一ダース兄弟‐コラム

「君、何人兄弟?」、「11人」、「ところでお父さんは何人奥さんいたの?」、「2人」「う−ん、君は兄弟何人?」、「16人?」、「で、お父さんの奥さんは何人?」、「3人」「そう、あまり大したことはないね」

私がアラブの人達と会って、お互いの兄弟の話をする時にはこんな調子で始まる。ご存じの通り、アラブでは男性は4人まで奥さんを持つことが許されているので、お父さんの奥さんの数を聞く必要があるのだ。

あとは私の独壇場である。「実は、私の兄弟は12人だ。つまり、1ダース。しかも、母親は1人だよ。日本でもアラブと同じく4人まで奥さんが持てたら、私の父は4人の奥さんを持ったはずだ。とすると、12×4で私には48人の兄弟がいたはずだ。君のところの11人や16人なんて、全然目じゃないよ」というと、アラブの人たちもびっくり、というより尊敬の表情になる。

 尊敬といっても、私にではなく父の強さに対してである。「強いこと」が美徳であるアラブ世界においては、子供を沢山作れることは十分尊敬に値することなのである。

「私の場合、12人兄弟といっても、一番上に姉がいるだけで、あと11人は連続して男だ。だから、わが家ではサッカー・チ−ムができる。ちなみに、私は上から10番目、九男だ。君、野球って知っている?その野球だと、9人でプレイする。だから、俺はライトかなにかで試合に出場できるが、弟2人はかわいそうにベンチだ」とつけ加えようものなら、尊敬の念はますます深まる。アラブは男子優先社会だからである。

しかし、中には「君、兄弟何人?」と尋ねると、「16人」という返事。「ふ−ん、ところで君のお父さんは奥さん何人いたの?」、「1人でした」というような具合で、「参った」というようなケースもある。その時はこちらが脱帽である。

アラブの家族の話は、数で留まっている間は単純なのだが、内情に入ると込み入って頭が混乱してくる。

私が勤務していた商工省のアハメッド部長の場合、お父さんの奥さんは3人である。最初の奥さんの子供は10人、2人目の奥さんの子供は5人。ところが、この奥さんが亡くなったので、その幼い子供達の養育のために2番目の奥さんの妹が3人目の奥さんとして入る。その妹が、アハメッド部長のお母さんで3人の子供を設けた。従って、アハメッドの兄弟は18人、お父さんの奥さんは3人。この辺まではわかる。

アハメッドの弟の1人は商工会議所の課長をしているが、見たところ年格好はアハメッドと同じくらいだ。「弟というが、年が同じくらいのようだ。兄弟であるわけがない。本当に兄弟なの?」とわからなくなる。「僕と弟は1ケ月違いなんだ。弟は2番目の奥さんの子供だ」とアハメッドは何事もなく答える。一夫一婦の日本では、1ケ月違いの弟などはありえないから、どうもすっきりしない。ちなみに、アハメッドのお父さんは、年齢は百才をとっくに越えているというが、いまも健在である。

秘書のアジーザは、高校を卒業して2年前に入省したオマーン人女性である。お父さんが2人で奥さんが3人、兄弟は16人という。分かりにくい。

聞いてみると、アジーザのお母さんは2番目の奥さんとしてまずA氏に嫁いだ。生まれた子供が2人、アジーザはその下の子である。A氏はすでにいた1番目の奥さんとの間に、6人の子供を設けた。その後、A氏は死亡。そこで、アジーザのお母さんはB氏と再婚、子供を8人設ける。かくして、アジーザの父はA氏、B氏の2人、奥さんは3人、兄弟は16人となる。この関係を下手な英語を使って説明を受け、理解するのは容易ではない。

大卒スタッフのサレムの場合も複雑ではなさそうだが、あまりの数の多さに兄弟のことは本人も分からないという。お父さんの奥さんは建前は4人だった。ただ、4人目の奥さんはぐるぐる変わっていたようで、奥さんが延べで何人いたかはサレムにも分からないという。兄弟の数についても、「36人かな、48人かな」という頼りなさ。確かなのは、兄弟の中で彼が一番若いということだとのこと。サレムは地方の高校を卒業後、国費で英国の大学に留学して商工省に入省したエリート官僚、地方では神童と言われていたようだ。兄弟の男の子は総てお父さんから土地を分けて貰ったというから父親は精力家であっただけではなく、相当の金持ちであったのだろう。

4人妻の実情に触れると、アラブでも4人の妻を持つ人は少数派である。大概の人は我々と同じく奥さんは1人、特にインテリ階級は、暮らしぶりも日本のサラリ−マンと変わらないと考えてよい。アラブ女性の意識も向上している。また、教育が普及してその重要性が分かり、しかも子供に教育を受けさせるには金がかかることがわかってきたこの頃では子供の数も制限するように、一般のアラブの人々の意識も変わってきている。

所得でいうと、所得の高い層と所得の低い層に、二人以上の奥さんを持つ傾向が強く、中間所得層は奥さんが1人という人が多い。居住区でいえば、都市部に住む人より、地方に住む人に2人以上の奥さんを持つ傾向が強い。

アラブでも4人妻を持つ人が少なくなり、子供の数も制限するようになってくると、私の「一ダース兄弟」の話も、価値が激減する。

 

髭をたくわえるなら

オマーンの国土は、82%が不毛の土漠・砂漠、15%が山岳部、残りの3%が平野部である。ただ、砂漠はマスカットから遠く離れており、マスカット近辺で日常われわれの眼に触れるのは峨峨たる岩山である。一木一草もない岩山、それもこの世のものとも思われない山々の姿に、緑の木々におおわれた山を見なれている日本人は一様に驚かされる。

なかでも、カンタブの景色は異様だ。市内からアル・ブスタン・パレス・ホテルへ行く手前を右折。近代的な舗装道路はそこから急角度で上がり、あとは山合いを上がり下がりする。車から壮大な岩山の景色を楽しめる。道を下り切って右折するとジュッサ海岸、左にカンタブ村への道をとり急勾配の坂を登りきったところの景色が圧巻だ。

時刻は夕方、暗くなりかけの時がベスト。正面に切り立った黒い山々、恐ろしい光景だ。ここで「猿の惑星」の映画を撮ったとも聞いたが、うなずける。

私が、こういうところを車を運転しながら、後部座席の日本人客に、「この国には、この裸山の景色が一番よく似合うのです」と話すと、みんな「どうしてですか」という顔でいぶかる。

木は、私に言わせれば、山に生えるヘア−みたいなもの。ヘア−・ヌ−ドにうつつを抜かしている日本にはああいう木、つまり、ヘア−の生えた山がお似合いですよ。ここのように、下を手入れしているところでは、ヘア−のないこのような岩山でいいんです」と説明すると、「へえ、アラブでは下の毛を剃るんですか。本当なんですか」と皆一様に体を乗り出してくる。

こうなると、遠藤節が絶好調となる。「イスラムの国では、男女とも体毛は剃ります。何日置き?いちおう40日毎となっていますが、人それぞれです。ヘア−が出てきたら剃ることになります」

「日本人でアラブに来ると、髭をはやす人が多いんですが、あれはどういうわけなんですかね。子供に見られないため、同性に襲われないため、単に土地の風習に従うためとかいろいろ聞きますが、日本を出る時に誰かに教えられてくるのでしょうか。

私は新潟育ちで餅肌、アラブでもあわやという目に何回も逢いました。昔、サウジアラビアの町外れで、またドバイからアブダビに移動した時など、いずれも相手はタクシーの運転手。アブダビでは運転手のいやらしい目つきだけで済みましたが、サウジの場合は運チャンのデシュダ−シャがテントを立てていました。危機一発でした。

そういうことはあるけど、日本人が髭を伸ばすのには、私は賛成できませんね。その人の自由ですから、あんまり言わないことにしていますが、私はアラブに来ても日本人は日本人らしくしたらよいと思っているんです。その上、アラブの人々は下は剃って、髭を蓄えているのです。日本人は髭を蓄えた上に、下にも付けている。これでは不公平ではないですか。もし、日本人がアラブの人たちのように髭を生やしたかったら、まず下を手入れしてからにしてほしいと思います」

数千万年前、アジアプレートの海底地殻がアラビアプレートにのしあげて、イランのザグロス山脈とオマーンのハジャ−ル山脈が形成されたという。そのオマーンでは、地殻がのし上がったままの山、岩が折れ曲がったままの山、まだ西に動いているような山などすべて岩だらけ、一木一草もない風景である。下半身を手入れをしているオマーンに似つかわしい。そんなオマーンには、当然ヘア−・ヌード写真のようないかがわしいものはない。

 

アラブを二倍楽しむ法

先日書き物を整理していたら、次のような物が出て来た。私が今から15年程前、アブダビに駐在していた時に書いた物である。

「おい、どうだった。どんな格好をして水浴びしていた?彼女たちと話しをした?」。そこは、ナツメヤシの木々が茂るアブダビのブレイミ−・オアシスを少し入ったところ。私は、女性専用の水浴び場の門から出てくる妻と娘たちに話しかけていた。

いつもはオアシスを真っすぐ奥に進むのだが、その日は、入口にある女性専用の水浴び場の前で立ち止まり、私は妻と娘たちに、中の女性たちの様子を見てくるように頼んだのであった。

「随分とにらまれてしまったわ。あっちへ行って、とは言わなかったけれど、ジロジロ見られるの。私達はよそ者、何しに来たのって感じね」と妻。「みんな洋服を着たまま身体を洗っていたわよ」と子供たち。私にできることは、妻と子供たちの話を聞いて勝手に中の様子を想像するだけであった。

「パパ、やはり第一夫人が一番威張っているのね。ハーレムに行くと、第二夫人も第三夫人もみんな一緒にいるの。みんな何もしないで、ゴロゴロしている感じなの」「ビックリよ。口に入れていたガムはそのまま床に吐き出すし、ガムの紙をそのまま捨てるし、家の中でも砂漠と同じ感覚なのかしら」。妻の感想である。

私と妻とでアラブの友人の家を訪ねると、私は男のマジュリスで男たちに囲まれてアラビアコーヒーを振る舞われるだけだが、妻は「こちらにもどうぞ」と、女性の部屋にも自由に出入りできるのである。

私のアブダビの家の真ん前は女性と子供のための公園であった。子供といっても男性の場合は10歳以下の子供しか入園できない。私の家の二階からは、夕方になると照明の下で女性や子供たちがブランコとか滑り台に興じたり、散歩をしているのがよく見通せた。中の詳しい様子を知るには、「ちょっと、行って見てきて」と妻に頼む以外ない。

「あそこのブランコなんか、触れたものではないわよ。香水でギタギタよ。匂いも凄いわ。アラブの人はすごく香水を使うのですもの」「子供を連れてきているけど、自分がまだ子供みたいなお母さんもいるわよ。可哀想!」などと、一周りしてきた妻の話を聞きながら、私にできることは、カ−テンの陰から夕方の公園の様子に眼をやるだけであった。

男がアラブ人の家を訪れても、見ることのできるのは男の世界だけ。女性の場合は、男の世界のほかに女性の世界もすべて目にすることで、アラブを二倍楽しめるのである。

私は、アラブは女性が最も活躍できる地域だと考えている。つまり、男の社会と女の社会と男性の二倍働ける場がある。私が心から尊敬する女性たちにはアメリカやヨーロッパばかりに眼を向けるのではなく、男の二倍活躍できる中東にも目を向けてほしいと願っている。

では、オマーンの場合はどうなのか。役所では、大卒のカウンターパートも高卒のタイピストも我々男性に伍して同じ仕事ぶり。ただ、男性と女性は部屋を区別しており、車で出かける場合も原則として横には座らない。助手席と後部座席に分かれる。

われわれが個人の家を訪ねる。オマーン人の奥さんが迎えに出ることもあるが、原則は主人など男たちが接待。食事にオマーン女性が出て来ることはない。私の妻は、女性たちの部屋にも行けるし、男性の席にも留まれる。個人の家でのパ−テイ やホテルなどでの公式パーテイ 、いずれも男性が出席する場合、オマーン女性が出席することはない。

われわれの家にも、カウンターパートのオマーン女性でも、男性の付き添いなしに訪ねることはない。昭和30年代の日本のような感覚であろうか。親しくなったら、他に招待客がなければ、オマーン人夫妻でわが家を訪問することがありうるが、他の人が入れば、奥さんは絶対に来ない。

こう検証してみると、アラビア半島では、やや開放的な国だといっても、オマーンでもやはり女性の方が二倍楽しめるといって間違いない。日本女性もどんどんオマーンにも進出してほしいと思う。

 

神童たち‐コラム

昨年11月にマスカットのスタジアムで行なわれた建国記念日式典に出席した時のことであった。ハンジャルをつけて正装をしたオマーンの2人の少年が、私の隣に座った。一緒にきた大人たちはその横の方に陣取っている。

「どこからきたの?」と少年たちに聞くと、「アル・カメルから」との答えである。「そう、サレム知っている?商工省に勤めているのだが」と聞くと、「サレム、何?」と聞かれ、「サレム・ビン・アデー・アル・ママリー」というと「知っている」という。

アラブでは、その人の名前のあとに父親の名前がくる。そのあとに名字がくる。アラブの場合は族名といった方がよいかもしれない。「サレムといってもどこのサレムか、アデーの子供のサレムで、ママリー族だ」とこんな具合で、本人を特定できるのだ。

私が子供たちに聞いたサレムは、私のカウンターパートである。アル・カメルの高校を卒業後、例のGSSC(全国高等学校総合検定試験)で抜群の成績をおさめて国費でイギリスの大学に留学してから、商工省に入省しているオマーンの超エリートだ。こういう人物は地方都市のアル・カメルでは、何人もでるものではない。有名なはずである。したがって、子供たちが、彼のことを知っているかどうかを、聞いたのである。

案の定、子供たちは知っていた。常日頃、私はサレムに「君はアル・カメルの神童だったのだろう」というと、彼もまんざらでない顔をしていたが、やはり事実だったようだ。彼は地方の有名人だ。 私の周りにいるオマーン人は大体がこういうエリートであった。   

おのおのGSSCでよい成績をおさめて英米の大学に留学している。彼らは優秀である。しかしながら、私のみるところでは、概して計算によわい。足し算、引き算のうちはまだよいが、掛け算、割り算になると頼りない。百分率の計算になると、手伝わないと終わらない。

彼らは英語を話すのはうまい。ただ、書かせてみると、きちんとした英語を書ける者は少ない。スペリングや文法的なミスが目立つ。どうしても英語を書かねばならない時には「ミスター・エンドウ、Diligence のスペリングはどうだったけ?」、「Disciplineは?」などと聞いてくる。はじめは私もつきあっていたが、そのうち「若い者がそれじゃ駄目だ。自分で英語の辞書をひけ」といって、答えないことにした。それでも、「ミスター・エンドウは教えるためにきているんでしょう」などといって、自分で苦労をしようとしない。

中東の人たちは、「アバウト人間である」。緻密ではない。よくいわれる「中東IBM」、つまり、インシャラー(神の思し召しのままに)、ブックラ(明日)、マーレッシュ(気にするな)、とあいまって、時間、約束など規律にも厳密ではない。

昨今のGSSCで98・98%、98・58%の高得点者の実力は知るよしもないが、私のカウンターパートたちが、これに近い得点を上げた神童であったことは間違いない。彼等にしてこれである。

在任中の経験から、私は、低学年のうちに、「読み、書き、そろばん」をしっかりと教え、また「しつけ、規律」をきちんと仕込む日本の教育もまんざらではないと思った。そして、こうした日本の小学校教育をオマーンに持っていくのはどうかと考えている。少なくとも、「九九」とか「そろばん」だけでも面白いと思っている。

いまマスカットで、日本式教育をなんとか根付かせようとがんばっている日本女性がいる。その人はスアド・アル・ムダファさん。彼女がご主人のムダッファ氏と結婚してマスカットに住むようになったのは、1973年ときいている。オマーンの社会にもっとも入り込んでいる日本人だ。

いろいろの仕事をしながら、1990年に念願の私立学校を創立した。校名はアザン・ビン・ケイス校。最初は数名の生徒からはじめたが、評判をききつけて、いまでは生徒数も幼稚園から5年生までの130名にふくれあがっている。

私も、本人から詳細には聞いてはいないのだが、彼女はお嬢さん育ちで日本の女子大を卒業している。茶道、いけばな、バレエなどいろいろの稽古ごともさせられたようだ。オマーンに住んで、自分が受けた日本の教育をなんとか根付かせたいとの一心から学校を作ったのだという。スワドさんと連絡をとるのはたいへんだ。とにかく忙しい。よく運転手付きの車の中から、電話をいただいたものであった。ご健闘を祈りたい。

最後に名誉のために言うと、これは元神童のサレムのことではなく、一般的な話である。「読み、書き、そろばん」も申し分のないオマーン人のいることもつけ加えたい。

 

骨肉の争い‐コラム

それは、車が砂漠のなかに伸びるガタガタ道を砂煙を上げて走っている時であった。四輪駆動車を運転するオマーン人のA氏が、「ミスター、エンドー、オマーンでは、親子兄弟が殺し合いしても許されるケースが3つあったんだ。どういう場合かわかる?」という。

アラビア半島に長く関わってきた私も、こういう話は聞いたことがない。「どういう場合かな」と聞きかえして、A氏の説明を待った。

「第1は政権を取る場合、第2は宗教上の争いの場合、第3は何かわかる?」とA氏はいう。「う−ん」とうなると、A氏が「女性の取り合いをする時だ」といい、「こういうことは、そう、数十年前まで、オマーンでは実際に行なわれていたんだ」とつけくわえた。つまり、政権を取るため、宗教上の争い、女性の取り合いのためには、親子兄弟殺し合いをしてもよかったのだという。今でも、オマーン人の家にはみんな銃が備えつけられている。    

砂漠への道でこういう話を聞くといっそう真実味がある。その時は、「なんて野蛮だったのだろう」と思って聞いたが、よく考えて見るといろいろと教えられるものがある。

政権の話では、カブース国王は、1970年7月に宮廷無血革命で父君である前国王を追放して王位についている。だからといって、前国王を亡き者にしているわけではなく、それどころか、その後も大事に扱われているが、いちおうは政治上の追放を行なっている。

アラブの世界で政治の占めるウエートは大きい。砂漠の生活は危険がいっぱいである。水の欠乏、ラクダや羊の牧草の不足、一族内の不和、外敵の来襲などなど。これらを裁く上に立つ者が能なしであったなら、一族すべてが全滅する。政治権力の掌握は、一族の存亡をかけての真剣な争いなのである。殺し合うことがよいこととはいえないが、事の重要性から政権奪取のためには親子兄弟の殺し合いが容認されたのであろう。

この関連でいえば、アラブでは政権が2世にすんなり移るとは限らない。一族の中で最も優れた者が指導者につくのが伝統である。とくにオマーンの場合は、イスラムでも、宗教と政治上の指導者であるイマームを千年以上も前から選んできたイバーデイ派に属しており、2世が自動的に指導者になるという考え方はない。

中東では、宗教を信じない者は人間ではなく、犬・猫同然と見なされる。したがって、日本のように無宗教と言ってはばからないインテリなどは存在しえないのである。しかも、毎日の生活がイスラムの教えにのっとって営まれている。オマーンでは、現在は政治と宗教は分離されているが以前は祭政一致であった。こういう状態で宗教を変えることは、人としての否定、政治上の争いを意味する。親子兄弟の殺し合いもやむを得ないのであったのだろうか。

祭政一致どいうと、アラビアの国々は遅れていると思う人もいるかもしれないが、日本もほんの50年前まで祭政一致の国であった。それどころか、戦前、天皇は「現人神」でさえあったのだ。

女の取り合いのためには、親子で殺し合いをしてもよいというが、アラブでは血筋は大切に守られる。結婚も従兄弟同士が原則だ。これも血の純潔を守るためのものであろう。しかも後継者は出来がよくなくては政権につけないのだ。こうなれば、強い優秀な子孫を残すために、必死の女の取り合いも必要であったのだろうか。

以前私がアブダビに勤務していた頃、ロンドンの語学学校で知り合ったカタール人と結婚した日本女性が、2人の間にできた男の子とアブダビに住みついた。なぜアブダビなのかを聞いてみると、日本人との結婚で血が汚れたとして、親がカタールに入れてくれないとのことで、大いに憤慨したことがあった。その後許しが出てカタールに移ったようであるが、アラブの血の純潔の保持をいやと言うほど知らされたのであった。

 

砂漠のノクタ‐コラム

1992年5月のワヒバ砂漠の朝、朝食を取りながら、オマーン人たちが砂の上を笑いころげている。カウンターパートのスネーデイ部長が「夜明けに、われわれはミスターNの悲鳴で起こされてしまった。寝ていたところを遠藤夫人に暗がりの中で肩を叩かれたミスタ−Nが、夫人をラクダと間違えて、キャ−と大きな悲鳴を上げたんだ」と涙を流しながら笑っている。

話題の少ない砂漠では人が転んだだけでも、その話題で3日もつという。「どうして転んだのか」、「転んだ格好が面白い」「転んで怒った」などえんえんと話がつづく。

今回の話も単純なものだ。昨夜、この砂漠ツアーに参加した私と大使館勤務のN氏、妻と参事官夫人は星を仰ぎながら野外で寝ることとした。5月だというのに寝袋でも寒い。

時刻は朝4時ごろ。妻が「テントに戻った方がよいのではないか」と私にいいにきたのだが、暗がりのなかである。間違ってN氏の肩をつついてしまったというものである。その前の晩テントに寝た時、朝方テントの外で「キーキー」とラクダがなくのをきいた。それで、N氏が「ラクダだ」と思ったのは事実だが、悲鳴などはあげていない。

アラブではマジュリス(居間)でお茶やコーヒーを飲みながら、男たちが集まってその日にあったことを話し合う。その中からノクタと呼ばれる面白い話が無数につくられる。話題は政治、経済、女性などなんでも。アラブ人は、伝統的にジョーク作りがうまいのだ。

N氏が私の妻をラクダと間違えた話も、その後そのノクタの一つになってしまった。アリ局長の宣伝力もあり、人々が集まるとこの話が披露された。マスカットのみならず、局長の出身地のシャルキヤ地方にも広がった。その時に、オマ−ンの人々の間では、決して痩せてはいないワイフの体型、歩き方などすべてがラクダに結び付けられて語られたと思われる。その後N氏が悲鳴を上げただけではなく、そのラクダに乗ったというところまで話に尾ひれがついているのを知った。いまごろは、「そのラクダが子供を生んで」ということになっているかもしれない。

 

砂漠の良い話−山羊の落とし前

1993年9月中旬、日本人会砂漠探検ツアーで日本人15人と案内役のオマーン人同数の計約30人でワヒバ砂漠のベドウイ ンの家を訪ねた時のことであった。

われわれ一行が家に着いたとき、近所に不幸があり主人は不在であった。ところが、12、3歳の長男の見事な応対で、テントでの休息、周りの見学、はてはベドウイ ンの衣装をつけての写真撮影などが行われ、われわれは大満足。1時間あまり滞在して、次の目的地に向かうべくその家をあとにした。

砂丘の中をしばらく行くと、前方から1台の四輪駆動車がやってきた。さっきの家の主人らしい。その車が止まり、我々の車列も停車。やがて大声が聞こえてきた。当方の長老たちも加わって言い合いをしている。「なんだろう。揉めている。相手の接待に対してのこちら側の謝礼が少なすぎると云ったようなことかな」などと考えていると、別の車に乗っていたスネーデイ局長が私の車に報告のためやってきてくれた。「あれはわれわれが訪ねた家の主人、ようやく話合いがついた」という。

聞いて見ると、「もうすぐ昼時。わが家で昼食を差し上げたい。昼食も出さずに、みなさんを帰す訳には行かない。もう一度わが家に戻って貰いたい」というのが、主人の言い分。わが方は、「好意は有り難いが、これから行く所もあり時間がない。悪しからず」と説明したが、先方はどうしても承知しない。それで言い合いになった由。

先方が「どうしても時間がないなら、代わりに、山羊を1頭を持ち帰っていただきたい」という申し状。こちら側も「そこまでおっしゃるなら、いただきます」ということで、話し合いがついたという。「これから車が1台彼の家まで戻るので、少しこのまま待つていて下さい」との局長の説明。

ベドウイ ンのホスピタリテイ について話には聞いていたが、このような事に出食わしたのは私も初めて。砂漠の民の歓待ぶりの真髄を知らされる。もめていた時に、わが方の謝礼が少なかったのではないかと考えていた自分が恥ずかしくなる。日本人なら、「一応、昼食に誘ったが、相手は時間がないということで儲かった。あれだけ大勢に昼食を御馳走するとなると大変な出費だった」と考えるのではないかとその心のさもしさ、貧しさも恥ずかしい。

その山羊の値段は、200リアル(約5万円)はするだろうとのこと。5万円といえば、ベドウイ ンにとっては大変な金額だ。ちなみに、オマーンでは大学卒の官庁の初任給が1カ月500リアルである。

昔日本でも、鉢の木の話があった。旅人が訪ねて来たが、暖をとる薪もない。そこで主人が天塩にかけて育ててきた盆栽の木を断ち割って客に供したとの話である。この心は、今でもオマーンの砂漠に生きている。