ミート・ザ・ピープルー国王の行脚

元旦は休日ではない

・1月1日(土)

1994年元旦、午前6時半。オマーンの首都マスカットの自宅。食卓にはいつものように牛乳とパンとハムエッグが並ぶ。食事だけではなく、役所への出勤もいつもどおり。

当地はイスラム暦で動くので元旦は休日にならない。頭ではわかっているのだが、日本人の私にはなんとなく割り切れない。

私は以前、アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビで国営石油会社(ADNOC)と合弁の石油会社で働いていたことがあるが、アラブと合弁の会社でも元旦は休みだった。その頃、アブダビ政府の規制が比較的緩かった日本系石油会社の現地所長が、「身も心も清めて新しい年を迎えるのが日本人の習慣。そのためには正月休みが1日だけでは短すぎる。どうしても3日間の休みは必要である」といってアブダビ側に談判し、成功したことがあった。その会社も翌年からは結局われわれ合弁会社と同じく一日の休日しか認めてもらえなくなったが、「正月に身も心も清める」には、たとえ一日でも休みが要る。

しかし、ここはオマーン。UAE、バハレーン、クウエ ートなどとは違い、元旦も休日ではない。したがって、「日本では休日なのに」とぐちをいっても始まらず、今日も7時10分にはいつもどおり家を出なければならないのだ。

妻と食事をしながら現地の英字新聞(OMAN DAILY OBSERVER)に目を通す。1面の右側トップに「1993年の主な政治の動き」が掲載されている。左側の囲み記事欄には、「カブース国王が本日午後2時に開かれる競馬にメインゲストとして出席する。これには王族、大臣、次官、各国大使も出席する」とある。

「本日はオマーン文化遺産年の始まりの日である。国王が昨年11月の建国記念日に1994年をオマーン文化遺産の年と定めた。また、国王はニズワを文化遺産の町と名づけ、今年の建国記念日はニズワで行なうと決定した」と報じている以外に、新年に関する記事は何もない。

隣国UAEのドバイ発行の英字紙(KHAREEJ TIMES )に目を通す。やはり新年を祝う記事はどこにもないようだ。「これはなんだ。大きな太陽の写真がある。初日の出の写真ではないか」と期待して記事を読むと、12月31日の沈みゆく太陽とある。アラブでは新年より年の終わりに興味があるのだろうか。

物心がついてこの方、元日に休まなかったことは1回もないのに、元日から通常勤務と考えると足が重い。去年は1月1日がたまたま金曜日で休日となってよかったのにと、気持ちがすっきりしない。

役所に7時半に出勤。カウンターパートのアハメッドもサレムもマラックもみんな「ハッピー・ニューイヤー」とわれわれ日本人に合わせて新年の挨拶をしてくれるが、家では今日はなんのお祝いもしないとのことだ。当然といえば当然のことだが、それがまたわびしい。

10時にアリ・スネーデイ ー工業局長が新年の挨拶に部屋に来てくれたが、「今日は日本人は休みかと思った」とのコメント。私も、今日はイスラム暦に合わせずに日本人流に休暇をとって、身も心も新たにした方がよかったかな、とも悔やまれる。

正午から日本大使公邸で新年祝賀会が開かれるので、11時すぎに役所を早退して自宅に寄り、妻とともに公邸に向かう。年末年始は日本に帰る人が多いため、新年祝賀会は例年なら1月10日前後に催されるのだが、今年は塙治夫大使が年明け早々に帰任されるので元日の祝賀会となった。

大使から、新年の挨拶に加えて、在任中の日本とオマーンとの関わりについての感慨などが述べられた後、日本人会会長の挨拶、副会長の音頭による乾杯、「1月1日(年の始めのためしとて・・)」の歌の全員斉唱などがあり、昨年度のオマーン一○大ニュース、日本・オマーン関係の一○大ニュースが発表される。その後、日本酒、おせちなどが振る舞われ、私もようやく正月気分に浸る。

待たれる皇太子殿下の来訪

発表されたオマーン10大ニュースにもあったが、オマーンには各国の要人がよく来る。93年だけでも、フセイン・ヨルダン国王、ムバラク・エジプト大統領、アラファト・PLO(パレスチナ解放機構)議長、ワイツゼッカー・ドイツ大統領、チャールズ英皇太子、ラオ・インド首相、李嵐清中国副首相など。オマーンが1994年からの国連常任理事会メンバーに176票中174票の圧倒的多数で選ばれたのは、その穏健な政策、バランサーとしての役割が高く評価された結果と思われるが、各国要人も何か相談事があると、よくこの国にやって来る。今年はどんな要人がこの国を訪れるのだろうか。

昨年11月にはカブース国王が国境協定締結後、初めてイエメンを訪問されたが、今年はイエメンとの関係はどんな展開を見せるのだろうか。また、イエメンは北と南がちゃんとやっていけるのだろうか。

国内政治は、英明な国王の指導の下で、今年も従来どおりの安定が続くことは間違いあるまい。

現在、石油価格はOPEC(石油輸出国機構)の基準価格一バーレル20ドルを大きく割り込んで12ドル近くに下落している。IPEC(独立石油輸出国機構)の議長国たるオマーンは価格立て直しのために非OPEC産油国間の意見調整に努めているが、今年の油価は、オマーン経済にどう影響するのだろうか。どうやら経済面では多難な幕開けのようだ。

皇太子殿下の昨年1月のオマーンご訪問が延期されなかったら、それが当然1993年の日本・オマーン関係のトップニュースだったろうという説明が今日の新年祝賀会であったが、今年は実現するのだろうか。

日本とのつながりが、ひときわ深いオマーン。アラビア半島東南端に位置しているオマーンは、日本に一番近いアラブの国である。

歴史的にも、大正一三年にここを訪れた地理学者の志賀重昂の『知られざる国々』によって、日本にいち早く紹介されている。その時志賀と会見したタイムール国王(カブース現国王の祖父)は退位後の昭和10年に神戸に住み、日本女性と結婚、二人の間に生まれたブサイナ姫はオマーンでいまも健在である。そのうえ、タイムール、サイード(カブース国王の父)、現カブース国王と三代もの国王が日本を訪れている。アラブでこんな国はほかにない。

オマーンの人びとの日本に対する関心も高い。また、現王朝は250年間続くアラビア半島で最も古い王朝であり、日本の皇室にはとりわけ高い関心と親近感を抱いているようで、皇太子ご夫妻のオマーン訪問が待たれている。

1994年、オマーンはどんな年を迎えるのだろうか。気温24〜25度の暖かい日差しのもと、公邸の庭でおせち料理と日本酒をたっぷりといただきながら歓談した後、3時すぎに自宅に帰る。

家であらためて英字紙を広げると、天皇、皇后両陛下のお歌が宮内庁より発表となった旨を報じている。朝、見過ごしていた記事である。 昨年の日本は、津波、凶作、不景気に襲われ、それに皇后陛下の失語症も重なり、陛下のお歌も暗いものにならざるをえなかったこと、皇后陛下の容体が快方に向かっていること、さらに両陛下のお歌も英訳で伝えている。そして、昨年の日本は皇太子殿下、雅子妃殿下のご結婚というすばらしくおめでたいことがあったことを伝え、これを詠まれた皇后陛下のお歌も紹介している。

母国の今年の繁栄を祈るとともに、オマーンの日本の皇室に対する関心の深さをあらためて知る。

国王出席の初閣議

・3日(火)

カブース国王臨席の下で今年初の閣議が開かれる。

閣議は国王から権限を付与され、また国王に対して責任を負う最高の国政執行機関であり、国王代理、副首相、各省大臣など30名が出席して毎週火曜日に開催されている。このうち国王が出席するのは3カ月に1回、年4回が通例とされている。閣議メンバーのなかで王族は4人のみ。あとは、豪族、テクノクラート、商人などの人々から、バランスよく選ばれている。

国王は閣議を始めるに当たって、オマーンの安定と平和についてまず神に感謝し、さらなる発展と繁栄について神のご加護を祈願をした。

その後、経済の現状について、おおむね満足できるが、引き続きなお一層の努力が必要であると述べられた。不安定な状況の続く国際石油情勢に懸念を示しつつも、1994年

予算が各方面での発展に寄与するとし、収入源の多様化に努力するよう指示した。

ついで、人的資源開発の重要性について触れ、未来を担う若い世代が自立していけるように、科学・文化面での個人の能力開発が不可欠であると強調した。

また、オマーン文化遺産年の意義にふれ、関連行事が国の起源にふさわしい精神とやり方で運営されるよう指示した。オマーンの若者が国の崇高な文明と伝統に深く愛着を感じ

るように育てられるべきであるというのが国王の考えである。

国際石油情勢と生産者・消費者双方の利益になる市場安定のためのオマーンの努力にも言及した。

先月開催された第14回GCC(湾岸協力会議)サミットについては、その結果が地域の利益にかなうものであったと満足感を示し、サミット会議に流れる同胞意識を称賛した。

そして最後に、国王は閣議のメンバ−全員に対して国家目標達成のために一層努力すべきことを求め、全員の成功を祈って閣議を締めくくった。

カブ−ス国王が弱冠29歳で即位した1970年以降、アラビア半島での最後進国の1つであったオマーンは驚異的な速さで近代国家に生まれ変わり、その進歩の様は「奇跡」とも「ルネッサンス」ともほめそやされている。

1970年には学校が3校、舗装道路が10キロしかなく、国際港や空港は皆無であったが、その後、日産80万バーレルにまで増大してきた石油生産を背景に国の近代化を進め、いまや学校は9百校、舗装道路も5千キロを超え、国際港、国際空港も各2と著しい発展をとげている。英明なカブース国王の指導の下で、これだけの変革をたった20年でやってのけたのである。

オマーンの今後の問題は、1つは17年後といわれている石油枯渇後にどう対処するかであり、そのためには石油依存型経済からの脱却、つまり経済の多角化が何よりも求められている。もう1つは、オマーンの若者にいかに就労の機会を与えるかであろう。93年

末に行なわれたオマーン初の国勢調査によると、人口はオマーン人約150万、外国人約50万。オマーン人のうち15歳以下が半数を占めている。安価に外国から労働力が得られる中で、今後この若者たちに仕事を与えて行けるかどうかが重要課題である。今年はこれらについてどんな進展があるのだろうか。

新聞は、オマーンの1994年の予算が1月1日の勅令で承認された旨を報じている。それによれば、歳入が対前年度比0・9%増の17億3千2百万リアル(約4546億円)、うち石油収入が76%、、非石油収入が残り24%で、歳出が対前年度比10・2%減の2、033百万リアル(約5、336億円)、内訳は非軍事支出が37・7%、国防・安全保障費が30・1%、投資支出が21・2%、民間部門・産業育成補助金が残りの11・0%となっている。

つまり、歳入は前年並み、歳出は10%カットという厳しいものであるが、それでも歳入の17・4%に当たる3億リアル(約793億円)の欠損が出るとされ、今年は財政面で格段に厳しい舵取りが求められることになろう。なお、リアルと米ドルは固定レ

ートとなっており、最近の1ドル=百円の相場では一リアルは262・5円である。

予算の前提となった石油価格は、1バ−レル15ドル前後といわれているが、現行の石油価格は約12ドル程度。IPECの議長国を務めるオマーンはOPECに協力して石油価格の立て直しを図るべく、シャンファリ石油大臣が、年末からIPEC諸国の歴訪を、精力的にこなしているところなのである。

国王の大臣たちへの指示も、こういう状況を踏まえてなされている。

 

オマーン女性との相合い傘

・5日(水)

朝7時10分。出勤のため外に出ると、14、5メートル離れたガレージまでの敷き石が至るところ濡れている。玄関先まで見送りに出た妻に「雨が降ったのかな」と聞くと、「何を言っているの。夜中にすごい雨が降ったのよ」という。昨年8月以来、久しぶりの雨だ。そういえば、まだ空の雲行きが怪しい。

昼、大使館の経済担当書記官のN氏が次官との打ち合わせの帰路、久しぶりに部屋に寄る。小1時間の打ち合わせの後、帰ろうとすると外は雨、しかも土砂降り。「おととしは雨が多かったのに、昨年は雨らしい雨はなかった。今年は雨が多いのでしょうか」と、しばらくの雨宿りを余儀なくされたN書記官の言。

そういえば、私が赴任したのは1992年の1月9日。この年はいやに雨が多かった。といってもマスカットの年間平均降雨量は百ミリ余り、東京の平均年間降雨量約千五百ミリに比べれば15分の1強で比べようもないが、湾岸諸国の中ではオマーンはまだ恵まれている。内陸部に三千メートルを超す山を擁し、南部がインド洋の季節風を受けるので湾岸では雨が多く、中では、いわば 水資源大国ともいえる。

私が赴任した当初の1992年の1、2月はマスカットでもよく雨が降り、傘を持って出勤する日がしばらく続いた。私の勤務する商工省工業開発部には大学卒の男子3名と女子2名、計5名のカウンターパート、それに高校卒の女性タイピスト2名が配置されていたが、ある日、女性たちに「今度雨が降ったら、相合い傘で写真を撮ろうか」と軽口を叩いたら「オーケー」という返事。

いくらオマーンがインターナショナルな国だといってもイスラムの国、「相合い傘の件は少し調子に乗り過ぎたかな」と、その後何日かの間、言動を控えていたのだが、ある雨の日、「ミスター・エンドウ、今日カメラ持っている?早く写真を撮らないと雨がやんでしまうわよ」というオマーン女性たちからの催促。日本男児たるもの、いったん口にした以上逃げるは卑怯とこれに応じる。かくして、 オマーン、いやアラブ初の未婚アラブ女性と日本人オジンとの相合い傘の写真撮影が実現したことがあった。

それに92年は台風並みの雨風に襲われて屋上から雨が滝のように家の中に流れ込み、モップ、雑巾などを総動員し、何回もバケツで流れ込んだ水を汲み出したり、水びたしの路上で車を運転したり大騒ぎしたものだが、昨年は雨が降ったのが2回ほどと記憶している、しかもいずれも量が少なかった。今年はどうなるのだろうか。

中東に住むといろいろなカルチャー・ショックを受ける。雨が降ると、「イツ ツ・ビユーテイ フル」というのもその一つ。「雨が降って何がよい天気なものか。うっとうしいだけではないか」と日本人は思う。ところが不思議なことに、中東に住みつくと、雨が降るとほっとした気持ちになり「イツ ツ・ビユーテイ フル」といってしまうようになる。こうなったらかなり中東人化している証拠といえる。

 

英明なカブース国王

・6日(木)

新聞が、ファハド前法務担当副首相が閣議担当の副首相に任命されたことと、これにともなう法務省の設置、開発評議会の開発省への昇格、高等教育省の新設などを伝える。          ファハド副首相は1944年生まれ。カブース国王の曾祖父ファイサル国王の兄ムハンマドの孫に当たり、国王の後継候補の一人とも目されている。夫人はフランス人。また、1般のオマーン人と異なり殿下は髭も蓄えていない。今度の任命はどんな意味をもつのだろうか。

カブース国王は1940年生まれ。独身で、子供がいない。したがって、国王に万が1の事があったら、オマーンの政治的安定性を危ぶむ声がある。

しかし、「もともとアラブに長子世襲の伝統はない。砂漠という厳しい生活環境のなかで、しかも、いつ遭遇するかもしれない外敵をかわして生き残るのに、長子だからといって能力のない者に1族の生命は預けられないのだ」と考えると、これは杞憂といえる。時間をかけて、1族のなかからいちばん能力のある者を、時間をかけて指導者に選ぶというのがアラブの伝統である。しかも、オマーンはイスラムの中でもイバード派に属し、千年以上にわたって宗教と政治の長であるイマームを選挙で選んできた国である。

国王に子供がいないから不安定などとはいえない。むしろたくさん子供をつくって、その子供たちを大臣にして政治をまかせている国の方が安定度が低いともいえる。ただ、オマーンの場合はカブース国王が飛び抜けて英明な人なので、その点で、後継者選びがむずかしいかもしれない。国王の弥栄(いやさか)を心から祈念したい。

 

国民との対話の旅

・8日(土)

カブース国王は例年行なわれている「ミート・ザ・ピープル行脚」のため、シーブの王宮を出発してバテイ ナ地方に向かった。新聞は、「道路を埋めたシーブの人たちが国王の車に花を投げかけ、国王に忠誠を誓いながらその出発を見送り、学童たちも国王の写真を掲げ、オマーンの国旗を振りながら歓声を上げてこれに加わった。また、人びとは愛国歌を歌い、民族舞踊に酔い痴れた」と伝えた。

「ミート・ザ・ピープル」とは、ラマダン(断食)月に入る前に国王が自ら車を運転しながら国内を回り、国民とじかに膝を交えて国民の声に耳を傾け、国民の声を政治に反映させるためのオマーン独特の国内巡行の事である。この「ミート・ザ・ピープル」は、カブ−ス国王が即位した1970年以降毎年行われてきたが、今年も例年通り、国王顧問、大臣らが大勢この行列に加わったと伝えられた。

1992年4月10日、私は幸運にもこの行列にたまたま出合うチャンスに恵まれた。その日私は、日本からの商工省へのゲストをニズワ方面に案内し終え、ニズワからマスカット方面に戻ったところで、人々が三三五五、道路に集まり始めているのに気がついた。    なかには国王の写真を持っている人もいる。「なんだろう?」といぶかりながらさらにマスカット方面に進むと、あちらこちらに人びとが集まり、踊りが始まっている所もある。「ひょっとすると国王が通るのかな」とさらに車を走らせると、空中にヘリコプターが飛ぶのが見え、やがて前方から来たオートバイに乗ったパトロールの警官が「そのまま停止して待つように」と指示する。聞くと、やはり国王が通られるのだという。

そこはマスカットから80キロほど手前の土漠の中。約3、4百メートル前方にも村が見えるが、国王の写真や、歓迎のスローガンを書いていると思われるアラビア文字のボードを掲げて、あちこちの村から集まった人びとで道路脇は1杯になっている。先生に引率された学童の一行もいる。こんな機会に恵まれた幸運と、国王を間近に見られる興奮で、私の体もだんだん熱くなっていた。

しかし、国王の行列は一向に見えない。2時間近くは待たされたであろうか。はるか先に歓声が上がる。いよいよ来られたようである。歓声が近づいて来る。もう周りは押すな押すなの大盛況。私もこの興奮の渦のなかにいた。

目の前を白いふさを両脇に垂らした四輪駆動車が通りすぎた。国王だ。写真で拝見する通りの白いひげの国王が、自分で車を運転されている。人びとが国王の車の前に飛び出して白い花や赤い花を投げかける。国王の写真が掲げられる。国旗が振られる。

国王の車の後に、要人たちが助手席に乗った四輪駆動車が延々と続く。国王顧問や大臣たちである。人びとから国王に陳情があるとこれらの要人がその場で呼び出され、状況の説明や即刻の善処が求められるので、役所はこの期間その対応に大変に忙しくなるのだと聞いた。

オマーンの人口は2百万人、国家予算は総額5千億円、それなら私の自宅がある横浜市の方が断然大きい。ここは国といっても県と思った方がよいなどと、いい加減に考えていた私も、その後を続く車の行列を見て、やはり国王というのは凄い、国というものは県などとは全然違う、と認識を新たにしたものであった。

さらに、その後に軍隊の車両が延々と続く。大砲を積んだ車、機関銃を構えた精悍な面構えのオマーン兵士たちが次々に通過していく。オマーン中の軍隊が参加しているのではないかと思われるほどのおびただしい数の車列である。通る兵士たちのほとんどが手を挙げて挨拶をしていく。私もいつの間にか手を挙げてこの行列を見送っていた。

国王は「ミート・ザ・ピープル」の期間中ロイヤル・テントに寝泊まりするので、テント、水、薪、ガソリン、トイレなどを積んだ車もその後何十両と続く。総計何百両の車、数キロにもおよぶ壮大な行列であった。 あの時はたしかニズワ、アダムなどの内陸方面への旅であったが、今年は海岸に北に延びるバテイナ方向を回られるようだ。

国王からこの期間中、今年はどんな指示が出されるのだろうか。

 

・9日(日)

塙治夫大使が2年4カ月の任期を全うされ、今夜帰国されるので、お見送りのため妻と公邸に出かける。夕方から雲行きが怪しかったが、家を出る頃からポツポツと雨が落ち始め、車で5分ほどの公邸に着く頃にはかなりの降りになった。

塙大使は外務省でも有数のアラブ通であると同時に、格別に人柄のよい方である。奥様もきさくな方でご夫婦そろって人望が厚かったせいか、お別れに来た邦人たちの中では「これは大使ご夫妻のための涙雨」という感想がもっぱらであった。

 

月の観測で決まる祝日

・10日(月)

今日は昇天祭の休日。昇天祭というのは、621年予言者ムハンマドが最も失意に沈んでいた時に、アツ ラーの神の計らいで一晩のうちに天馬に乗ってメッカからいまのエルサレムのアクサ・モスクに行き、そこから昇天してメッカに戻ったことを記念した1日だけの休日である。この日、イスラムの人たちは予言者が天国で見聞きしたことから、イスラムの教えを深く心に刻むのである。

ちなみに、イスラム暦のオマーンの今年の祝日は、あと、

3月12日〜14日 ラマダン明けの休日

5月21日〜23日 巡礼明けの休日

6月11日 イスラム暦元旦

8月29日 ムハンマド生誕祭

11月18日 建国記念日

の予定である。

予定であるというのは、イスラム暦は月に準拠しており、月の観測結果によって決定されるので、11月18日と予め定められている建国記念日以外は、日に変更がありうるためである。

イスラム暦は、予言者ムハンマドがメッカからメジナへ移住した622年7月16日から起算し、1年(354日)を12カ月にわけている。したがって、1年に11日ずつ各月がくり上がる。とくに神聖視されているラマダン月はイスラム暦9月、ハッジ(巡礼)月は12月である。

 

 

・12日(水)

ミ−ト・ザ・ピ−プル5日目、国王は、シ−・アル・タイバットのキャンプ地でバテイナとムサンダム地方の知事や首長、その他の代表者たちと会見した。この日、国王は以下の重要な発言をされた。

「昨年一二月に行なわれたオマーン初の人口調査結果にもとづき、諮問議会の地域別議員定数の不均衡を見直し、来年以降の議会からこれを適用する。

人口調査によれば、外国労働者が人口の4分の1を占めている。これを当面15%に減らし、将来は10%を目指す。したがって若者の雇用機会は十分にある。今回の国勢調査で15歳以下が人口の大半を占めることが判明したが、この人たちも将来の国づくりに大きな役割を果たせる。

このために必要なのはトレーニングと資格である。ただ学校を出ることが目標ではない。われわれの祖先たちはよく働き、ファラ−ジや農園、建物などを作り上げて来た。若者たちは、よく働き自立しなかればならない。

オマーン人の平均家族数は現在7人となっているが、人口抑制のためには5人以下が望ましいというのが世界中で一般的である。神の法に反しない限り、各人が家族負担を減らすことを考えるべきではないか。大家族は社会にとっても大きな負担となる。

水はコーランにもあるようにすべての生き物の命である。将来に備えて水の使い過ぎと浪費をせぬよう心がけることが肝要である」

 

水は石油より貴重? 

 中近東は石油成金の王様の国、議会などあるのかといぶかる日本の方が多いと思われるが、オマーンにはちゃんと議会がある。カブース国王は、1981年に国民議会を開設され、91年には政府からの代表を含まない、選挙で選ばれた地方代表だけからなる諮問議会を発足させている。しかも、このような定足数の改定も日本の現状から見るとずっと迅速でうらやましいものがある。地方と都会で1対3のような格差をそのままにしておいて、日本はなんの民主主義かと疑われる。

オマーンでは若者の就職難がだんだん深刻化してきており、社会問題化する恐れもある。オマーンの治安は滅法よいのだが、外国人ではなくオマーンの若者の物乞いや窃盗などの噂もたまに聞くようになったのは、この就職難のせいかもしれない。オマーンにはたしかに雇用機会は十分にある。若い人たちは職業をえりごのみせず、しかも技能を高め、真剣に働くよう心を入れ替えてもらいたいものだ。

水は国王のいわれるとおり、大切である。オマーンは、他の湾岸諸国に比べれば水はより多くあるが、絶対的には水資源の少ない国だ。世界的にも21世紀には水はますます貴重な資源となり、この取り合いのための戦争もあるかもしれない。瑞穂の国の日本は幸せだな、そのうちに水が石油よりも貴重になるかもしれないなどと夢想しながら、この記事を読む。

 

・15日(土)

石油鉱物省が、国策会社であるオマーン石油精製会社が石油販売に直接乗り出す旨を発表した。オマーンでは、これまでシェルとブリテイ ッシュ・ペトロリアム(BP)の両社が石油製品の販売権を独占してきたが、これに風穴を開けようとする試みである。なお、国有のオマーンのミナ・アルファハール製油所の処理能力は8万バーレル、製品は半分が輸出向け、半分が国内向けとなっている。

なお、この製油所とマスカットの海水淡水化装置は日本の会社が建設している。

 

・19日(水)

昨日オマーン内陸部の町イブリの近郊のシー・アル・マサラットの砂漠にキャンプを張った国王は、この地方の有力者との会談で水に恵まれないこの地で大量の水を発見したことを発表した。周辺の山岳部に降る雨水が海にではなく砂漠に向かって地下水となって流れているのがわかり、最も水不足に悩む地方にまもなく供給されるだろうとのこと。国王は同時に、水を無駄遣いせぬよう強調した。

外国人労働者の問題については、40万人の雇用機会がオマーン人にある。若者は自分の額に汗して働く必要があると再度述べた。さらに、民間に対して、政府は種々の支援を惜しまずに行なっているが、金を銀行に置かずに有望なプロジェクトについては、雇用機会を増やすために投資をしてほしいと訴えた。

その後、国王は参加者と意見交換をされたと新聞は伝えていたが、このミート・ザ・ピープルはまさに「公開議会」であり、「行動する民主主義」である。利害を同一にする支持者たちとばかり何やら相談している日本の国会議員先生もぜひ見習って、もっと国民の方に目をむけるようになってほしいものだとつくづく考えさせられる。

 

長寿の秘訣

・23日(日)

新聞が「スマイル地方のたいへんに健康であった147歳の男性が、2日前に突然具合が悪くなって入院し、そのまま死亡した」と伝えている。

日本だと最高の長寿の人でせいぜい百十何歳ぐらいだが、147歳とはたいへんな長寿だ。砂漠で生まれているので詳しい生年月日は知る由もないが、まずは信じる以外あるまい。

この長寿の秘訣はなんであろうか。やはりラクダのミルクとデーツ(ナツメヤシの実)、それにハニーのせいだろうか。私は一夫多妻のせいではないかと思っている。つまり、セックスの効用である。

そういえば、私のカウンターパートのアハメッドのお父さんも102歳で健在。奥さんは3人で18人の子持ち。サレムのお父さんにいたっては、奥さんが公称4人いたが、4

人目を始終取り替えていたので実質はそれ以上、子供は36人とも48人ともサレム本人ですらわからない模様。

聖書で伝えられる八百歳とか九百歳とかの長寿は別としても、アラブで長生きする人は

、信じられないほどの超長寿なのかもしれない。

 

国王と会見した若者

・24日(月)

国王はマナ県でキャンプした後、本日よりウスタ州ウム・アル・ザマインにキャンプを張り、大勢の人が歓迎しているという。

昼すぎに、サレー資金援助課長が若いオマーン人を私の属している工業開発部に連れてきて、相談に乗ってやってほしいという。聞いてみると、「若者はマナでキャンプ中の国王に会いに行き、自動車整備工場を開きたいとじかに相談したところ、商工省のアドバイスを受け、よく検討するようにとの話だった。それで商工省に相談に来た。必要機械のリスト、またその価格などを知らせてやってほしい」ということであった。

「君は本当に国王と話しをしたの」と若者に聞くと「二回話をした。国王は十分に検討するようにといわれた」という。相談の方は、カウンターパートのサレーとうまくさばいた。こんな若者でも国王と、しかも2回も話ができるのかと、いまさら驚いた次第であったが、今日も国王は国民と膝を交えて話をされているのであろうか。

 

・25日(火)

昼すぎに、工業開発セミナーに出席していたカウンターパートのアハメッドが戻ってきた。書類作成に夢中になっていた私が顔を上げると外は曇っている。「今日は一雨来るかな」というと、アハメッドが「イッツ・ナイス」という。

一時すぎ秘書のワヒダが隣の席のパソコンで作業を始める。「今日は雨が降るかな」と声をかけると、「ミスター・エンドウ、雨なら1時間前から降っているわよ。今日はいい天気」という。

退庁時間の2時半に役所を出ても雨はまだ止まない。帰りに寄った銀行の玄関であったエジプト人らしいアラブ人も「トウ デイ・イズ・ビユ ーテイ フル」と挨拶をする。久しぶりにワイパーを回しての運転。左右、後部の窓に雨がはりつき、リッチな気分で自宅に戻る。やはり雨はよい。私の中東化がだいぶ進んでいるのは確かだ。来年日本に帰ると、雨に対する感覚はどう変化するのだろうか。

夜遅く新任の伊集院明夫大使夫妻がマスカットに赴任されるいう。出迎えは日本人会長夫妻がわれわれを代表して行くこととなっている。

 

・27日(木)

本日の新聞は一面で、海洋科学センターが日本政府の援助でアワビの養殖装置を南部のサダーに設置すると伝えている。

アワビはこの国の貴重な資源であるが、減少しつつあり、2年前から捕獲は1年に2カ月間のみ、小さいアワビは漁獲禁止、またスキューバ・ダイビング用具は使用禁止の措置が取られている。

現在三百人のオマーン人がこれに従事して、年間約50トン、金額にして約250万リ

アル(約6億5千万円)を輸出しているという。

このセンターには日本人専門家5名が入って、漁業の指導を行なっているが、日本の技術協力はまだまだ広がるようだ。ちなみに、日本人専門家は、このほかに商工省に5名、農水省に1名、水資源省に1名入って技術指導を行なっている。