10 海亀の産卵ーアドベンチャーの魅力

孫の発熱―オマーンの医療事情

・10月1日(土)

いつもの通り3時に役所から家に帰ると、孫の悠太朗が熱があるという。しかも38度6分。「1時頃にちょっと熱いかな、と思っているうちにみるみる熱が上がり、本人もだんだん元気がなくなってきた」と妻の話。

この世に生まれてはじめての発熱だ。しかも場所が、日本ではなくてオマーン。不安がつのるが、素人のわれわれではどうしようもない、医者に連れていく以外にない。

それにしても、親子というのは似るものなのだろうか。1975年3月24日、ベイルート。その年の1月、すでに赴任していた私に合流すべく、夜明けに妻と長女の葉子と次女の智子がJALのファミリー・サービスで日本からやってきた。妻たちには、初めての外国旅行であった。

当時7歳であった智子(今や悠太朗の母親となった次女)がホテルに着くなり、発熱。医者といってもどこに行ったらよいのか皆目見当がつかない。それに、私はたまたまベイルートに出てきたクウエ ートの石油次官と当日の午後一番に面会の約束がある。妻は初めての海外。

今でも「あなたは冷たい」と妻に言われているが、その時はどうしようもなかった。たまたま同じホテルに宿泊していた取引先の商社員に医者の手配や家族の面倒を頼んで、石油次官との面談に出かけて行った。

その智子の子供の悠太朗が、今度はオマーンに到着後、生まれて初めての発熱。「なにもわからないように見えるが、赤ん坊の悠太朗にとっては、オマーンまでの長旅は大変な緊張の連続だったのだろう。智子の場合も大変なストレスで発熱したにちがいない」。

そんなことを考えながら昼食後、妻が赤ちゃんのいる日本人の方に紹介してもらった小児科医に、電話で予約をとる。医師はノルウエー人、年寄りだがとてもよいお医者さんだそうだ。

マスカットには国立病院が5カ所、大手の私立病院もいくつかある。私も当地最大のロイヤル・オマーン・ホスピタルやアル・ナハダ国立病院にかかったことがあるが、いずれも大病院である。

ちなみに前者は医師が約百名、看護婦・看護夫が7百名 、ベッド数630の規模。設備は超一流。スタッフは世界中から集まり、医師はオマーン人、ヨーロッパ人、インド人、フイリピン人など、看護婦はイギリス人、シンガポール人、マレーシア人、インド人、オマーン人などから成る。しかし、これらは基本的には救急病院である。しかも、オマーン人でいつも混雑しているので、日本人はとくに子供の場合には、ヨーロッパ人医師の多い私立病院に行くケースが多い。

夕方、妻と次女と一緒に悠太朗を連れて予約したクルム医院にいく。待合室は円形、周りに椅子が据えつけられている。真ん中に子供が遊ぶためのちょっとした空間があり、種々のおもちゃも備えつけてある。さすがヨーロッパ系の病院だけに十分におしゃれな病院である。受付嬢も黒髪でなかなかの美人。

やや待たされた後で診察室に入る。「やあ、貴方でしたか」と医師。「評判の良い先生とは貴方でしたか」。とんだ奇遇であった。お医者さんの名前はドクター・ノ−エン、私とは同じオマーン歴史協会員で旧知の仲。

「熱は心配ない。若干冷やすように、そうすれば下がるはず。万が一、下がらない場合の薬も用意しておきましょう。なにかあれば家の電話番号も書いておくので、遠慮なくいつでも電話をするように」との懇切丁寧。

地獄に仏とはこのこと、ずっと気が楽になった。それにしても、悠太朗は5カ月でノルウエー人の医師まで経験している。うんと国際的な環境で育ってもらいたいものだ。

その晩、仕事で関係のある東京からの客3人をわが家に迎える。使用人がいるとはいえ、悠太朗の額のタオルを取りかえながらの接待だ。ベイルートでも、智子の病気の時に仕事で出かけたが、私はいくつになっても同じことをやっているように思う。

・2日(日)

悠太朗の熱が平熱に戻る。本人も昨日はややぐったりしていたが、今日は元気で食欲も旺盛だ。もう心配はない。

アジア・オリンピックをテレビで観戦

本日より広島で第12回アジア・オリンピック大会が始まる。当地のテレビでも、開会式のもようが実況中継された。第1回のニューデリー大会の11カ国6種目に比べて、今回は42カ国34種目、それに参加選手の数はなんと7千3百名にのぼる。

オマーンも今回はサッカー、ホッケー、射撃、テニスの4種目に参加している。メダルを取るのは難しいかもしれないが、なんとか善戦してほしいものだ。オマーンの旗手は射撃のアラブ・チャンピオンのモハメッド・ヒナイ。がんばれ、オマーン。

夏にニズワのスークの店の親父から「原爆のために広島では日本の人々が苦労をした。ああいうことは良くない」と話かけられて驚いたことがあったが、オマーンの人びとは第2次世界大戦時の広島の悲劇をよく知っている。今回のオリンピックを通じて広島への理解がさらに深まり、平和国家オマーンの平和への貢献が実を結ぶように祈りたい。

オマーン・テレビ事情

オマーンでは、オマーン・テレビはもちろん、アンテナをつければCNN、BBC、アブダビ、ドバイ、インドなど外国のテレビも自由に見ることができる。はなはだ便利である。しかも日本と違って受信料などは払う必要がない。タダである。

カブース国王が即位した1970年にはラジオ放送もなかったが、国王は即位して1週間後にラジオ放送を始め、74年にはカラーテレビの放送も開始した。現在では、95%のオマーン国民がテレビ番組を楽しんでいる。

私が広島のアジア大会を見るためにスイッチを入れたのは、オマーン・テレビ。BBCはアジア大会を放映していないからである。オマーン・テレビはオマーンがこの大会に参加しているので、毎日放送してくれる。ありがたい。このオマーン・テレビであるが、日本と決定的に違っていることがある。 それは、宗教番組が30%を超えていることである。ニュースの始めには必ず短い宗教番組が流され、独立した宗教番組も多い。日本での宗教番組の割合はほとんどゼロであろう。さすがにイスラムの国である。

ちなみに、オマーンでは新聞は英字紙が2紙、アラビア紙が2紙発行されている。頼めば、毎朝配達もしてくれる。

・4日(火)

職業訓練への民間企業の新負担率および外国労働者の新しい労働許可証制度が、社会労働省より発表された。

職業訓練については、月間賃金が85リアルの者については年間60リアルを、85から百リアルの者については6%、それ以上の者は7%という多額の負担を雇用者に課すシステムである。労働許可証については、その期間を従来より短縮し、また手数料を一斉に値上げするという。

これらはすべて国王の年初の「ミート・ザ・ピープル」の際に方針が示されたオマーン人化を推進するための方策である。職業訓練の財源確保という意味あいもあろうが、オマーンがオマーン人化を着実に具体化して行こうというのは十分に理解できる。だが、制度は魂を入れないと実現は望めない。

そのためには、勤勉の勧め、どんな職業でも大切で貴賎はないという価値観の転換と、各職業ともそれなりの報酬が得られ安定した生活が送れる制度の確立が望まれる。日本でも、そう遠くない昔に、「あんな仕事は世間体が悪い」というような制約があった。オマーンの社会はまだまだ社会的な規範が強いようだ。

 

15分間の顔見世興行

・5日(水)

朝出勤後、役所から妻に「9時に悠太朗を役所に連れてくるように」と電話を入れる。

前からカウンターパートや秘書嬢から「ベビーが見たい」という要望が出ていたが、時間がなくてなかなか実現できないでいた。とうとう娘たちがアブダビに発つ前日になってしまったが、本日九時頃ならみんな都合がよいとのことでの連絡である。

悠太朗にとっては迷惑かもしれないが、オマーン人との写真撮影もなにかの記念になるだろうし、赴任以来、苦労をかけている妻に職場を見せるよい機会かとも思って、役所に呼ぶことにした次第である。

9時に妻、次女の智子と悠太朗の3人を役所の駐車場で出迎える。工業開発部に案内してアハメッド部長はじめ女性スタッフのマラックらに紹介する。

悠太朗は身内でいうのもなんだが、可愛い部類の赤ん坊に属するので、みんなから「キュート」「ハンサム」と大変な人気。スタッフ一同と記念撮影して、悠太朗も満足の様子。まもなく出産予定の秘書のワヒダは「私もこういうベビーを産みたい」と言って抱いてくれる。

次女の話によると、「悠太朗はかぶり物に弱い、つまり頭になにかかぶっている人に抱かれると泣きだす場合が多い」とのことであった。ワヒダはオーケー、泣きださない。ワヒダは当然オマーンの風習に従って、ヘジャーブ(毛髪を隠すためのスカーフ)をかぶっている。

次はカウンターパートのヒルダ。ヒルダはヘジャ−ブをかぶっているうえ、アフリカ出身なので色が黒い。「こわがるかな」と思って見ていると、案の定抱かれたとたんに泣きだしてしまう。美人のヒルダには申し訳ないのだが、悠太朗にとっては危険を感じたのかもしれない。

その次に抱いたのは5歳と3歳の2児の母親のマラック、彼女もアフリカ出身のやや肌の色が浅黒い女性。また泣きだしては失礼、と早々に悠太朗を取りあげて妻たちは役所を退散。約15分ほどの顔見世興行であった。

アブダビへのドライブー旧友たちと再会

・12日(水)

先週の金曜日に父親が迎えにきて母親と3人で悠太朗が帰って間もないのだが、妻とアブダビヘ車で行くことにする。

オマーンでは妻と2台の車を乗り回していたのだが、1台、しかも私の乗っているのを譲ってくれないかという次女智子の強い要請。結局、1台をタダで差し上げる羽目になり、しかもそれをオマーンから陸送しようというアブダビ行きである。孫に会わせてもらうために、献上品の車を輸送するようなものである。

マスカット−アブダビ間は約5百キロ。慣れない道なので途中暗くなると心細い。そこで、今日は役所を1時すぎに退出し、家に戻って一路アブダビへ。

アブダビへ行くには3通りの道がある。1つはソハールからハッタを越えてドバイ経由の道。2番目はソハールから左折してワジ・ジジに入りアル・ブライミ経由の道。もう1つはマスカットから内陸に入りニズワ、イブリを経てアル・ブライミ経由の道である。

このうち、最もポピュラーなのは2番目の道。マスカットからソハールまで230キロ。さらにアル・ブライミまで110キロ、さらにアブダビまでは170キロ、計約5百キロの行程だ。われわれもやはりこの道を走ることとする。

ソハールまでは片道二車線の素晴らしい道路。2年前にやはり自動車でアブダビまで行った時に、時速168キロを出した道である。妻と運転を交代しながら、車中で昼食のおにぎりをほおばる。ソハールを3時すぎに通過して、オマーン国境には4時すぎに到着。ここまでは予定通りだ。

国境での出国手続きは簡単に終わったが、乗ってきた車をアブダビに輸出することになるため、その手続きも必要だという。「車の値段は?」と係官が聞くので、「タダ」と言っても係官が納得しない。「1千リアル?」「違う、くれてやるからタダ」「1千リアル?」「いや、タダだ」とつたないアラビア語と英語のチャンポン同士で押し問答。最後は1千リアル、税金ゼロで決着した。

次に、約10キロ先のサフィットにあるアブダビ側の出入国管理事務所でUAEへの入国手続き。通常はオマーンとアブダビが入り合い状態のためこの手続きは不要なのだが、今回は帰路を空港から飛行機で出国することになるので、この手続きを怠ると出国できなくなる。

管理事務所には門番が一人ポツンと立っているだけなのではじめは見すごして通過。また戻って、昼寝をしていたらしい係官をたたき起こして、入国手続きをしてもらう。ここで予想外に時間がかかった。終わった時には、時計の針は5時30分を回っていた。

いよいよここからアブダビ。オマーンとの国境にあるアブダビ第二の都市アラインを過ぎる頃から薄暗くなってくる。道には、いやにハンプ(道路上に設けるこぶ)が多い。アブダビの若者たちのスピードの出しすぎを防ぐためだろうが、かえって危ないように思う。

やがて真っ暗になる。アブダビまではまだ優に百キロはあろうか。オマーンと違って、ここでは行き先までの距離の表示板がまったくない。また、ガソリンが少なくなってきたので、ガソリン・スタンドを捜しているのだが、見当らない。いらいらがつのる。

幹線道路沿いにガソリン・スタンドがないなど、オマーンでは考えられない。その間にも、車のガソリン表示がエンプテイ に近づいてくる。そうだ、スタンドは道路から離れた村にあるのかもしれないと、幹線道路をはずれて見知らぬ村に入る。やっぱり、あった。そこでガソリンを満タンにして、一路アブダビへ。

夜8時ちかくにアブダビ市域らしきところに入るが、確認できない。そのうちに、うっそうたる街路樹と立ちならぶ高層ビルが現われ、片側四車線の広く、しかも立体交差する道路に入る。規模から見て、アブダビ市であることは間違いない。

しかし、以前に2年間住み、それから十数年間毎年訪問してきた私にも、2年間空いただけで、われわれが市のどこを走っているのかまるで見当がつかない。すごい発展ぶり、変わりようである。いまアブダビの街では3百ものビルを建設中、と聞いてきたが、まったくアブダビは「アナザー・シテイ」である。とまどいながらも、なんとか娘の家にたどりついたのは8時すぎ。マスカットから約7時間のドライブである。孫の悠太朗もまだ起きていた。われわれを歓迎してのことだろうか。

・13日(木)

翌日昼、娘たちが転勤のさいにお世話になったアブダビ石油の人事のKさん、関連会社のT支店長とビジネス・ランチ。

夜は孫のお守りでも、と思っていたが、友人のアブダビ石油鉱業所長のI君がどうしても付きあえというので、お宅にお邪魔して深夜まで歓談。娘たちのアパートは町の中心のスークの真ん前にある。窓から見るアブダビの街には確かにビルが増え、すっかり立派になっている。私の土地勘も徐々に戻ってきた。

・14日(金)

翌日の金曜日はアブダビ滞在最後の日。古いアブダビの友人に連絡をとったところ、昼に家族や親戚と食事をするので自宅に来ないかとのおさそい。実は、この友人モハメッドには十数年間ごぶさたをしている。

私がアブダビに駐在した1977年から79年の2年間、娘たちを英国立教学院に預けていた。娘たちはイギリスから帰るたびに、モハメッドの妹で同じ年頃のダビラと遊ぶためにこの家を訪ねていた。上の葉子が16歳、下の智子が11歳の頃である。

その時に、当時13歳の弟セイフが次女の智子を見初めて嫁に欲しいと言い出し、バルカ(女性が顔を隠す黒い面のようなもの)で顔を隠した母親とモハメッドがセイフを連れて、わが家に申しこみに来たことがあったのである。

「ダビラはもう結婚をしただろう、子供は何人できただろうか。あのお母さんは健在だろうか。当の本人のセイフは結婚しただろうか。当時近衛騎馬隊の大尉であったモハメッドは、もうかなり偉くなっただろう。次男のアブドルクリームは?」私は胸をわくわくさせながら、教えられたとおり彼の自宅に向かう。こちらはわれわれ夫婦と娘と孫の悠太朗、それに日本大使館勤務のアラビア語ペラペラの旧知のN嬢。

男同志、女同志で歓談

着くなり私のみ男性の部屋へ、妻たちは女性の部屋へ。アラブの家では男性と女性は別々である。男性たちは、十数年経ってみんなすっかりおじさんになっていたが、私の家に遊びにきたことなどをよく覚えていた。昔の感覚もだんだんに戻って話に花が咲く。

モハメッドは今は準将、アブドルクリームは37歳で、すでに警察を引退。例のセイフも今や28歳の若者、というよりおじさんですでに3人の子持ち。女性軍の方は、バルカのお母さんも元気、あのダビラは18歳で結婚してすでに5人の子持ちになったことを知る。

聞いてみると、モハメッドの5才の女児が心臓の治療のために、付き添いの叔父夫婦と一緒に今夜アメリカに発つとのこと。お金はすべて国から出ているもよう。

また、彼らの乗っている車はベンツ、アウデイ 、BMWなどすべて外車。アブドルクリームなどは、この年で引退しても悠々たる暮らしぶり。アブダビの街のビルラッシュのみならずUAE国民の金持ちぶりにいまさらながら驚く。そういえば、言葉の端ばしから金のないオマーンを多少見下しているようにも感じる。帰りにはたくさんのお土産をもらう。こちらの、少しばかりの土産が恥ずかしくなった。

夕方タイトなスケジュールのなか、もう1人、アブダビでも有数の金持ちの友人宅を娘と2人で訪ねる。彼とは2年ぶりの再会。「これからアブダビに住む娘をよろしく」というのが訪問の趣旨であった。広大な彼の屋敷の別棟に住む、彼の長女夫妻にも娘を紹介してもらう。彼女の旦那とは昔からの知り合いで、彼女も昔見かけたことがあったが、素顔で、しかも話をするのは初めて。UAE大学卒の才媛で英語もオーケー。よく見ると、父親にそっくり。

子供は男の子と生後5カ月の双子の女の子の3人。別室で女同士で話をした娘の話によると、彼女は妊娠してからベルギーの病院に通い、その病院で出産もしたとのこと。「お金持ちね。アブダビからわざわざ外国に行って出産しているのね。日本人がアブダビで出産するなんて言いにくいわ」と娘が言う。これも国の金なのか、それとも金持ちの父親が出したのかは確かめなかったが、いまさらながらUAE国民のお金持ちぶりに驚く。オマーンのつつましやかさを思い知らされる、今回のアブダビ訪問であった。

アブダビ発0時30分、オマーン着1時25分のガルフ・エアーで帰着。真夜中の到着で、空港にタクシーがあるかどうかを心配したが、ちゃんと見つかり、無事に帰宅できた。

・16日(日)

広島アジア・オリンピック大会が無事閉幕。オマーンは善戦したが、結局最も期待されたサッカーがCグループ1勝1敗1引き分けの第3位で決勝トーナメントに出られず(Dまでの4グループの各2位までが進出)。

ホッケーはAグループで戦ったが0勝4敗で最下位。男子テニスのシングルスはオマーン選手権の覇者がインドネシア選手に6ー0、6ー0のストレート負け、射撃も不振に終わった。

オマーンのメダルはゼロ。参加43カ国中、32カ国がメダルを独占、オマーンはメダルを獲得できなかった11カ国に入る。

湾岸諸国の中でも、カタールが10個(金4、銀1、銅5)、クウエ ート(金3、銀1、銅5)とサウジアラビアが9個(金1、銀3、銅5)、アラブ首長国連邦が4個(銀1、銅3)のメダルを取っているので、オマーンの不振が目立つ。

オマーンのテニス選手の成績について、オマーンテニス協会の副会長が「今回の成績について別に驚いていない。彼はまだ15歳、今回は経験を積ませるために広島に送り出したのだ。11月の湾岸ジュニア選手権大会での彼の健闘に期待している」とコメントしていた。

これは一定のレベルに達しているサッカーを除いて、オマーンのスポーツ界全体に言えることで、政治や経済と同様に、着実に追いついて行けばよいと、少しも悪びれることがない。爽やかなスポーツマンシップを高く評価したい。

海亀見学ツアーへ

・20日(木)

今日20日は、日本人会のレクリエーション部主催の海亀ツアーに参加して、亀の産卵を見に出かける日である。

オマーンには世界で何番目というものがいくつかある。この海亀(アオウミガメ)の産卵場所もの規模の大きさで世界有数のもので、インド洋周辺では最大級の規模を誇っている。場所はスールから南へ約60キロ入ったラス・アル・ハッド、首都マスカットからは4百キロ強南にある。ここで、12年前からオマーン政府は、海亀の絶滅を防ぐための保護と研究を続けてきている。オマーンですでにタグ(しるし)をつけて海に放した海亀の数は2万5千頭にも達するという。

天気の心配はまったくなく、いつものように快晴。妻は朝早くに起きて、わが家用と独身の世話役の方の昼の弁当と夜食用のおにぎりの用意をする。こちらはゆっくりと起きて余裕十分。10時半の集合時間に集合場所のインタ−コンチネンタル・ホテルに行ったが、迎えのオマーン人のバスが到着していない。11時近くになっても、まだ来ない。いつもながらのオマーン時間に参加者がいらついてくる。同行の伊集院大使は「この前大使館でオマーンの車を頼んだら1時間待たされましたから、こんなものでしょう」とニコニコされている。

世話役の部員の方々が電話をかけた結果、オマーン人たちはガルフ・ホテルで待っていることが判明。集合場所を間違えたが、ちゃんと来ていただけでも上等、1時間遅れの11時半にマスカットを無事出発した。

参加者は子供3人を含めて男性15人、女性7人の計22人。車はバスが2台、荷物用なども含めた四輪駆動車3台の計5台、一路スールを目指して南下した。バスといっても、インド人やフイ リピン人のメイドたちが日常利用している15人乗りの乗り合いタクシー。自家用車を持っている日本人が通常乗ることはない。今日が最初で最後の利用機会となるだろう。しかし、エアコンもあるし、1993年型で結構きれいなものだ。

途中、マスカットから約170キロ地点のアル・カビール・ホテルとそこから140キロ先のスール・ホテルで休憩。スールで今夜のキャンプの設営・食事などの面倒を見てくれるオマーン人と合流。すぐに舗装道路と別れて、海辺のラフ・ロードに入る。

約60キロの道のりのなかばを過ぎる頃から、日が暮れかかる。左右は低い山。右手の山の端にかかる夕日と残照が美しい。

やがて海辺に出る。時間は6時半。すでに日が暮れている。ここが今回のキャンプ地のサイ・アル・マライ。

通常はラス・アル・ジュニスで産卵を見るのだが、海亀保護のため一晩の訪問者数を制限している。その日はアメリカ人グループ60人がすでに許可を取っていたので、ジュニスの方は許可が降りなかったが、日本人グループには特別にこの場所の許可を出してくれたという。

そこにはすでにテントが3カ所に張られており、先遣隊のオマーン人が数人、飲み物・食事の用意を始めている。「サラマレーコム」「アレコムサラーム」と挨拶を交わして、まずは荷おろしをする。

オマニ・コーヒーのサービスを受けるべく、あらかじめ砂の上に敷かれたマットに腰を降ろす頃、目の前の水平線に、真っ赤な大きな月がゆっくりと上がる。月というよりは小型太陽という方がぴったりの迫力だ。

ハルワ、オマニ・コーヒ−、それに果物が出される。その後は山羊肉のバーベキューと焼いた魚、サラダそれにホブス(アラビアパン)が用意された。

午後9時近くに、わざわざキャンプ地を訪ねてくれた地方自治省の自然保護局次長から、海亀の講義を受ける。

▽オマーンはアオウミガメの保護に世界的な役割を果たしている。

▽ラス・アル・ハッドはインド洋で最大級の海亀の産卵地である。(年間約1万頭)

▽オマーンでタグをつけた海亀が、ソマリア 、エチオピア、パキスタン、サウジなどで

観察されている。

▽生まれて30〜50年の海亀が1シーズン3回、生まれた海岸で各110個の卵を産  み、卵は約55日で孵化する。生まれた子亀はキツネ、カニ、鳥などの天敵に襲われ、成長する確率は3千分の1。

▽カメの体長は約1メートル、体重は平均136キロ。平均寿命はわからない。が、百年以上。

などの講義の中で孵ったばかりの海亀の子供が回される。まるでおもちゃだ。

懐中電灯、火などは炊かないこと、亀は後ろから観察することなどの注意を受け、一行はいよいよ海岸に出て海亀の産卵を待ちうける。というより、もうすでに数頭の亀が海岸に上がって、産卵のために穴を掘りはじめている。なかには、人の気配で途中で産卵をあきらめて海に戻る亀もいる。

満月に照らされた産卵

一頭がいよいよ産卵を始める。砂の穴のなかに、卵がぽとんぽとんと落ちる。今夜は満月、亀の目に光るのは涙であろうか。

海岸に出ると、波打ち際にいるわいるわ、カニの群れ。明るい月の光に照らされて、まるで踊っているようだ。砂の中から地上に這い出し、砂浜をよちよち歩いて海に戻ろうとする孵化したばかりの子亀を狙っているのだ。

これを突破するのは至難の業。ほとんどがカニの餌食になってしまう。何人かでカニを追い払うが、素早くてなかなか成功しない。Oさんはカニに捕まったばかりの子亀を救いだし、カニを追い立てながら、子亀の旅立ちを助けてやったことで大満足。

子亀観察は、あとは明朝五時頃が最適、とのことで、ベドウイ ンたちと踊りや唄を楽しんだ後、その夜は寝袋を持ち出して妻とならんで砂の上でゴロン。月明かりでなかなか寝つかれなかった。

・21日(木)

朝5時、薄暗い中を海岸へ繰り出す。砂の上のあちこちに、狐の足跡がある。ベドウイ ンたちがこの時間がよいと言ったのに、子亀の姿はまったくない。みんな、狐にでも食べられてしまったのだろうか。海岸を子亀の姿を求めて歩くうちに、すっかり明るくなる。

一頭の親亀に人が群れて一緒に写真を撮ったりしている。親亀は方向を失ったのか、陸の方へ陸の方へと進んでいく。日が上ってくるのに陸の方へと進んでは、甲羅が干上がって死んでしまう。

昨夜の次長の講義に逆らって、4・5人で亀の前に立って海の方へ海の方へと追いたてる。海まで3、40メートルはあろうか。しかも起伏がかなりきつい。亀も疲れる様子、休んでは進み、また休む。

あと海まで12、3メートル。最後の盛り上がった砂を越えればあとは下り。ようやく海に戻れる。「がんばれ!もう少しだ」。亀がそこを越え、一気に波打ち際をかけ下りて海に浮かんだ時には、思わず歓声が上がる。

オマーンの海亀保護の一翼を担って、しごく満足の朝であった。

くだんの自然保護局次長、あとで商工省の親戚の者に聞いたところでは、オマーン人に

しては珍しく独身とのこと、海亀が恋人になってしまったらしい。

・25日(火)

オマーン商工省とジェトロ共催のオマーン展が、今日の日本時間午後2時(オマーン時間の午前10時)から東京ではじまる。場所は池袋のジェトロの展示場。期間は11月8日までの2週間。

オマーンからの参加は6つの省庁および公共団体、民間企業31一社。今年ジェトロではエジプト、中国につぎ、湾岸諸国では初めての展示会である。

開会式にはオマーン側からも在日オマーン大使館はもとより、商工省からも次官・局長・課長その他、また民間会社からも10名余りが出席する筈。

ここまでこぎつけるには、日本側にオマーンに対して関心を持ってもらうことから始まって、開催決定までの資料準備と連絡、展示品の準備など関係者の多大の努力が必要であった。この展示会が3年越しのイベントであり、文化の違う者同士が一歩一歩理解を深めながらここまで来たのを知っているだけに、心から成功を祈りたい。

皇太子殿下の来訪決まる

・26日(水)

皇太子殿下および妃殿下のオマーンご訪問が昨25日の閣議で決定されると聞いていたので、今朝の新聞でまずその記事をさがす。一面にはない。「通常日本の皇室の記事は大きく出るのにおかしい。記事が間に合わなかったのかな」と二面をめくると、「ナルヒト、湾岸を訪問」という見出しが目に入る。

「日本の徳仁皇太子殿下および雅子妃殿下が、11月5日から15日の予定で湾岸4カ国をご訪問されることが発表になった。なお、これは結婚後初めての外遊である。徳仁親王は昨年1月にこれらの国々を訪問する予定であったが、湾岸戦争後の中東の流動的な状況のためにご旅行を取りやめられている」という趣旨の記事が、パスポートほどのサイズで載っている。扱いが小さい。昨年の中止が響いているのだろうか。ご訪問が近づくにつれてどんどんPRされるはずだから、それを期待したいものだ。

昨日から日本で始まったオマーン展と本日のオマーン・セミナーは大成功とのこと。オマーンの式典には主催者のオマーン商工省とジェトロのほか、役所、民間からVIPを含む百名を超す来賓が出席。とくに、セミナーには予想の3倍を越す180人もの方々が出席して盛況だった、とのこと。すべりだしはまずは上々、何よりである。

今日から、ペスト騒ぎで運航中止となっていたインド便が再開されるという。また、サウジアラビアを除きUAEやカタール、クウエ ートは昨日から再開されたとのこと。インドからの乗客にはまだ厳しい入国審査が課せられるもようだが、休暇などでインドに帰っていたボーイやメイドなどもこれで帰ることができてほっとしていることであろう。

皇太子殿下のオマーンご訪問の記事は二面であったが、「ニズワ近辺でそこそこの雨、マドハ近辺で豪雨があり、ワジが氾濫した」とのパスポート・サイズの記事が一面に載っている。今年はこのところよく雨が降る。

・27日(木)

「昨日イブラ、アル・カビール方面に豪雨があり、ワジが氾濫した、雨は2時間以上降り続いた」との記事あり。

ラクダ一頭、六百万円也

・31日(月)

「マスカットより220キロ南のアダムでレース用のラクダ3頭が7万5千リアル(約1千9百万円)で売れた。百頭のラクダが参加したレースで、3頭が勝った後で売買が成立した」との記事が一面に載る。2千CCクラスの日本車が百2、30万円、四輪駆動車が2百万円で買えることから考えると大変な金額だ。これらはベドウインたちにとって大変な収入となる。買ったのはオマーン人ではなくて、アブダビ、ドバイなどのUAEの人かもしれない。

この地域ではオマーンのバテイ ナ地方産のラクダに人気が集まるとのこと。私が「ラクダ牧場」の創設、ラクダのサラブレッドの生産を、国としてもっと奨励できぬかと考える所以である。

ここはイスラムの国だから、賭博は禁止されている。ラクダ・レースにも賭ける人はいないが、優勝したラクダには賞金と商品が渡される。レースには速いラクダを見つけだすという目的もある。だから、3頭はレース後に高く買い取られたのである。