ラマダンー断食の日々

公共市場のオマーン人化

・2月1日(火)

国王の「ミート・ザ・ピープル」の巡行は今日で25日目。ウスタ地方の国民はウム・アル・ザマイムに張られたキャンプを訪れて国王に拝謁し、国王への忠誠の念を新たにしていると新聞は報じている。

また、本日から公共市場でのオマーン人化が施行され、野菜・魚などを売る公共の市場で外国人は働くことができなくなる。これは「ミート・ザ・ピープル」巡行中の国王の先月の発言に沿った施策で、国も4年間の無利子の融資でオマーン人を支援することを決めた。オマーンに住む約50万人の外国人の内訳は、多い方からインド人約28万2千人、バングラデシュ8万1千人、パキスタン人7万人、スリランカ人2万3千人など。その他はフイリピン人1万1千人、イギリス人3千人など。

公共市場で働くのは主としてインド人、パキスタン人などだが、オマ−ン人、とくに若者はそう裕福ではないが石油のおかげで生活ができるので、働く意欲に乏しい。しかも、仕事をえりごのみする傾向が強い。公共市場のオマーン人化も、問題は本当に実行されるか否かであり、私も今後の動向を十分に注視して行きたいと思う。

今夜11時05分着のタイ航空で、私の古くからの友人の奥様がたが3人マスカットに到着する。成田を出たのが午前10時30分だから、日本からマスカットまでの所要時間は、正午までの1時間30分プラス正午からの11時間05分、それに時差5時間をプラスした合計17時間35分。実飛行時間はこれからバンコクでの乗りかえのための待ち時間2時間45分を差し引いた14時間50分である。奥様がたは今でこそ中高年だが元女学生、元気いっぱいの到着が望まれる。

昨年12月に妻の小学校時代からの友人2人、いずれも中高年の奥様たちが、12月から1月にかけては姪たちが2人オマーンを訪ねてくれた。みんなオマーンがすっかり気に入り、中でも雑誌編集者をしている姪の一人は2月にもまた来たいというほどであった。今日から3人の新しいオマーン・フア ンを増やすためにまた忙しくなる。

日本向けのさやえんどう

・3日(木)

隣国UAEの英字新聞に「ドバイの会社が、オマーン産のさやいんげんをシーズンの終わる3月末までに、6百トン日本向けに輸出する」との記事が出る。

さらに、「オマーンから冷凍でドバイまで陸上輸送し、そこから日本まで空輸、所要時間12時間から14時間。この輸出は何年間も行なわれて来たが今年の輸出量は昨年の4百トンが1・5倍になった」と伝えている。

早速、この事業を手掛けている丸紅のM所長に電話を入れる。オマーンと日本との間にはこんな思いもかけないビジネスもあるのだ。日本の冬場はさやいんげんの端境期(はざかいき)で、この期間、日本、主として関西では、オマーンからの輸入が待たれているという。

オマーン観光一週間コース

日本からの奥様がたは今日はワヒバ砂漠の見学に出かけた。

わが家では、あらかじめお客様の日程に応じて、オマーンを楽しんでいただくスケジュールがいく通りか用意されている。今回のお客様の滞在は1週間、したがって

第1日目(火) 23時05分 マスカット着。

第2日目(水) スーク(市場)・市内見物。夜、オマニ・ナイト(アル・ブスタン・   

          パレス・ホテルの庭の一隅に建てられたゆったりしたアラブ風のテ 

          ントの中で、土地の歌や踊りを見ながら、オマーン料理を楽しむ)。

第3日目(木) 市内見物。 夜、鉄板焼き(自宅)

第4日目(金) ナハル城見学。夜、シュワルマ=アラブ風サンドイッチなど(野外

          アラブ・レストラン)。

第5日目(土)  砂漠ツアー(終日)。夜、日本食(自宅)。

第6日目(日) 市内見物。

第7日目(月) アル・ブスタン・パレス・ホテル(水泳・テニスなど)。夜、フラン  

          ス料理(同上ホテル)。

第8日目(火) 買物。23時59分、マスカット発。

というメニューを適用することにした。砂漠に行く日は、オマーンに着いて疲れがとれた頃にし、この日は妻が同行しないので夕食には和食を用意するとか、着いたばかりの夕食はアラブ料理にとか、食事も入念に考えぬいたメニューである。

それが今回は第5日と第2日がひっくりかえてしまって、2日目にして早速砂漠ツア−に出かける次第となった。

それというのも、「イギリスのエリザベス女王の従姉妹がオマーンを訪問されており、2月5日には貴方の指名したノルウエー人のドライバーはそちらに持って行きたい」との旅行社からのたっての要請があったためで、急遽奥方たちの日程が2日目に変更となったのであった。

砂漠ツアーの醍醐味とは、あたり一面、砂以外に何もない空間に身を委ねること。勿論日本から来た人には初めての砂漠の景観に接することもこれに加わるが。それと、砂漠のサファリである。延々と連なる砂丘を車で駆け上がり、真っさかさまにならんばかりの急勾配の砂丘をかけ降りるサファリのスリルは何物にも代えがたい。私も、いままでアブダビやドバイで何十人もの日本人を砂漠に案内してきたが、サファリの時には老若男女を問わず、童心にかえって、興奮の声を上げる。ただし、これを楽しむためには、四輪駆動車と高度な砂漠でのドライビング・テクニックが必要。私の場合、砂漠行きはプロの旅行社に依頼することとしている。

ところで、普通砂漠ツアーは朝8時頃にマスカットを出て5時半頃には帰ってくる。それなのに今日は夕方6時を過ぎても3人が帰ってこない。「事故かな」と気を揉む。大事な奥様がたである。今日のドライバーは良く知っているノルウエー人の若者。腕も確かだし、独身だが品行方正。まずは問題あるまいが、若いだけに無理をして車が砂漠で転倒したのではあるまいか。

私の友人の奥様たちだから、決して若くはないのだが。女性3人で大丈夫かなと心配がつのる。妻が「また心配性が始まった。大丈夫よ」といっていると、ようやく外が暗くなりはじめた6時半過ぎに、車が戻ってきた。

家から飛び出すと、3人の第一声が「楽しかった」。遅くなったのは、帰路を迂回して温泉のある部落に寄るようにと、彼女たちが頼んだからだという。

車から荷物をおろす間も、3人は半分興奮状態の様子である。ノルウエー人の若いドライバーとも盛んに手を振ってのお別れ。まずは、砂漠ツアーは大成功だったようだ。

新旧のマスカット

・5日(土)

朝出勤のため、車庫から車を出すとフロントガラスに水滴がポツンポツンとついてくる。今年は昨年と違い、雨が多いのだろうか。

家からクルムの町を通ってひと山越え、7、8キロほど走ってルイに近付く。雨の降り方が少し多い。マスカットの町は山を1つ越すと、気候が違ってしまうのだ。

今日、奥様たちは市内見学。市内の案内役はもっぱら妻の役割である。

オマーンの首都マスカットは人口約62万人(うち外国人は約29万人)だが、町は広い。町の端から端まで70キロはあり、その中に点在しているいくつかの地区で市を形成している。ただし、これはグレータ・マスカットのことである。本来のマスカット、つまり16世紀初頭から17世紀半ばまで、ポルトガルが占領したマスカットは、岩山に囲まれた1キロ四方にも満たない狭い土地だ。

マスカットとは「落ちる場所」を意味するアラビア語に由来するという説が一般的である。旧マスカットの町は、三方の岩山が海に落ち込んでいる間(はざま)にある。なお、「マスカット」という葡萄の名はここからきたともいわれている。

私はマスカットを説明するのにわかりやすく「本来のマスカットはポルトガル時代につくられた町。そこからひと山越えたマトラはイギリスの東インド会社時代につくられた町。 さらに北にひと山越したルイは、マスカット、マトラに通じる交通の要所にあたり19世紀に拠点が作られ、1970代以降急速に近代化が進んだ町である。

さらにひと山越えたクルムは、1970年代の石油の町である。つまり、1967年の石油輸出のために施設、従業員の宿舎が建てられて以来発展した1970年代の町なのである。さらに、北に進んで山側のメデイ ナット・カブースはクルムが手一杯になり、石油関係者の住宅などが建てられはじめて作られた1980年代の町。海側のシャテイ ・アル・クルムは1980年代の終わりから1990年代につくられた町である。これらクルム、メデイ ナット・カブース、シャテイ ・アル・クルムの三つが外国人が多く住む高級住宅地である。

その先に点在するグブラ、アル・ホエール、シーブなどの町には、古くから部落があり最近急速に都市化して来ている地区」と概括している。

今日妻が奥様たちを案内するコースは次のとおり。マトラの魚スーク(市場)と、日常品や骨董、金銀などを売っている古い典型的なアラブ風のマトラ・ス−ク。王宮やポルトガル時代につくられたミラ−ニ城・ジャラーリ城のある旧マスカット。それから、歴史的かつ軍事的に興味の尽きないルイの武器博物館などであろう。時間があれば、中東随一、いや世界でもトップテンには確実に入るといわれている、マスカットとルイの間にあるアルブスタン・パレス・ホテルへも足を伸ばしたかもしれない。

今日は12時から日本人会役員会、続いて13時から日本人会総会が開かれる。1994年度の新役員が選出された。これによって、私も1992年度では途中から副会長、1993年度は幹事役というポストからお役ご免となる。

幹事役として、日本人会機関誌「さらーむ」の編集長を1年担当して来たが、今日でこれからも解放される。この1年間、3人の編集委員の方がたと1カ月に少なくとも1回は集まって、ああでもないこうでもないと議論をして新聞を発行し続けて来た。皆さん自分の父親ぐらいの年の私によくつき合っていただいたものだ、と感謝する。それとともに、ちょっぴり寂しい気もしないではない。

・8日(火)

本日、夜のタイ航空でご婦人たちが帰国する。皆さん「こんなに、楽しい旅は初めてだった。オマーンは素晴らしい」という感想。

 おひと方のご主人は昨年仕事でオマーンを訪れ、アル・ブスタン・パレス・ホテルにも泊まっている。奥様がオマーンに来る時に、「あんなところへ行っても、何も見るものがないよ。どうするの」とご主人に言われて出て来たそうな。「嘘ばっかり」とは旅行後の奥様のコメントである。

楽しかった原因は、皆さん同じ年頃で、ご主人抜きの旅行で「元女学生の修学旅行」という特殊要因もあったからであろう。だが、マスカットがクリーンな町であったこと、特異な自然の景観、砂漠を見たこと、そこそこ歴史的な町並みや城のあること、買い物が楽しめること(世界でオマーンでしか買えないものが三つある)、アル・ブスタン・パレス・ホテルでのゴージャスな気分での滞在、治安がめっぽう良いこと、オマーン人が国際的で、人柄が良いことなどが挙げられよう。

それに夜のマスカットのロマンチックな、他で見ることのできない幽玄な景観であろう。私は、「夜のマスカットは銀座の女と同じ」と説明している。つまり、夜マスカットの町はライトアップされる、お化粧をして一段と美しくロマンチックになる。とくに、マトラ・マスカットをつなぐ旧道からみるマスカットの町、15世紀末にポルトガル人によって造られたミラーニ城、ジャラーリ城の眺めは幽玄でさえある。

滞在が短期間だから、内陸部の古都ニズワ、マスカットと全然違うサラーラ、また中東の北欧と言われるムサンダムなどは案内できなかった。これらも行ければさらに楽しめただろうに、と悔やまれる。一週間ではそこまでは無理。オマーン全体を楽しむには少なくとも三週間は要るだろう。

最後に、連夜にわたって、ワイン付きのおいしい食事を取りながらの ハンサムな遠藤教授? のアラブ講座も、滞在を楽しくした一因ではなかったかと思う。

それにしても、オマーンを訪れる人は例外なく、オマーンが好きになって帰る。やはりここは良い国なのである。

なお、私が世界中でオマーンでしか買えないものと書いているものは、金・没薬(もつ

やく)・乳香の詰め合わせ、マサル、それにアムアージュである。聖書によれば、キリスト誕生のお祝いに東方の三賢人が持参した品が金、没薬、それに乳香。私これらを「三種の神器」と呼んでいる。マサルとはオマーン男性が正装する際に、頭に着用するカシミアに手刺繍を施した布である。これは、女性用のスカーフに最適。アムアージュとは、オマーン産の世界で一番高価な香水。通常の香水は成分が40種位と聞いているが、アムアージュの成分は約120種類である。ただし、これだけはヒースローなどの空港でも売っている。念のため。

神聖なるラマダン月

・10日(木)

ラマダン(断食)月が近づいている。2月6日にはラマダン月の観測委員会が結成された、と法務・イスラム担当大臣が発表した。2月8日には、ラマダン中の勤務時間について、政府機関は8時半から午後1時半まで、民間は一日6時間か一週間36時間に労働時間が定められた記事が載った。

本日づけの新聞では、法務・イスラム担当省が神聖なるラマダン月の到来を告げる新月の観測に一般民衆の協力を要請している。新月を発見した者は知事、裁判官または月観測委員会に一報するように、と書かれている。

ここイスラム社会では太陰暦を採用しており、新月が出れば新しい月が始まることになる。月が出たかどうかは、新月が髪の毛ほどの細さもないのでその判定は大変に難しい、と聞いている。

たまたま、この法務・イスラム担当相のハムード・アル・ハルシー氏は私とは十数年来の知己である。正月に会った時には「いや、その時は忙しいんだ。国内各地に設ける10カ所の観測所から電話が入ってくる。その応対も大変だ」と語っていた。これからは大変だ、と同情する。

今朝9時過ぎに、妻とマトラのスークに魚と野菜を買いに行く。わが家では、野菜類は通常ヨーロッパをはじめ世界各地から豊富に輸入されている近代的なスーパーで買っている。だが魚だけは、とれたてのものが手に入るマトラのスークで買う。

そこでは、下にタイルだけを敷き詰めた青天井のせまい売り場に、漁船から荷揚げされたばかりの新鮮な魚が何種類も所狭しと並べらている。オマーンは1千7百キロの海岸線を有するので、漁業が盛ん。種類も豊富であるが、とくにハムール(和名「くえ」)、まぐろ、さわら、いか、ロブスターなどが豊富である。ロブスターは毎年日本にも輸出されている。

ただ、今日はここで魚を買うというより、公共市場のオマーン人化の実施状況を見るのが主目的である。魚市場の売り手はもともとオマーン人であったので、興味はもっぱら野菜市場にある。実施の初日、つまり2月1日にたまたまスークに来た妻の話では、各野菜店には人がおらず、開店休業の状況であったという。

まず、建物の中に入る。野菜市場の方は青天井ではない。通路の左右に各3坪程度に仕切られた店舗が50余り並んでいる。数えてみると、商品の入っている店が30店舗ほど。そのうち、売り手がいて営業しているのは10店程度である。さすがにインド人などの外国人はいないが、品数も少なくなっているし、活気がない。オマーン人の年寄りと子供が多い。妻は「これから、どうなるんでしょう」と心配する。だが、物を売るのはそう難しいことではないだろう。「大丈夫。オマーン人化は進むだろう」との楽観的な見方を私は持っているのだが。

建物の外にも露天で野菜類が売られている。こちらでも、インド人などの外国人の姿がほとんど見えない。だが、店はまばらだ。外国人が追放され、仕入れルートも細ったり、商売人も揃わないのだろうか。ともあれ、オマーン人化は是非とも成功して欲しいものだ。

国王行脚終わり、ラマダン始まる

・12日(金)

新聞が、国王のミート・ザ・ピープルが終わった事を写真入りで伝える。

今年の旅は、1月8日にマスカットのシーブ宮殿を出発してバテイ ナ、ダヒラ、内陸およびウスタ地方それに南部のタマライト地方をカバーし、サラーラに入るまで35日間に及ぶものであった。昨一一日の国王の終了宣言をもってつつがなく幕をとじた。大勢の民衆が、ドフア ール平野の街道からサラーラのホスニ宮殿までの道を埋め尽くし、国王の車に花を投げかけて迎えたという。

この民衆の中に、たった一人だけ日本人が含まれていた事に新聞は触れていない。日本から出張してきた中東経済研究所のM研究員こそが、その人である。たまたま、サラ−ラを訪問した際に国王の車に遭遇したという。「初めてのオマーン訪問で思いがけなく国王の姿を見ることができた」と感激していた。

今年のミート・ザ・ピープルは期間が最長であったのと、国の発展に関する重要な発表が行なわれた意義深いものであった。外国人の労働人口に占める割合を、15パーセント以下に落として40万人の就業機会を与えることの提言。マジュリス・シューラー(諮問議会)の議員数の拡大。ダヒラ地方の水資源の発見と水資源の節約。家族計画、それに民間部門の役割の重要性などである。

この間、国王はその土地土地で当面する問題についてシェイクや有力者、さらには一般民衆と面談しながら、砂漠のキャンプに外国からの要人も迎えての公務もこなしてきた。途中、雨や寒さ、自然の厳しさをもものともしない巡行であった。国王に随行した大臣や顧問たちには、今後民衆と十分接し助けるよう、また重要な案件のある地方を訪問するように指示を与えた。

国王自らが車を運転。砂漠のキャンプで土地土地のシェイク、有力者や一般民衆の声に耳を傾ける国。これは、世界でオマーンをおいて他にないのではなかろうか。これがある限り、オマーンの安定と発展は保証されているのだろう。民主主義の国と思われている日本の現状と比べて、オマーンの方がずっと民主的のように思える。これは私のひがめであろうか。

時を同じくして、神聖なる断食月のラマダン月が今日から始まった。断食は信仰、礼拝、喜捨に続く4番目のイスラムの柱である。ちなみに5番目は巡礼である。

この月にはノン・ムスレムの人びとも断食の時間には公共の場での飲食、喫煙や派手な衣服の着用をさし控えるように求められる。

コーランによれば、ラマダン月は「コーランが人びとのための導きとして、また正邪の判断基準として人びとに下された月であり、家にいる者は誰でも断食をしなければならない。ただし、病気の者、旅をしている者は後にそれだけの断食をすればよい」また「断食によって一層の信心を得る事が出来る」と述べられている。

この月、人びとは日の出から日の入りまでは水も飲まず、食べ物も一切口にしない。もちろん喫煙は駄目。セックスも禁じられ、ひたすら神を思い、貧しい人のことを考えて日を過ごす。断食は大人のみならず、子供もこれに耐えられるようになれば断食を始める。したがって、七、八歳の子供も断食を始めるのだ。

日没後、人びとは軽いスープを飲み、モスクでお祈りを済ませてから夕食をとる。明け方の日の出前に、朝食をとり一休みしてから仕事に出かける。そして日中は断食。わかり易く言えば、この期間、昼と夜が逆転すると言ってもよい。

したがって、この期間は労働時間も短かくなる。われわれの役所の場合は、通常の7時半から14時半の7時間勤務が、8時半から13時半の5時間に短縮される。不謹慎ではあるが、断食をしない外国人にとっては、この期間は天国である。一般的には仕事も低調となり、自由になる時間が沢山できる。しかも、ラマダンが明けると、イスラム地域では最大の休日、イード・アル・フイ トルが1週間ちかく続く。

私もアラブとつき合って20年になったが、それまで断食をしたことがなかった。そこで、昨年挑戦してみた。役所のカウンターパートたちは、見上げたものだと感心してくれた。だが、4日間で体調をこわしてあえなくダウン。原因は、日中に断食した後に、いきなりヘビーな夕食をとったせいではないか。今年もどうせ1カ月も持たないものと、最初から挑戦は諦めることした。

インドとオマーンの深い関り

・15日(火)

小さい記事ではあるが、「1993年の対インド投資でオマーンは1億8千万ドルで第3位」との記事が載る。ちなみに、第1位はアメリカで11億5千万ドル、第2位はイギリスで2億8百万ドルとあり、インドの開放政策でスイス、UAE、タイ、オランダ、日本、メキシコ、ドイツ、アイルランド、フランス、モーリシャス、イタリア、香港などからの海外投資も増大傾向にある、と報じている。

まさかオマーンが第3位の対インド投資国などとは誰も思わないが、オマーンとインドは地理的にも近い。また人種的にも歴史的にも深い関わりがあることを考え合わせれば、これもうなずける。オマーンとインドには、とくにボンベイとは経済的なホットラインがある。そのことを、見逃してはいけないと思う。

オマーンと他の湾岸諸国の大きな違いの1つはインド人の位置付けではないかと私は考えている。他国では、インドの人たちは大体ボーイとか肉体労働の仕事をしている。それが、オマーンでは管理職、総支配人など会社の重要なポストを占めるインド人も少なくない。そればかりか、インド系の財閥もいくつかある。男性はもちろんだが、車を乗り回すインド女性もたくさんいる。差別なしにゆうゆうと暮らしている。

また、オマーンの商人たちでインド語を話す人も多い。私は、地理的条件、歴史的、人的なつながりから、オマーンとインドは同じ経済圏に入るのでは、と考えている。

あんずの花が咲く里

・17日(木)

今日は、JICAの発行する「オマーン任国事情」に「季節になるとあんずの花が乱れ咲く」と書かれていて、かねてより訪ねてみたいと思っていたワカンの里を訪ねる。このワカンがどこにあるのか、オマーン滞在の長い日本人や役所のオマーン人に聞いても、知らないという。

そうこうするうちに、日商岩井のI所長が雑誌「オフ・ロード、オマーン」で捜し当ててくれた。そこで、I所長、丸紅のM所長夫妻、それに私ども夫婦の5人で四輪駆動車で訪ねることになった。

オマーンは景観、史跡、買い物、砂漠などいろいろの楽しみかたができる。オマーンの楽しみは海洋レジャー、という人もいるかもしれない。だが、最高の楽しみは四輪駆動車で道なき道を山に分け入るアドベンチャー。これに勝るものはあるまい。

オマーンは日本の4分の3の広さの国土のうち、土漠が85%、山岳部が12%、平野部が3%となっている。山岳部にはアラビア半島には珍しく3千メートルを超える高い山もある。オマーン北部の山はすべて木の生えていない岩山。これが格好のアドベンチャー・コースとなる。

ワカンへの行き方はわかった。次は、弁当を持って行くかどうかで議論がおこる。通常なら、当然飲み物も食べ物も十分用意をしていくのだが、今はラマダン中である。オマーンの人たちは日中は断食をしている。われわれが途中で弁当を開くということはイスラムの教えに反する。そればかりか、警察などに見つかったら、注意だけですむのか、わかったものではない。もしも、監獄にでも押し込められては一大事である。5人の中で意見は2つに分かれた。だが、結局はやはりこの国の規律に従うことにした。ということで、持参するのは緊急用の飲料のみ、と決めた。

車は昼前にマスカットを出発。海岸沿いのバテイナ地方を約70キロ北上して内陸部へ左折する。約30キロ走り、ナハルの町を通り過ぎて16キロ行ったアワビの手前で、舗装道路と分かれて左手の土漠に分け入る。数キロ走って、山合いに入ると、車は徐々に高度を上げていく。今まで走って来た道路が、後方の岩山の崖の下に見えてくる。道も急速に狭くなり、車のすれ違いの場所が限られてくる。

高度千メートルはすでに登って来ている。だが、今日は2月とはいえやや暑い。白っぽく、乾いた砂ぼこりの上り道の右側は切り立った崖である。左は崖下。左に見える、険しい岩山との間は深い谷である。空は真っ青に晴れていて、岩山とのコントラストが美しい。こんな所にあんずの花の咲く場所が本当にあるのだろうか。

狭い山道を登りつめた所で道が二股に分かれる。左手の道を崖に沿って右折すると、谷を挟んだ前方の山のところどころにぼんやりとした白い固まりが点在している。あれだ。あれがあんずの花に違いない。さらに車でやや登り、集落の手前に車を止める。後は徒歩で子供たちが集まっている家々の前を通り過ぎて、あんずの林の中に入っていく。

確かにあんずの花が咲き乱れている。やや白っぽいが、桜とも似ている。日本で花見をしているような気分。花の下で日本人同士、また村の古老や子供たちも入れての写真撮影に興じる。周りには、麦やネギのような野菜畑、葡萄棚もある。

オマーンには、このように全くの岩山の中に忽然と水が湧きでている。デーツ、ライム、バナナなどがたわわに実る桃源郷が現れる。そんなところが随所にある。ミスファ、バニ・ハーリッド、ワジ・スワイなど枚挙にいとまがない。道なき道を四輪駆動車で駆け上がるスリル。忽然と現れる泉。渓流、滝。緑の木々、果樹園。これらが、オマーン・アドベンチャーの醍醐味なのである。

他の湾岸諸国と違い、オマーンには高い山がありそこに雨が降る。中東における山とは、私流にいわせていただくと、貯水池である。その中に蓄えられた水が、岩山の中で人が住むことができるような桃源郷を残しているのだ。

ようやく探り当てたワカンの里のあんずの花に満足をして、帰途につく。途中、一行は飲み物もイスラムのラマダンに従ってガマン。夜は、5人でM所長宅にてささやかにカラオケを楽しむ。

・19日(土)

朝は、いつものごとく静かで晴れた日であった。だが、昼前から猛烈な風が吹き荒れる。役所から帰宅の途中、車が吹き飛ばされるのでは、と思うほどの風だ。

オマーンには地震がない。豪雨や台風もなく、自然災害の少ない国である。風と言えば、高温のため小規模な竜巻があるくらいなのだ。今年でオマーンに来て3年目だが、こんな強風は初めてである。車窓から右手に見える海には白波が吠え、左手の山なみは砂塵でかすんでいる。

風は海側からだ。シャマールである。北西の風でイランの砂漠から海を越えて吹く風を人はそう呼ぶ。風速は約20メートル。日本の台風に比べるとたいした風ではないだろう。だが、ここでは異常である。新聞によれば、ホルムズ海峡に面しているムサンダム地方では船が流され、家が壊れるといった被害が出たらしい。また、雨も少し降ったという。それにしても、オマーンには珍しくすごい風であった。

浮かない顔での和解

・20日(日)

本日、対立するイエメンのサレハ大統領とビード副大統領がヨルダンのアンマンで和解文書に署名した。立会人はフセイン・ヨルダン国王、アラファトPLO議長、メギッド・アラブ連盟議長など。オマーンからは、国王の代理としてアラウイ外務担当大臣が式典に出席した。

1990年に、北と南イエメンが合併したがうまく行かずに、昨年8月にビード副大統領は首都サナから出身地の南部のアデンに引き揚げた。今年1月には、双方が旧国境に軍隊を集結させる事件も発生している。いつ分裂してもおかしくないほどに関係が悪化している両者を、アラブの国ぐに、とくにヨルダン、オマーンが仲介して、今日の調印にこぎつけたのである。

式典はテレビで放映された。フセイン国王を挟んで座った大統領と副大統領は一応笑顔で、握手などもしていたが、いま1つすっきりしない表情に見えた。うまく行くと良いのだが。

日本の皇室関連記事

・24日(木)

「雅子さまご懐妊か」との新聞記事が2面に載った。皇室評論家の河原敏明氏の「信頼すべき筋からの情報として、ご懐妊は間違いない」という「女性自身」の記事、日刊スポ−ツ・ニッポンの「お腹が大きいのではないか」とのコメント付きの雅子さまの写真入り報道、報知新聞の「目立たぬように」との説明付きの雅子さまの和服姿の写真報道、さらには皇太子殿下の否定のコメントまで報じている。

それにしても、ここでは日本の記事がよく載る。日本の皇室の記事は特にそうだ。オマーンは同じ王室を持つ日本に親近感を持っているのだ。

細川総理大臣などもここの新聞の常連である。それに比べて、日本ではオマーンがあまりにも知られていない。昨年8月、オマーンとUAEの新聞に日本の記事が載る回数と日本の朝日新聞と日経にオマーンの記事の載る回数を調べてみたことがある。なんと!前者が231回、後者が1回であった。それも「ヨルダンのフセイン国王がオマーンを訪問する」というだけの小さな記事であった。

今年はどうであろうか。日本に一番近いアラブの国オマーンの日本に対するこの関心度、この熱い思いを日本の人々に判って貰いたいものだとつくづく思う。

ラマダン折り返しの満月

・27日(日)

ラマダンは12日から来月の13日までの1ケ月続く予定となっている。16日目の今日はちょうど折り返し地点に差しかかったといえる。

ラマダンが始まった当初は、アラブの人たちでも昼と夜の生活のリズムに慣れない。だが、2、3日経つとだいたい慣れてくる。しかし、やはり日の出から日の入りまで飲食物を取らないこの期間は、各面の活動はにぶる。したがって、今月は政治的に内政、外交とも注目すべき動きはない。しいて言えば、公設市場でのオマーン人化の施行、南北イエメンの融和のための仲介などがあった。また経済的にも、非OPEC諸国の減産合意の取りつけ、石油価格低落傾向への対応などのほかには、取り立てての動きはない。

人々はひたすらイスラムの教えにしたがって断食を実行している。ただ、夜の食事が終わったあと、町は大変にぎわう。ふだんは9時ぐらいに閉まる商店やレストランもこうこうと電気をつけている。たいがい11一時ぐらいまでは、営業をしているのである。人々は友達同士で、または夫婦で、深夜にもかかわらず小さな子供まで連れて夜のショッピングに繰り出す。今年のように、ラマダンが最高に気候の良い2月に当るような時は、一層賑わうものである。

今夜10時過ぎに、妻と車でマトラの高台にあるリヤミ公園、海岸沿いのコーニッシュ通りに町の様子を見に出かける。こちらでもオマーン人、インド人などの老若男女で賑わっている。この分では、クルム自然公園、インターコンテイ ネンタル・ホテル裏の海岸公園なども深夜遅くまで、極端に云えば夜明けまで大にぎわいが続くだろう。

今日は満月。しかも月は日本では見られないようなすごく大きなまんまるい月が出ている。それも、賑わいにいっそうの華をそえている。ラマダンが終わるまであと15日。こんな状況が続いていくのである。