3 イード休みー断食明けを祝う

・3日3日(木)

早くも3月に入る。日のたつのは実に早いものだ。気になるのは、このところの気温の上昇である。2月22日の最高温度25度に比べて、今日は29度。同日の最低温度16度に比べては21度と、なんと10日たらずの間に最高、最低温度ともに5度も上昇している。このところ、ぐんぐんと気温が上がっているという感じである。夏がそこまで来ているようだ。

今年の雨はもう終わりだろうか。今までのところは昨年よりは降ったように思う。しかし、昨年は4月に道路のあちこちにかなりの水が溜るほど降った。だが、今年は4月にあれ程の雨が降るだろうか。なんとか、ビユ ーテイ フルな雨をもう1度見たいものである。

「カドルの夜」に祈る

ラマダンも、今日からいよいよ最後の10日間に入る。この10日間の奇数日に到来するであろう夜は「カデル(定め)の夜」と言われて特に尊ばれている。通常はラマダン月第27日目の夜とされている。だが、実際に「カデルの夜」がいつになるかは、誰にも分からない。

この夜、諸々の天使、ならびに聖霊が地上に最も近づき、夜を徹しての祈りは「千の月(83年間)の祈り」にもまさると言われている。ムハンマドは神に祈りを捧げ、神の許しを乞うよう導き、カデルの夜に全身全霊で祈りを捧げる者は過去の罪を許される、と人々に教えている。

イスラムの人たちはラマダン月の最後の10日間は、この「カデルの夜」を逃さぬようにいっそう深い祈りを捧げる。それは当然であろう。

イスラムでは、罪が許されれば天国に行けるとされている。天国には河が流れる緑園がある。そこではおいしい食べ物と飲み物が豊富に与えられ、しかも清浄無垢の乙女たちがあてがわれるのである。罪が許されなければ、死後の世界は逆さまに吊るされ、足の替わりに顔で歩かされる。目も見えず口もきけず、耳も聞こえない。落ちいく先はジャハンナム(地獄)。そこで火責めにあう。火力が弱まるたびに、また新しい業火。こんなに差があっては、誰もが天国に行きたいはずである。

断食をしている役所のカウンターパートたちは「大丈夫」、「普段と変わらない」、「ラマダンもあと少しだ」などと言って頑張っているものの、多少やつれも見えるように思われる。だが、天国に行くべく、一生懸命に祈っているのであろう。信心深い人びとと感心させられる。

今朝は妻の買物を手伝いがてら、野菜スークを視察する。店舗数56軒、その中で営業しているのは34軒。60%がオマーン人化されたことになる。

・6日(日)

本日、総理府からイードの休日が発表となった。すなわち、政府関係機関は12日の土曜日から16日の水曜日までの5日間。ただし、実際にはこれに前後の木、金曜日(アラブでは、西欧の土、日曜にあたる)が2回入るので計9日間の大型連休となる。

民間は、社会労働省からの発表で12日の土曜日から15日の火曜日までの4日間である。この国では、いつも政府機関の方が休日が長い。給料も概して悪くないうえに、5日制で祝日も多い。また勤務時間も7時半から14時半までで夕方の勤務はない。どうしても民間より官庁への就職に人気が集まる。

日本も明治20年代までは、こういう傾向だったらしい。ただ、オマーンでも、民間の充実とともに、民間に人が流れる傾向が最近ではじめている。

・7日(月)

本日、ラマダン月の後のシャワール月の始まりを判定するための月観測委員会が法務・イスラム担当大臣の下に設置された。これは、ラマダン月の終わりを知るためである。

3月12日の夜に新月を見つけた人は、所属県の知事か裁判所の裁判官に届け出るように、との呼びかけが新聞で行われている。ラマダン月もあとわずか。いよいよ秒読みの段階に入ったようだ。

新聞には、イード休み前のハプタ市が全国各地で始まったことも伝えている。この市では、イード休みを祝うための晴れ着、履き物、香水類、家庭用品、野菜、果物、ナッツやお菓子類、鳥、動物などの食料品、文房具類などあらゆるものが、訪れる老若男女と商人との間で景気良く取り引きされる。なかでも人気物は動物である。ちなみに牛が一頭20万円から30万円。山羊や羊が一頭6千円弱から5万円位。この差は、輸入物かオマーン産かによるという。日本の輸入肉と和牛のような関係にあって面白い。

日本では和牛にはビールを飲ませ、マッサージをしてあの霜降り肉を作りべらぼうな値段がつく。オマーンではデーツを食べさせて肉の柔らかい牛や山羊を作り出しているという。それで高いのだそうだ。やはり、国産品は高くつくのだろうか。

オマーン交通事情

・8日(火)

「1993年の交通事故は11、754件で前年の13、617件に比べると激減。死亡者も468名から461名に減った。ただし、残念なことに被害額は前年の271百万リアル(約7億4百万円)から328百万リアル(約8億5千2百万円)に増加した。事故の激減は警察のキャンペーンが功を奏し、人々の交通規則や法規の理解が深まったこと、当局への協力のたまものである」とのオマーン警察の発表を新聞が報じている。

オマーンでの運転は右左折の際のシグナルの出し方が少ない。追い抜きの際、車が前に入ってくる。車間距離を十分とらない。というより、ぴったりと車をつけて来るなど在住日本人には悪口を云う人が多い。テヘラン、ベイルート、カイロや他の湾岸諸国を見てきた私には、それほど悪いとは思えない。むしろ日本やオマーンが影響を強く受けているイギリスより良いかも知れない、とさえ思える。

アブダビからオマーンに来る日本人が「オマーンでは歩行者がいれば、必ず車が止まってくれる。アブダビではこんな事はまずありえない」と異口同音に驚く。この一言を見ても、オマーンの運転マナーがそう悪いとは私には思えない。

日本との比較で言えば、日本では走る前に、すでに違反駐車の山。走り方に文句をつける資格などないと思う。日本人は後進国だと思う国に行くと、威張りちらしてなにかと文句をつける性癖があるのではなかろうか。

・10日(木)

イード休みを利用してオマーンを訪れている旧知のアブダビ在住の日本人家族を夜わが家に招待のため、サシミ用の生きたハムールとロブスターを買いに魚スークに妻のおともで出かける。ついでに野菜スークに回り、オマーン人化の進捗状況を調べる。結果は先週に同じく56軒中、34軒が埋まった。先週から全然ふえていないのでガックリ。ただ、各店の品ぞろえが少し豊富になったかな、というのと若いオマーン人の商人がふえたかなという感じにやや救われる。今後うまく行くのか心配だが、もう少し観察を続ける以外にあるまいと覚悟を決める。

夜わが家でお出ししたサシミ、とくにロブスターは一家がオーストラリアに駐在していた時以来十数年ぶりとかで、アブダビ在住の友人一家は大感激。

「イード・ムバラク」−ラマダン明ける

・13日(日)

昨日でラマダンが明け、今日からイ−ド・アル・フイ トル(断食明けの祭り)の休みにはいる。

朝からオマーンの子供たちが連れだって「イード・ムバラク(イード、おめでとう)」と言って小遣いめあてに次々に訪ねてくる。各家々では、百バイザ(約25円)や2百バイザの新札をあらかじめ銀行で用意して、家々を回る子供たちに渡すのがならわしである。

ピン・ポーン。ピン・ポーン。玄関の呼び鈴がひっきりなしに鳴る。「ママ、今度は何人?」「5人よ」「わかった。え−と、札が5枚でよいな」

「イード・ムバラク(イード、おめでとう)」「イード・ムバラク。クル・アム・アンタ・ブヘール(おめでとう。今年も良い年でありますように)」と応答しながら、お札を1枚ずつ渡す。

「シュックラン(ありがとう)」

「アイナ・アンタ・アスクル?(君たちどこに住んでいるの)」

「マトラ」

「マトラ?ママ、この子達マトラから来たんだって。あんな遠くからも来るんだ」

「マトラって、ここから15キロもあるのよ、どうやって来るのかしら。バス? それとも歩いてかしら」

「バスには乗らないだろう。ひょっとするとヒッチハイクかな」

ピン・ポーン、ピン・ポーン。

「ママ、今度は女の子2人みたい。女の子はめずらしい。ママ、出てくれる?」

「はーい。イード・ムバラク(イード・おめでとう)まあまあ、おそろいの服にハンドバック。かわいいわ」

そのうち、しばらくしてまたピーン・ポーン「一昨年は30何人。去年は少なかったのよね。20人くらいだったかしら。今年はどのくらいくるのかしらね。あら、今度は男の子3人よ」

子供達の方は妻に任せて、私は途中から近所に住む大家のアブドラ氏の家にイードの挨拶に出かける。イードは日本で言えば新年みたいなもの。お祝いに行くのが最大の礼儀であり、例年欠かさないで出向いている。

彼氏はオマーンでも指折りの金持ちであるが、その豪邸の前にはすでに10台以上の訪問者の車がならんでいる。応接間に入り、家の人もふくめ30人ちかい人々一人一人に「イード・ムバラク(イード、おめでとう)」と握手をしながら挨拶を済ませソファに陣取る。イードのお菓子にオマニ・コーヒーをごちそうになり、しばし歓談をする。

「われわれは1カ月断食をしたのでイードにはこういう甘い物を食べて体力を回復する。ミスター・エンドー。このハルワ(ういろうに似たオマーン独特の菓子。ホーローやプラスチックの容器にパックされていて三本の指ですくって食べる)はとてもおいしいよ。それにあのキャビアと同じくキープ・ヤングにとても良い。これを食べて」と当主のアブドラ氏がハルワをがぼっと皿にとってくれる。

彼氏は私より2才下の58才。どういう訳か私の事を気づかってくれて「ミスター・エンドー、キープ・ヤング」と言っては、時々キャビアやあぶった山羊の足1本などを差し入れしてくれる。よほど、私がくたびれて見えるのだろう。

「サンキュー。去年、私も断食をトライしたが体調をこわして4日でダウン。だから、今年は断食はやらなかった。それでこんな甘いものをこんなに食べたら太ってどうしようもない」と言い訳しながら、私はたいらげる。適当なところで一人一人に挨拶を済ませ引きあげる。

家に帰って妻に「子供たちは何人来ている?」と聞くと、28人とのこと、今年はわりに多いようだ。

オマーンのこの風習は気持ちが良い。1人に日本円で25円。多くとも50円くらいで子供たちに喜んでもらえる。2千円で4、50人にあげることができる。子供達も家々をまわっておこずかいをもらう。こういう風習は、昔日本にもあった。良い風習だから、日本全土にも広がればいいなと考える。

実は大家のアブドラー氏の家に行く時に、子供たちに渡すべく2百バイザずつ何人分かを用意して行こうかと思ったが、思いとどまった。行ってみると、家の子供たちが20リアル札を何枚かずつ持っているのが見えた。2百バイザずつなど渡そうものなら、ひどく恥をかくところであった。金持ちの子供たちは、やはり自分の体をつかって各家々を回るようなことはしないようだ。

アブドラー氏の名誉のためにつけくわえると、毎年この時期彼の事務所には大勢の貧しい人びとがお金をもらうために押し寄せる。彼は天国に行くために、毎年喜捨という善行を重ねているのである。このほか、彼はマスカットで2つのモスクも寄進している。

夕方、知人の日本人数人と連れだって、市内ではあるが家から30キロ程離れたシーブの町にイード明けの踊りを見に出かける。一昨年、昨年と踊りが行われた広場に着いたのは5時近く。アユーブ市(イード明けに子供たち向けに開かれる市。晴れ着で着飾った子供たちが、貰ったこづかいでおもちゃや食べ物を買うためにおおぜい訪れる)は開いているのだが、かんじんの踊りが行われていない。

つたないアラビア語と英語とのチャンポンで、周りのオマーン人に踊りの場所を聞いて見る。すると、「今年はない」という者、「明日の夕方ある」という者、「4、5日あとにある」という者もいて、要領をえない。その中で「スークの近くでやる」という者がいたので、そちらに行ってさんざん捜したが見あたらない。こういういい加減さがオマーン人たるゆえんである。

仕方なくまた前の広場に戻り、アユーブ市を見学しながら、情報を集めているうちに子供づれのオマーン人が「クレージー」と言っている。聞いてみると、近所で誰かが亡くなったので今年は踊りは中止とのことである。くだんのオマーン人は子供が9人いるとか。その子供達を連れて踊りを見にきたのに、思いがけない中止で「クレージー」と怒っていたようだ。「そういう訳か」と納得して、途中でギリシャ料理でイードを祝う。帰りに同行の知人宅で夜中までカラオケ・パーテイ で楽しみ帰宅する。

・14日(月)

新聞によれば、昨日はオマーン中でイードが祝われたようである。

カブース国王は、午前中はオマーン南部のサラーラで多数の王族、大臣、顧問、政府高官、軍関係者、首長や一般市民と共にモスクでイードの祈りを捧げた。その後、宮殿で一般市民の熱狂的な祝福を受けたと伝えている。

イードの祈りの際の説教の中で、国王の歴史・宗教顧問は、断食の意義を述べ、全てのモスレムが神の恩寵と人々のために尽くしている人達に感謝を捧げるように呼びかけ、「この世で良い仕事をする人々は来世で必ず報われる」ことを教えた。そして更に、神にオマーンへの祝福とご加護を願い、「世界各地のモスレムの事態の改善、それに世界の指導者を平和と和解へと導く」ように願ったと新聞は伝えた。これはとりもなおさず、カブース国王の願いでもあるのだろう。

昼、国王はイードを祝って、アル・ホスン宮殿で一般市民も含めて昼食会を催し、午後は一般市民によるオマーンの伝統舞踊を楽しんだとのこと。市民たちは、カブース国王の治世をたたえ、国王に対する忠誠を新たにして頌詩を朗唱したという。これがオマーン人の国王に対するいつわらざる気持ちである。オマーンはカブース国王が一身を捧げて作り上げた国であり、国民はその治世に感謝し自分たちも国王のように国に尽くしたい、国王のようになりたいと心から願っているのである。

マスカットでは、スワイニー国王代理(一昨年日本から勲一等旭日大綬章を授与された親日派の王族の方)がマスカットのアル・ホール・モスクでイードの祈りを捧げ、また各地では知事や首長達が祈りを捧げ、来訪者の祝福を受けたと新聞は報じている。

明日は、また友人達と内陸部のニズワ、ミスファ方面へ四輪駆動車でドライブに出かける予定。時間があれば、ジャブリンまでも足をのばすことになろう。そこには、オマーン随一の名城といわれるジャブリン城がある。ちなみに、オマーンではナハル、ルスタック、ニズワ、ジャブリンが四大名城といわれている。

オマーンに限らず、中東では天気の心配はいらない。明日も晴れのはず、その点は気が楽なものである。

フセイン・ヨルダン国王を迎える

・21日(月)

新聞は「ヨルダンのフセイン国王が本日オマーンを私的に訪問をし、カブース国王が空港で出迎える。また滞在中カブース国王とアラブ世界およびその他の国際社会の出来事のみならず両国共通の種々の問題について意見を交わす」とトップで報じている。また、「これは両首脳が楽しみにしている例年の継続協議の一環である」とつけくわえてある。かたや由緒あるハシミテ家の血筋を引く国王、かたやアラブ最古の王朝の国王、境遇が同じだけに大変に気が合うようである。

カブース国王にとっては、ミート・ザ・ピープルを終え、2月12日にラマダンに入ってから実に56日ぶりの公務復帰である。

ラマダンが明けたオマーンはこれから本格的な活動が始まる。気温はこのところぐんぐん上がってきている。ちなみに1カ月前の2月22日。マスカットの気温は最高が26度、最低19度であった。それが、今日は最高30度、最低23度。最高、最低共各4度の上昇である。この間で3月14日には最高35度、最低25度を記録している。

また、今年は今のところ、私の年初めの予想に反して雨が少ない。海岸部のルスタックや山間部のバハラなどで雨ごいが行われているようだ。雨の日に、今年も一度は「イツツ・ビユ ーテイ フル・トウ デイ」とぜひ言いたいものである。

私事になるが、私どもの横浜の自宅で留守番をしている次女の旦那の保坂から、本日づけでアブダビ石油(株)のアブダビ鉱業所勤務の内示が出た旨の連絡があった。6月中旬に現地赴任とのこと。さっそく、保坂宛に、サラリ−マンの先輩として、正式発令まで、発令後、赴任後の心得についてFAXを入れる。ついでに、とくに中東赴任者のための心得も伝授する。

次女は目下妊娠中で4月末に出産予定。秋口には子供を連れて赴任することになろう。イギリスに住んでいる長女夫妻をいれると、わが家は今年後半には全員が海外生活を送ることになる。とりわけ、アラビア湾では私どもと次女一家と三世代で住むことになる。どうも、今年はドラマチックなことになりそうである。

・22日(火)

昨日、フセイン国王とカブース国王は各国の随員を同席させての会議のほか、二人だけでの会談をアル・ホスン宮殿で持ったと本日の新聞は報じている。かねてより昵懇(じっこん)の仲である両国王は、諸問題について幅広い意見交換を行われたと思われる。とくに、北部サヌナ出身の大統領と南部アデン出身の副大統領の不仲が伝えられる隣国イエメン問題について話しあったと聞いている。

本日、フセイン国王はカブース国王が自ら運転する車に、しかも助手席に乗ってサラーラの町の観光をされたとのこと。フセイン国王にとっては、なによりの歓迎行事に感じられたことであろう。二人の親しさとカブース国王の細やかな心づかいがしのばれる。

競酪場でのラクダ・レース

・24日(木)

今日はラマダン明けのラクダ・レースを見に、マスカット北約70キロのバルカ競駱場に行く。まだラクダ・レースを見たことのない妻がぜひ見たいという。ようやく探しあてた新聞の案内をたよりに、途中何カ所かで道を聞きながら、なんとか目的地にたどりつく。丸紅のM所長夫妻も一緒である。

競駱場はまばらに潅木の生えた土漠の中にポツンと建っている。入口、観客席ともに、なかなか立派な建物だ。開始時間の9時ぎりぎりであったが、まだ入場する人の波が続いている。日本人はわれわれだけのようである。西洋人の姿も多少目につく。中に入ると、スタンドは既に満員に近い状態であった。われわれは下段の方のオマーン人たちのいる真っただ中になんとか陣取れた。

オマーンの大人達はハンジャル(男性がせ正装するときに身につける短剣)をつけて、杖を持っている人が多い。白髪でえらそうに見える人も多い。子供もたくさんいるが、オマーン人女性は皆無。付近にいる女性は妻とM婦人だけなので、みんなの注目の的らしい。大人は遠慮しているようだが、子供がさかんに話かけて来る。スタンドの前のフイ ールドには四輪駆動車が5、6台並べられている。今日のレースの商品であろう。イスラムの国では賭はご法度。レースに金は賭けないが、主催者から賞金や商品は出る。

スタンドで待つことしばし、小1時間程してから約30頭のラクダが向かって左から一斉にスタート。騎手はすべて子供である。場所によってはアフリカあたりから出稼ぎに来ている少年騎手が乗る場合もある。だが、どうもここはオマーン人の子供だけらしい。ラクダのスピードは馬とは比べるべくもない時速30キロ程である。これはこれなりに、やはり興奮が走る。ラクダが目の前を走る時には、スタンド全体から「ウオー」と歓声があがる。

目の前でスタートしたばかりの1頭のラクダが早くも止まってしまっている。持ち主など関係者が飛びだしてきて、走らせようとするが効きめがない。それどころかラクダは反対方向に走りはじめる。競馬ではあまり見られないが競駱ではよくあること。こうなったらどうしようもない。早くも棄権である。

ラクダはやがて右方向に第2コーナーをまわってむこう正面のトラックの中央にさしかかる。なにしろ大きなレース場なので望遠鏡でもなければどういう状況なのかは全く見えない。状況を追い続けるには、ラクダの走るトラックに沿って作られている車道を車で追いかける以外にない。砂漠の中のレースなら誰でもが車で追いかけられるのだが、このようにスタンドのあるところでは関係者以外には立ち入れない。この間はやや退屈である。   

やがて先頭のラクダが第3コーナーをまわって第4コーナーに入ってくる。少年騎手が懸命に鞭を振り上げている。2番手とはやや差があり、楽勝である。その後10メートル程はなれて2、3位争いが熾烈である。少年騎手の鞭に力が入る。あと順次各ラクダがゴールインしてくる。半周近くも遅れてゴールに入るビリのラクダにはいっそう高い拍手と歓声がおこる。

第2レースはコースを4分の1程ちぢめてのレース、右遠方の第2コーナー辺りがスタート地点。私のいるスタンド中央からスタートの様子は知るべくもない。今日は4レースあるということだ。第2レースを終わったところで、取り立てて利害関係のないわれわれはリタイア。スタンドを出て、周りの土漠につながれたラクダと写真を撮った後、帰途につく。妻もラクダ・レースがどういうものか分かっただけで十分満足した模様である。

・25日(金)

深夜着のKLM機で、イギリス在住の長女夫妻がオマーンに遊びに来る。1992年の年末以来、2度目の訪問だ。前回ですっかりオマーン大好き人間になっている。しかも、気候の悪いイギリスに比べれば、今のオマーンは天国。そのうえ、大好きな魚釣りが手軽に楽しめるとくればいうことなしである。滞在は2週間の予定。

今週は28日に大学の同級生が、また29日には昔からの中東の戦友(商社マン)が商用で部下を連れてオマーンに来る。オマーンも人気があがっているのか千客万来である。

ブット・パキスタン首相の来訪

・26日(土)

本日パキスタンのベナジール・ブット首相がオマーンを訪問する。3日間の公式訪問である。

昨年10月に首相に就任以来の初めての湾岸アラブ国家への訪問である。パキスタンが如何にオマーンとの関係を重視しているかの現われであろう。空港で国王代理のスワイニー殿下の出迎えを受けた後、同首相は次のような談話を発表している。

「私にとっても初めてのマスカット訪問でありますが、パキスタンの首相としてこの地に来ることが出来て大変に喜ばしい。私ども一行に対するオマーン側の温かい歓迎に感動しましたが、国王陛下のお心づかいに厚く御礼申し上げます。パキスタン国民はつねづねから陛下をご尊敬申し上げ、オマーン国民が繁栄と進歩を享受している陛下の仁慈の治世には感服しております。今回の私の訪問が輝かしい宗教、歴史や文化に基ずいて二国間に築かれている友好関係の強化に役立つものと確信しております」

オマーンとパキスタンとの関係は地理的に近いだけではない。オマーンは1958年までパキスタンのマクラン海岸のガワダルに植民地を有していた。昔ここからオマーンに渡り、いまはオマーン人として暮らしている有力部族もいる。人種的、歴史的にも密接な関係があるのだ。

同首相は今夜はマスカットに泊まり、明日サラーラでカブース国王と会談する予定である。

・28日(月)

本日、ブット首相、サラーラにてカブース国王と会談。オマーン・パキスタン2国間関係と両国利益の観点に立った関係強化、拡大の方策についての討議。その後、カシミール情勢、中東和平、ボスニア問題などの国際問題についても幅広く意見交換がなされた。

とりわけ、パキスタン側はオマーンとの関係、特に経済関係の発展を最重要課題として、別途閣僚レベルで漁業、パキスタンにおける電力発電、ガス・石油プロジェクト、ガワダルにおける漁港建設などが取り上げられた模様である。ブット首相一行、本日予定通りに帰国。

アラウイ外務担当大臣が今日カイロのアラブ連盟の会議の後に、カブース国王の親書をサレハ大統領とアリ・ビード副大統領に渡すべくイエメンに飛ぶ。イエメンの緊張が緩和されていると報道は報じているが、果たしてどうなのだろうか。眼が離せない。

順調なオマーンの農漁業

・29日(火)

ヒナイ農漁業省大臣は今日の諮問議会への報告で胸を張った。

「農産物と魚の輸出額が石油以外の輸出額の70%を占めるに至った。1970年35万リアル(約9千百万円)だったのに昨年は3千万リアル(約78億円)までになった」「GDPに占める金額も、1970年の17百万リアル(約44億2千万円)、1980年50百万リアル(約130億円)、1990年には1億3千4百万リアル(約348億4千万円)、そして1993年には1億5千6百万リアル(405億6千万円)と順調に伸びてきている」    

「農民や漁民の生活レベルも上がり、オマーン人の雇用の機会も広がっている」という。 同大臣によれば、耕地は10万ヘクタールを越え、牛20万頭以上、山羊85万頭以上羊24万頭以上、それに10万頭近くのラクダがいまオマーンには飼われているという。

実は第2回通常諮問議会が、経済委員会の銀行の役割に関する報告書の討議と水資源大臣・農漁業大臣よりの業務報告を受けるために26日から開かれており、今日は最終日の第4日目。諮問議会には各省の業務執行状況をフォローする権限があり、その鉾先はかなり鋭い。したがって、各大臣の説明にも自然と熱が入る。

一昨日は水資源大臣が同省の業務の進行状況を述べ、政府と国民に対して水資源の一層の節約を呼びかけていたが、ここまで厳しい業務報告を大臣に求めている国は湾岸にはないのではなかろうか。

なお、第1回諮問議会は1月23日に開催されており、今回はこれに続く会議である。

マクドナルド・マスカット店オープン

・30日(水)

昼すぎ、秘書のワヒダが「ミスター・エンドー、ハンバーガーが来ている。食べましょう」と言って呼びにくる。会議室に行ってみると、見なれない袋が2つ、マクドナルドのハンバーガーだ。

今日からマスカットで初めてマクドナルドが開店したという。場所はクルムにあるマスカット最大のスーパーCCCの構内。昨年の暮れごろから工事をしていた店がいよいよできあがっての開店だが、初日の今日はすごい行列だという。

副業で会社を経営しているカウンターパートのアハメッドが、わざわざ自分の会社の社員を並ばせて買わせ、われわれにふるまってくれたらしい。アハメッドに「ショッコラン(ありがとう)」と礼を言って、マスカットで初めてのマクドナルドのハンバーガーをほおばる。柔らかくておいしい。なかなかの味である。

これでピザハットやピザインのピザ、ケンタッキー・フライド・チキンのチキン類、バーガーキング、それにマクドナルド、さらには近くに開店準備中のウエンデイ ーズのハンバーガーなど欧米のフアー スト・フードがすべてマスカットで勢揃いしたことになる。これからオマーン人の食生活も急速に変わっていくのだろう。

・31日(木)

今日の新聞に「間隔出産の全国キャンペーン」の2日間のセミナーがザワウイ経済担当副首相をメイン・ゲストに始まったことを伝えている。

挨拶に立った厚生大臣は「連続妊娠の悪影響、社会のみならず母体と子供への危険を知らしめるため」とその目的を述べ、さらに「1970年代に千人中180人の幼児死亡率が93年には25人に下がっている(ちなみに同年の日本の死亡率は4・3人)。この急落はUNICEF(国連児童基金)から高い評価を得ている」とつけくわえている。

ちなみに、このキャンペーンはすでに述べた「ミート・ザ・ピープル」の時に国王が言及された方針にしたがって実施されるもので、オマーンでは一歩一歩着実に国の方針が具体化されていっている。