~ オレンジ色の背中 ~






はあ、はあ、はあ。


息が上がる。さっきまで軽快に漕いでいた筈のペダルが重い。この道はちょっと見ただけでは分かいづらいが、緩やかな上向きの勾配となっているのだ。

保育園から勝を連れての帰り道。毎週のことではあるが、金曜日の帰りは荷物が多い。
自転車の後ろに乗せた勝だけでも重いのに、肩に背負ったシーツやバスタオルを入れた袋が嵩張って邪魔なことこの上なかった。

「よいしょっ、よいしょっ」
「かあちゃん、がんばれー!」

自然に掛け声が出てくる私に、勝が「がんばれがんばれ」と発破をかけてくる。キャッキャと楽しそうに、高らかに笑いながら。
私の声にならない悲鳴と無邪気な幼子の声が、夕焼けに赤く染まる空にじんわりと溶けていく。

「も、母ちゃん駄目・・・かもっ」
「もうすこし、がんばってー!かあちゃん、いけー!」

私の後ろで勝がはしゃぐ。暴れないでよ、ただでさえ大変なのに・・・と苦笑いして、更に強くペダルを踏み込んだ時だった。すぐ横をスッと音もなく、一台の自転車が通り過ぎていく。
いや、音もなく、ではなかった。その自転車からは微かなモーター音がしていた。私と同じように後ろに子供を乗せた女性が、まるで重さなど感じないかのようにスピードを落とさずに進んでいく。
その自転車はいわゆる電動アシスト車だった。私の普通のママチャリとは、当然のことながらモノが違う。

坂の途中でよたよたしている私たちを置き去りにして、その親子はさっそうと去っていく。遠ざかるその背中を見つめていると、ふと後ろに座っている子供がこちらを振り向いた。
その子は不思議そうな顔をしていた。どうして着いてこないんだろう、と思っているのかもしれない。

電動アシスト車ならば、そりゃあ漕ぐのも楽なものだろう。こんな風に勝を乗せて、そのうえ荷物がいっぱいだとしても、きっと車輪は滑らかに回るのに違いない。
だがその乗り物は買うとなれば8万から10万円はかかるだろう。私に手が出る筈も無かった。

なんだか急に気が抜けてしまった。ペダルを押す足にも力が入らない。

「・・・あーあ。疲れたなあ・・・」
「かあちゃん、がんばって!」
「つかれたあ。・・・ほんっと、つかれたあ!!」
「・・・かあちゃん、とまってもいいよ。おれ、あるく!」

幼児にまで気を使わせるなんて、なんて駄目な母親なんだろう。泣きたくなってきた。


毎日毎日、目が回るほどに忙しい。慢性的な寝不足と、常に火の車の家計と、ここで私が倒れたらどうなるのだろうという不安。どこにいても何をしていても、それらの懸念が私につきまとい、黒い靄となって頭の隅っこに居座る。やりたいことというよりも、やらなくてはいけないことばかりが山積みになって、どれから手をつければいいのか分からなくなる。
家の片づけ、目を通さなくてはいけない書類、学校のこと、保育園のこと、仕事のこと。子供たちのこれからのこと。私は人よりも要領が悪く、てきぱきとそれらを捌くなんて到底無理な話だ。どうしたらいいのかと悩んでいると、すべてがそこで止まってしまう。

誰かに相談したくても、できる相手もいなかった。私のパートナーだった人は、もういなくなってしまった。私に残されたのは4人の子供たちだけ。長男の小次郎は頼りになるけれど、あの子にばかり負担をかける訳にはいかない。しっかりしているといっても、あの子だってまだ12歳の子供なのだから。
それに          

そこまで考えて私は頭を横に振った。そのことは今は思い出したくなかった。

ただ大変だとはいっても、今の生活が幸せじゃない訳ではなかった。我が家には確かに不幸な出来事もあったけれど、子供たちは紛うことなく私の宝だ。この子たちがいるからこそ、ギリギリのところで耐えられるのだと思う。
日々生活するだけで精一杯で、子供たちの欲しいものも十分に与えてあげることはできないけれど、それでも愛情だけは注いできたつもりだ。今のところ、どの子も素直ないい子に育ってくれている。

「ねぇ、かあちゃん。もういいよ。おれ、あるくよ?」
「・・・うんっ、もう、ちょっとっ・・がんばる!もうちょっとだけ・・・でも母ちゃん、若くっ、ないからっ、大変!」
「かあちゃんは若いよ!大丈夫だよ!」

息も絶え絶えに答える私に、勝はそう言ってくれた。思わず笑ってしまう。落ち込んでいた筈の気分もあっという間に晴れるのだから、子供ってすごいと思う。
だけど私はやっぱり若くはないのだ。一人目の小次郎がまだ勝の年くらいだった頃は、確かに私は若い母親だった。小次郎の通っていた幼稚園の母親たちの間でも、若い方のグループに入っていた。

でも末っ子の勝ともなると、そうもいかない。小次郎と勝とでは随分と年が離れているのだ。保育園で顔をあわせる母親たちの中では、私は決して若い方ではなかった。
だからなのか、やんちゃな末っ子にまだまだ手がかかるというのに、最近は体も心も酷く疲れやすい。家では出来るだけ子供たちに優しい母親でいたいのに、彼らの前でため息をつくことも多くなったような気がする。

「あるくよ」と勝はまだ言ってくれているけれど、私は意地になって自転車を漕ぎ続ける。ペダルはますます重く固くなる。息が苦しく、より多くの酸素を取りこもうとする肺が痛む。

後ろを押して欲しい。誰かに背中をさすって欲しかった。






「母ちゃん!勝!」

凛として透きとおる声があたりに響いた。持ち主の気質を表すような、若く溌剌とした、それでいて堂々とした声。
振り返るまでもなく誰なのか分かる。サッカークラブの練習を終えて帰ってきた小次郎だった。

「やった、偶然!なんか前でヨタッってる自転車があるなー、って思ったら母ちゃんだった」

笑いながら駆け寄ってきた小次郎は、そう言った。私も、えー、そう?よたってた?と笑う。

「あのね、にいちゃん。おれ、あるくからいいよ、っていっても、かあちゃん頑張るっていうんだよ」
「そうか」
「だからおれ、がんばれーって応援してた」
「そうか」

小次郎は勝の頭を撫でながら、小さな子がつたない言葉で一所懸命に教えてくれようとするのを、優しく笑って聞いている。この子は尊と直子のことも可愛がってくれるけれど、勝には特別に甘い。それが見ていて微笑ましい。

「母ちゃん、自転車漕ぐの替わるよ。俺が勝を連れて帰るから、母ちゃんは歩いて帰ってきなよ」
「でも、ここ坂だよ?大変だよ?」
「坂っていうほどのもんじゃないじゃん。全然平気だよ、これくらい。サッカー選手の脚力、舐めないでよ」
「・・・それもそうだね。じゃあ、お願い」

私から自転車を勝ごと受け取った小次郎は、サドルにまたがるとすぐにペダルを踏んで漕ぎだした。スムーズな動き出しで、全くふらつきもしなかった。

「気を付けてよー!」
「分かってる!」

軽く腰を上げて、リズミカルにペダルを回す息子はあっという間に遠ざかっていく。その背中は子供のものとはいえ、随分と逞しく見えた。にいちゃん、すごい、すごい、と勝の興奮した声が聞えてくる。それに重なって、小次郎の明るい笑い声も。

それは、もうすぐあの子が家からいなくなる           そのことが信じられないほどに平和な光景だった。

小次郎が東京の私立の中学校に進むことは周りでも知られていて、最近は会う人会う人に「おめでとう」「良かったね」「いい息子をもったね」と声を掛けられる。そのたびに私は笑顔で「ありがとう」と答える。

だけど         、と思う。特待生としてスカウトされたことは幸運だったし、誇れることなのだろう。実際、私はあの子を誇りに思っている。
だけど一方で、こうも思うのだ。好きで子供を手放す親がいるものか        、とも。

近くに置いても好きなだけサッカーをさせてあげられるのだったら、誰が遠くへなどやったりするものか。
私の子だ。当たり前のことだが、私が産んで育ててきたのだ。小さかったあの子を抱いて抱いて、数えきれないほど抱きしめてきた。まだたった12歳のあの子。本当ならもう少し傍にいて抱きしめてあげたかった。でもあの子の将来のため       そう言われれば、取るべき道は考えるまでも無かった。
私は平気なフリをして、あの子の手を離すしかない。もうじきやってくるその日に、笑って見送るしかないのだ。


(あの子が行ってしまうまで、あと少し。できるだけ傍にいよう。家にいるのでも買い物に行くのでも、できるだけあの子といよう。これから一緒に過ごせない時間の分、少しでも一緒にいよう)

必ずやってくるだろうその日を想うと、情けなくも視界が揺らいだ。目に映る景色がぼやけて、あの子の背中も勝の背中も、瞬く間に夕暮れのオレンジ色に滲んでいく。
早く涙を払わなくては、と焦る。子供たちにいらない心配をさせては可哀想だもの。

緩やかな坂を上りきった小次郎が私を振り向いて、よく通る大きな声で呼びかけた。

「母ちゃん!俺たち先に帰ってる!勝を置いたら俺、母ちゃんを迎えに来るから!だからゆっくり歩いてきて!」



気を抜いたら嗚咽が漏れてしまいそうだった。
声が震えませんように        そう願いながら、私は頭上に両手で大きく丸を作って「おー!待ってる!」と答えた。





END

2016.03.27

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