拶をすると、「コンニチハ」と日本語の挨拶が返ってきた。「世界青年の船」に参加して覚えたという。たいへんな親日ぶりで、その帰途リーダー格のアハメッドの自宅にたちどころに招待された。
民族服であるデスダーシャを着ていた若者たちの中で、一人だけ派手なポロシャツに赤い半ズボンをはいた男がいた。それが写真家のハミースであった。1994年のオマーン訪問時に皇太子殿下と同妃殿下が彼の写真展に足を運ばれているほどオマーンでは有名な写真家で、日本でも神戸でオマーン写真展を開いている。アハメッドは当時オマーンの人気テレビキャースターであった。彼らと筆者との付き合いはいまも続いている。
筆者はこの「世界青年の船」事業は、日本政府の大ヒットだと確信している。寝食をともにしながらの若者の国際交流体験によって育まれた友好親善の輪は何物にも代えがたい。
オマーンが最初に参加した第2回世界青年の船は1990年3月6日にカブース港に入港してニズワ、カブース大訪問、地元青年とスポーツ交流などした後、9日に日本に向けて出港した。日本人約100人の他に、オマーンを含め13ケ国168人が参加した、オマーンからの参加者19名であった。
その後、オマーンは1992年、1994年、1998年に参加し、2007年に続いて2008年も参加した。
2008年の第20回世界青年の船は、1月24日に日本を出港し、3月5日に帰港した。2月11日には、このプログラムでは10年ぶりに4回目のカブース港入港を果し、参加者たちは史跡や市内の博物館、スークやスルタン・カブース大などを訪問し3日間の交流を終えた。参加国は、ブラジル、スペイン、南アフリカ、米国、オマーンなど14ケ国、参加人数は260人。このうちオマーン人は10名、すべて男性であった。
これで、合計6回、計80名の若者がオマーンから参加したことになる。湾岸では、UAEの計9回、83名に次ぐ多さである。
なお、1992年の参加者の中に、前述のハミースやアハメッドがいた。
ばらとさくら
読者は「スルタン・カブース・ローズ」をご存知だろうか。
これは、フランスのメイアン社が1989年に作出し、オランダのロイヤル・マルハイム社が育成した真紅の大輪のバラで、世界中のバラ愛好家たちの会の中心機関である世界バラ連盟が命名したものである。
連盟がこのバラにこの名をつけたのは、国王が即位して20年間に、最貧の後進国を近代国家に建て直し、イラン・イラク戦争の停戦に力を尽くし、環境保全や人権擁護に大きな成果を挙げてきたことに敬意を表したもので、国王には1990年11月に献上された。
これに先立つ1990年4月から大阪で開かれた「国際花と緑の博覧会」で一般に公開された。同年4月1日から22日まで出展されたが、同17日にはオマーン・ナショナルデーのイベントが盛大に行われた。
この「スルタン・カブース・ローズ」は常時日本で見ることができる。
その1ケ所が筆者の家の近くの「生田緑地ばら苑」である。以前は小田急電鉄が所有する「向ヶ丘遊園地」として知られたが、2002年に
「スルタン・カブース」は、中央の「クイーン・エリザベス」の左側に植えられ、右側の「プリンセス・ド・モナコ」とともに、とりわけ広いスペースを占めている。時季になると、この3種のばらが競うように咲き誇る。
この「ばら苑」の他に、「京成バラ園」や「広島バラ苑」にも植えられていると聞いている。オマーンとの交流が盛んな広島では、安東公民館、安東小学校、毘沙門台小学校やまた個人のお宅でも植えられているという。
一方、オマーンでは、ジャバル・アフダル(緑の山)山中のジャバル・アフダル村に、日本のさくらが植えられている。2002年2月に当時の神長日本大使がオマーンの農水大臣と一緒に植えたものである。ジャバル・アフダルでは温度が冬は十度以下、夏は高くても三十度ぐらいなので、モモやアンズが実る桃源郷である。さくらも見事な花を咲かせてくれるものと期待されている。そのさくらの木とともに、日本のナシの木も植えられている。
筆者も、2007年現地を訪れたが、手入れが十分でないように見受けられた。見事な花を咲かせるために、日本のさらなる支援が望まれる。
平安日本庭園
2001年に、オマーンに日本平安庭園が開園している。2000年がカブース国王治世30周年の記念すべき年にあたり、日本とオマーンの友好親善を象徴する文化モニュメントとして、当時の神長大使の尽力で建設されたものである。
場所はマスカット市近郊のナシーブ・マスカット公園の一角の約7000平方メートルにわたる敷地に作られている。筆者が2000年5月に現地を訪れた時には一木一草もない更地であったが、2005年1月に訪れてみると、灯篭、重塔、水渓、橋、浮島、生垣、篝火、藤棚などが施された日本庭園が出来上がっていた。
酷暑のアラビアの地で日本庭園は無理という考えから、このプロジェクトには異論も多かったことを考えると、感慨深いものがあった。
平安日本庭園は、自然をこよなく愛するオマーンの人々にとって憩いの地となっているだけではなく、GCC諸国では最初の日本庭園なのでオマーン観光の1つの目玉としても活用されている。建設資金はオマーン側が半分以上を負担し、維持管理についてはマスカット市が責任を持って行っている。
スポーツ交流
2010年FIFAワールドカップの南アフリカ大会のアジア第3次予選で日本は同じ組でオマーンと激突した。
弟1戦は、2008年6月2日の日産スタジアムでのホーム戦、日本は中村俊輔などのゴールで快勝した。第2戦は、オマーンでのアウェイ戦、前半に先制され、53分に遠藤保仁がPKを決めて、辛くもドローに持ち込んだ。日本はこの予選最大の難敵オマーンとの対戦を1勝1分けに持ち込んで、最終予選にコマを進めた。
日産スタジアムでは、オマーンの応援団席に座ったが、いつの間にか日本チームを応援している自分に気がついたことが想い出される。
2006年のワールドカップ・ドイツ大会の時も、シンガポール、インドと同組の1次予選で日本の前に立ちはだかったのがオマーンであった。結果的には、2004年2月18日のホームも10月13日のアウェイでも日本が1−0で勝ったが、とくに初戦はロスタイムに入って3分後、誰もが引き分けを覚悟したタイムアップ寸前にゴールを挙げての辛勝であった。
2004年には、アジアカップ中国大会予選でも7月にオマーンと戦ったが、これも1−0での日本の辛勝であった。オマーンが日本の宿敵であるため、サッカーで日本がオマーンと対戦するごとに、普段は滅多に見られないオマーンの名前が大きくメデアに取り上げられる。その度に、私はスポーツ新聞を買い込んで悦に入っている。
サッカーがオマーンで最も人気のあるスポーツであること、ゴールキーパーのアルハブシは中田英寿も在籍したイギリスのプレミアリーグのボールトン・ワンダラーズに所属し、その他数人の選手がプロとしてクウェートやバーレーンなどでプレイしていることも付記する。
オマーンでは空手も人気である。1984年にはオマーン空手協会が設立されている。オマーンの各地で大人から子供までが、「礼!」「始め!」「技あり!」「一本!」など日本語で号令をかけながら、練習に励んでいる。しかも、空手は禅の瞑想につながるものとされ、日本精神の一端が空手を通じて伝えられているのは嬉しい限りである。オマーンには黒帯の空手マンも多くいる。
2008年10月には、オマーンの女子テニスプレーヤーが大阪市長杯テニス大会に出場した。
いまのオマーンのスポーツ大臣のアリ・ビン・マスード・アルスネイディ氏は私がJICA
専門家として商工省で働いた時のカウントパート、当時はまだ課長であった。それから家族ぐるみの付き合いが十数年続いている。私は日本とオマーンのさらなるスポーツ交流の発展を願っている。
学術交流
日本の早稲田大学、名古屋工業大学、立教大学とスルタン・カブース大学との間に「学術交流協定書」が締結されている。
特筆すべきは2002年12月の宮城学院女子大学国際文化学科学生のオマーン訪問であろう。38名の女子学生が観光開発、住居、家族、衣服、世界遺産、香り、教育、音楽と舞踊、食の各班に分かれてフイフイールドワークをし、スルタン・カブース大の学生との文化交流ワークショップを成功裡に行っている。
この実習はオマーンとザンジバルで行われたが、企画・引率されたのは東アフリカ研究の第一人者である富永智津子先生である。その卓見とご努力に敬意を表したい。
その後、日本中東学生会議のメンバー(国際基督教大、東大、日大生など)、神戸大学、東海大学、早稲田大学の学生たちがオマーンを訪れ、SQU大の学生たちと交流している。
若い人たちの交流がさらに盛んになることを祈っている。
第十一章 オマーンへのいざない
1.シャルキーヤ砂漠
私が1973年に初めてクウェートを訪れた時に「現地の人びとの最高の楽しみが休日に家族を連れて砂漠にピクニックに行くことだ」と聞いて、その理由がまったく理解できなかった。「あんな何もないところに行って、なにが楽しいのだろう」と首をかしげていた。
1976年に私はアブダビのリワ砂漠で初めて砂漠での夜を過ごした。砂漠に入る直前の車のタイヤの空気抜き、11歳のベドウィンの子供が運転する4WD車でのスリル満点の砂丘のドライブ、満天の星空の下で焚き火を囲みながらのベドウィンとの語らい、翌朝のラクダを使っての砂漠に掘った井戸からの水汲み、朝の洗顔やトイレ、ベドウィン部落の訪問など砂漠での1泊はとりわけ新鮮であった。
その後も何回かリワ砂漠を訪れたが、砂漠の醍醐味を知り、長年の疑問が氷解したのは、マスカットに住み、より頻繁に砂漠に行くようになってからである。行き先は、マスカット南方約140キロのところから東西80キロ、南北180キロに拡がるシャルキーヤ砂漠。面積は約10000平方キロと比較的小さな砂漠である。
何回か通ううちに、砂漠は何もないからよいのだということを知った。そこにあるのは砂だけ。虚無の世界に身を置くと、心が洗われる。夜の砂漠では月や星が手を伸ばせば届くような距離に迫り、動くのが分かる。そして、大自然に比べて、自分の小さな存在を思い知らされる。
「人が生きるということ」、「男とは、女とは」、「家族とは」、「生き抜くためには」、「生き続けるための価値観、ホスピタリテイ、勇気、忍耐、力、名誉、正義、独立と自由」などを考えさせられる。否応なしに、人間と人間の歴史を考えさせられる。
現地の人たちが砂漠にピクニックに行くのは、「砂漠に行くことで心身がリフレッシュされ、子供たちにはるか先祖の生活を想起させ、ベドウィンの伝統や心を植えつけさせようとしていたのだ」とその訳が納得できた。
私はオマーン西部のアラビア最大のルブアル・ハーリー砂漠にも踏み入ったことがある。車で行けるところまで行き、そこからは徒歩で行けるところまで分け入った。そこは、一木一草もない見渡す限り砂丘また砂丘の世界であった。
それに比べると、シャルキーヤ砂漠は小さいが、さまざまな特色を持つ砂漠である。表面を覆う石英、炭酸塩やオフィオライト粒などの下には、風で飛ばされた砂がセメント状に固まったイーオライト(風成岩)が拡がり、一部地表に露出している。その拡がりは世界最大とされている。
動植物の多さも特徴の一つである。アカシアを初めとして200種類近くの植物が確認されている。動物では、昆虫類や100種類近い鳥の他に狐やマングース、狼なども生息している。
砂漠が海に接しているため、海岸べりの砂丘の頂に立つと、眼下にアラビア海を見渡せる。思いもかけない風景である。海岸では、手づかみでのたこ取りやムール貝の取り放題も楽しめる。
この砂漠には、まだベドウィンベドウィン生活しており、ベドウィン部落を訪ねられるのもうれしい。外出中の父親に代わって一家を仕切りちゃんとわれわれに応対した10歳のベドウィンの男の子、大きな木の枝にぶらさげられた粗末な紐製の幼児用ブランコ、木切れやトタンで囲ったベドウィンの家などがいまも記憶に新しい。
夜の砂漠でのベドウィンとの宴も大いに盛り上がる。酒は一切なし。飲み物は水とソフトドリンクだけ。食べ物は野趣あふれるバーベキューが普通。羊や山羊の肉や魚、海の近くでは磯で採れたムール貝なども焼かれる。なんとも美味である。
月明かりの下の男たちだけの宴。楽器、ウード(撥弦楽器。リュートや琵琶に近い)と太鼓。男たちの歌と踊り。連歌の上と下の句のような歌の掛け合いが続き、その歌に合わせて二組に分かれた男たちが肩を組みながら、歌に合わせて前に進んでは、後に下がる。
踊りには、女形も登場する。2人の男が男女に別れて踊る。女形が女性らしいシナをつけて踊ると、男たちからは、「ヒュー、ヒュー」と口笛が飛ぶ。
夜のしじまの中の宴は延々と夜半まで続く。
平坦のイメージのある砂漠は平らではない。砂丘のアップダウンが延々と連なる。砂漠では欠くことのできない4WDでの砂漠のドライブは最高に楽しい。エンジンをふかして砂丘を駆け登り、駆け下る。そのたびに車がはねて、頭を天井に打ち付ける。このスリルに、年齢や性別に関係なく人びとは興奮の声を上げる。
時には、谷底まで数十メートルの砂丘を駆け下る。車が転がり落ちそうな急勾配、まっさかさまに落ちる感じである。下るにつれて、「ゴッー」とジェット機のような音がとどろき渡る。鳴き砂である。日本のような「キュ、キュ」というようなスケールのものではない。
「中東とは歴史と人間を考える最高の道場と心得るべし」という私の中東心得第一条を実感していただくために、シャルキーヤ砂漠行きをおすすめしたい。
2.ムサンダム半島とホルムズ海峡
もう15年も前になろうか、私がオマーンに赴任して間もなく、日本の著名な中東学者が研究者1名を伴って、オマーンにやってきた。「誰に会いたいですか?」を聞くと、「とくにない。長年の夢であるホルムズ海峡を訪れたい」ということだった。
ホルムズに行くとなると、船の手配が要る。考えあぐねた末に当時の商工省次官に協力を求めると、出先のムサンダム出張所から船も案内人も出してもらえることになった。日本大使にムサンダム行きの話をすると、同行したいということで、一行4人で出かけることとなった。
ムサンダムは、面積1千8百平方キロ、人口約3万人のオマーンの飛び地領。いまはフェリーも就航しているが、当時マスカッとからここに入る方法は、ハサブに飛行機で飛ぶ空路とソハール・ダバを経由してハサブに入る陸路があった。ドバイまで飛行機で飛び、そこから陸路ハサブを目指す方法もあったが、われわれはマスカットからの空路を選択した。
飛行機は、マスカットを出てから左手に3000メートル級の西ハジャールの山なみやUAE領のコールファッカンの町を見ながら、オマーン湾沿いにひたすら北上した。1時間半近くすると、高い急峻な山が静穏な海に切り立つ様が目に飛び込んできた。山裾が白い線で縁取られている。波だ。アラビアでは見たこともない景色であった。ハバレイィン・ガルフであったのか、あるいは20キロもフィヨルドが続くシム・ガルフであったのか。
まもなく到着した空港では、商工省ムサンダム出張所の2人の役人の出迎えを受けた。宿泊はハサブ・ホテル。
翌朝は、車でムサンダムの山岳地帯へ。西ハジャール山脈始点のムサンダムのほとんどが2000メートル近い山地。最高峰の2087メートルのジャバル・ハリムを目指して山道を登った。途中、道路沿いの岩山をくり抜いて作られた住居に驚く。やがて、緑の耕作地が突然現われる。高度1800メートルのサヤ高地。デーツの木も散見される。いままでの岩山からは想像できない景色。
ジャバル・ハリムにはレーダ基地があるため立ち入れないので、サヤからワデイ・サル・アルアラまで降りた。そこから右折して、車を止めて見渡すと、眼下に岩山を曲がりくねりながら海まで続く道、その先に深く切り込んだ入り江が見下せる。ナジド・ガルフである。
近くにあるハルデイア公園の切り立つ岩山の麓の緑地は地元の人がピクニックによく訪れる場所と聞いたがわれわれはパスして、山道をハサブの町へと降りた。港には多数のボートが碇泊し、声高に乗客を寄せ集めている者や乗客たちで賑わっていた。ホテルへの帰途、スークに立ち寄る。商品は多種多様で豊富。ここはイランとの貿易の最前線基地。イラン人バイヤーも多いと聞いた。
午後は足を延ばして、西岸のUAEとの国境まで出かける。左側の削り取ったような岩山、山裾を海沿いに曲がりくねる道、その先に広がる青緑色(パーシャン・ブルー)の海の眺望が素晴らしい。UAEとの国境の町、テイバットで引き返した。
翌日は、カサブの港から商工省の船でホルムズ海峡に向った。一行は6名。船が思ったより小さい。それに当日風が出ていて、白い三角波が立ち始めていた。「大丈夫かな。次官に軍艦に乗せてもらうように頼むべきであったか」と悔やんでみても、もう手遅れ。
広い海に出て30分ほどすると、左手に島が見えてきた。ホルムズ海峡を監視するレーダー基地がおかれているガネム(山羊)島だ。波止場の先の建物の窓には兵士の姿も見える。ここがイランと対峙する最前線、緊張感が走る。
ホルムズ海峡は、ペルシャ湾とオマーン湾の間にある幅約33キロの国際海峡である。国際海峡とは、国連海洋法条約によって定義された国際航行を定められた範囲で自由に通行できる海峡のことである。ホルムズ海峡は、世界の消費量の約20パーセントの原油が運ばれる世界でも最重要な国際海峡の一つである。
タンカーはイラン側の水路を西に進んで湾内に入り、帰途はオマーン側の水路を南東に進んで湾内から出る。
いつの間にか、われわれに船はホルムズ海峡に入ってしまったようであった。海が開けている。前方に大きな島影が浮かび上がる。イランのケシム島のようであった。もやの中から、左手に突然黒い影が現われたと思ったら、その影がぐんぐんと近づいてきた。高い。山のように見えた。タンカーである。舷側に近付いて、乗組員に手を振りたいものだと思ったが、海が荒れてきている。
友人が「これでホルムズの雰囲気が分かった。大使も乗船されている。危ないことはできない。帰ろう」という。客人の指示には従わざるを得ない。そこでホルムズを後にした。
同行の商工省の役人は、純朴。見るべき場所を一つひとつ丁寧に案内してくれた。まずは、ムサンダム北端にあるクムザ。ホルムズ海峡からは数マイル。ここは船以外に交通手段のない離れた場所。アラビア語、ポルトガル語、ペルシャ語、インド語と英語が交じり合ったクムザ語が話されているとか。日を浴びて光るパーシャンブルー色の静穏な入り江の先のクムザ村の白い建物がいまも記憶にある。
次に、時計と反対周りに半島を廻って、シム・ガルフの入り江や湾をくまなく巡航。ムサンダムの代表的なフィヨルドを堪能。最後に、電信島に立ち寄る。この島は1864年から69年までイギリスの電信ケーブルの基地があったので、こう呼ばれている。船から、基地の廃墟らしいものが見えた。そこからはハサブに戻った。
最終日は、ハサブ城を見学した後に商工省ムサンダム出張所に立ち寄る。たまたま数人の人が集まっていた。見ると、持つ部分に斧が付いたジャーズと呼ばれる杖を持っている。ここ独特のもので、オマーン本土では見られない。われわれはムサンダムの歌と踊りを所望し、ジャーズを持った独特の踊りを堪能した。
今は、マスカットから高速船も就航し、とっておきの高級リゾートホテルもできているとか。ホルムズ海峡とアラビアのフィヨルドの風景が楽しめるムサンダム行きをぜひともおすすめしたい。
3.乳香の郷
いまアラビア半島には世界遺産が10ケ所ある。オマーン、イエメンに各4ケ所、バーレーンとサウジアラビアが各1ケ所ずつである。
オマーンでの一つが、2000年に指定された、「乳香の郷 (Land of Frankincense)」である。これには、乳香の木の生息地であるワジ・ダウカ、キャラバン・オアシスであったウバール遺跡、積出港であったホール・ローリーとアル・バリードが含まれている。
筆者は、2006年に乳香に関する調査でドファール地方を広く訪ねる機会があった。
まずは、サラーラ東方約30キロのタカからさらに東3キロのところにあるサムハラムの宮殿跡とかっての積出港のホール・ローリー。宮殿跡から眼下の入り江と遠くに見える白波が打ち寄せる海岸を見渡しながら、乳香の積出港として栄えた往時を偲んだ。
次に、サラーラ北方のワジ・ダウカ。私は以前にサラーラで海岸沿いの乳香の木の生育地や海岸から少し山の方に入ったところに住むベドウィンが持つ乳香の林などを訪ねたことがあったが、さすがはワジ・ダウカ。一望できる丘の上に立つと、見渡す限りの乳香の木であった。眼下には植林された乳香の木も整然と広がっていた。
乳香には、ホジャ、ナジデイ、シャズリ、サービィの4等級がある。最高級品はホジャ。青光りする乳香である。これは、ドファール最東端のサムハン山脈の北側のワジ・アンドルー近辺でしか採取できない。
海側の平地からサムハン山脈を超えてここへ入る道がない。したがって、サラーラから北のカラ山脈を越えさらに80キロほど北上して、そこから東へ石ころの道を行く以外にない。どうしてもホジャの産地を見たくて、私はワジ・アンドルーに向った。
途中、往時乳香を売っていた洞穴があるというので立ち寄る。それは、石ころだらけの岩山を駆け上がったところにあった。こんなところになぜ販売所があるのか不思議であった。
さらに、古代の乳香の集積地の一つ、ハヌーンの古代遺跡にも立ち寄る。金網の塀に囲まれて大切に保管されているので遠くにしか見えなかったが、崩れ落ちた石の貯蔵庫らしきものが敷地一杯に残っていた。
次はいよいよワジ・アンドルーである。サラーラで雇ったガイドでは道がよく分からないというので、途中の村に立ち寄って、昔乳香の採取に従事していたという村人をガイドに加えて出かけた。両側にそそり立つ岩山の底のワジをひたすら進んだが、なかなか行き着かなかった。
途中、礫砂漠の中に水を湛えた池が見えた。葦のような草も水面いっぱいに繁茂している。その湖面の向こう側に乳香の古代の貯蔵所があるという。ついでに見ておこうと池の先端を左折して、山道を登る。高さは5、60メートル。急勾配の山裾の石ころだらけの道を転げ落ちないように注意深く登った。
上に出ると、石で固められた穴がいくつもあった。それが乳香の貯蔵庫である。山上から周囲を見回すと、遠くのいくつかの丘の頂に見張り所が見える。訊くと、「あれは、この貯蔵書の見張り所。四方の山から盗賊などを見張っていたのだ」という。往時の乳香の貴重さを実感させられる。ラクダ一頭ずつがようやく上がれる急坂を登ったところに貯蔵所を作ってあるのも、急峻な岩山を登りきった洞窟で販売していたのにも納得。
その後、ワジ・アンドルーに向おうとするも、そこに行っていると、同行者が夜8時発のヨルダン行きのフライトに間に合わないことが判明。後ろ髪を引かれる思いで、サラーラに戻った。ワジ・アンドルーは幻の地となってしまった。
翌日、サラーラの「乳香の郷博物館」を訪ねた。入口を入った突き当たりに、オマーンの8地方から集めた砂を敷き詰めて描いたオマーン全土の地図が飾られていた。この製作にはアブダビにあった筆者の友人(日本人)の会社が協力した。オマーン側と会社との中を取り持った私には、感慨深いものがあった。
館内には、アル・バリード、サムハラム、ウバールでの発掘品や「オマーン・ルネサン
スの歩み」、多種類の乳香の香炉や乳香貿易の経路やサムハラムの往時の生活や宗教、貿易、
食事、調理、漁業、地図、女性、勤続加工などのパネル展示がされていた。壁の一角で流
されていた「乳香博物館」紹介の映像には、乳香の採取風景が見事に映し出されていた。
閉館したサラーラ博物館にあったテシガー(ルブ・アル・ハーリー砂漠を横断したイギ
リスの有名な探検家)関連の展示品などが後日展示品に加えられる予定であることも聞い
た。
6月から9月にドファール地方は一面緑になる。
乳香の郷サラーラ行きをぜひともおすすめしたい。
4. マスカットとニズワ
マスカットと聞くと、マスカットぶどうが連想されるが、オマーンの首都マスカットは、アラビア語で「落ちるところ」という意味である。
いま、マスカッというと、一般的にはグレーター・マスカット(広義のマスカット)を意味する。面積約1100平方キロ。これには、マスカット、マトラ、ルィ、クルム、アルホエール、グブラ、ボシェール、アゼイバ、シーブなどの地区が含まれ、人口は約84万人である(2008年推計値)。
この中のマスカット地区、いわゆる狭義のマスカット、については既述した。ここでは、
それ以外の地域を紹介したい。
まずは、アルブスタン・ジッサ地区。アルブスタンパレスホテル、カンタブ漁港、道すがらのこの世のものとは到底思えない異様な岩山の風景は一見の価値がある。ジッサには、六つ星級のアルストンホテルを含むリゾート施設がある。
次に、マトラ地区。インド風の商館が立ち並ぶ町並み、アラビア最大のマトラ・スーク、早朝の魚スークは、マスカット観光の目玉である。
ルイ地区のビジネス街と武器博物館。クルム地区の海岸沿いの道路、ショッピング・センター、高級ホテル群、高級住宅街と豪邸群も一見の価値がある。
アルホエール地区の官庁街と自然史博物館。アゼイバ地区にある15500人収容のスルタン・カブース・グランド・モスク。シーブ地区のショッピングセンター、さらに足を伸ばした郊外にある日本平安公園があるナシームガーデン。
マスカットには博物館が13ある。規模は大きくはないが、各々に特徴があり、これを巡るのも楽しい。
ニズワは、日本の京都にも匹敵するオマーンの古都である。イバード派の拠点、793年以来首都であったことによって、ここは長い間政治・宗教・学問の中心地であった。
ニズワには、ヤルーバ朝によって築かれたニズワ城と世界遺産に指定されているオマーン最大のダリス・ファラージュがある。円形で人を圧するようなニズワ城、城壁の上から見渡すジャバル・アフダルの山々、一面に広がる緑のデーツ林は一見の価値がある。
町外れのダリス・ファラージュには、滔々と水が流れ、時には水浴びを楽しむ現地の人たちとも交流できる。1994年に皇太子殿下と同妃殿下もこの2ケ所を訪ねられた。城に隣接するニズワ・スークや動物スークなども面白い。
5.ソハールその他
マスカットからオマーン湾沿いに西北280キロのところにソハールの街がある。かつて
アラビア湾随一の港として栄え、シンドバッドが船出したといわれる町である。
往時の栄華を偲ぶものはソハール城以外に何一つ残っていないが、ソハールは1990年代から大工業地帯として再開発されている。大工業港、製油所、製鉄所、アルミ、石油化学、肥料などの各大規模工場が操業または建設されている。一見の価値がある。
マスカットから南東230キロのところにはスールの町がある。ここはシャルキーヤ砂漠へ海沿いに入る時や海亀の産卵地として名高いラス・アルハッドへの経由地としても知られるが、有名なのはなんと言ってもダウ船の建造である。いまでも建造されていて、スール観光の一スポットになっている。
その他オマーンには見所が多い。ジャバル・アフダル、ミスファオアシス、海亀の産卵地ラス・アルハッド、バハラ城、ジャブリン城、ルスタック城、ナハル城などの名城、数え上げればきりがない。
これらの地を訪れることもおすすめしたい。
第十二章 オマーンと日本
1.オマーンの魅力
平和な国
中東というと、パレスチナ、イラク、イラン、レバノンなどが想起され、危険な地域とのイメージがつきまとう。オマーンに出かける時には「大丈夫ですか。危なくないですか」とよく訊かれる。
英国の研究機関が一昨年から世界140ケ国の「平和指数(Global Peace Index)の発表を始めた。この指数には軍備・戦争などの対外情勢や暴力や犯罪などの国内治安状況も含まれる。2007年、08年と、中東で一番平和度が高いのはオマーンである。08年は世界25位にランクされた。
他のアラビア諸国を見ると、カタールが33位、UAEが42位、クウェートが45位、バーレーンが74位、イエメンが106位、サウジアラビアが108位である。中東ではエジプトが69位、イランが106位、トルコが115位となっている。下位国は、アフガニスタン、スーダン、ソマリアと続き、イラクが最下位の140位である。
オマーンの外交方針の柱は、平和的共存と善隣外交である。オマーンは1990年から2000年にかけて、平和的な話し合いによってサウジアラビア、イエメン、UAEとの国境問題を解決している。北方領土、尖閣列島、竹島問題でもめ事を起こしている日本としては羨ましい限りである。
国内の治安もめっぽうよい。女性の夜の出歩きに何の不安もない。妻がスーパーのトレイラーの中にハンドバッグを忘れた時に、駐車場から店に戻ると、トレイラーの中にそのまま残されていた。
イスラムの国という点もあるが、オマーン人は国民性からしても犯罪には馴染みにくい。
因みに、日本は世界で5位。アジアでは日本が1位。シンガポールが2位、オマーンが3位である。平和という点で、オマーンは日本と共通する。
きれいな国
オマーンで、まず驚くのは街のきれいさである。整備されたロータリーや街路樹や花壇もさることながら、街にはゴミ一つ落ちていない。
毎朝早くに清掃人を車で担当区域に運び、担当内の道路を清掃させている。国王の「清潔を保つことはよいこと」という考えに基づいたものと仄聞する。世界的に名高いシンガポールにも劣らないきれいさである。
この点でも、清潔さを保つ日本人と共通するように思える。
景色の良い国
アラビアの国というと真っ先に目に浮かぶのが一面の砂漠である。既述したが、オマーンでは国土の15%が山である。3000メートル級のジャバル・アフダルでは、足もすくむばかりの大峡谷や洞穴、山間に忽然と現れる水が滔々と流れるオアシス、咲き誇るバラの花やあんずの花の景観が楽しめる。
2000メートル級の急峻な岩山が海から切り立つムサンダム地方のフィヨルドの景観は「中東のノーウェー」と呼ばれるにふさわしい。ムサンダムのクムザやマスカット近くのイティのような清澄で静穏な海岸は国内いたるところに点在する。
また、南部ドファール地方はいわゆるモンスーン気候で、雨季には全山が緑に覆われる。「アラビアのスイス」と呼ばれている。これだけ景色のよい国はアラビア半島にはない。
そのせいか、最近、オマーンを「アラビアの真珠」という呼称をよく目にする。
歴史のある国
オマーンがシュメール時代から歴史上に登場し、乳香で栄え、ローマ時代には「幸福のアラビア」として知られていた。
5世紀にはすでに中国と交易のあったこと、7世紀にはイスラムに改宗していること、ヤアルバ朝がポルトガル人を放逐して版図をアフリカまでに広げたこと、1744年に創設された現在に続くブーサイド王朝がアラビアでは最古の王朝であること、グワダルやザンジバルに領土があったことなどはこれまでに述べた。
オマーンは、日本と同じく歴史のある国で、国内には500ケ所以上の古城や史跡がある。
香水・花を愛する国
アラビアでは香りは人々の生活とは切り離せない。家では日常的に香を焚き、服に香を焚き込め、男女を問わず香水を使っている。この中でも、乳香の産地であるオマーンに住む人びとと香との関係はとくに密接である。
アラビアの人々はデスダーシャという白い胴衣を着用しているが、オマーンのものには首周りに房がついている。これは香水を染み込ませておくためのものである。より優雅なのである。マスナッドを使用して衣服に香りを焚きこむこと、世界一高価な香水であるアムアージュがオマーンで製造されていることは既述した。
また、オマーンの山にはバラが一面に自生し、季節になると村々に馥郁たる香りをもたらす。これからはローズウオーターが作られる。
インターナショナルな国
オマーンでは英語がよく通じる。とくに、都市部ではアラビア語は必要ないくらいだ。オマーンはかってザンジバルと現パキスタンのグワダル地方を領有し、19世紀には英国とインド洋の覇権を争い、1833年には米国と通商条約を結び、最初のアラブ人の使節を1840年に米国に送った国である。
しかも前国王の鎖国時代には多くのオマーン人が湾岸初め海外で働いていた。その人たちが1970年以降に故国に戻ってきている。英語が出来て当たり前なのである。また、国際感覚も日本人の上を行っている。
親日的な国
オマーン人の対日感情は極めてよい。日本人の人柄の良さや日本の工業製品の優秀さが最大の理由であろう。
さらに、日ロ戦争で日本が勝利したことや太平洋戦争で米国と勇敢に戦ったことへの尊敬、戦後目覚しい経済復興と遂げたことへの敬意、原爆被害を受けたことに対する同情なども親日感情のよさの一要因でもあろうか。
最近のサッカー交流も親日に役立っている。今年は2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会の第3次アジア予選で2回も対戦があり、日本が1勝1分けで終えられたのは、ラッキーであった。
1987年の当国の国造りに関して国民に呼びかけた際に、国王は「日本人の高い勤労意欲を見習うべきである。われわれも与えられた資源を生かして開発を進めよう」との趣旨の演説を行っている。
日本に似ているオマーン
アラブ人というと横柄、尊大、高圧的のイメージがつきまとうが、オマーン人は温和でやさしく、親切であり、友好的であり、シャイで遠慮深く、他人への気遣いが細やかである。日本人に心情や態度がよく似ている。
社会慣習面もよく似ている。主食は米であり、魚をよく食べる。家に入る時に靴を脱ぎ、床に座る。大家族主義、長幼の序、男性優位・男女隔離、娘の純潔が最高の名誉であることなどは戦前の日本にそっくりである。
オマーンでは日本と同じくYES・NOがあいまいである。相手を困った立場に立たせない、相手の名誉を重んじるゆえのあいまいさであろう。筆者は、これは長年にわたって育まれた知恵であると考えている。面子を重んじる、武士は食わねど高楊子というような矜持や俺の酒が飲めないかという義理人情も、日本人によく似ている。
政治面でも、オマーンは絶対君主制である。戦前の日本もそうであり、そう驚くことでもない。問題解決に欧米流のDebateやConfrontationではなく、根回し・コンセンサスを重視するのも日本に似ている。
文化面でも、オマーンには日本と同じく書道、闘牛、茶道がある。オマーンの闘牛は、日本と同じく牛を殺すことはなく、角突きの力比べだけである。ヨーロッパのように血を見て喜ぶことはしない。茶道は日本のものとは作法がまったく違うが、客をもてなす心は同じであろう。お香が日常生活に入り込んでいるさまは、日本の平安時代に似ている。
さらに、農機具もバルカも日本にも似たものがある。音楽(メロデイ・楽器)も日本のものに似ている。アラブの音楽は日本人にはなんとなく懐かしく聞こえる。砂漠でベドウインが奏でる太鼓とウードの響き、連歌のような掛け合いの歌声、それに会わせた男と女形の踊りなどに違和感はない。
価値観についても、日本の武士道の勇気、名誉、自尊心(威厳、品位)、正義、忠誠心、忍耐、仁・惻隠の心、礼、誠などが共通している。仁は父権政治で示され、礼はオマーン人の丁重な挨拶、きれいな身だしなみ、ゆったりとした歩き方などを見れば分かる。誠については、日本では「武士に二言なし」というが、ベドウインにも同じ言葉がある。
イラクに派遣された自衛隊の初代隊長を務めた番匠幸一郎一佐は「アラブはGNNと武士道」と言っている。GNNは、義理、人情、浪花節の頭文字である。長年に亘ってそう考えてきた筆者には、そういう見方が広がるのは嬉しい限りである。
他に、オマーン人は他の湾岸と同じく、ホスピタリティ、気前の良さ、力なども徳とする。
オマーンは日本に一番近いアラブの国
筆者は、オマーンを日本に一番近いアラブの国だと紹介している。
地理的にいえば、オマーンはアラビア半島の東南端に位置し、オマーンより日本に近いアラブの国がないことは一目瞭然である。
歴史的に見ても、これほど日本に近いアラブの国はないのである。オマーンには日本人の母を持つブサイナという王女がいる。父君は第12代のタイムール国王で、退位後の1935年に来日、神戸に4年間住んだ。その父君に会うために、第13代目にあたるサイード国王が1937年に来日している。さらに、1963年に現カブース国王が英国からオマーンへの帰国途中に日本に立ち寄っている。
ただ、すべてが私的な訪問であり、早い時期でのカブース国王の公式訪問が待たれる。
2.21世紀の日本とオマーン
オマーンは、国土こそ日本の4分の3強の広さであるが、人口が300万弱、GDPは4兆
円足らずの国である。
アラビア半島の中では、国土はサウジアラビア・イエメンに次ぐ3番目の広さだが、人口は2007年推定でサウジアラビアとイエメンの各十分の1、九分の1程度である。経済規模もサウジアラビアの十三分の1、UAEの五分の1程度である。
また、さしたる問題のない、平和な国である。このためか、サッカー試合の時以外には、オマーンが日本のメディアに取り上げられることはまずない。
政治・経済的や軍事的に影響力が小さければ、また紛争や事件が起こらなければ報道しないのが、メディアの常である。オマーンが報道されないのも当然である。しかしながら、オマーンは小なりといえども国であり、国際社会でしっかりと一票を持っている。賢明な指導者として知られるカブース国王が治めるオマーンは、一定の政治的な影響力と軍事力を保持している。経済的にも産油国であり、日本にとっては原油では世界9位、天然ガスでは7位の輸入先、自動車輸出などでも大切な輸出先である。
オマーンは政治的・軍事的にも、経済的にも大切な国である。筆者は、国際社会で政治や経済や軍事が重要でないというつもりは毛頭ない。これらは重要であり、とくに平和ボケした日本で敵視すらされている軍事にもっと目が向けられてよいと考えている。
しかしながら、21世紀に有力な国として考慮されるには政治・経済・軍事力もさることながら、国の姿勢や品位、国民性や道義心がより影響力を持っていくのではないかと筆者は考えている。個人の場合も同じで、社会的な力や金持ち度だけではなく、生活の姿勢や品位や徳がもっと問われていくだろうと思う。いや、そうなって欲しいと願っている。
この点から、日本は、21世紀の世界に向かって、幸福、平和、文化、環境、共存(=寛容)、道義心のキーワードをもっと発信すべきではなかろうかと考えている。
幸福のためには、なによりも経済を活性化させて国を豊かにし、国民が物質的に幸せな生活を過ごせるようにする必要がある。そのための技術は日本は十分持ち合わせている。日本には1960年代からの「戦後復興」の経験と伝統が残っている。
21世紀にふさわしいヒトや環境にやさしい製品を大量に生み出していけば日本経済再建の道が必ず開ける。前者にはロボットの開発もあり、後者にも優れた省エネ技術がある。さらに、日本だけではなく、アフリカやアジア、いや世界中の人々すべてが豊かな生活が送れるようにする気概で、日本経済のいっそうの発展を期待したいものである。
世界の中で日本ほど平和希求の念の強い国民はない。アメリカとの戦争に負けたためである。広島や長崎の原爆記念日には、全国民が「もう二度と戦争は起こさない」と心から祈りを捧げる。日本の歴史問題を非難しながら軍備拡張を続ける中国や韓国などとは、平和を願う心には雲泥の差がある。
昨今は戦後ほど文化日本という言葉を聞くことはないが、日本には世界に冠たる文化がある。自動車や電化製品などの工業製品、柔道や空手や相撲、歌舞伎や狂言や能、太鼓や三味線や尺八、マンガやアニメ、カラオケ、寿司などの日本文化がいま世界をリードしているが、日本にはまだ埋もれている伝統文化がたくさんある。これらを世界に発信していくべきことにも異論はあるまい。
終戦後の全国民極貧の状態から抜け出し、日本経済は60年代の高度成長期に世界第2位の経済大国となり、70年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるほどに経済は発展した。その間に日本は公害問題に直面し、1973年の第一次石油危機でエネルギー効率化の問題にも取り組んだ。その結果、日本は世界に冠たる環境大国となり、省エネ技術でも世界の先端を行っている。これを世界に発信していくべきことにも異論はあるまい。
また、他国に寛容であることも日本がもっと発信してもよい。いまも世界では民族や宗教に起因する戦争があとを絶たない。多神教を信じる日本人は世界に寛容を発信できる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教間でいくら融和を装っていても、一神教では「やはり自分たちの宗教が一番」と相手に譲れない一線がある。この点で日本人の宗教的寛容性は貴重である。宗教のみならず、外人への敬意は日本人の伝統である。
日本人には、温和でやさしく、親切であり、シャイで遠慮深く、他人への気遣いが細やかという美徳がある。さらに、日本人には品位や道義心の伝統もある。義理人情もある。世界的にみて犯罪も少ない。
いま日本では犯罪のニュースが多い。実際に、老若男女を問わず、殺人・強盗事件などを起こしている。昔の日本では、考えられなかったことである。しかしながら、ICPO統計によれば、犯罪発生率(人口10万人当たり認知件数)は、英国ス9.34、ドイツ7.96、フランス6.67、米国4.16、日本2.30で著しく低いのである(2001年―2003年)。オマーンは0.42である。
幸福、平和、文化、環境、共存(=寛容)、道義心をキーワードとすれば、日本は国としても、また国民個人としても尊敬される国になれる。筆者は、「これらのキーワードで国際社会をリードすれば、他国に憧れが芽生えこそすれ、戦争という野蛮な手段によって日本を地球上から抹殺しようなどという考えは出ないはずであり、最善の国防策ともなるのではないか」とも夢想している。
このような道を歩む時に、オマーンは日本の有力な一パートナーになりうる。国王は国民の幸福をひたすら願い、オマーん・ルネサンスの歩みを続けている。
オマーンの外交方針の重要な柱が平和的共存と善隣外交である。また、オマーンの人々は原爆によって被爆した広島や長崎への関心が非常に高い。環境についても、オマーンの環境関連の法律が1970年代に制定されており、早くからオリックスやウミガメ、さらに鳥などに特別保護区を設けてそれらの保護に努めている。
オマーンはイスラム教といっても、イバード派であり、他に対して寛容な伝統を受け継いでいる。また、古くからの海洋国家であり、国際的な視野を持つ国柄である。オマーン人は日本人に心情や価値観が似ている。
日本にとって、オマーンは21世紀にともに手を携えて歩める国である。もっと交流を深めたいものだと考えている。
補章 アラビアと日本
日本とオマーンのヒト・モノ・文化交流の資料を集める段階で、日本とアラビア半島に関するヒト・モノ・文化の交流についても一部知ることができた。これをトピック的に追記する。
1.ヒトの交流
山岡光太郎
日本人として初めてメッカ巡礼を果した山岡光太郎である。
その著『アラビア縦断記』(明治45年)によると、山岡は明治42年10月4日に日本郵船の船で門司を出港、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボを経てチチコリン港に着き、汽車でマドラス、ボンベイに行っている。ボンベイ到着は11月1日、そこで山岡はメッカ巡礼のためにイスラム教に改宗した。
そしてサマルカンドの住人でタタール系ロシア人アブドルレシドと清国人とともに11月20日にボンベイを出港し、アデン経由で12月10日にジェッダに到着している。
山岡はジェッダに上陸した初めての日本人、その様子を以下のように記している。
「船上より遠くジッダ港を観望すれば、地に一草一木なき砂塘(しゃとう)中に、大樓巨閣を築けるが如し、・・・恰も白砂を繞れるの汀渚、相國の別墅(べっしょ)を訪ふの感あり・・・」、「遠望せるジッダ港の内幕は、・・・白堊の樓閣は、不正形の斷石に危くも、積み上げ、石灰を粉壁せる四層五層樓にして、何等粧飾もなく、體裁もなき廢墟を見るの感あり、・・・街衢の結構又之に相應し、塵埃路上に堆く(うずたかく)、店舗の百貨概(おほむね)褪色腐爛せるの趣あり・・・唯街上教徒の往来旁午(ぼうご)織るが如きと、數萬の駱駝、道路随所に雌伏し、一大修羅場を演ずるに止まれり、殊に街上奇異を感ぜしは、珈琲及び喫茶店の開店せらるゝもの多く・・・」
山岡はこの後メッカに行き、カアバ聖殿、サファーとマルワ、アラファート、ムズダリファ、ミーナの巡礼を終え、その後メジナを訪れている。山岡はメッカに入る前に日射病にかかり、アラファートでは高熱でめまいがひどい状態で、ニフマ山に登れなかったは残念と書いている。メジナからは汽車でタブークに行き、ダマスカス、ベイルートに出て、船でさらにトルコに渡っている。
山岡は滞在中に知己を得たシェリフの顧問の紹介で、明治42(1909)年12月14日にメッカでシェリフに謁見している。
謁見したシェリフは、第四代カリフ・アリから数えて名門ハーシム家の38代目に当たるフセインであった。フセインは、その出自によって聖地の守護者として国際的に重要な地位にあり、宗主国トルコも一目を置いていた人物である。また、アラブ領土の独立のために英国の度重なる要請によってアラブの反乱に立ち上がったことでも知られている。
この時活躍したのがかの「アラビアのローレンス」であったが、これは山岡が謁見してから数年後の1916年のことであった。
『アラビア縦断記』によると、山岡はやや迷ったものの、「古着ながら絽紋付羽織に、セル地夏衣を着し、仙臺平の袴と白足袋を穿ちて」という和服姿でフセインに謁見している。
フセインについては、「法王殿下、見まゐらする處六十餘歳、豊頬にして銀髯を垂れ悠揚迫らず、種々打ち解けて下問せらるるところ流石に三億民衆の渇仰する生神の俤ありて、坐に人をして自ら恭敬の念を起さしむ」とその印象を綴っている。
「法王殿下は予を近く召されて、莞爾として戦勝国たる日東帝国の現状に就き、熱心下問せられたる・・・同行者稍々棒大に推奨したるにやあらん、法王殿下は頻りに余の顔を打ち眺め、さも感に堪えざるものゝ如く看取せられたり、最後に法王殿下は同行者を介して余の伺候を非常に満足に御満足に思召され、生來初めて日本帝國臣民を面當に見たる而巳ならず、常に敬慕する戦勝國の現状を聞知し、快感際なしとの優旨を通ぜしめらる」と続けている。
これまで日本の日露戦争勝利の中東への影響の記述はペルシャ、トルコ、レバノンなどに限られている。当時のアラビア半島内の反応を示しているので、ここで紹介した。
年が明けた明治43(1910)年1月4日に山岡はシェリフから陪食の光栄にも浴している。この時山岡は和服ではなく、アラビア服を着用して伺候した。
田中逸平
日本人として次にメッカ巡礼を果したのが田中逸平である。
田中は大正13(1924)年1月に中国でイスラムに改宗し、同年6月にメッカ巡礼を果した。
6月といえば、アラビアではもっとも暑い時期、翌大正14(1925)年に刊行した『白雲遊記』には、その過酷な旅につていて以下のように記している。
「七十人近き同行者中過半は病人である。只病を押して日々のお勤めをする。老いたるは既に倒れる。……(中略)半月の間に三人死んだ。而して余も大熱に冒されて苦しんだ。日本男子は道路に死なず。何クソと力んで、纏頭の白布を身體に巻きて水を注ぎ、韮を以て唯一の藥石として辛抱した」と。
志賀重昂がオマーンに入ったのが、大正13(1924)年2月、「知られざる国」を刊行したのが大正14(19256)年である。 ほぼ同じころに、この2人がアラビア湾の東海岸と西海岸に行っていたことになる。
横山正幸
志賀が「将来の世界は一言にて尽きる、曰く油の多き国家は光り栄へ、油の無き国は自から消滅する」と石油の重要性を見通し、石油の宝庫の中東に目を向けなければならないとオマーンを皮切りに中東を訪れたことは既述した。まさに卓見であった。ここで石油を求めて中東に入ったもう1人の日本人を紹介する。
サウジアラビアで石油が発見された1938年に、東京の代々木に建設されたイスラム寺院の落成式典にサウジの代表として来日した駐英サウジ公使から同国の石油利権について「日本側に関心があれば便宜をはかろう」との申し出があった。これを受けて日本政府は昭和14(1939)年に当時の駐エジプト公使の横山正幸をサウジに派遣した。横山は随員の石油技術者と通訳とともに同年3月に「砂漠の豹」といわれたイブン・サウド王に謁見を果たした後に、国王の秘書長兼政治局長と石油利権の交渉を行った。
この交渉に関しては、アメリカの反応、イブン・サウドの意向、イタリア、ドイツの動きについていろいろの情報があるが、結局交渉は不成功に終わっている。1939年といえば、太平洋戦争突入の2年前のことである。日本の石油確保が生命線という時代のことであった。横山の交渉が成功していたら日本の歴史も変わっていたことと思われる。
なお、この3人がリヤドを訪れた最初の日本人であった。また、上記の落成式にはイエメン王子一行も来日している。
山下太郎と杉本茂
山下太郎は、言わずと知れたアラビア石油の創始者で、アラビア太郎として名を馳せた人物である。
昭和31(1956)年に当時の丸善石油社長和田完二と日本輸出石油(株)を設立した山下は最初インドネシアの石油開発を手がけたが、内乱による治安の悪さからあっさりこれを諦める。そこに飛び込んできたのがサウジアラビアでの石油開発話であった。
山下はこれに賭けたのである。国内外の種々の困難を克服し、外国勢との戦いに勝ち残り、1957年12月にサウジアラビア政府と1958年7月にクウェート政府と、それぞれ石油利権協定の調印に漕ぎ付けた。この間の1958年2月にはアラビア石油を設立して、日本輸出石油の利権を継承している。
試掘を初めてまもなく火災事故というハプニングがあったが、1960年1月、アラビア石油は幸運にも1本目の試掘井で石油を掘り当て、1年後の1961年4月にカフジ原油を積んだ第1船が日本鉱業水島製油所に到着した。山下、72歳の時であった。
この利権獲得の背景には、石油利権をアメリカから分散させたいというサウジアラビア側の意向があったが、日本の日露戦争での勝利、強大なアメリカと3年有余も戦ったこと、戦後の日本の経済成長への思慕と敬意があったことは忘れてはならない。
また、困難な交渉の中で、通訳を務めた林昂(後にアラビア石油専務)とヤマニやクウェートのファハド殿下との個人的な交流が決め手となったことも特筆しておきたい。
なお、山下が心血を注いで獲得したこの石油権益は2002年2月に失効した。争点はサウジアラビアでの鉄道建設への出資問題であった。昨今の石油価格の高騰を考えると、数千億の出資などは2、3年の利益増で回収できていたはずであり、経済的にも日本側は大きなミスを犯したことになる。アラビア半島でも中国が存在感を増しているが、日本は重要な外交的な足掛かりも失ってしまった。山下たちが営営と築いてきたサウジアラビアとの信頼感も失い、軽侮の念さえ買ってしまったのは痛恨の極みである。
アブダビでの石油利権の獲得に成功したのが、杉本茂である。1967年に田中清玄から石油利権の話を受けた当時の興銀頭取中山素平は丸善石油、大協石油、日本鉱業の参加を固め、利権取得交渉の全権を杉本茂に委ねた。
杉本は丸善石油の経営不振の連帯責任をとって副社長を辞任して当時浪人中、中山から「すぐに上京せよ」との電話をもらった時には那智で滝に打たれていたという。すぐに上京し、莞爾としてこの役割を引き受けたのである。
杉本は同年末までに数度にわたって現地に飛んでアブダビ政府と交渉を重ねた結果、同12月に利権協定書の調印にこぎつけた。この折にシェイク・ザイド首長は「アブダビ首長国が今回初めて東の国と関係を持つことは慶賀に耐えない」、「成功を祈る。出来る限りの協力を約束する」と述べている。ザイド首長も日本びいきであったのである。
1969年5月に掘削作業を開始、8月に出油に成功、そして、1973年6月にはムバラス原油の第1船が丸善石油千葉製油所向けに出荷された。
国交樹立
サウジアラビアとの外交関係樹立は1955年、クウェートとは1961年である。アラブ首長国連邦、カタール、バーレーン、オマーンなどの国家承認はいずれも1971年、イエメンは南北が統合した新国家が成立した1990年のことである。
具体的な大使館の設置については既述したので、ここでは省略する。中東ではトルコが早く、1925年にイスタンブールに日本大使館が設置されている。エジプトでは、19年にポートサイドに領事館が、26年にアレキサンドリアに総領事館が、36年にカイロに公使館が設置された。29年にはイランのテヘランに公使館が、37年にレバノンのベイルートに領事館が、39年にイラクのバグダッドに公使館が設置されている。
友好協会
アラビア半島諸国で一番早く友好協会が設立されたのはサウジアラビアで、昭和35(1960)年に「日本サウディアラビア協会」が設立されている。次いで、昭和40(1965)年には「日本クウェイト協会」、昭和48(1973)年には「日本・オマーン親善協会」、昭和49(1974)年には日本アラブ首長国連邦協会、昭和51(1976)年に「日本カタール協会」が設立されている。また、日本・イエメン友好協会とバーレーン日本友好協会は平成8(1996)年に設立されている。
なお、アラビア各国との友好議員連盟も設立されている。
国家元首の来日
戦後、最も早く日本を訪れたアラビアの国家元首は、サウジアラビアのファイサル国王で、1971年のことである。90年にはアラブ首長国連邦のザイド大統領、91年にはバーレーンのイーサ首長、1995年にはクウェートのジャービル首長、2005年にはカタールのハマド首長が訪日している。
2.モノの交流
明治42年にメッカ巡礼を果した山岡光太郎は、その著『アラビア縦断記』のなかで「メッカの商工業状態は憫れむべき幼稚の境にありと斷言するの外なく、随而邦人の此の方面に於ける発展は、實に目下の場合絶望に近しと雖も、本邦製陶器類殊に茶器及び薄羽二重のメッカに於て販賣せられ、アラヴの家庭に愛翫せらるゝを實見したり、聞く所に依れば、其輸入の經路は、支那人及び印度人の手に依りて捌かれたる如し」と記している。
明治期のアラビア半島煮西海岸とのモノの交流も既述の東海岸地域とのモノ交流と似たものであったろう。
日本の綿製品や他の工業製品がこの地域に大きく進出したのは、東海岸地域と同じく第一次世界大戦中のことである。
横山正幸に同行した中野英治郎は『アラビア紀行』の中のリヤド見物の項で、「スークを見物することにした。・・・反物屋へ入ってみると、絹布や人絹を巻いたりぶら下げたりして賣ってゐる。日本製が主で、邦社の印のついてゐるものもあった」と記している。
昭和18(1943)年の東洋研究所資料第68号Cには、イエメンとの貿易状況について、
以下の記述がある。
「1927-28年のイエメンの輸出はコーヒー、獣皮、かます及び筵、輸入は砂糖、麦粉、米、香料、織物、薬剤その他、石鹸、燐寸、灯油」
輸入のうち、織物は英国が40パーセント、日本が20パーセント、また燐寸はイタリアが50パーセント、日本が25パーセント輸出したと、とある。
「1936年の輸出はコーヒー、獣皮、ヘンナ、穀類、輸入は砂糖、麦粉、澱粉、米、石鹸、織物、セメント、灯油」とあるが、国別の記録はない。
戦後の貿易
最も早くわが国との貿易が始まったのはサウジアラビアである。昭和21(1946)年に輸入が、翌年には輸出が始まっている。クウェートへの輸出は昭和24(1949)年に、輸入が翌年から始まっている。オマーンへの輸出はクウェートと同じく昭和24(1949)年に、輸入が昭和29(1954)年から始まったことは既述した。アラブ首長国連邦とカタールとの輸出入は両国建国後の昭和47(1972)年から始まっている。
アラビアと日本の貿易のいま
2007年のアラビアとの貿易は、JETRO統計によると、下表のとおり輸入額が114412億円、輸出額は25486億円で、日本が88926億円の入超となっている。
世界全体では、日本の輸入は中国からが18.8パーセントで第一位、米国からが10.2パーセントで第2位、次いでサウジアラビアからの6.7パーセントが第3位で続いている。アラビア全体からの輸入は、19.2パーセントと米国を抜いてトップである。この地域からの輸入のほとんどが石油の輸入であることはいうまでもない。
一方輸出を見ると、米国向けが17.6パーセントで第一位、中国向けが16.0パーセントで第2位、次いで韓国向けの7.6パーセントが続く。アラビア全体で見ると、3.6パーセントで、3.2パーセントのドイツ、3.1パーセントのシンガポールに並んでいる。オランダ、英国、オーストラリア、マレーシア、ロシア、フイリピン、インドネシア向けなどより多い。個別に見ると、UAE向け輸出は、イタリア、インド向けを超え、サウジアラビア向けはこれらに匹敵する。
品目別には、乗用車などの輸送機器が大半を占め、他に家電、油送管、工作機械などが続く。この地域の高い人口増加率を考えると、輸出市場としての魅力は増すものと考えられる。
2007年のアラビアとの貿易
国名 輸入 輸出
クウェート 11655 (1.6) 1956 (0.2)
サウジアラビア 41475 (5.7) 7905 (0.9)
バーレーン 504 (0.1) 794 (0.1)
カタール 19890 (2.7) 2163 (0.3)
UAE 36037 (5.2) 9457 (1.1)
オマーン 4212 (0.6) 2964 (0.4)
イエメン 639 (0.1) 247 (0.0)
計 114412 (16.0) 25486 (3.0)
注) 単位:億円 カッコ内は世界に占める割合、パーセント
3.文化の交流
ヒトコブラクダの渡来
ラクダは古くから日本に知られていた。日本書紀にも随所に記録されている。
一番早くは、推古天皇即位の7(599)年に「秋九月の癸亥(みずのとのい)の朔に、百済が、駱駝一匹・驢馬(うさぎうま=ロバ)一匹・羊二頭・白い雉一羽をたて貢れり」とある。これらは百済や高麗経由なので、モンゴルなどに産するフタコブラクダであったことは間違いない。
五弦のインド系琵琶としては世界でたった一つしかないという正倉院の代表的な宝物である「螺鈿紫檀五弦琵琶」、その表面には、ラクダに乗った男が琵琶を演奏している様が示されている。このラクダもフタコブラクダであることが見てとれる。
ラクダにはヒトコブラクダとフタコブラクダの二種類があり、フタコブラクダの原産地はイランから中央アジア、中国北部のモンゴルからトルキスタン砂漠にかけてで、ヒトコブラクダの原産地は北アフリカとアラビア半島とされている。
わが国初めての図説百科辞書である「和漢三才圖絵」でも、ラクダを「其頭羊に似、長き項垂たる耳。脚に三節あり。背に両肉峯アリテ、鞍の形の如く、蒼褐黄紫数色あり」と記述している。このラクダも明らかにフタコブラクダである。この圖絵が脱稿したのは、正徳2(1712)年のことである。
ヒトコブラクダが日本に渡来したのはいつのことであろうか。それが意外と新しい。文政4(1821)年6月のことである。幕府に献上すべくオランダ船がヒトコブラクダの雄雌二頭を長崎に運んできた。しかし、幕府がこれを受け入れなかったため、大阪商人の手に渡り、その後このラクダは興行目的で全国を旅している。
このラクダは西国を経て大阪に到り、難波新地で興行が行われている。その後四国、西国を見世物興行した後に和歌山へ行き紀伊藩主も見物、中山道を経て文政7(1824)年8月に板橋宿に到着した。その折にも江戸から多くの人がラクダ見物に訪れたことが記録されている。その後、同月に江戸両国広小路で興行され、空前の大当たりをとったという。
ラクダの小便が瘡湿の大妙薬、毛は疱瘡よけとなり、雄雌は仲むつまじく、一度これを見ると夫婦は仲むつまじくなると宣伝され、ご利益を得ようとする人々が群がったという。足が三つに折れることも壽とされたらしい。
このラクダはその後東国を巡回し、越前・加賀を経て尾張一宮に行き、文政9(1826)年には名古屋で興行し、さらに岡崎や現在の
では、このヒトコブラクダはどこからやってきたのであろうか。慶応大学所蔵の唐蘭船持渡鳥獣之図に、「阿蘭陀船持渡」「排出佩出所 亜蝋皮亜国之内メッカ 四歳」と明記されている。アデンに立ち寄ったオランダ船がこのサウジアラビア産のラクダを積み、バタビア経由で日本に運ばれたらしい。これが、ヒトコブラクダが日本に伝来した最初であった。
コーヒーの伝来
「新食品事典11」(河野友美編 1992年)に、コーヒーについて以下の記述がある。
「コーヒーノキはアフリカ東北部のエチオピアの高原カッファ地方が原産地である。エチオピアでは標高2000〜3000m以上の高地に自生するボン(のちのコーヒー豆)と呼ばれる木の果実の種子を古くから食用にしていたという。・・・ボンはアラビアではバンと呼び、煮汁をバンカムといった。・・・その後ボンはアラビアへと伝わったようで、世界最古のコーヒーについての記録がバグダッドで名医として知られていたラーゼス(9世紀後半から10世紀前半)によって残されている。・・・イスラムの世界では酒を禁止していたので、バンカムの興奮的な刺激は熱狂的に喜ばれ、その風習はますます繁栄したのである。このころになるとバンカムの名はすたれ、酒の一種の名をとってカーファと呼ばれるようになりのちにカーヒーへと変化した。・・・16世初期に、コーヒーはトルコへと伝わった。・・・コーヒーがヨーロッパに伝わったのは17世紀、ベネチア商人によったという。・・・17世紀前半に、ヨーロッパで最初のコーヒー店がイタリアのベネチアに誕生した。また、1650年にはイギリスのオックスフォードで、1652年にはロンドンでもコーヒー店が開かれた。・・・フランスでは69年に、パリに着任したトルコ大使によって正統トルココーヒーがパリの社交界に紹介され、71年にマルセーユにフランス最初のコーヒーハウスが開店した。・・・ドイツに伝わったのは1670年、同じころにロシアにも伝わったという。・・・オーストリアのウイーンにコーヒーが伝わったのは1683年で・・・米国に伝わったのは1640年ごろ・・・」と。
日本については、「日本にコーヒーが渡来したのは、オランダ船によるもののようである。・・・コーヒーの生豆が正式に輸入されるようになったのは明治初年(1868年)からである。・・・日本ではじめてコーヒー店ができたのは明治19(1886)年で、日本橋の『洗愁亭』であるといわれている」とある。
なお、1700年ころ、オランダ船が伝えたコーヒーは「モカ」。モカはイエメン南部の港町。16世紀ごろからコーヒーの輸出港として栄えた。1618年にはコーヒー工場も建設されている。最初は苦くて、こげくさいなどといわれ敬遠されていたコーヒーだが、シーボルトが長崎にやってきた文政6年(1823年)ごろには、かなりのコーヒー党が日本にもいたようである。
デーツの伝来
デーツはラクダとともに、アラビア人にとって伝統であり文化そのものである。
このデーツは、アラビア湾岸原産といわれるヤシ科フェニックス属の一種のナツメヤシに実り、長さ2、3センチの円筒形、中に種子がある。果実には生食または乾果としても食される。味は日本の干し柿によく似ている。
繊維質(約8パーセント)と天然糖分(70パーセント)に富み、脂肪分をまったく含んでいない。その上、たんぱく質(2.4パーセント)、11種のミネラルと7種類のビタミンを含む実に栄養価の高い理想的な食べ物といえる。
筆者は「砂漠の民であるベドウインたちは、このデーツとラクダのミルクだけでアラビアの砂漠で何千年も人類の歴史をつないできた」と説明しているが、このデーツが現地で「生命の木」と呼ばれているのも納得できる。
このデーツは、西方へはメソポタミアからモロッコなどのアフリカ北部へ、さらにスペインへと伝わった、東方へはイランからパキスタンやインドへと広がったといわれる。アメリカ大陸では十七世紀にスペインから伝えられ、いまはアリゾナやカリフォルニアで栽培されている。
このデーツが日本で知られるようになったのはいつからであろうか。
正倉院の「螺鈿紫檀5絃琵琶」の表側にラクダの絵があることは既述したが、このラクダの上の部分にはナツメヤシの樹が描かれている。これが、日本人がナツメヤシの樹のイメージを見た最初であろう。
元和5(1619)年にマスカットに上陸してイラン、イラク、シリアを経由して聖地エルサレムに入ったとされるペトロ岐部が旅の途中でデーツを食べたことは間違いないが、記録がないので確かめようがない。
後の海外各地の土産が記載されている『増補華夷通商考』にも『和漢三才図絵』にもデーツとおぼしきものの記載はない。前者の場合、中華十五省と外国の項に「椰子」という文字が見えるが、この椰子はココナツ椰子でなつめやし、いわゆるデーツではないだろう。もちろん、西洋紀聞にはそのような記述はまったくない。
デーツが日本の書物に記録されるのは幕末の頃遣欧使節団に加わり、ヨーロッパに行く途中にアデンで実際にデーツを見、かつ味わった人たちによってであろう。
また、明治時代になって、古川宣誉はマスカットの近郊について「多少棗椰子ノ生スルアレモ・・・」とナツメヤシに言及し、伊東祐享はマスカットの項で「…我比叡号の此地に着するや、國王は牛一頭、羊四頭、泥棗(デーツ)、葡萄、…」と正しく泥棗(デーツ)と記述している。
では、このデーツが実際に日本に入ってきたのはいつなのであろうか。
戦後のデーツの輸入は1949年から始まっているが、その輸入先は米国である。数量は10トンから50トンと少ないのだが、ほとんど毎年輸入されている。
ナツメヤシが数世紀前にスペイン経由でアメリカ大陸に渡ったとことは既述した。1890年にエジプトからカリフォルニアへ船便で導入したのを契機に、その後25年間にわたり、世界のあらゆる地域からデーツを導入し、科学的研究の結果、カリフォルニアと隣接するアリゾナの砂漠地帯で果樹産業として育ったと聞いている。
1951年の輸入先は、米国にイラク、中国、香港が加わっている。後者2ケ国は仲介貿易であろう。
昭和三十年代はじめに、日本がイラクから石油を除く貿易の片貿易を指摘され、石油以外の産品の買い付け、とりわけデーツの買い付けを強要されている。そこでイラクに調査団を派遣し、種々検討の結果、国産競合の恐れのある蒸留酒用を除く用途のものについてデーツ輸入の途を開いている。これが、デーツの本格的輸入の最初と見てよいだろう。
統計によると、1951年ころのデーツの輸入は小規模で散発的であったが、昭和33年から急増した。昭和32年に50トン弱であったものが、翌33年には2300トン余りとあり、35年には5000トン余り、40年には9000トン近くに増え、42年には9300トン強と史上最高の輸入量を記録している。
当時は砂糖が高値だったので、デーツが砂糖の代替品としてブームとなったが、その後価格が逆転してその用途が閉ざされてデーツ輸入量は激減した。そのなかで、自然の恵みで天然の味覚作る理念のもとに1976年以来使用し続けている企業がある。それは広島のオタフクソース株式会社であり、お好み焼きには欠かせないオタフクソースには美味で栄養価の高いデーツが一貫して使われている。2007年の日本のデーツの輸入量は919トン、イランとパキスタンとイランが2大供給先となっている。
このナツメヤシの木は国内にもある。沖縄
日本では、デーツの用途は焼酎・ソース・酢などの加工用が主で、生食用はごく少ない。最近はケーキやゼリーなどの加工品も出始めているようだが、栄養価が極めて高い食物であるだけに、筆者は日本でアラブ文化を知る上でも、もっと普及するよう願っている。
筆者は毎朝デーツを数粒食べ、さすがにラクダのミルクは手に入らないので牛乳を飲んで、アラビアのベドウインの人たちと同じ食事をしているとひそかに悦に入っている。
野菜・果実など
河野友美編の「新食品事典」を読んで、身近で日本古来の野菜と思っているものに、アラビア周辺起源のものが意外に多いということである。
野菜では、「オクラ」はアフリカ東北部、「ゴボウ」は地中海沿岸から西アジア、「サヤエンドウ」は東ヨーロッパ地中海沿岸地域、コーカサス地方南部、イラン、「ソラマメ」がアフリカ北部(大粒種)と中央アジア(小粒種)、「ダイコン」はコーカサス地方からパレスチナ地方、「ニンジン」はヨーロッパから北アフリカ、中央アジア、「ニンニク」が中央アジアキルギス地方、「ホウレンソウ」がイラン、「レンコン」がインド、「キュウリ」はインド北西部が原産地である。驚くばかりである。
次に果実について見てみよう。
「ゴマ」アフリカ、「アーモンド」は西アジア地域あるいは地中海沿岸のヨルダン地方、
「ザクロ」がイラン、「イチジク」の原産地はアラビア南部、「クルミ(胡桃)」は日本原産のものもあるが、ペルシャを原産地とするペルシャグルミが4世紀ごろに中央アジアから中国に伝わり、日本には江戸時代中ごろに中国あるいは朝鮮半島から渡来したといわれている。
穀物について見てみよう。小麦と大麦はイランの西南部、メソポタミア、トルコ、パレスチナ辺りが起源と推定されている。
さらに、香辛料。「サフラン」のの原産地はおそらく小アジアであろうとされているが、いまは、イランとスペイン産が有名である。日本名がチョウジ(丁字)の「クローブ」の原産地はインドネシアのモルッカ諸島といわれている。これが、インド洋貿易に従事していたアラブ商人によって、1818年ごろに東アフリカのザンジバルにもたらされ、いまやザンジバルが主な産地となっている。クローブの栽培を積極的に奨励したのが、サイード大王であることは既述した。
イスラムの伝来
いま日本在住のムスリムはどのくらいいるのだろうか。
その著『日本のムスリム社会』の中で、桜井啓子は2000年時点で日本在住の外国人ムスリムは約6万人、日本人ムスリムが約1万人で合計7万人と推計し、その数が10万人に達するのは時間の問題と推定している。桜井の推計を2006年時点で見直しても、1万人程度の増加であるから、いまもこの見方で大差なかろう。
1980年代中頃から出稼ぎにき始めたパキスタン、バングラデシュ、イランなどのイスラム圏からの外国人の増加によって増え続け、日本人の場合は、以前は勤務や留学やアラビア語の学習などによってムスリムに改宗する男性が中心であったが、最近はムスリムとの結婚で改宗する日本人女性が増えているという。
これに伴って、モスクも比較的大規模なものは東京に3ケ所、神戸に一ケ所あるが、外国人ムスリムの増加によって地方で小規模モスクが急増しているという。
ここで、日本とイスラムとの関わりにについて概観してみよう。
日本でイスラムの記述が最初に見られるのは、新井白石の「西洋紀聞」である。杉田正明は『日本人の中東発見』でそう書いている。
なるほど、岩波版では、「按ずるに、其説に、天下の宗とする所の教法三つ。キリステヤン、ヘイデン(異教徒、多神教徒のこと)、マアゴメタン、これ也。そのマアゴメタンは、モゴルの教えにして、アフリカ地方、トルカも其教を尊信するといふ。おもふに、これ漢に囘囘の教といふもの、或は是也」とある。
明治になってからは、イスラム関係の書籍としては、明治9年(1876年)に林董(ただす)が「馬哈黙傅井附録」を翻訳出版している。当時一外交官であった林は、後に外務大臣になった人物である。
日本人で最初にムスリムになったのは「時事新報」の記者であった野田正太郎である。野田は、明治23(1890)年9月に南紀樫野崎灯台付近で起こった「エルトゥール号」遭難で自社が募集した義捐金活動を渡すために、1891年1月にイスタンブールに入り、同年5月に入信してアブドルハリムの名を授けられたという。
以上は2007年7月に「日本中東学会年報」に発表された三沢伸生の論文によるもので、
それまで山田寅次郎を日本最初のムスリムとしていたのは誤りであると断じている。
同じく「エルトゥール号」義捐金活動でトルコと縁ができた山田がイスタンブールに行ったのは1892年4月で、すでにいた野田が山田を支援したとある。
また、日本人として初めてサウジアラビアを訪れメッカ巡礼を果したのが山岡光太郎であることは既述した。
また、わが国最初の日本語訳コーランは、大正9年(1920年)坂本建一によって翻訳出版されている。
主な参考文献
オマーン全般
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第三章
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『中国史』 尾形 勇/岸本 美緒編 山川出版社 1998年
『シルクロード文化史』1 長澤和俊 白水社 1983年
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『史記D−権力の構造』 司馬遷 (大石智良・丹羽隼丘訳) 徳間書店 1991年
『漢書8 列伝D』 班固 (小竹武夫訳) 筑摩書房 1998年
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Relations between
Journal of
第四章
『日本イスラーム史』小村不二男編 日本イスラーム友好連盟 1988年
『大乗院寺社雑事記の研究』 森田恭二 和泉書院 1997年
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『鉄砲伝来』宇田川武久 中央公論新社(中公新書) 1990年
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第五章
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『波斯之旅−回彊探検』吉田正春 1894年
(明治シルクロード紀行文集成 第2巻 ゆまに書房 1988年)
『中央亜細亜より亜拉比亜へ』福島安正 太田阿山編 1943年
『西部亜細亜旅行記』家永豊吉著 1900年
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第六章
『日本近現代人名辞典』 臼井勝美ほか編 吉川弘文館、2001年
『志賀重昂』宇井邦夫 現代フォルム 1991年
『知られざる国々』志賀重昂 1928年
(志賀重昂全集 第6巻 志賀富士男編 日本図書センター 1995年復刻)
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第七章
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第八章
『日本経済の100年がわかる本』 花井宏尹 ダイヤモンド社 1998年
『第 1回 日本帝国統計年鑑』1882年 内閣統計局編纂 東洋書林 1999年復刻
『第 2回 日本帝国統計年鑑』1883年 内閣統計局編纂 東洋書林 1999年復刻
『第17回 日本帝国統計年鑑』1898年 内閣統計局編纂 東洋書林 2000年復刻
「アラビア東岸酋長諸国−コーウェイト、バーレイン島、トルーシャル・オマーン、
東洋研究所資料2第八十七號C」(昭和18年7月印刷)
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The Japanese trade contact with the Middle East- Lessons from the pre-oil period, by
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The
Sultanate of
第十二章
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補章
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『アラビア太郎』杉森久英 文芸春秋 1970年
『動物の旅−ゾウとラクダ』豊橋市二川宿本陣資料館 1999年
『日本のムスリム社会』桜井啓子 ちくま新書 2003年
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