5 ハッジ月ー
巡礼を送る巡礼は生涯の義務
・5月1日(日)
今日から5月、途中からイスラムのハッジ(巡礼)月に入る。イスラムの各月は太陰暦で決められるが、西暦カレンダーで言えば、5月12日から6月9日がハッジ月となる予定である。
予定というとややこしくなって了うのだが、新しい月の始まりと終わりは月が見えるか見えないかによって決定する。今からは決められないのだから、こう言わざるをえない。巡礼はイスラム教徒にとっては(1)信仰告白、(2)1日5回の礼拝、(3)貧しい人たちへの喜捨、(4)断食に続く第5番目の大切な柱となっている。イスラム教徒は、できる限り一生に一度はメッカに巡礼に行くよう義務づけられている。これが、ハッジである。メッカはサウジアラビア西部にあり、イスラム教徒が日に5回、遥拝している場所である。
信者たちは、ハッジ月の第8、9、10日目に、男性は縫わない2枚の白布を、女性は身体全体を隠すドレスをまとい、カーバ神殿の周りを7回、サファとマルワの間を7回通り抜ける。またいけにえをほふるなど、決まった行を行う。ひたすらアラーの神を念じ、帰依の心にうちふるえ、一生忘れえぬ感動を経験するのである。
そういえば、昨日からカウンターパートのサレーが3週間の休暇をとってアブダビに行った。今年ハッジに出かけるアブダビで宝石商を営む伯父一家の留守中の店番のためである。
もう各国から、かなりの数の巡礼の人びとがメッカに集まりはじめているようだ。新聞発表ではすでに25万人を超え、最終的には百万人を越すであろうとのことだ。
本日、退庁時に出口で観光局のサレム、運転手のムバラク、モハメッドらにばったり会った。「マッサラーマ(さようなら)」と声をかけると、ムバラクが「俺、頭を剃っちゃったよ」と言ってかぶっていたマサラをとってツルツル頭をなでている。ハッジに行くためだが、これでは日本のお寺のお坊さんと同じ頭だ。
夜11時20分発のタイ航空で妻が次女のお産のために日本に一時帰国をするので、空港に送りにいく。妻も一人旅には慣れているものの心配であった。だが、たまたま休暇で帰国する日商岩井のI所長と一緒なので途中なんの心配もない。
逆にIさんから「遠藤さん、お独りで大丈夫ですか。私が奥さんと一緒で悪いみたい」と言われて、「これから当分独り暮らしなのだ」という実感がどっと湧いてくる。
次女のお産の後、次女の旦那がアブダビ転勤になる。産後の次女と赤ん坊の世話、転勤の準備の手伝いのため、妻は当分オマーンに帰ってこれないことになる。これからの長い独り暮らしが思いやられる。
・2日(月)
新聞に、「昨日ニズワとマナ地方に豪雨が降り、あちこちで洪水になっている。また、4月30日にもニズワ、ジヤ
バル・アハダルの山岳地帯、それにイブラでも激しいにわか雨があった」と伝えている。中東では、雨は立派なニュ−スなのである。イエメン内戦が勃発
・7日(土)
新聞はイエメンで内戦が始まり、アデンから外国人が撤退しはじめたことを伝えている。南北の戦闘は4日、先週水曜日から始まったが、昨日が金曜日で新聞が休刊のため本日の報道となっている。
先月末に旧南北イエメンによる衝突が散発的に発生して不穏な情勢が続いていた。5月4日夜には再度の軍事衝突が発生。5日朝には旧南北イエメンの空軍機が各サヌア、アデンをはじめ主要都市を相互に攻撃するとともに、各地で両軍が戦闘状況に突入するに到った。
イエメン政府は同日非常事態宣言を発表、またビード副大統領を解任した。北は一気に南部の首都アデン攻略を目ざして南下し、各地で南と激しい攻防を繰りひろげる。アデンからは、すでに外国人の撤退が始まっている。
アブダビ発の報道として、イエメンの石油生産量が32万バーレルと少なく、3分の1が国内で消費されているため、内戦の勃発は石油の値上がりにはつながらない、と伝えている。確かに石油情勢にはあまり変化がないかもしれない。
一昨日、イギリスに在住する娘から「パパ、大丈夫?」との電話をもらった時に「2千キロも離れているから大丈夫」と言っておいた。ここマスカットでは何事も平常でまったく影響がない、といった感じである。しかし、なにしろ隣国であり、しかも人種的にもつながりの深いイエメンのことである。だが、何事にも慎重で万全を期すオマーンのこと。国境地帯にはもちろん軍を派遣して状況を注視しているにちがいない。
オマーンの立場として「戦争の勃発は悲しむべきことである。木曜日にサヌアとアデンのイエメンの同胞に、流血を避けイエメンの尊厳と利益を守るため、戦争の停止を促した。両当事者が戦争より政治的対話に戻ることを熱望している」旨を新聞は報道している。平和を希求するオマーンとしては、いつも通りのコメントである。
今日の新聞によると、昨日のマスカットの最高気温は44度、今年の最高である。5月に入って37度台を上下してきたが、一挙に7度の上昇。真夏でも最高に近い気温だ。
この気温が続きはしないと思うが、一進一退をくり返しながら最高の暑さに近づいていくのだろう。最低気温は33度。こちらの方も、今年最高の気温であった。
・8日(日)
昨日、1月に次いで国王が自ら閣議を主催し、諸般の問題についてオマーンの立場を以下のように述べたと新聞は報じている。
イエメン問題については、「イエメンの流血の惨事は遺憾であり、憂慮にたえない。イエメンの同胞たちよ、統一を維持するための自制と対話を、また戦争とそれによってもたらされる被害を避けてほしい、そしてイエメン国民が営営と築きあげてきたものを破壊しないように」と呼びかけた。
中東和平については、和平プロセスの促進努力を高く評価した。国内問題については、開発プロジェクトの再評価、優先順位の決定の必要性を強調した。
同時に、国民に今日の変貌する世界の情勢について知ってもらうことが肝要であり、国民はこれによって新しい事態を的確に把握し、わが国の遺産、価値、伝統に有用で合致するものを選択しうる。また、開発計画を常に見直し、わが国の天然資源の有効利用を図って最良の結果を得ることができるだろうと話した。
国王はまた生産の増強、国内外の投資促進に関しても言及し、出席の大臣に引き続いての努力を指示した。新聞は本日からイエメン版一面を特別に設けて詳細を報道しはじめている。戦争がおこって4日目の今日は陸および空の戦いが拡大し、外国人の本格的な撤退も始まったもよう。
「オマーンに友達を」
新聞はまた、昨日アル・ブスタン・パレスホテルで14カ国が集まって「オマーンに友達を」というスローガンで国際観光会議が行われたことを伝える。
観光は私がいる商工省の管轄。マクブ−ル商工大臣が国王の指示にしたがって、今後観光に力を入れると演説している。「知られざる国オマーン」は私に言わせれば、「歴史のある国」、「景色のきれいな国」、なによりも「インターナショナル・マインドの国」、「人柄のよい国」、「香水とバラの国」である。観光開発の可能性は十分に望めると思う。
「中東の北欧」といわれるムサンダム地方、3千メートルのジャバル・シャマス山を擁する内陸部、モンスーン期には緑一色になるサラーラ地方など。それにすべての種類の砂漠が楽しめるワヒバ砂漠、マシーラ島、アラビアン・プレートが乗ったままの地層、海亀の産卵地、野鳥のサンクチュアリー、宇宙衛星で発見された古代都市ウバール、5百以上の砦やお城。見るものには事欠かない。この面でのオマーンの今後の健闘を心から祈りたい。
・9日(月)
昨日何千人もの外国人が空路と海路でイエメンから撤退した、と新聞は報じている。フランス、ドイツ、アメリカなどが飛行機、軍艦などを派遣して自国民および外国人の撤退にあたったという。われわれの仲間であるJICA(国際協力事業団)の専門家も他国の手助けでどうやらイエメンを脱出したらしい。
無事脱出は喜ぶべきであるが、いつものことながら、こういう危機状態で日本の政府は頼りにならない。中東でも1975年のベイルート紛争、79年のイラン革命、90年の湾岸戦争と、日本人が戦争のため撤退せざるをえない状況があった。
ベイルートでは私も当事者であったが、そのおり欧米などは自国の艦隊が沖合で待機していた。こちらは民間救援機での脱出。危険が差し迫っている時には、やはり民間機では少々心もとない気がした。今回も日本人は他国の援助を仰いでいる。何とか海外の日本人が安心して働けるように、緊急時の対策の強化を考えてもらいたいものである。
本日、アラウイ外務担当相が10日に行なわれるマンデラ南アフリカ新大統領任式典に参列のため、オマーンを出発した。オマーンは、ヨハネスブルグと台湾に商工会議所の事務所を設置している。
孫の誕生をハンバーガーで祝う
・10日(火)
午前9時すぎに、日本に帰国している妻から役所の方に電話が入る。今朝も家を出る前に、妻から「普通分娩がむずかしくなり、日本時間の12時半から帝王切開をする予定。生まれたらすぐ連絡をする」という電話を受けており、心配しながらいまかいまかと待っていた初孫誕生の電話である。
「12時58分に無事生まれました。2958グラムの男の子。智子も赤ちゃんも元気、大丈夫よ」と妻のうわずった声。ほっと一安心をする。
早速12二時より、役所で初孫の誕生祝いのパーテイ
を開く。オマーンでは、おめでたいことのあった人がお金を出して、みんなにごちそうをするのがしきたりだ。今日は、私がマクドナルドのハンバーガーをしこたま買いこんだ。マクドナルドが開店してからは、ピザ・ハットのピザはとんと買わなくなって、パーテイ
はもっぱらハンバーガー。アラブの人は新しいもの好きで、マクドナルドの方が人気があるようだ。夜、自宅よりわが初孫に以下の誕生日メッセージを送る。もともとの初孫の予定日は4月30日、私の誕生日に生まれるはずであった。それが遅れて、次女の旦那の弟と同じ5月10日となったので、文章はややひがみっぽいものとなったかもしれない。
「Mr.Grandson(名前をまだ聞いていないので失礼)
まずは無事に出てこれておめでとう。この世に出てきた気分を聞きたいのだが、無理かな。そうだ日本語も英語もこれからなんだ。先が長いからゆっくりと気長にやってください。
予定日の4月30日に出てくるかと思ったら、叔父さんと同じ5月10日に誕生日を調整したのは、何か魂胆ありや。マラック(カウンターパートの女性)は5月10日はとってもよい日だと言っているし、それにわれわれは同じ牡牛座だからまあいいか。深く詮索することもなかろう。
こちら少し理屈っぽいGrandpaかもしれぬがどうぞよろしく。
これからはパパやママの言うことをよく聞いてすくすくと育って下さい」
・12日(木)
本日は木曜日。民間は休みではないがわれわれ役所は休日。
新聞で南部のシャルキヤ地方で1億2千万トン規模の石炭鉱山が、マスカットの近くでも6百万トンの山が見つかったと報じている。「えっ、砂漠で石炭?」といぶかる向きもあろう。だが、ここは砂漠もあるが、山国という方がよいかとも迷うほど、山があり鉱物資源にもそこそこ恵まれている。
特に4、5千年前からのソハール近辺での銅の生産は有名である。だが、オマーンでは現在、銀、石灰石、クロマイト、また大理石なども生産されている。少量ながら、今年は金の生産も始まるはずである。今後は、ドロマイト、カオリンなどの生産も有望視されている。
オマーン日本友好協会の集い
午後5時よりオマーン・日本友好協会主催のオマーン人・日本人懇親会が開かれるというので出かける。場所は空港手前の海岸沿いにあるオマーン・エアーのリクリエーション・クラブ。広大な土地に、さほど大きくはないがちょっとした建物が立っている。
日本人では幹事役の大使館のIさんを除くと私が2番目の到着。オマーン人の方はすでにかなり集まっている。オマーン・日本友好協会事務局長のクサイビ閣下も、わが省のスネーデイ工業局長もすでにきている。顔見知りのハルブやハミース、それにアハメッドたちも来ている。ご婦人たちや、子供たちもかなり集まっている。スーダン人、インド人もいるが、オマーンの奥さんも半分を占めている。今日は珍しく女性が多い。
飲み物を飲みながらひとしきり会話を楽しんだ後、スイカの代わりにひもに吊るした缶を叩く競技、綱引き、スプーン競争、椅子とりゲームなど日本でなじみの競技を楽しむ。その後みんなで海辺で月を見て、間近で波の音を聞きながらのバーベキュー。
あちこちでオマ−ン人と日本人のおしゃべりの花が咲く。大使ご夫妻もいつのまにか見えて現地の人と歓談している。運動の後の、野趣いっぱいの食事はおいしい。
年を考えてくれればよいのに、「エンドー、エンドー」と今日は随分とゲームに引っ張り出された。まあ、オマーン人の知り合いが多かったから仕方がないか。疲れた体にビールがほどよくまわる。つい私も調子に乗って「家へ遊びにこい」とか、「今度はあそこへ行こう」とか多くのオマーン人と約束をする。
それにしても、こういう会こそ両国民の親睦を深めるのに何よりも有効だ。しかも、このオマーン・日本友好協会は、日本にほとんど知られていないオマーンが、1974年に日本との友好促進を目的として独自に作ったものだ。
92年のマスカットでの日本週間も、この協会が主催して実現した。1年に2、3回は開かれる今回のような催し物も、日本大好きのオマーンの若者たちの主導で行なわれている。米英の人たちからも、「日本はこのような交流の場があって幸せだ」とうらやましがられている集まりである。
たまたま5月の連休で帰国している人が多いせいだろうが、それにしても日本人の参加が少ない。大使館関係で7人程度、日本人学校・JICAで11人、全部で20人程度か。オマーン人は7、80人は来ている、オマーン人からも「今日は日本人が少ない」と言われたが、日本人も仕事だけではなく、こういうボランテイ
ア的な活動にもっと出てきてほしいものだ。・15日(日)
ハッジ明けのイード・アル・アドハ休みが今日、発表となった。官庁は21日の土曜日から25日の水曜日まで、ということは官庁は5日制だから前後の木曜日、金曜日を加算すれば合計9日間の休み。民間は21日から23日の月曜日まで、20日の金曜日を加えても連休は4日間。例によって役所は優遇されている。
イード・アル・アドハとはハッジ明け休みのこと。この期間、イスラム教徒は巡礼者にならっていけにえを捧げるので犠牲祭とも呼ばれている。そのハッジにはオマーン人1万1672人、外国人5679人の合計1一万7千人以上がオマーンから参加している、とイスラム宗教省が発表している。
石油依存からの脱却
・16日(月)
今日の新聞が、昨年もUAE(アラブ首長国連邦)がオマーンにとっての最大の貿易パートナーであったと伝えている。
1993年の対UAE輸入額は1581、8百万リアル(約4、100億円)で1992年度より132、6百万リアル(約340億円)増加した。第2位が日本で330、6百万リアル(約860億円)で、うち自動車は251、4百万リアル(約650億円)であった。また、第3位は英国の132百万リアル(約340億円)、次いで米、ドイツの順であった。
オマーンからの輸出も原油を除けば、第1位はUAE。原油を含めば日本が圧倒的に第1位となっている。なお、UAEから入っているもので主なものは、野菜、加工食品、機械、繊維製品、金属製品、機械製品など。UAEがこういうものを作っているかというと、ほとんどが先進国から輸入した製品である。つまり、ドバイ経由による輸入なのである。
オマーンの港湾が整備され、またビジネスチャンネルなどが整備、強化されれば、オマーンへ直接輸入できるのに、と思われる。また、中継されている製品には日本製品も多く、精査しないと断言はできないが、実質的には日本が輸出入第一位の貿易パートナーと言えるのかもしれない。
ちょっと面白いのは、オマーンで売られる金製品がほとんどUAE経由で入っていること。オマーンからUAEへの輸出では、魚が大量に出ていること。ラクダもかなり出ている。また自動車も大幅輸出超過であることなどであろうか。自動車の場合、もちろん先進国、とくに日本からの輸入品であるが、これらはUAE向けというより、イランなどに再輸出されるものらしい。
なお、オマーンでは日本車が8割は占めている。
・18日(水)
新聞によると、昨日シャンハリ石油大臣が以下のように語っている。
「日本向けの液化ガス・プロジェクトは推進する。ガスは20年間供給可能。輸出開始は2000年。このプロジェクトの出資比率はオマーンが51%、シェルが34%、仏TOTAL社が6%、三井、三菱がそれぞれ3%、PRTEX社2%、伊藤忠1%。また、インド向けのガス・パイプライン、およびガスを利用する肥料など他の産業に関する調査も行なっている」
オマーン経済の柱は石油輸出だが、この石油依存からの脱却、つまり経済の多角化がオマーンの経済政策の基本目標となっており、これまで着実に実現されてきている。しかし、工業についていえば、私はこの成否は1996年から始まる第5次5カ年計画で、長く考えても2000年からの第6次5カ年計画でほぼ決まると考えている。
オマーンの工業は、これまで輸入代替とか国内資源利用などの比較的小規模製造業を中心に発展してきたが、これからの5年間にガス開発、石油化学、肥料、製鉄等の大規模計画が目白押しである。これらの成否がオマーンの今後の工業発展の鍵を握っている、とみるからである。
国柄のよいオマーン、石油の大動脈のホルムズ海峡を守ってくれている国だけに、このガスプロジェクトもぜひ実現させてほしいが、経済はそんなあまくないものだ。シビアな検討が必要であろう。実現はその結果を待たざるをえない。
北が優勢のイエメン内戦
4日にはじまったイエメンの内戦はオマーンはじめ近隣諸国、アラブ連盟、国連などからの停戦要請にもかかわらず、戦闘地域は日々拡大している。戦争がはじまってすぐ外国人はほとんどが撤退した。だが、南からサレハ大統領を狙ってサヌアの中心街に撃ちこまれていたスカッドミサイルによって、11日には多数の無辜のイエメン人が死傷するという痛ましい被害も起こっている。
戦況は南の執拗な抵抗に苦しみながらも、どうやら北が優勢のようだ。今日の報道では、南の拠点アデンの北約60キロに迫っているもようである。戦況の厳しい南からは停戦の提案も出てきているが、北側は話し合いでは統一の達成はありえないと判断しているようである。あくまで武力で南を傘下に収めよう、とますます攻勢を強めてきている。いずれアデンまで到達するであろう。
病院から今日帰宅した、悠太朗と名のついた初孫に夜、以下のメッセージを送る。
「悠太朗君
生まれてはじめての旅はいかが。BBCテレビによると今年の東京は快晴、暖かい日だと伝えている。何よりだ。どうも君はついているらしい。自動車の乗り心地は?。生後1週間で自動車に乗ったのだから大したものだ。横浜の家の居心地はどうか。悪くない?。それは結構。小さい家だけどよい家だとGrandpaは思っている。そのうち、泣き声を聞かせてほしい」
・19日(木)
今日の新聞で美智子皇后が話せるようになられたとの記事が載っている。昨年10月の59歳の誕生日に倒れて言葉を失われたこと、雑誌の記事についての心労のせいとも考えられたこと。倒れて2週間後の地方へのお出かけの際には、手話を使われたこと。今回は赤十字の名誉総裁として2千人の前でスピーチされたことなどと詳しく報道している。
先には、新聞が紀子さまのご懐妊を報道していた。巡礼明けの休み
・21日(土)
今日から巡礼明けのイード・アル・アドハ休日が始まった。
例によってネクタイをつけて大家のアブドラの所に挨拶に出向く。口上は「イード・ムバラク(イード、おめでとう)」。常連のオマーンの人たちと挨拶を交わす。イードのお菓子とオマニ・コーヒーをご馳走になり、しばし、歓談。
家の方にはラマダン明けの休みと同じく子供たちが回ってくるので、不在の妻に代わって女中のフロアに金を渡して留守を頼む。やはり、かなりの子供たちが来たらしい。30人分の金はすべて配り終え、チョコレートも半分ほどなくなっている。
カブース国王はマスカットから220キロ内陸のアダムでイードの祈りを捧げられた。先達を勤めた国王の宗教・歴史顧問はハッジはムスリムの遺産であると述べ、この遺産のご加護とムスリム指導者と国民の成功、繁栄と平和を、また国王、オマーンとオマーン国民のご加護を祈願した。このあと国王は人びとの祝賀を受けた。
・22日(日)
妻が次女のお産のために日本に帰国したため独り暮らしとなった私は、商社の単身赴任者でつくる単身者クラブのメンバーに加えてもらった。今日はメンバーの仲間と山ではなく、海辺に遊びにいく。目的地はマスカットの南方各約30キロと約50キロのバンダラ・ヘイランとシーハ海岸。
今日のメンバーは住友商事のH所長、Mさん、日商岩井のI所長と私の4人。車は、もちろん四輪駆動車。4人とも単身者だけに、おにぎりを握れるのは私のところのフイリピン人メイドのフロアだけ。したがっておにぎりは私が持参することとし、バーベキューと飲み物の用意は皆さんにお願いする。
海辺のアドベンチャー
オマーンでは、山に入るアドベンチャーが楽しいと紹介したが、海辺もまた素晴らしい。このルートの楽しさは、にぎやかなルイの町の真ん中からいきなり険しい山道に入る意外性である。
急角度で3つめの角まで登ると、早くもにぎやかなルイの町の全貌が眼下に広がる。あとは、峨峨たる山を左右に見ながらの山道。Iさんは昨年暮れにここを通った時に、鹿の親子を目撃したという。
やや平地や涸谷(降雨時以外には水のない河床)の中の部落を通り抜けて、また山道を登る。突然、左前方に緑の沃野が開けてくる。麦畑とバナナの林だ。一瞬、感動を覚える。そこの縁の山道をまわると、海が開けた。それも岸辺はマングローブの林におおわれていて、どう見ても日本の湖の景色だ。とてもオマーンとは思えない。あまり感動することもなくなった年頃のメンバーたちも、カメラを取り出して記念写真を撮る。
今日の最終目的地のシーハ海岸はここからさらに20キロの道のり。再び山道へ。急坂の昇り降り、石ころだらけの涸谷の中のゴツゴツ運転などを楽しんでいるうちに海岸沿いに開けたシーハの町に着く。町はずれの海岸を思うままに車を走らせて、海辺に車を止める。
真っ青な海、白い丸い石を敷きつめた浜辺。右手には千メートルは越すだろうクリアットの山々がかすんで見える。われわれ以外は誰もいない。この浜辺はすべてわれわれだけのものであるのが何より嬉しい。
泳ぎ、釣りでひとときを過ごした後に、みんなでバーベキュー。うまい、最高だ。オマーンではところによってはムール貝や蛸取りも楽しめるのだ。釣りは岸だけではない。船を少し沖に出せば、マグロ、鯛、ハムールなどの大物釣りも楽しめる。外洋でイルカの跳びはねるのを見ながらの沖釣りは最高、と聞く。
5時近くに浜辺を離れて、マスカットには7時近く、薄暗くなってから帰る。
明日からは連休。妻は不在だが、例の単身クラブの集まりを1晩、東京から出張で来る昔からの中東の戦友(現役の商社マン)の接待を1晩わが家でするので、結構スケジュールが詰まっている。あとは休み明けの30日にオマーン人経営者向けの講義があるので、その準備の勉強でつぶれそうである。
・25日(水)
今日の新聞によれば、昨日イエメンの首都サヌアに戦争勃発以来2回目のスカッド・ミサイルが撃ちこまれ、市民12人が死亡、約90人が負傷したという。イードの休みだというのに隣国のイエメンでは内戦が激化しているのだ。
もともとは、イードの3日間の休戦が行なわれる予定であったが、南側の一方的な独立宣言に怒った北側がこれを破棄。南側の拠点、35万人が住む都市のアデンの攻略を宣言。22日には、北が初めてアデンの中心部にミサイルを撃ちこみ、多数の一般市民を死傷させている。その日はちょうど1990年に成った南北合併の第4回記念日にあたっていた。今回の南のスカッド攻撃はこれへの反発であろう。
北側はアデン周辺の空港などの主要施設をほぼ制圧して、南が握る南東部の石油産出地帯を確保すべく、さらに攻勢をかけている。南側の独立宣言が北側の態度を硬化させてしまったようだ。当分は激しい戦闘が続くのであろうか。
・28日(土)
8時よりイード・アル・アドハの祝賀の挨拶を交わすため、工業局スタッフ全員4、50名が会議室に輪になって集合する。日本の賀詞交歓会と思えばよい。
10分ほど遅れて商工大臣がきたが、大臣の方から一人ひとり挨拶にまわってくれる。これには驚く。日本でこんなことはありえない。次に全員が全員に、一人ひとり挨拶にまわる。その後、ハルワとオマニ・コーヒーがふるまわれ、約30分で交歓会は終わる。合理的なものである。
お悔やみは3日間だけ
父親が26日に亡くなったため、工業担当次官は今日の集まりは欠席。アラブで悲しんだり、おくやみを受けるのは3日間だけ。次官も父親が亡くなって今日で3日目なので、自宅でおくやみを受けているのであろう。
夕方、オマーン人の友人のところにイードの挨拶まわりにいく。
・29日(日)
昼すぎに同僚と工業次官の家におくやみにいく。アラブでは人が死んでも悲しむのは3日間と紹介した。その場合、ムスリムでないわれわれはモスクに行けるわけでもなく、4日目以降にせいぜいおくやみを述べるだけである。
次官は今日も役所にこなかったので、家にまで押しかけることとなった。
玄関でベルを鳴らすと本人が出てきて、「まず上がって」と言われ、中に入る。奥様たちは外出中とのことで、われわれの方はおくやみだけいって帰ろうとする。だが、「オマーン人の家では、お茶も出さずにそのまま帰すわけにいかない」と、次官自らが、デーツ、ハルワ、コーヒーとサーブをしてくれる。
父親の死後3日間は、マスカットや地方から何百人という客が朝から晩まで押しかけ、ヤギを十何頭つぶしたとか、ハルワをきらさないようにしたとか、接待が大変であったことなどを聞きながら、ごちそうになって恐縮しつつ退出する。
・31日(火)
本日、伊集院明夫大使が、カブ−ス国王に信任状を奏呈した。今後、オマーンと日本との友好関係の推進にもいっそうの拍車がかかるであろう。