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ようこそ皇太子殿下ー日本への親近感週5日制で出産急増
・11月1日(火)
朝一番に、カウンターパートのマラックがワヒダが女児を出産したことを、伝えに部屋に来てくれる。
昨日の朝ワヒダからの私への電話では、「少しお腹が痛むので医者に行く」ということであったが、そのまま入院して出産したらしい。予定日は11月の中旬だったので、ずいぶんと早い。子供はそのせいか小さめだが、母子とも元気とのこと。何よりだ。
先月末には、アハメッド・ナッサーに昨年の長女に次いで長男が、6月にはアハメッド・スルタンに初めて長女が誕生した。10月中旬には現在観光局に出向中のサレムに3男が生まれるなど、周りで続々と子供が誕生している。
オマーンの人口増加率は3・5パーセントといわれているが、周りを見ていると、そんなものにとどまらないような気もする。
役所のスタッフはマスカットだけからではなく、かなりの人が地方から来ている。彼らはウイ
ーク・デーはマスカットに下宿して、週末に家族のいる地方に帰る。役所が民間と違って、木・金曜休みの週5日制となっているのは、この人たちから「休みが1日だけでは、疲れに家に帰るようなものだ」と苦情が出たからであると聞く。ところが、これには思わぬ副産物があった。出生率の大幅増加である。週5日制で奥様と愛しあう回数が増えたらしい。いずれにしても、続々と子供が誕生しているのである。
ワヒダは明日にも退院の予定とか。日本と違って、1日だけの入院のようだ。
・2日(水)
外務次官のハイサム殿下が大臣待遇に昇進し、外務省総括の職に就くことが、新聞に載る。外務大臣はカブース国王が兼任しているが、他にアラウイ外務担当大臣がいて対外折衝をこなしている。ハイサム殿下は、省内を統括するのだろうか。
同殿下はカブース国王の叔父で、1980年代に首相を勤められたターリック殿下の息子。当年39歳。優秀な方と評判で、次世代を担う候補の1人として期待されていると聞く。
ジュニア・サッカーは日本に惜敗
・3日(木)
「オマーンの英雄たちが凱旋」との見出しでオマーンのジュニア・サッカーチームがカタールから帰還したことを、新聞は伝えている。先月からカタールで開かれていた予選で、オマーンがバハレーンを3対2の接戦で下してアジア第3位となり、来年、エクアドルで行なわれる16歳以下の世界選手権大会への出場を決めた。
「これはオマーンにとって、世界レベルの大会への初めての参加となる」とのこと。なにはともあれ、本当によかった、と思う。
あれは、先月29日朝の出勤時の車のなか、私の送迎車に同乗しているムサンダム出身のサレムから「明日は日本とオマーンのサッカーの試合がある。勝った方が世界選手権に出場できる。貴方はどっちが勝つと思うか」と尋ねられる。
それで、カタールのドーハで各予選を勝ち抜いた日本、カタール、オマーン、バハレーンの4カ国が、来年8月エクアドルで行なわれる世界ジュニア選手権への出場権をかけて決勝トーナメントを戦っていることを知った。
予選が始まったのは10月中旬。出場国はサウジアラビア、UAE、イラク、ウズベキスタン、中国、韓国、バハレーン、オマーン、カタール、日本の10カ国で、5カ国ずつのA、Bグループに分かれて戦った。そして各上位2チーム計4チームが3つの椅子を争っている。
30日のオマーン対日本の準決勝戦、勝った方の世界選手権が決まる当日のこと、オマーン商工会議所で開かれた、日本の大学の先生たちによる日本経営セミナーのレセプションで、オマーン・フットボール協会副会長を務める工業団地公社のイスマイリー総裁から、「ミスター・エンドウ、今日はオマーンに勝たせてね」と話しかけられた。「いやいや、当然オマーンが勝つでしょう。日本は弱いから」と答えておいた。
だが、試合の方は、終了前8分まで3対1で劣勢だった日本が同点に追いつき、延長戦で4対3と逆転勝ちしたのでオマーン人は大ショック。それでオマーン対バハレーン戦ではなんとかオマーンに勝ってもらい、日本と仲良く来年エクアドルに行ってほしい、というのが切なる願いであった。
1日の試合ではオマーンが例によって3対0と先行、試合終了2分前にバハレーンに2点目を入れられて、対日本戦の悪夢の再現かと気をもんだが、何とか守り切った。オマーン中が沸きかえった勝利だ。心から「おめでとう」を言いたい。
なお、日本は決勝でカタールを1対0で下してチャンピオンとなった。日本代表の方はこのところ中東に負けつづけだっただけに、これもまた快挙である。
新聞にイスマイリー副会長の談話が載っている。「オマーンがいつかは世界大会に行けるとは思っていたが、願っていたよりは早く実現できた。大変なことだ。それにしても日本戦はついていなかった」。土曜日に彼氏に電話を入れて、お祝いと慰めを言っておくことにしよう。
今日は日本では文化の日。文化勲章の叙勲も行われている。これにあやかったわけではないが、夜に妻とアル・ブスタン・パレスホテルのオーデトリアムにイギリス人ピアニスト、ジャック・ギボンズ氏によるガーシュイン曲の演奏会を聞きにいく。
私にとって、音楽会はそう興味のある場所ではないが、楽しみの少ない異国に住む妻のお供ではいたしかたない。妻には内緒だが、音楽会では演奏中音楽に聞き入るより、ほとんど他のことを考えていて疲れてしまう。
今月24日のここでの王立交響楽団の演奏会には国王も見えるとのことで、私たいは切符をすでに予約ずみ。今度は途中で、他のことは考えずに、国王と一緒に演奏を楽しむように心がけよう。
両殿下おそろいでのご訪問
・8日(火)
「ナルヒト、明日到着」という見出しで、皇太子殿下、同妃殿下のオマーンご訪問の記事が、6日のサウジアラビア到着時の写真入り記事と一緒に載る。昨日の新聞にも、皇太子殿下の写真入りで、サウジ訪問関係記事が載っていた。いよいよ皇太子殿下・妃殿下のオマーンご訪問である。
何年越しかで実現した、しかも両殿下おそろいでのご訪問とあって、日本大使館では準備の総仕上げに余念がない。
私たちJICA専門家も何人か手伝うこととなり、先月下旬から大使館での打ち合わせに加わった。今月初めには、近隣諸国の大使館からの応援の人たちもせいぞろいをし、打ち合わせにも緊張感がみなぎってきた。私の担当は日本からの取材ジャーナリストを世話すること。準備万端おこたりなく、明日のご到着を待つばかりである。
・9日(木)
12時に私たちジャーナリスト担当班は本部のあるインターコンチネンタル・ホテルに集合。最後の打ち合わせをして、14時にホテルからロイヤル・エアポートに向かう。
私は、飛行機が到着したら後部タラップから降りてくるジャーナリストのうち、空港で取材のない大半の人びとを担当する。空港に着いて、まず飛行機の到着場所から殿下・妃殿下が歩かれる場所などを想定し、また誘導すべきバスを確認してご到着を待つ。
出迎えのオマーン側の国王代理、大臣、日本大使、外交団なども続々と到着して緊張感が高まる。見上げる空は今日も真っ青に晴れあがり、気温も軽く30度は超えている。
やがて特別機が着陸。日本とオマーンの国旗を機首に掲げてゆっくりと駐機場に入ってくる。機体の日の丸が目にしみる。オマーンで見る初めての日の丸のついた飛行機である。
すぐに取りつけられたタラップを、オマーン側のプロトコールと日本大使が足早に上る。オマーン軍楽隊の演奏が始まり、やがて皇太子殿下と妃殿下がゆっくり降りてこられる。歓迎行事取材のジャーナリストたちはすでに所定の位置に散ったが、大半のジャーナリストは私と後部タラップで待機して歓迎行事の一部始終を見る。
皇太子殿下の中東ご訪問は1990年に湾岸戦争のために中止。93年にもイラク問題で急遽取りやめとなったいきさつがある。とくに後者はご訪問の直前にキャンセルとなり、私などは「無用の中止」ではないかと思ったものである。しかし、こうしていざ日の丸の旗と皇太子殿下・妃殿下のお姿を目にすると目頭が熱くなる。昭和シングル生まれのせいなのだろうか。はるかオマーンの地にわざわざお二人で来ていただいたことにじーんとくる。
待機して歓迎行事を見ている新聞記者の中から、「うん、この国はしっかりしている。歓迎行事もよくオーガナイズされている」との評が聞こえる。「そうそう、一目でわかるでしょう。オマーンはよい国ですよ。ようく見ていってください」と心の中でつぶやく。今日の飛行機の到着も予定より30分遅れ。サウジアラビアでなにか手違いでもあったのだろうか。
注目の雅子妃殿下は緑色のツーピース。スカートは長め。
昨日、カウンターパートのマラックに「妃殿下が来られる時の服装だが、オマーンは他の湾岸諸国に比べればひらけた国だから、普通のショート・スカートでよいのではないか。それともロングの方が好ましいのか」と質問を投げかけてみた。すると、「オマーンはイスラムの国、文化と伝統を大事にしている国である。ショートで来られてもよいが、この国の文化に敬意を表していただけるのならロングの方がよいと思う。ロングで来ていただければ、オマーン人は妃殿下のお心づかいに感謝するでしょう」とのコメントを得ていた。それだけに、妃殿下のロングのお姿がいっそう目にあざやかであった。
中東随一の今回の宿のアル・ブスタン・パレス・ホテルに向かう両殿下や随員の方がたの車列を見送った後、ジャーナリストの人たちと16時半にホテル着。チェックイン、IDカードの取得などを手伝いワーキングルームに案内をする。
今夜は皇太子殿下は国王代理主催の晩餐会に、妃殿下はオマーン婦人協会の歓迎会に、それぞれ別れて出席の予定。その取材のための案内は他の人の担当なので、今夜は私はフリー。しばらくワーキングルームで待機した。
ここには、各社別に机、電話、ファクスや掲示板、ミーテイ
ング用の長机などが用意され、テレビも流しっぱなしにしてある。何人かの記者がテレビのオマーン対カタールのサッカーの生中継に釘付けになる。今月3日にアブダビで始まったガルフ・カップの一戦である。「サッカーは盛んなのですか」と記者が質問してくる。「もちろんですよ。サッカーは最も人気のあるスポーツ。とくに、湾岸6カ国が参加しているガルフ・カップは国の威信がかかっているだけに、ビッグイベントです」と説明している間に、オマーンがゴールを決めて2対2の同点に追いつく。結局、その後カタールに2点を追加され、オマーンは4対2で敗れた。
4日の試合ではサウジに2対1で敗れ、6日にはバハレーンと1対1の引き分けで終わっているので、ここまでオマーンは1引き分け2敗の成績。当初はダークホースとの見方もあったが、どうも旗色が悪いようだ。これから大会が終わるまで、私も胃の痛む日々が続きそうである。
密着取材に同行
・10日(木)
朝7時にインターコンチネンタル・ホテルの第一号車で内陸部のニズワに向かう。
両殿下の今日の日程は、「朝ヘリコプターでニズワに向かい、ファラジユ
とニズワ城をご見学。その後にロイヤル・テントに国王を訪問して一緒に昼食をとり、ラクダレースやアラブ馬のショーを楽しまれる。夕刻、マスカットに戻り、アル・ブスタン・パレス・ホテルで総理府の青年の船の写真展をご覧になる」というハード・スケジュール。私はヘリ到着とニズワ城取材班に同行、マスカットにとんぼ返りで青年の船取材班の誘導にあたる。往路のバスのなかで「ニズワはオマーンの海岸部、内陸部、サラーラの中心に位置する古都である。7世紀にイスラムを受胎し、文化・教育の中心地である」ことや、途中の岩山の景観などを、記者の人たちに説明する。だが、皆さまお疲れのようで、真剣に聞いてくれたのは約2名だけ。あとは白河夜船。
2時間たらずで両殿下が休憩されるニズワ・ホテルに着く。このホテルは11月18日の建国記念日にあうように建設された。正式オープンは12日だが、今回特別に使用されることになった。実は、私も大使館員と一緒に一昨日下見に訪れたが、注文どおりに準備万端オーケーの様子にほっとした。玄関前の噴水も、今日は勢いよく上がっている。
時間調整後、オマーン側の車の先導でニズワの街を通りすぎ、道路脇のヘリポートに到着。やがて、護衛もふくめて5機のヘリコプターが飛来して、着陸した。最後の3機目から殿下・妃殿下が降りてこられる。
昨日は遠くからお姿を拝見するだけだったが、今日は密着取材班に「密着」して誘導する役目なので至近距離からお姿を拝見し、感激。ファラジユ
の見学にいかれた両殿下を見送った後、あらかじめ待機すべくニズワ城に先まわりをする。今度も密着取材班に同行。やがて城に到着された殿下が小さな黒い四角のケースを持っているのに気づく。城のあちこちを見学され、やがてタワーのてっぺんに上がった殿下がこの中から取り出されたのがカメラである。それも私の使っているような小型のもの。ご自身で写真を撮られるのか、と驚く。
随行のカメラマンが、殿下が妃殿下の帽子を直されたところが撮れた、と満足していた。いっそうの親しみと敬愛の念が湧いてくる。ニズワ城ではまるで二人の世界を楽しまれたようにお見受けする。
国王からアラブ馬の贈り物
私の班は国王のロイヤル・テント訪問やラクダ・レースの取材に思いを残しながらも、昼食後真っすぐマスカットに戻り、ホテルで待機。夜7時すぎにニズワから帰ってきた人たちに聞くと、国王との会見も大成功だったらしい。とくにラクダ・レースの後、国王からハンジャルのほかに素晴らしいアラブ馬を1頭贈られたとのこと。広々とした土漠の中のロイヤル・テントも、両殿下はすっかり気に入られたご様子。何よりである。
夜の青年の船写真展も無事終了。案内役はこれらを撮影した例の友人、写真家ハミースであった。
・11日(金)
両殿下は本日九時からの邦人接見をこなした後、国王所有のロイヤル・ヨットに乗ってマスカット湾を海上から遊覧、午後3時半に次のご訪問地のカタールに向かわれる。邦人ご接見に出席するわれわれは、今日の仕事は空港での見送りだけ。
ご接見場所はアル・ブスタン・パレス・ホテルの「パール・ルーム」。9時半にホテルに着くと、ほとんどの邦人はすでに部屋で待機、全部で80人弱。在留邦人数は百人を若干越すが、たまたま休暇中の人や、業務上出席できない大使館員を除く全員が集まっている。
やがて日本大使の案内で両殿下が入室され、日本人学校の児童たちから花束を受けられる。その後、両殿下が一人ひとりに話しかけられる。私も殿下から「何をしておられますか」「いかがですか」、妃殿下からも「もうどのくらいおられますか」などとご質問を受け、また妻も妃殿下から「生活はいかがですか」など、じかにお声をかけられて、二人とも感無量であった。ほとんどの人がお言葉を耳にして、大感激のご接見であった。
海上遊覧では、お二人の仲のよさがうかがわれ、また報道陣の船にむかってよく、手を振り応えられたそうだ。快適な遊覧であったご様子。
午後2時すぎにホテルを出発され、歓送行事後、予定通りに3時30分に無事マスカットを後にされる。紺碧の青空を旋回して、カタールに向かう日の丸のついた専用機を、見えなくなるまで全員で見送る。
・12日(土)
今日の新聞の1、2面に皇太子殿下・妃殿下の国王との会見、昨日の出発のご様子の記事が大きく載る。
昨日が新聞休刊日だったため、2日分の記事が集中している。連日トップ扱いでのテレビ報道も含めて、両殿下が両国親善に果たされた役割は大きい。オマーン側の日本への理解も十分深まったことと思われるが、日本でも今度のオマーンご訪問は連日、新聞、テレビなどで報道されたらしい。知られざる国オマーンに対する日本側の理解がぐんと深まったはずで、何よりである。
聞いたところによると、国王は、9日の夜中に突然ニズワ・ホテルを訪ねて、両殿下受け入れの準備状況を自らチェックされたたという。またロイヤル・テントでのお食事のメニューは自ら決められた、とも聞く。それに、最高のアラブ馬の贈り物、と気をつかわれ、お三方もすっかり打ち解けての歓談だったようだ。両殿下に来ていただいて本当によかった、としみじみ思う。
本日の新聞の16面全面に、今月8日に閉幕したオマーン展と、それに並行して行なわれたオマーン・セミナーの記事が詳細に載っている。いままでどこの展示会でも、これだけの報道量は見たことがない。この展示会に携わった者としては嬉しいかぎりである。
記事は「日本の人びとは、オマーンが石油以外にいろいろな商品を生産していることを知って驚いた」という書き出しで始まっていたが、いずれにしても日本とオマーンの距離が縮まったことはなによりである。
反体制運動者への判決
・13日(日)
昨日、国家治安裁判所から「オマーン・ムスリム社会の分断、破壊を目的とするイスラムとその寛容な教義の悪用の罪で問われた者に対する判決が下された」と新聞は報じている。さらに「判決は死刑から最低3年の懲役までに渡っているが、国王の命令で死刑も懲役に減刑された。さらに有罪判決を受けた者の懲役期間についても、今後の態度によっては国王が減刑の方向で見直す」と伝えている。8月29日に発表された国家反逆罪で捕らえられた者たちに対する判決である。
この国でこんな動きがあったのかと驚く。しかも、ごく身近にいた当商工省の次官や課長がこれに関与しており、役所から長期間姿を消している。その動向を注視してきた事件であるが、具体的にどうゆうことがあったのかはどうもよくわからない。
この記事が出た機会をとらえ、オマーン人に具体的に何が行なわれたのかを尋ねても、明確な答えがえられない。一味はイスラム原理主義につながっていて、国の急激な改革を企図したものであるようだ。それにしても、われわれの身近にいた人々が獄につながれようとは考えもしないことであった。
・15日(火)
出勤時に窓ガラスにポツンポツンと水滴がつく。毎朝迎えにきてくれる運転手のモハメッドが「雨」だと喜ぶ。しかし、せっかくの雨もその程度で終わった。
昼、大使館に出かけた同僚が「アルクエールのあたりはひどい雨。ランダバード(円形交差点)にずいぶん水がたまっていた」と言って帰ってきた。この時期に、マスカットで雨の降るのは珍しい。また、このところ内陸部でもよく雨が降る。この国にとっては本当にうれしいことである。
ガルフカップ・サッカー大会は下馬評どおり、24年間待ちに待ったサウジアラビアの初優勝で、本日幕を閉じる。サウジは最終戦でクウエ
ートを2対0で下し、4勝1引き分けで終わった。それに対し、地元のUAEも最終戦でオマーンを2対0で下したものの、3勝2引き分けとおよばず、サウジアラビアの優勝が決まった。サウジ応援席は歓喜の渦につつまれる。ダークホースといわれたオマーンは結局0勝3敗2引き分けで最下位に終わった。残念がるオマーン。サッカー協会副会長の友人の顔が目に浮かぶ。私もしごく残念。3位はバハレーン、以下4位前回優勝のカタール、5位クウエ
−トという結果であった。・18日(金)
今日は第24回目の建国記念日。つまり1970年にカブース国王が即位してから24年目の記念日にあたる。父君サイード国王を追放して、実際に王位に就いたのは7月24日であるが、国王の誕生日の11月18日を建国記念日としている。1940年生まれの国王は今日で54歳になる。
例年この日は、オマーンは最大の祝賀行事で彩られる。10日ほど前から、町の通りにはオマーンの国旗と国王の写真が立ちならび、大きな役所や会社の建物、それに個人の家々も色とりどりのイルミネーション電球で飾られる。
そして民族舞踊、ラクダ・レース、伝統的なボートレースなどが1週間ほど続くが、なんといっても最大のイベントは国王臨席の下で行なわれる祝賀式典である。そこでの国王の演説は、とくに重要である。今年この行事は新装なったニズワの競技場で行なわれる。
この祝賀式典は、1昨年はソハール、昨年はマスカットで行なわれ、商工省勤務の私たちにも招待状がきたので参加した。「今年はマスカット勤務者は原則として招待しない」というところを、特別に頼んで招待状を出してもらった。
というのも、かねてからオマーン訪問を希望しながらも、奥さんの病気で実現できなかった友人のM君が「ようやく今年オマーンに行ける。可能なら建国記念祝賀行事を見たい」と日本から言ってきたのである。オマーン好きの日本人をこれで1人増やせるだろうし、今年私が出席すれば、1992年から94年まで3年間連続出場の日本人は私1人になるという思いもあった。
建国記念式典に3年連続出席
M君は15日の深夜にオマーンに到着した。16日は日中と夕方、マスカット市内を見学、夜はアル・ブスタン・パレス・ホテルのオマニ・ナイトを堪能、17日はナハル、ルスタックを巡る約4百キロのドライブ、とハードなスケジュールをこなしてきた。
今日はニズワまで往復3百キロ。7時半からの式典ではあるが、早目にマスカットを4時に出発する。車中でM君にオマーンの概況を、かいつまんで進講する。
6時前に式典の行なわれる競技場前の駐車場に着く。早かったせいか、車を置くのもそう大変ではない。競技場に入ろうとすると、「ミスター・エンドウ」と車の中から声をかける者がいる。見ると、わが省のアリ局長。式典準備にかりだされて、車であちこちかけまわっているところらしい。
競技場に入るとすでに8割方埋まっている。待っているあいだ、退屈まぎれか、ときどき歓声とともにスタンドにウエ
ーブがおこる。7時半ちかく、王族が国王の周りの特別席につく。ひときわ高い歓声と拍手。大臣や顧問、次官、諮問議会議員、軍関係者、各国の外交団などは、2時間前から隣りのスタンドに入って待機している。
競技場はほぼ満員。男と女の席が別のため、白いデシュダーシャを着た男性の席と黒いアバーヤを着た女性の席が黒白の彩をなしている。多少女性の席に空きがあるようにも思える。ニズワは内陸部でまだ保守的なところがあって、女性が表に出にくいのかもしれない。軍楽隊によるオマーンの国家吹奏も終わって緊張がいちだんと高まるなか、7時40分すぎ、国王が見えられる。万雷の拍手。歓声とオマーン独特のヒューヒューという奇声。
ここからは歌と踊りの華麗なページェントが続く。第一幕は剣の舞など。つづいて、祝福のキャラバンと称してのイスラム伝来を主題にしたもの。さらにイスラムの学習や古くから伝わるオマーンの遊び、次に造船のもようやポルトガルとの海戦・イランとの戦いを再現した大がかりな船の演し物、騎馬隊を動員しての劇などがおこなわれた。最後に、出演者全員で国王の指導力と業績をたたえる歌を合唱し、フィナーレを迎える。
10時半すぎに、今日の一番大切な行事である国王の演説が始まった。国王の演説は単に儀礼的なものではなく、さまざまな問題についてのこれからの国のフレームワーク、GCC諸国、アラブ世界、その他の地域での情勢に対する国の対応方針を示すきわめて重要なものなのである。国王は競技場に集まった人たちだけではなく、テレビを通じて全国民に話しかけられるので、国中が固唾をのんで注目している。日本の首相の施政方針演説などよりはるかに格調が高く、外国からも注目を集めているものである。
国王の声が1昨年や昨年より大きく、力強く感じられた。アラビア語のできない私は、翌日の新聞でその内容を知ったのであるが、
@マスカットとニズワに法律専門学校を設立する。
Aオマーン人は国の安全と安定の確保に努めるべきである
Bムスリムはその考え方を見直すように。
Cイスラエルはゴラン高原から撤退せよ。
D中東和平の中でのフセイン・ヨルダン国王の役割を称賛する。
が主な骨子であった。
一身を投げ出してオマーンをまったくの後進国から近代国家に育てあげた国王にとって、イスラムの名のもとで国の安全をおびやかかそうとした者がいたことがよほど悔しく思ったのであろう。この点が今回の演説の最大のポイントであった。
「昨日、国王は本当に怒っていた」というオマーン人の声も聞いたが、私が例年になく国王の演説が力強いと感じたのもこのせいであろうか。「破壊や分裂は何も生みださない」と力説された国王の気持ちは十分うなずける。このすばらしい国は、せっかく築き上げた人類の宝なのである。
通常は演説のなかで、来年は「工業年」「青年の年」「文化遺産の年」などと宣言されるのだが、今年はなし。来年が即位25周年に当り、それが最大のキャッチフレーズであるからだろう。
式典の後、帰るのが大変。大変な混雑で、駐車場を抜けだすのに30分以上かかる。漆黒の山道を約2時間ドライブし、マスカットに帰りついたのは午前2時半を過ぎていた。それでも3年連続して式典に出席でき、遠目ながら国王の姿に接して、満足した1日であった。
東京からわざわざ出向いたM君にとっても貴重な体験であった。交際範囲の広い彼のこと、帰ってから日本でオマーンの宣伝を十分やってもらえるはずである。
オマーン初の女性議員誕生
・21日(月)
諮問議会の議員任命の勅令が出たことを新聞が伝えている。
議員数は59の県から80名(今回より人口3万人以上の県からは2名を選出)、任期は94年から3年間。議長はこれまでと同じくシェイク・カタビ。
今回何より特筆すべきことは、史上初めて女性の議員が2名選出されたことであろう。ともに首都圏のマスカットとシーブの2県から。オマーンでは、女性の社会的な役割はますます大きくなっていくことであろう。
バハラ県から今回初めて議員に選ばれたアダウイ氏は、バハラで一番老舗の陶器工場のオーナーで、私とは旧知の間柄。諮問議会も何となく身近に感じられる。
・24日(木)
午後7時15分に、妻と車でアル・ブスタン・パレス・ホテルに向かう。8時開演の王立オマーン交響楽団(ROSO)の建国記念日の記念演奏を聞くためである。
服装は民族衣装または背広とあり、とくに今晩はカブース国王も見えるというのでそこそこのおしゃれをする。「少し早目だったかな」と思ったが、7時半すぎに着いてみると、もう車がどんどん入ってくる。
さっそくに会場に入り、国王の坐られるロイヤルボックス付近の席に着いた。人びとが次々に会場に押し寄せてくる。さすがに前回のピアノ・コンサートとは違う。外交団や国王顧問、それに大臣の顔も見える。伊集院日本大使ご夫妻もいる。
王立交響楽団の演奏会
8時5分、ほぼ定刻どおりにオマーン国歌の演奏が始まる。全員起立。今日の演奏は、ロッシーニの「アルジェのイタリア女性」、コプランドの3つのロデオ・ダンス協奏曲、それにガーシュインの「ラプソデイ・イン・ブルー」。
その後休憩が入り、グリーンカの「ロシア人とリユ
ドミラ」、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」、ビゼーの「アルルの女」と比較的にポピュラーな曲ばかりだ。最初の出演者は49人、そのうち女性を数えてみると9人、かなりの割合だ。この交響楽団が結成されたのが、1985年で、初めて演奏会は87年。自ら作曲もするほどクラシック音楽に造詣の深いカブース国王の声ががりで結成された楽団である。結成当初の楽団員は、まったく西洋音楽に触れたこともない百人の少年ばかりであった。それが今は120人ほどの音楽院の学生に膨れあがり、そのうちの3割ちかくを女性が占めている。
オーケストラは、マスカット市内にあるバラカ宮殿敷地内に教育やリハーサルの目的で建設された施設で、研讃を積んできた。楽団員の何人かは、イギリスにも留学している。指揮者はイギリス人で、ピアノやハープなどの演奏者も西洋人の応援をまだ受けている。日本の明治時代の状況も、こんなものだったのだろうか。
演奏中に人に気づかれぬようにときどきロイヤル・ボックスの方を覗くのだが、国王は今夜はまだ見えていないようだ。
演奏のほうは、音楽に弱い私にも通常テレビで流しているものよりずっと出来が良いように感じられた。演奏が終わるたびに精一杯の拍手を送る。とくに、私にもわかる曲があるのがうれしい。休憩をはさんで2時間半あまりの演奏が終わった時には、会場は万雷の拍手。
ただ、私がお姿を見るのを楽しみにしていたカブース国王はついに見えずじまい。演奏の後で聞いた話では、今夜6時に国王の出席が急遽取りやめになったとのこと。まことに残念。欠席された国王の方がもっと残念に感じておられるはず、とあきらめて帰途につく。
帰りの車のなかで、私よりずっと音楽にくわしい妻の感想も「テレビよりずっとよかったわ。まずまずね。ただ、管楽器がまだまだ弱いわ」というもの。「管楽器のことはともかく、全体的にまずまずという私の感じも当たっていないわけではないな」と自己満足をする。
赤ん坊に割礼
・27日(日)
「サバハヘール、ケーフハラック」「おはよ、ごぜいます。おぎんきですか」と、今朝もアラビア語と日本語のチャンポンの挨拶を、カウンターパートのアハメッドと交わす。もう1人のカウンターパートのサレーは昨日から休暇をとっているので今週は2人きり。
アハメッドから「昨日は申し訳ない。昨日、車を持ってきたのか」との詫びが入る。先月オマーン人にぶつけられた私の車を、昨日アハメッドがガレージに入れてくれるというので、ふだんは省の車で通勤する私が昨日はわざわざ車を運転して出勤。来てみると、アハメッドは突然の休暇。当然私の機嫌はななめ。
1カ月前に生まれた赤ん坊の病気で休んだと聞いていたので、平静をよそおって「具合
はどうか」と尋ねる。「実は割礼のため入院させた。2日間の入院だ。赤ん坊が動くので出血がひどく、昨日は痛がって大変だった。あそこを清潔に保つためにカットするのだが、英語でなんといったっけ」という。昔アブダビでも4、五歳の男の子の割礼を見たことがあるが、こんな小さい頃に麻酔をかけて手術するらしい。念のため、「女性も一番感じやすい所を切ると聞いているが、いくつぐらいのときにやるの?」と聞くと、「エジプト、スーダン、シリアなどではやるようだが、1部の地方は別としてオマーンではやらないよ」との返事であった。