中国医学豆知識
中国太古の伝説上の天子。『帝王世紀』などによれば、神農氏は姓は姜(きょう)、母は有嬌氏の女(むすめ)で少典氏の妃となり、神竜に感じて人身牛首の神農氏を生む。神農氏は火徳をもっていたので炎帝といい、木を切りまげて耒耜(らいし=すき)をつくって人民に農耕を教え、百草をなめて薬草を発見し、五弦の琴をつくり、八卦重ねて六四爻(こう)の占いを案出し、また市を立てて人民に交易を教えたという。つまり、中国の農業・医薬・音楽・占筮(せんぜい)・経済の祖神であり、中国文化の源とされる。
神農本草経中国の後漢から三国時代の間に成立した本草書。梁の学者陶弘景が六世紀の初めに校訂して『神農本草経』三巻とし、さらに注を加えて『神農本草経集注』七巻を著わした。後世の本草書はすべてこれを祖述したもので、宋代の『証類本草』はその発展のピークをなすものである。最初に10条からなる総論があり、続いて365種の薬品を上中下の三品に分け、それぞれ気味と薬効と異名とを述べた簡単な薬効書である。明代の盧復、清代の孫星衍、日本の森立之の復原本がある。
李時珍(1518-93)中国、明末の博物学者・薬学者。荊州(湖北省荊春県)の人。祖父・父ともに医者であったが、李時珍は民間にあって『本草綱目』の著述に一生をささげた。博物学的な興味は父の影響を受けている。35歳で新しい薬物の基準書の集成に着手し、生前に脱稿していたが、刊行されたのは没後の1596年のことである。当時おこなわれていた『証類本草』(1082年頃成立)は、すでに古く、実情に合わなくなっていた。そこで李時珍は新しい薬品を採用し、金元代に盛んとなった薬理学を反映させ、薬学者向けに改編して、『本草綱目』を独力で完成したのである。
本草綱目中国、明代の薬物書。李時珍の著、52巻。李時珍の没後その子李建元によって1596年に刊行された。李時珍の時代になると、薬物の基準を決めるのに『証類本草』(1082年ごろ成立)では、実情にそぐわない点が生じてきた。その欠陥を克服して成功したのが『本草綱目』である。今日では文献的に粗漏な点が批判されているが、中国で28種、日本で9種という多数の版本が知られているばかりでなく、抄訳ではあるがラテン語・フランス語・ロシア語・ドイツ語・英語・日本語(全訳)に訳されている。薬品は従来の三品分類を排し、形態・生態の類似を取り入れた16部60類の配列によっており、1871種の所載薬品中376種が新収品である。各薬品ごとに、名称の由来を示す「釈名」、産地・形態などを説明する「集解」、調整法の「修治」、性質を表す「気味」、薬効を表す「主治」、主治の理論的説明である「発明」、応用の「附方」の七項に分け、800に近い文献を引用し、李時珍の観察・見解を加えて、まとめている。
小学館「ジャポニカ」より