9 オマーン人化
―自立に向けて新学期がスタート
・9月3日(土)
今日から新学期が始まったことを新聞が伝えている。
日本では新学期は4月にはじまるが、オマーンでは欧米と同じく9月から新学期が始まる。今年は全国932校で、47万6986名、うち女子学生22万9206名が新学期を迎えた。新入生が5万3625名で新しく開校した学校が33校である。カブ−ス国王が王位に就いた1970年の男子校3校、生徒数909名、と比べたらその近代化の度合いは一目瞭然である。
新聞によれば、新学期にあたって教育大臣の昨年度の成績優秀、品行方正の学生の表彰、先生方の努力に対する謝辞で始まったと報じている。オマーン人化を目指す国王の期待に沿うべく、人生で最も大切な日を迎えたオマーンの学生の健闘を祈りたい。
・5日(月)
学長を兼務する高等教育大臣が出席してオマ−ンの最高学府スルタン・カブ−ス大学の
入学式が今日行われる。同時に昨年度の優等生の表彰も行われた。
大臣は「この大学への入学は名誉よりも大学の崇高な目標を達成する義務を負ったのである。先輩達の築いた学業、学風と国の内外でのこの大学の高い評価を汚さぬよう励んでほしい。また、この大学には学生の期待に応じるべくあらゆる設備が整っていること、この大学の使命は単に学問的な研究をするだけではなく、大学、とくに学生とオマーンの一般社会との相互交流を大切にしている」と訓示した。
この大学は、第10回目の建国記念日にあたる1980年11月18日に国王が創立を発表し、1986年9月に開校した。現在、教育学部、医学部、工学部、農学部、芸術学部、経営学部があり、学生数は約3千6百名、うち65%が女子学生となっている。
この栄誉ある大学への入学は、毎年5月末から6月初めに全国一斉に行われるGSCC(高等学校総合検定試験)の成績によって決まる。情実は全くなし。したがって、この成績発表に、オマーンの受験生、父兄達は一喜一憂する。この大学に進学するために必要な得点は年々高くなり、いまは80%以上でないと入学できない。また、いずれの国でも事情は同じで、ペーパーテストは女性上位でこの対策が1つの問題となっている。
この大学ができるまでは、オマーン人は国費で海外の大学で学んだ。だが、大学が出来てからは、海外留学は大学院や大学にない学部に学ぶ場合などに限られるようになっている。
・8日(木)
新聞によると、昨日内陸部のニズワ、ハムラ、ジャベル・アハダルに大雨が降リ、サマッド・アル・シャ−ン、サニナにも雨が降ったことを、例によって一面左側のかこみで報じられる。1昨日の6日にもハムラ、バハラに大雨、オマーン最高峰のジャバル・シャマスにも降雨と報じられた。このところ内陸部は連日の雨、なによりのことである。
・10日(土)
いつも朝食時に読む新聞で、一面のかこみ記事に目をやると、やはり「地方で大雨」との見出しで降雨の記事があった。「今日も長崎は雨だった」というのは、日本のこと。ここでは「今日もマスカットは晴れだった」という土地柄、雨の記事は必ず載るのである。
「昨日、アワビ県とサマイル県に激しい降雨があった。アワビではワジ・バニ・カルースも含め多数のワジが洪水で氾濫した。また、ナハル県やダンク県でも降雨が見られた」というのがその内容。私がこの記事の出るのを期待していたのは、たまたま昨日アワビの近くへ行っていたからである。
豪雨のアワビ地方を迂回
アブダビの石油会社で働いている次女の旦那が、7日の水曜日から週末の休みを利用してオマーンに遊びに来た。そこで、早速わが家特選の2泊3日コースの観光メニューで案内をすることにした。初日の夜はマスカットの夜景案内とアラブ料理を御馳走し、2日目にあまり遠くはということなので、ナハル城とルスタック城の見学ということにした。妻は日本にいて不在なので2人で出かける。
マスカットを出たのが午後1時半すぎ、当然天気は晴れ。「少し風が強いかな」という感じであったが、ナハル城まで約百キロのドライブは快適であった。国際免許を持参した息子が運転をしてくれるので当方は楽チンである。
ナハル城はテレビ撮影のために入場を制限していた。だが、なんとか頼みこんで入れてもらう。見学を済ましてから、お城の裏手に拡がるデ−ツ林の中を通り、アソワラ村の村はずれの渓流を訪れる。
そこでは、あちこちの岩の割れ目から流れ出す水、というよりは温水が渓流に流れ込んでいる。渓流の幅は、5、6メートル。この渓流の上流にある岩の割れ目からも同じように温水が流れ出しているに違いない。
河原の一角ではオマーンの若者達の一団が太鼓をならして踊っている。渓流では小さな子供達がぴちゃぴちゃと水遊びをしている。女の子も混じっている。泳いでいる子もいる。岸辺の木陰では何十頭という山羊が草を食んでいる。砂漠だけの他の湾岸の国では見られない、心安らぐオマーンだけの光景である。アブダビから来た息子は「ここは好きだなあ」といたく感心の様子。
まだ日も高かったので、我々はさらにナハルから50キロ先のルスタックに向かうこととした。20キロ程走ったアワビを通る頃から、左手の山に雲が広がりはじめ、風がやや強くなる。この山は奥にある3千メートルを越すジャバル・シャマス山の前にある山だが、2千メートル近くの高さはあるのではなかろうか。その頂きから真っ黒な雲が広がっている。
われわれは構わずに車を飛ばしたが、ルスタックの町に入る頃にはすごい風が吹きはじめる。竜巻のように、砂ぼこりや紙屑などが舞いあがっている。この風がやむと雨が来る筈だ。ルスタックの城は修理中のために入れず。城のまわりの古いスークと温泉をそそくさと見学して帰途につく。時間は午後の5時すぎである。
ルスタック周辺の山の頂きは、すでに真っ黒な雲で覆われはじめている。アワビの方の高い山も崩れた真っ黒な雲ですっかり隠れてしまった。雨が降っているに違いない。
さて、マスカットに帰るのに同じ道を引き返すか、それとも多少のまわり道になるが雨を避けて早く海岸沿いの道にでるか。岩山に降った雨が滝のように斜面を流れ落ち、ワジが瞬時に鉄砲水で溢れかえる風景など、滅多に見られるものではない。とはいっても、鉄砲水に遭うと四輪車でも流される、という。怖いのは十分承知だが、またとない絶好のチャンスである。
2人でさんざん迷ったあげくにやはり安全策をとって、山から離れた海岸沿いの道を帰ることにした。あの時、本当に雨が降りだしていたのかどうか、確認しようと待っていたのが、この記事である。やはり、あの時アワビに大雨が降り、あちこちのワジに鉄砲水が流れ込み大洪水となったようだ。海岸通りを選んで帰ってきたわれわれの判断がやはり正かった、と胸をなでおろす。
今年の夏は内陸地方は雨が多い。7日も、ハムラ県、バハラ県で豪雨、ジャバル・シャムス山でも相当量の雨の記事があった。8日もニズワ、ハムラ、ジャバル・アクダル山脈では豪雨、サマッド、サニナに相当量の雨や連日降雨の記事が出る。喜ばしいことである。
ちなみに、われわれがルスタックを通りすぎている頃、UAEとオマーンの国境付近のハッタでも大雨があった。ワジで遊んでいたスリランカの若い男女7人が、鉄砲水に巻きこまれて死亡した痛ましい事件が発生している。
・12日(月)
サレハ・イエメン大統領がオマーンを訪問。サラーラにてカブース国王とイエメン情勢、オマーン・イエメン間の友好関係の一層の強化、促進について意見交換をして同日オマーンを後にした。国王は空港で出迎え、また見送りもしている。
新聞に、廃村の保存計画についての文化遺産省課長談話が載る。概要以下の通り。
「ソハール知事を勤めた後、1744年にイマームに選出されて現王朝の始祖となったアハメッド・ビン・サイード。彼の家があるアダムの村を復元すべく検討が続けられている。この村の家々は2百年以上前に建てられたもので、今は人は住んでいない。傷みが激しく緊急に手を加える必要がある。
省では他にもイズキ、イブラの廃村の復元を検討している。文化遺産省ではこれまで数々の城や砦の修復を行なってきたが、村全体の復元は初めてである。また、ちかぢか2百年前のマトラの豪商の家、マトラ城、ニズワの古い東スークの修復も計画している。世界遺産に指定されているバハラ城の修復も2年後には完成する見込みであり、城関係ではイズキ、ハズム城等の修復も順調に行われている」
そう裕福でもない国なのに、この国は文化遺産の保護に本当に熱心である。いつものことながら感心させられる。
オマーン人化の現状と目標
・14日(水)
イーサーイ社会労働相が二つの大臣決定を発表したことを新聞が伝える。
1つは、オマーン人の雇用斡旋事務所開設に関するもの、もう1つは民間企業の1996年末までのオマーン人化達成目標比率である。それによれば、オマーン人化達成目標比率は、
・運輸・倉庫・通信
60%・金融・保険・不動産
45%・工業
35%・ホテル・レストラン
30%・卸売り・小売り業
20%・請負業
15%と定められている。
今年末までに該当する会社にオマーン人化の計画を提出するよう求め、当該期間にオマーン人化目標を達成できない会社には罰金を課すことも決めている。高等学校を出ても半分は就職できない現状で、若者の就職問題がオマーン最大の社会問題となっている。当然の措置であろう。
昨年の国政調査でオマーンの人口は約2百万人、その中オマーン人は約150万人、外国人50万人。オマーン人比率75%、しかも15歳以下の人口が半数以上。隣のUAEの場合は全く逆、つまり人口2百万人で自国民の比率は20%にも満たない。8割は外国人である。しかも、国の富が違う。GDPでいえば、UAEはオマーンの約3倍はある。オマーン人の生活向上のためにも、オマーン人化率を高めることは、国の最大の課題となっている。
なお、1992年の主たる分野でのオマーン人化率は、
官庁
64・2%公団・公社等
81・7%石油会社
62・3%銀行
76・0%保険
31・0%ホテル業
17・5%であった。
猛暑の日本よりオマーンは涼しい?
家の窓から見える海の景色が、今日はあざやかである。暑い間は水蒸気が立つせいか景色がけむって見え、通常は冬場に入って景色がはっきりして来る。今日の景色はひときわあざやかである。今年は涼しくなるのが早いのだろうか。
今年のオマーンは7月、8月ともそう暑くはなかった。マスカットで7月に最高温度が40度を越えたのは2日間だけ、しかもそれが40度と41度、8月も2日間だけで各42度と41度。各最高温度が35度以下の日が3分の1以上あり、今年はひょっとすると猛暑に襲われた日本より涼しかったのかもしれない。
9月に入ってさすがに暑さはややぶり返したが、40度を超えたのは1日だけ。夕方はうんと涼しくなり、最低温度が30度を超えたのが3日間だけである。中には、22度まで下がった日もある。温度が下がったのと、今年は特に内陸部で雨が多く、その雨でほこりが流されているせいか、風景があざやかに見える。
本日の新聞によると、昨日の午後内陸部の広い地域で、相当量の雨があったとのことである。13日にもサマッド・アル・シャンは激しい雨に襲われたというの記事が載っていたが、これらの雨がほこりを落とすのに役立っているのだろうか。
・19日(月)
石油鉱物省のアル・ヒナイ・ガス・石油工業局長がOLNG社のプロジェクトについて、「プラントの設立場所はスールから7キロのガリラとなり、必要人員の2百名〜250名のうちオマーン人は140名、その募集は来年早々から始まる。設置場所が従来のビマからガリラに移ったのは、ビマースール間は40キロあり、ガリラの方が経済的である」と発表した。
OLNG社には、オマーン政府、シェル、トタール、パルテックス社の他、三井物産、三菱商事、伊藤忠の日本勢も参加しており、プロジェクトの内容は、オマーン内陸部より長さ4百○キロのパイプラインを敷設して、LNGをガリラに運び、そこに建設される装置で液化して輸出しようというものである。生産量は年間620万トン、総工事費は90億ドル、輸出開始年は2千年」。
今月14日に、株主がマスカットに集まり、OLNGの役員の選出も終えたようである。計画通りに実現の運びとなるかどうか、まだまだ越えねばならない山はたくさんあるものと思われる。このプロジェクトは21世紀のオマーン経済を決定づける重要なもの。良い結果が出るよう祈りたい。
27日に、妻に付き沿われて次女とともに孫の悠太朗がオマーンに来る。横浜の留守宅のFAXの機械を、今日取りはずしてしまうと聞いたので、悠太朗に以下のFAXを入れる。
「悠太朗君
だいぶ大きくなり、またいろいろとわかるようになった様子。早く会いたいものだ。旅立ちはいよいよあと1週間後。生後4カ月半で、17時間近くの飛行機の旅をしようというのだから大したものだ。離着陸時に少し耳が痛くなるかも知れないが、君なら耐えられる。こちらの準備は万事整っている。もちろん必ず空港に出迎えにも行っている。とにかく無事の到着を待っている。
追伸
グランパの生まれた所は、新潟県東蒲原郡三川村大字上綱木といって、新発田市より約30キロほど入った新潟県と福島県の県境の山間部の村だ。私が生まれて1ケ月後に、父の決断で一家が綱木から新発田に引越したのだそうだ。つまり、グランパも生後まもなく大旅行を経験したのだよ。貴君の今回の飛行機の旅もこれとダブらせて考えている。同じ牡牛座だから歩む道が似ているのかもしれないな。頑張れ悠太朗!と切に祈る」
・21日(水)
「最近の雨で貯水量が増加」と今日の新聞に載る。それでも、「日本では九州、四国地方が渇水で苦しんでいるのにオマーンでは水が潤沢」と書くほどには到底至らない。オマーンでは、水はいくらでも欲しい状況なのである。記事の内容は以下の通り。
「最近の雨で地下水が増加している。8日の洪水でワジ・アル・ジジダムの貯水量は86万立方メートルに、ソハール近くのワジ・ハイルテイ・サラヒダムは6万立方メートル、ワジ・アヒンダムは85万立方メートル、アル・ハラダムは38万立方メートに達したと推定される。これらはいずれも海岸部にあるダムであるが、内陸部のワジ・アル・カビールダムでも貯水量が6万立方メートル、タヌーフダムでは150万立方メートルに増加した。山岳部のジャバル・アハダル地域のダムはほぼ満杯となった」。とても良いニュースである。
山羊の丸焼き
・22日(木)
今夜、メヘデイ計量規格局長の自宅に招待される。計量規格局に着任した新しいJICA専門家を歓迎するのが目的のパーテイ
ーである。大使館関係者、それに我々JICA専門家、それにオマーン人カウンターパートや局長の親戚の顔見知りのオマーン人ビジネスマンなど総勢12、3名が集まった。家はアル・クエールの住宅地の一角。オマーンにある家としてはさして大きくはないが、それでも日本の家と比べればゆったりとしている。玄関を入ると、奥さんが子供たちともども出て来てわれわれを迎えてくれる。初対面の奥さんが出て来る、ということなどは他のアラブの国ではありえないことだ。
約20畳ほどの応接間で局長宅特製のヨーグルト入りのジュースなどを御馳走になりながらしばらく歓談した後に、広い廊下をはさんだダイニング・ルームでの食事となる。今日の食事は山羊の丸焼き、例によってじゅうたんが敷かれて、その周りに人々が輪になる。
私にとっては久しぶりの山羊の丸焼きである。楽しみだ。最初に羊の丸焼きを食べたのは今から20年以上前、アブダビの砂漠のベドウイン部落。大きな金盤一杯のサフラン入りのライスの上に鎮座した丸焼きの羊は頭がそのまま付いていて、われわれをにらむかのようであった。
その後、アブダビの知人宅で何回となくご馳走になった羊の丸焼きも頭が付いていて、その目玉や舌などを客に目がけてポンポンと放ってくれたものである。その後各地のホテルのパーテイ
ーなどでも丸焼きには何回となく遭遇したが、出されるものは客に食べやすく調理されており、こういう野趣がなくなってしまっている。今日は私的な集まりなので、久しぶりにあの豪快な丸焼きにお目にかかれるかもしれない。今日のサーブ役はアリ工業局長、主人のメヘデイ局長はジュースなどの飲料や食器の配給などの細々した仕事を分担。いかにオープンでも、食事は男だけ。奥さんと子供たちは別である。金盤に入れられて運ばれた丸焼きは、砂漠のものとはかなり異なる。アラビア語で「ラハム・マッシュ」と言われる山羊の中に詰め物をして焼いたもの、欧米のダックの詰め物と同じものである。毛の付いた頭が乗っているわけでもない。アリ局長がナイフとフォークを使って器用に全員にサーブをしてくれる。
さすがオマーン、昔から外に開かれた国、こんな洗練された羊の丸焼きを食べているのかと感心させられる。と、同時に、ややがっかりさせられるものもある。
「歴史にみるオマーン」
・24日(土)
文化遺産の年、1994年の一行事として今日からスルタン・カブ−ス大学で「歴史にみるオマーン」と題した4日間セミナーが始まった。主催は情報省である。
文化遺産省大臣のファイサル殿下は開会宣言の中で、今回のセミナ−によって科学的な事実が明らかになり、文化遺産省が保管する巻物や書物に記された史実が立証されることを期待すると述べた。
今日の研究発表はヨルダン、ダマスカスなどアラブ各国の大学教授による「アラブ地理学者による本に見るオマーン」、「オマーンの政治地誌上の主要素の考察」、「イスラム以前のオマーンの成長と発展」、「シュメールとオマーン」、「メソポタミアとオマーン」の5つ。アラビア語が出来れば、出席したい演題ばかりである。だが、アラビア語が分からない、また仕事があるのでは仕方がない。これから四日間、どんなことが明らかになるのだろうか。
日本では、たまたま26日から3日間の予定で10チャンネルの久米宏氏の「ニュ−ス・ステーション」で立松和平氏のオマーンレポートが放映されるとのこと。このレポートは昨年秋口にオマーンで撮影されたものであるが、たまたま立松氏の盗作問題が起きてお蔵入りとなった分である。
10月には日本でオマーン展示会・セミナーが開かれるので、その宣伝としては最高のタイミング、親戚・知人に見てもらうように日本に電話をかけまくる。どんな内容のレポートになるのだろうか。
・26日(月)
本日、オマーン・インドの両国が1993年の覚書調印にひきつづき、インドに天然ガスを供給するプロジェクトの基本契約に調印した。
プロジェクトの内容は1999年半ばから24インチの海底パイプラインで1、130キロ離れたインドに深さ3千5百メートルのアラビア海経由で10億立方フイート/日のガスを供給しようというものである。工費は28億ドル、約2千8百億円。その後パイプラインもう1本を50億ドルで敷設することになっている。
すでにF/Sも終わっており、現在詳細について検討を行なっていて、ガス供給契約を1995年7月に調印する予定になっている。現在世界で最深のパイプラインで8百メートル、3千5百メートルという深さはとてつもないものである。技術的、また資金的な問題もあり、実現するかどうかは微妙と思われる。
・27日(火)
カブース大学で土曜日から開かれていたオマーンセミナーが今日で終わる。
第2日以降の研究発表のテーマは、2日目が「預言者の同志マズンとオマーン人のイスラム」、「預言者出現当時のオマーンの歴史」、「イスラム初期のアラブ・イスラム国家とオマーンの関係」、「ヒジュラ暦初期のインドでのオマーン人」、「イスラム初期のオマーン人」、「古代・中世期のオマーンとイエメンの関係」、「中世時代の旅行者が見たオマーン」、「マグリブ諸国へのイスラム布教におけるイバード派の役割」、「オマーンと北アフリカの関係」、「ヒジユ
ラ暦4世紀におけるオマーン貨幣の果たした政治・情報上の役割」、「中世のオマーンと東アフリカの通商関係」、「イスラム時代のオマーンの建築」、「アラブ・イスラムの主体性の持続に果たしたオマーンの役割」、「オマーンのポルトガル放逐−近代における最初のアラブ世界の勝利」。3日目が「ポルトガル支配からの脱却」、「ブサイデイ王朝の興隆ーその原因と結果」、「近代におけるオマーンと東アフリカの関係」、「18世紀におけるオマーンのバスラ支持」、「18世紀後半のオマーンとフランスの関係」、「19世紀のオマーンとアメリカの関係」、「アラビア湾岸およびインド洋におけるオマーン海運と通商の発展」、「英国文献に見る英国とマスカット・ザンジバルの分割」、「オマーン帝国の分割」、「1871〜1888年のオマーンの対外関係」、「トルキ王の治世」、「現代のオマーン」。
4日目は、「オマーン海軍」、「オマーンと極東及び東アフリカとの貿易」、「ブサイデイ王朝の通商と航海の発展」、「イスラム時代の南の海の支配者、オマーン船乗り」、「オマーンの城と砦ー理論と実際」、「オマーンの政治の中心都市」、「ブサイデイ王朝期オマーン文明の東アフリカへの影響」、「東アフリカへのオマーンの文化的影響の特質」、「オマーンの蔵書」などと盛りだくさん。
文化遺産年の行事として開かれたこのセミナーは、過去にオマーンのアラブ及びイスラム文明の発展に果たした役割の再認識、オマーン国民の自覚に役立ち、さらなる発展への一層の努力のためのエネルギ−源になるものと思われる。
3世代がアラビア半島に
今夜10時20分、タイ航空で孫の悠太朗がマスカット空港に到着。生後141日目の飛行機による大旅行である。娘一家の赴任地はアブダビであるが、出産時から日本で娘に付き添っている妻に娘と孫を送らせようという計画であった。だが、JICAの手続き上の問題があって、マスカット経由でアブダビに入ることとしたのである。
3カ月半の赤ん坊にとっては、日本からオマーンへの旅は大変な旅行であろう。特に離着陸時の耳への負担など心配が絶えなかったが、娘に抱かれて出て来た悠太朗は元気な様子。夜更けにもかかわらずちゃんと目を開けて周りを無言で見ている。ひと安心。後には、妻とたまたま飛行機が一緒であった日商岩井のI所長が乳母車や除湿機などの荷物をぶらさげて続いている。無事に着いて本当によかった。
悠太朗親子がオマーンに着いて、私はアラビア半島に3世代で暮らす多分唯一の日本人となったのである。わが家のフォ−メイションも今日からはイギリス(長女夫妻が在住中)、中東(私ども夫婦がマスカット)、中東(次女夫妻がアブダビ)となった。来年1月にわれわれが日本に帰国すると、また、日本、イギリス(長女夫妻)、中東(次女一家)に戻ることになる。