小机城址(コヅクエジョウシ)[横浜市港北区小机町737付近] 
JR横浜線「小机駅」下車徒歩10分
築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、この辺りが開けた12世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方には、その支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起した時、景春に味方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀の子橋付近)に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。城は文明十年(1489)攻め落とされ、上杉氏もやがて北城早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40余年間廃城となっていました。大永4年(1524)一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として、再興しました。小机は地理的に、江戸、玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになります。豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が亡び、4代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として、200名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城となり、その歴史を閉じることになりました。
中世の城について

 中世(9世紀〜15世紀)に築かれた城は天然の地形を利用し、小机城で理解できるように、半島状に突き出た丘陵や台地の先端部を城地したものが多く、その設備も櫓(ヤグラ)、木柵などのほか小規模な土塁(ドルイ)や空堀(カラボリ)の共なう程度で、居館・住館は多くは城外にありました。
 横浜市内には、小机城の他、青木城・榎下城・馬場城・荏田城などがあったと言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、その他については、かつての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかではありません。又中世の城郭は、近世に築かれた大規模な「城」とはその機能・性格が異なるものと考えられ、城郭史の上でも比較的未開拓の分野と言われています。