アラブ回春法
―コラム私が中東の土を最初に踏んだのは1973年3月、テヘランに長期出張をした時である。1974年、75年とベイルートをベースに、石油を求めて湾岸諸国を走り回った時も、仕事以外でアラビアの人たちと個人的につきあうことは少なかった。個人的に深くつきあい始めたのは、その後アブダビ、マスカットなどに住むようになってからである。
アブダビではリワ砂漠のベドウイ ンのシェイク、政府高官、大金持ちの商人たちは一生忘れ得ぬ友達である。砂漠のテントで、時には彼らの別荘で、あるいはわが家で男達が集まると、いつもでるのは夜の話であった。
そこで、アラブの連中は「デ−ツとラクダのミルクがあるから俺は強い」と自慢をする。人によっては、シャ−クス・フインとか鰯があるから、とつけくわえる。ある時、大金持ちの商人がシャ−クス・フインがよく効くといい、甥がよく効くのは鰯の方だといいはって、二人の間に険悪な空気が流れたこともあった。
このことは、オマーンでも同じであり、金持ちの大家や息子たち、砂漠のベドウイ ンたちからも、「何が効くのか」をとくと拝聴した。オマーンの場合は、アブダビなどとは違って、ラクダのミルクのかわりにハチミツが入ってくる。
私流に言えば、中東では山は貯水池。山があればそこに雨が降り、山がその水を貯えるのだ。他の湾岸諸国とちがって、オマーンは山国でもある。したがって、山間には、緑したたるデ−ツやバナナ林が点在し、バラも咲く。だから、昔から養蜂が行われ、ハチミツは親しみぶかい食べ物なのである。バハラの友人宅を訪ねた時に、出されたのがバナナとハチミツ。バナナにハチミツをつけて食べる贅沢さに驚かされたことがあった。
アラブの男たちが何故こういうものにこだわるのかについて、私は子孫を残す、しかもつよい子孫を残す観点からだろうと思う。さらに、男たちの価値観の一つは強さ。強さには金、地位、腕力など、夜の強さも当然入る。夜、奥さんを満足させられないのは男の恥だ。そのため、男は夜に強くなる食べ物に真剣になる。快楽に重点がおかれている現代文明の中で、不倫のためにまむしドリンクなどを飲んでいる淋しい連中とは違うのである。
オマーン在住中、私は日本の招待先から、招待を予定していたオマーンのあるVIPの経歴調べに協力を求められたことがあった。訪日時には奥さんも同伴するとのこと。
調べてみると、本人は55才で奥さんは25才だ。前からよく知っている彼の息子は、たしか32歳のはず。さすれば、彼女は何番目かの奥さんであるということになる。それにしても55歳で25歳の奥さんとは、うらやましいかぎりであった。
このVIPの従兄弟で知人のM氏は、彼と同い年の55才である。長男はスルタン・カブ−ス大学の医学部の学生なのに、下の男の子はまだ1才だという。下の子供は、当然何人目かの若い奥さんとの間に生まれた子供なのだ。
これらを見聞きして、私ははたと確信した。いままでアラブの人達からデ−ツラクダのミルク、フカヒレ、ハニーなどが効くなどと聞いて来たが、もっともっと強くなる方法があったのだ。それは、年をとればとるほど若い女性を娶ることであった。
そういえば、前にアブダビの奥地のリワ砂漠のベドウインのシェイクも奥さんは3人だったが、1番のお気に入りはエジプトから連れて来た18歳の第3夫人。私と妻が彼の所に泊まった時も、夜中に2人でわれわれの部屋を訪れておしゃべりを楽しんだことがあった。妻に言わせると、「自慢したかったのね」とのことだが、彼も当時すでに七○才は超えていたはずだ。若いエジプト美人とのベッドが元気の源であったのだろう。
このほかにも、アラブで3人目とか4人目の奥さんに十代の女性を娶る有力者の例を、いくつもみてきた。「ヒヒ爺さんにあんな若い女性、いや年端もいかない子供、あれではまるで人身御供ではないか、かわいそうに」と思っていた。それはあの人達の若返り法であったのだ。
147歳であの世にいった、かのオマーン男性も若い女性と接してあそこまでもったのかもしれない。
三種の神器
うれしいことに、アラビア半島もようやく日本の旅行業界に認知され、昨年有名出版社からこの地域のガイド・ブックが発行された。その中のオマーン編で、土産品も紹介されている。曰く、ハンジャル(オマーン男性が腰に帯びる短剣)、マサル(男性が被るターバン)やコンマ(男性が被る略帽)、コーヒーポットや銀製品、香炉、乳香や香水類。世界一高いといわれる香水「アムア−ジュ」。変わっているのは、コホルと呼ばれる化粧墨を入れる容器や小さなコ−ラン・ケース。それに、デ−ツも挙げてある。プロの旅行社だけに、さすがによく調べてある。
しかし、私がオマーンでしか買えないというお土産品についての言及はない。エヘン!それらについては、本文でも紹介したが、ここで少し補足をしておこう。
第1は、私がいう三種の神器である。今から2千年前、キリストがベツレヘムの馬小屋で誕生した時、東方からお祝いに行った3博士が持参した品物が、黄金、没薬、乳香である。このことは、聖書にも載っている。
オマーンに約1名利口者がいて、インドに特注して作らせた箱に、この3つを詰め合わせて売出し、クリスマス時期には、ヨーロッパにはかなり輸出している。これが商売上手で絶対に値引きをしない。この詰め合わせを買えるのは、マトラにある彼の本店とクルム支店だけ。彼の強気も仕方ないかもしれない。
乳香はお香。没薬も同じようなものだが、昔はミイラ製造時の防腐剤にも使われた。前者はオマーンのサラーラ地方、没薬はイエメンで採れる。往時、乳香は神のもの、さらに神そのものと考えられ、天や神を祀る際には最上不可欠とされた。匂いはカトリックの教会の匂いと思ったらよい。キリスト教信者の人々には貴重なものである。
オマーンでしか買えない贈り物の第2は、本文のとおりマサルである。これは、オマーン男性の正装時の被り物。一枚の布だが、オマーン人はこれを器用に格好よく畳んで、頭にタ−バンのように被る。生地はベースはカシミア、それにウールを混ぜたのが大半で、色は赤、青、緑、黒等様々、それに美しい手刺繍を施してある。ただ、残念なことに、これらがオマーン産ではなく、作っているのはすべてカシミールである。しかし、これはオマーンにしか売っていない。
私が勧める理由は、これが女性のスカ−フとして好適だからである。私も親戚や友人用に随分たくさん買った。会社で偉くなった友人たちにも「今日ここまでになったのは誰のお陰でもない、奥さんの内助の功あればである。したがって、昇格のお祝いは奥さんにさせて貰う」というメッセージ付きで贈った。
その中の奥様の一人から「先日、主人の仕事についてパリに行ってきましたが、パリの街であのスカーフをしていましたら、何人かの見知らぬ人からほめられました」とのお便りをいただいた時には、セリ−ヌやエルメスなどで名高いスカーフの本場で注目されるとはとさすがに嬉しくなった。値段はピンからキリまであるが、お土産品としては、なかなか面白いのではないかと思う。
贈り物の第3は旅行誌にも載っている香水のアムア−ジュである。厳密に言えば、ヒ−スロ−やシャ−ル・ド・ゴ−ル空港、またドバイ空港の免税店などで買えるので、オマーンでしか買えないというのは正確ではないが、この世界一高い香水はオマーンで作られているので第3にあげた次第である。
男性用と女性用があるが、とにかく高い。高いものは、一瓶30万円もする。といっても、理由はその容器が金や貴石(オニックス、ラピスラズリなど)で出来ているからだが、中身そのものも手が混んでいる。高級の香水でも通常その成分は4、50種類のようだが、このアムア−ジュは約120種類の成分を混ぜ合わしているという。勿論、その中にはオマーン特産の乳香や没薬も混入されている。フランスの有名な調香師に依頼して何年掛りで完成させて、今マスカット空港脇の工場で生産しているものだ。
ついでに、旅行社のショッピング・ガイドに追加をさせてもらえば、次のとおり。
ベドウイ
ンがラクダの鞍用に織っているじゅうたんは趣があって面白い。中東は金・銀の本場、オマーンでも各種の金・銀細工のショッピングが楽しめる。また、中東は香料の本場でもある。各種の香料が割安。とくに、日本では高いサフランはお買い得品。骨董品では、ハンジャル、コーヒー・ポット、ブレスレットやアンクレットなどの女性用装身具など。これら装身具を額に飾ったものもお勧め品である。また、真鍮の鋲の沢山ついているオマーン独特の木箱(長持ち)も興味深い。このスタイルの長持ちは、この近辺では、古い歴史を誇るバハレ−ンとオマーンにしかない。
オマ−ンはまだ土器の時代である。日本が陶磁器の時代に入ったのは、豊臣秀吉が朝鮮征伐に出かけて行って、陶工を日本に連れて来てからのことで、それまでは、日本も土器の時代であった。旅行社がすすめる土器の香炉などは趣があって面白い。また、オマーンの砂漠の五色の砂を使った置き物も、砂の形の変化を楽しめて面白い。
女性向けのお土産品には、金や銀で縁取りしたショ−ル、オマーン女性が履くカラフルなズボン。オマーンの子供服も面白いかもしれない。一番女性にとって楽しいのは高級生地が安いので、時間があればそれを買って、オマーン滞在中に服を仕立ててもらうことであろう。
食べ物はデ−ツやハルワ(ういろうに似たオマーン独自の菓子)などか。
まず挨拶ありき
日本のアラビア語の教科書は、挨拶は「アッサラ−ム
アレイクム(御身に平安あれ)」、(返事)「ワ アレイクムッサラ−ム(御身にこそ平安あれ)」と教えている。オマーンでは、「シェ
アハバル?(今日は何かニュースがありますか)、シェ エル−ム?(今日は何か科学的な知識がありますか)」、「マ−シェ(ありません)、ミンソ−コム(あなたの方は?」、「マ−シェ(ありません)」と挨拶を交わすのが通常である。勤務先のオマーン商工省工業局に事業相談のためにやって来たオマーン人たちに、私が、「シェ
アハバル?シェ エル−ム?」と尋ねると、大抵の訪問客は「オオ!」と驚きの声を上げて「マ−シェ。ミンソ−コム?」と尋ね返す。私が型通り「マ−シェ」と答えようものなら、「おお、貴方はアラビア語がわかる!」と感心し、その相好はすっかりなごむ。日本語の教科書で「こんにちは」を挨拶の言葉として教えていても、大阪で、「儲かりまっか」と尋ねる方が親しみがわくというようなものなのだろう。この挨拶はもともとベドウイ
ンの間で行なわれていたという。オマーンの国土は日本の4分の3程の広さであるが、砂漠・土漠が85%、山岳部が12%、平野部が3%である。砂漠に野営をしているベドウイ ンの人びと、また峨峨たる山に囲まれた山村にひっそりと生活しているオマーン人たち、そこに旅人が訪れる。その時に、外部から隔絶されて孤立して生活していた人々が一番欲しかったのが、外部の情報や科学的な知識であったのだろう。オマーンでは、挨拶の仕方がまた礼儀正しい。20人程の人が集まっているとする。そこを訪れた人は、「シェ
アハバル?シェ エル−ム?」と云って、その場に居合わせた全員と一人ずつ握手を交わしながら挨拶にまわる。しかも、その挨拶は必ず年上の人からはじめるのだ。その時に、全ての人は一旦は「マ−シェ(ありません)」と答える。仮に話すべき情報があっても、全員が一旦は「マ−シェ」と答えなければならないのである。
年かさの人々が「マ−シェ」と答えているのに、若輩が「今日はこんな面白いことがあった。」などと出しゃばって話し始めてはいけない。どんなに面白いことがあっても、全員が「マ−シェ」とひとわたり否定するのだ。その後で「実は今日こんなことがあった」と年配の人が話してからか、あるいは年配の人から「あのことをみんなに話してやれ」と声がかかってからでなければ、若輩者は口を聞いてはいけないのである。オマーンでは、「出しゃばらない」ことが美徳の一つである。
オマーンの人々はこの慎み深い慣習をきちんと守っている。日本では昨今すっかり薄れてしまった「長幼の序」、「慎み深さ」が、ここではいまも生き続けているのだ。
オマーンでまた感心するのは、みんなが気持ち良く挨拶を交わすということである。部屋に入る人は、部屋にいる人たち全員に一人ずつ必ず挨拶をする。これはオフイ
スだけに留まらない。個人の家を訪ねた時でも、砂漠でベドウイ ンたちを訪ねる時でも同じことである。しかも大人だけではなく、子供も全員に挨拶するようにきちんと躾られている。その挨拶をするオマーン人が素直で明るく、みんな表情に屈託がない。かってサラリ−マンをしていた頃、気に入らないことがあると、上役にろくろく挨拶をしないこともあった私などは大いに反省させられる。
オマーンでは挨拶のルールもちゃんとある。「立っている人が座っている人に、歩いている人が立っている人に、乗り物に乗っている人が歩いている人に挨拶をする」というル−ルである。例えば、他人の家を訪ねる。先客たちがすでに床に座っている、その人たちに入ったばかりの立っている人は必ず挨拶をしなければならない。
夕暮れ時オマーンの村外れ、戸口に立っている人がいる。そこを徒歩で通り過ぎる人は、戸口に立っている人に必ず挨拶をしなければならない。村の中で、道を歩いている人がいる。そこをロバやラクダに乗って通り過ぎる人は、歩いている人に必ず挨拶をしなければならないのだ。しかも、老若、また上下は問わない。「俺は村長、彼は村民、俺の方から挨拶することはあるまい」、そんなことはオマーンでは通用しない。
私の勤める商工省でも、例えばオマーン人スタッフが机に向かって仕事をしている、たまたま廊下を大臣が通りすぎたとする。その時挨拶をすべきは、オマーンのルールでは大臣の方なのである。「立っている人は座っている人に挨拶をしなければならない」のである。
もし、大臣が挨拶をしなかった時には、スタッフは挨拶をする必要がない、無視をしてよい。その上に、大臣には「あの人は礼儀を知らない人だ」との汚名がつく。日本のごますりサラリ−マン連中が目を回すような習慣なのだ。
オマーンではまず挨拶ありきで、挨拶は人としての最も基礎的な、最も重要なマナーなのである。中東では宗教のない人は人とはみなされず、犬・猫扱いというのは知っていたが、私は、オマーンでは挨拶出来ない人も人とはみなされず、犬・猫として扱われることを知った。大人と子供の別なく、分け隔てなく、誰よりも早く、しかも慎み深く行う、そのマナーがここではきちんと守られている。
「気に入らないことがあったり、虫の居所が悪ければ挨拶をしない」、「上の人には180度態度を変えてゴマをする」そんなことはオマーンにはない。
写真屋ハミ−ス
私が最初にハミースを見たのは、アブダビからの友人夫妻組をマスカットから百キロほど西にあるナハル城に案内した1992年10月のことであった。
ナハルの町の高台にある城の門の潜り戸を身をかがめて入り、石の階段を10段ほど昇ると昔の兵士の詰め所に出る。その中を通りすぎると、城壁に囲まれた広い中庭に出る。ここから見上げる空はいつ見てもどこまでもつづく青い空、その空の青に城壁の黄色がよく映える。
左手数十メートル先の高台の見張り塔の上には、オマーン国旗がへんぽんと翻っている。円形の見張り塔の中は直径6、7メートル、天井の高さは3メートル程で壁に無造作に打ちつけてある木杭に足をかけて登れば、屋上に出られる。この木杭がぐらぐらなので、昇るには少しばかり勇気がいる。一般の人はまず登らない。
この塔の窓から見下ろすデ−ツ林の素晴らしい眺望を友人たちに楽しんでもらい、カメラのシャッターを押していると、6、7人のオマーンの若者たちがどやどやと入って来た。「サラマレ−コム」「シェ・アハバル?シェ・エル−ム?」と挨拶をすると、「コンニチハ」「私はフ−テイです」などと日本語で挨拶が返ってきた。聞いて見ると、彼等は1992年の「世界青年の船」に参加したオマーンの若者たち。今日は同じくこれに参加したアブダビの友達を案内しているとのことであった。こちらにもアブダビからやって来た日本人がいるので、すっかり意気投合。
若者達はデシュダーシャ姿だが、その中に1人だけ派手なポロシャツに真っ赤な半ズボンをはいた男がするすると屋上に登る。カメラを2台頸からぶらさげて、上でなにやら大声を上げている。「何国人だろう。髭を生やしているから、アラブ人には間違いないが、エジプトではなさそうだ。もっと陽気だ。レバノンにしては垢抜けて居ないし、シリア人ぐらいかな。それにしても身が軽い。あれじゃまるで猿だ」。これが私と写真家ハミースの最初の出会いであった。
城の見学の後、裏手のアソハラ村の渓流で1行とまた1緒になったことで、リーダー格のフーテイ氏からナハル近くの彼の別荘での昼食パーテイ
ーに招待された。そのあと彼の広大な別荘の庭で、警察勤務の兄さんたちも加わり、日本人5名とアラブの人達10数人の総勢約20名程で山羊の丸焼き料理を賞味。そして、その後はアラブの音楽と踊り、ハミースが撮影した大量の「青年の船」のスライドを堪能したのであった。この縁で、その後若者たちがわが家によく出入りするようになったが、その中で、1番つき合ったのが、写真屋ハミースであった。
彼は、スルタン・カブース大学の職員であるが、副業に写真屋の店を出していて、夕方はそこに出てくる。その店にはハミースが撮ったオマーンの風景や人々の写真やスライドが置いてある。24才のスリランカの可愛い子チャンの助手がいるせいもあって、私は日本からの客を連れてその店をよく訪ねた。居ながらにして、オマーン各地の風景を見てもらうのに1番よい方法であったのだ。
また、わが家に日本から客が来たり、人が集まる時には、ハミースに声をかけた。彼はいつも喜んで来てくれた。毎週のようにオマーン各地を駆け回っている彼愛用の四輪駆動車に、撮影の仕掛けや何巻ものスライドを1杯載せてやってくる。スライドの準備が出来ると、彼はまず持参した日本の琴のテープをBGMとして流す。「1回目は静かに音楽を聞きながら、スライドを鑑賞するように。2回目は自分が説明をする。それを聞きながら見るように」と言い、そこで大きな声で「ワーカッタ?」と叫んで念を押す。その「ワーカッタ?」のアクセントでみんな大笑いである。
音楽を流している時に、隣の人と喋ろうものなら、「シー」とハミースの注意が飛ぶ。そんな折りに食べ物などを勧めると、「オナッカ、イパイ」と、変なアクセントの日本語が返ってきて、またも全員大爆笑であった。
彼はよく電話をしては、わが家に来た。その時はたいがい日本の若い女性連れ。1992年、オマーンからの代表20人に選ばれた彼は「世界青年の船」に乗り込み初めて日本を訪れた。船中で日本の若者達と寝食を共にし、和歌山のホスト・ファミリーの家で日本の生活を体験して、彼はすっかり日本大好き人間になってしまった。とくに涙を流しながら別れた日本女性のことは忘れがたく、このグループで文通を続け、オマーンに招待し続けているのである。そういう女性がオマーンに来ると、ハミースは必ずわが家に連れてきた。
また、個展や映写会があると、必ず電話がかかった。「ミスタ−、エンド?コバンワ ゲンキ−?」、その案内のあった後で、例の「ワ−カッタ?」との念押しである。ある時彼の個展で、妻と日本から来た妻の友人たちと写真を見ているとオマーン人カメラマンがバチバチと写真を撮った。その写真が新聞に大きく載り、次の展覧会ではそれをチャッカリ壁に張りつけてある。日本人も見にきていることを、宣伝に使ったのだろうが、こちらは会場でなんとなく面映ゆい思いであった。
彼は1964年生まれの今年31才、すでに3児の父である。彼が写真と出合ったのは、彼が高校生の時だという。オマーンでは高校生になると軍事教練がある。その時に成績優秀のご褒美に貰ったのが、カメラ。それがきっかけで彼は写真にのめり込み、その後各種の展覧会で優勝してオマーンで知られる写真家として活躍するまでになった。
1994年5月には、日本の神戸でも彼の個展が開かれ、同11月にに日本の皇太子殿下、雅子妃殿下がオマーンを訪問された時には、彼が撮った「世界青年の船」写真展が開かれて、ハミ−スがじかにお2人を案内する栄に浴している。彼は、いまやオマーンの大写真家なのである。「ワ−カッタ?」
人の死
私は1977年から79九年までアブダビ国営石油会社との合弁石油会社で事務部長として働いたが、事務全般のほかに、事務所の開設、アラビア語での株券の発行、株主会議の秘書役など、日本では経験のできない仕事をさせてもらった。中でも就業規則の制定には苦労したが、アラブと日本の違いを知る上では大変に興味深いものがあった。
国際社会の中では、共通の規則を定めても異質な日本人だけがはみだしてしまう。この合弁会社に単身用のメス(食堂)を設けるかどうかという時にも、日本人がはみだした。
当初100人足らずの社員の内の約30人が日本人、このうち家族帯同者は私を含めて7人ほどで、あとは単身赴任者であった。したがって、この人たちのために単身寮を設けてメスを作る必要があった。ところが、合弁相手のアブダビ側がこれは認められない、単身者には2ベッド・ルームのフラットの支給で十分だという。外国人従業員の大半は家族を帯同して来ており、かりに単身でも外でアラブの飲食店で食事ができる。日本人はそうはいかない。
調べてみると、同じ時期にできた同じアブダビの国営石油会社とフランスとの合弁会社の場合、従業員約4百人中、単身赴任は8人のみで、なるほどこれではメスが要らない。こちらの約30人中、家族帯同は7、8人、あとは単身赴任者というのは国際社会では例外であったのだ。
その後、単身赴任者に賄いを付けても家族帯同者を受け入れるより経費が安くつく、アブダビの他の石油会社でメスを持っているところがあることなどを並べたてて、なんとかメスの設置を了承してもらった。だが、親会社であるアブダビ国営会社を説得するのはたいへんであった。
休暇の運用も楽ではなかった。まだ、そのころは仕事万能の風潮。休暇のスケジュールが全然立たないのである。なかには、「俺は仕事で休暇がとれない」などというのはいつも日本人。
私はアラブ駐在のための5ケ条を勝手に制定しているが、その第4条は「休暇と昼寝は仕事と心得るべし」もこういう体験から生まれたものであった。
「中東の暑さを侮ってはいけない。暑さは、ボクシングのボデイ
ーブローのように体にじわじわと効いてくる。このダメージを避けるための生活の知恵が休暇と昼寝。中東駐在員には、日本を出た時と同じ健康状態で日本に帰国してほしい」という趣旨であるが、日本人従業員の仕事一途の態度も頭においたものであった。このように異質で共通規則からはみだす日本人対策のためには、「所長が認めた場合はこの限りではない」と例外規定を設けて逃げることが多かった。
忌引き休暇も然りであった。日本人は、信じているかどうかは別として一応仏教徒、初7日までは休暇が必要である。従って、海外勤務者には、通常は2週間の忌引休暇が与えられる。
これが、アラブ人の場合は3日間で十分なのである。アラブでは、人が死んでも3日以上は悲しんではいけないのだ。弔問もこの3日間だけ。就業規則を1本化しようにもできかねる。かくして、日本人をGM権限による例外規定で逃げる以外になかったのだ。
アラブでは人が死んだ場合、モスクで体を清め白い布で体をくるみ、すぐに地中に埋葬する。土葬である。あとは自宅で3日間、弔問を受けるだけである。魂は肉体を離れて神の下に行くが、肉体は物体として扱われる。日本のように、遺体へは固執しない。
お悔やみの言葉も、「人はみんな死ぬ、死なないのは神のみ。この度はご愁傷さまでした。お悔やみを申しあげます」というように、あっさりしたものである。簡単といえば、アラブ人の墓である。王様でも普通の人でも、誰が死んでも埋めた場所に、石を置くだけである。イスラムでは、人はみな平等である。オマーンでは、男性は頭と足の先の2カ所に、女性はもう1カ所、体の中心部の計3カ所に石をおく。これが何を意味するのかはしらないが、ごく簡単である。
日本のように、金のあるなし、地位によって大きな墓を建てるようなことはない。死者の魂は神の下に行き、これを裁くのは神だけなのである。3日間の弔問ですべて終わり。七回忌、13回忌、17回忌、・・・、50回忌等との仏事を行なうことも、花を持って、彼岸や命日に何年間も墓参りにいくようなこともない。
マスカットには見る所がたくさんあるが、私は「アラブのお墓が見たい?」といって、ご希望の客はよくマトラの墓場に連れて行った。石だけが散在している殺風景な墓場を見て、日本の墓との違いに大概の日本人は驚いた。マスカットからニズワに行く途中、ニズワから今はミネラル・ウオ−タ−の工場がある所として名高いタヌ−フに行く途中などの土漠に小石が無数に散在しているところがある。それらも墓場の風景である。
替え歌シリーズ
日本が石油危機に揺れた1970年代の中東駐在員は、にわかに脚光を浴びた。以来、私は「花の係長」ならぬ「花の中東駐在員」の頭文字をとり、中東駐在員を勝手に「ハナチューチューと呼んでいる。ハナチューチューの利点は、時間があることと手当がまずまずであることであろう。
石油会社の場合、中東では、勤務時間は朝7時から昼2時まで、それ以外の会社でも冬場は午前、午後の2交替制だが、夏は一交替となり同じく午後2時頃で仕事は終わりである。その上に、1年の内に1カ月とか2カ月の休暇がある。日本でサラリーマン生活をしていれば、これだけの休みはもらえない。
オマーンでも事情は同じである。週末の休みには、オマーンならではのマリーン・スポーツや四輪駆動車を駆っての山岳部へのドライブが楽しめるが、週日のアフター5ならぬアフター2の時間を、オマーン駐在員はいろいろいろに過ごしている。テニス、ゴルフ、水泳、ソフト・ボールなど。
夜は読書、テレビもあるが、時にはマージャン、それにカラオケとなる。カラオケは歓送迎会、食事会、遠出の後などに機械のある家で開かれたが、私が歌うのはいつも決まった曲、しかも古い歌ばかりでは面白くないので日本から教習テプをとり寄せたりして歌唱力アップにも随分と勤しんだ。
この精進のおかげで、その後カラオケの席でなんとかみなさんの不興を買わずにすんだが、さらに集まりを盛り上げるべく、そのうちに替え歌作りに挑戦してみた。何曲かは、オマーンでも披露したが、みなさんからあまり拍手をいただけなかった。多分独りよがりで、気持ち良かったのは歌っていた本人だけということだったのかもしれない。それにも懲りずに、何曲かをご披露させていただくことにする。
まずは、中東全般編から。
中東流れ旅ー「風雪流れ旅」より破れカバンに書類を詰めて
越えてきたのかヒマラヤを
男40短い体
気力1杯みなぎらせアイヤーアイヤー
アワズ
アバダン テヘラン
飛行機飛ばねばダウ船探せ
ダウがなければ陸走れ
石油求めて西東
弾丸飛ぶ下かいくぐりアイヤーアイヤー
リアド
バグダッド ベイルート(ダウ船はアラビア独特の帆船)
DD交渉気付かれぬよう
抜けて来たのか世間の目
油田の炎で真っ赤に映える
翼の色が懐かしい
アイヤーアイヤー
アブダビ
クウエ ート マスカット
ハムラの女ー「カスバの女」より
酒乱じゃないのよ
今夜の私すべて忘れて
酔いたいだけさここはレバノン
ベイルートどうせハムラの夜に咲く
酒場の女のせつなさよ
知っているでしょ
私の素姓アテーネ
アブダビ ベイルートそうよ石油の荒くれの
腕に抱かれるイギリス人
いまさらかえらぬ
身の上よ
抱いて下さい今夜の私
燃やして見たいの
一夜の火花明日はサウジかアブダビか
またも油田に帰るのね
井戸ほり男の
厚い胸
次は、オマーン編
オレンジライト・マスカット
ー「ブルーライト
ヨコハマ」より街の明かりが
とてもきれいねマスカット
オレンジライト・マスカットあなたと2人
幸せよ
いつものとおり
建国記念日マスカット
オレンジライト・マスカット道路も家並みも
飾られて
走っても走っても
陛下の写真
2人はいつもいつも
あなたの庇護の下(くりかえし)
点滅している
ホテルの灯みたいマスカット
オレンジライト・マスカットやさしいくちずけ
もういちど(くりかえし)
あなたの好きな
パチンコ屋のよにマスカット
オレンジライト・マスカット光がぐるぐる
まわります
マスカットは今日も晴れだった
ー「長崎は今日も雨だった」より
技術移転に
賭けた日々満点の成果を
信じたの教え教え続けて
ひとりひとり悩めど
所詮破れぬ
国の壁ああ
マスカットは今日も晴れだった
夜のクルムの商店街
マーフイ・ムシケラ
ノー・プロブレム(「問題ない」の意)
信じ信じれるのは
どこにどこにいるのか
教えて欲しい
街の灯よああ
マスカットは今日も晴れだった
頬にこぼれる
涙の雨に車を自棄に
走らせば前に前に急に
オマーン
オマーン女性の赤い車が
入り込むああ
マスカットは今日も晴れだった