~ 茨の向こう ~






「よお。お帰り」
「・・・ただいま」

スポーツバッグを右肩に下げた若島津は、東邦学園の寮は自室において実に二日ぶりに日向小次郎に対面した。一昨日の夜から明和の実家に戻っていたのだ。それはかねてからの父親との約束を果たすために他ならなかった。
つまりは空手の稽古を続けること。その証拠に若堂流の拳闘家として空手の地方大会を勝ち抜き、全国レベルの大会に出場すること。
この二点が父親から若島津に対して、東邦学園の中等部に入学する際に課された条件だった。そしてその約束は高等部に上がった今でも有効となっている。

だがそれも先ほど終わった。東京体育館で行われた全国空手道選手権大会の高校男子の部で、若島津は見事優勝して見せたのだ。その結果を日向にメールで教えてくれたのは、若島津の姉の志乃だった。
『今日だけは健を褒めてやって』と書かれていた文章からは、年の離れた弟をどれだけ心配していたのかが読み取れるような気がした。そしてそれは日向も同じだった。父親が惜しんで手放そうとしないほどに空手の才があるとしても、それでも絶対的に練習量が足りていないのだということくらいは日向にも分かっていた。若島津の時間の多くは、学園生活とサッカーの練習に捧げられている。その合間に空手部に赴いて稽古はしていたけれど、常識で考えれば準備が決して十分でないのは明らかだった。

日向は若島津の肩からバッグを下ろさせると、床に置いた。そうして未だ突っ立ったままの友人を抱き締める。

「よくやったな。優勝おめでとう。・・・お前はやっぱスゲエ奴だよ」
「・・・日向さん」

労いの言葉をかけてから身を離そうとする日向の腕を引きよせ、若島津はその身体を包み込んだ。自分よりも少しだけ低い位置にある頭に鼻先を埋めて、香りを嗅ぐ。洗い立ての髪からはシャンプーの匂いがした。

「二日ぶりのあんただ・・・・。会いたくて仕方が無かった。ずっとあんたのこと考えてたよ」
「何だよ。武道って無心にならなきゃ駄目なんじゃねえのか。お前、雑念だらけじゃねえか」
「俺の芯になるのはあんただから、それでいいんだよ。日向さんのことだけを考えているのが、集中していることの証なんだから」

日向に抱きついて幾らか落ち着いたのか、口調も少し軽くなる。
この部屋に戻ってきた時の若島津は表情というものが無くて、重荷を下ろすのと一緒に感情までどこかに置いてきたかのように日向には見えた。まるで魂を抜かれたような、ふわふわと心ここにあらずというような。
だから日向は怖かったのだ。もしかしたらどこか怪我をしたのではないかと、心配した。

だがそれは杞憂だったようだ。体をさり気なくチェックしながら「怪我はしてないな?」と聞くと、「痣くらいはできているけど、試合では胴当てもしているからね。それよりは家の稽古の方がヤバかったかな。もう少しあっちにいたら、あばらにヒビくらい入れて帰ってきたかも」と、若島津は物騒な答えをさらりと口にした。

その言葉自体は冗談に過ぎないが、だが空手が常に負傷のリスクを負うものであることは間違いない。怪我が怖いようでは形ならともかく組手はできない。若堂流では子供のうちは身を守る防具をつけるが、大人になればそれもなく道着のみとなる。それでフルコンタクトで対戦するのだから、骨折も珍しいことではなかった。
日向は今更ながら、この男がつい先ほどまでいたのは真剣勝負の格闘の場なのだということを思い知らされる。力でもって相手を制し、誰が強者なのかを証明するための場。どちらかが試合を続行できないほどにダメージを受けるか、戦闘意欲を失うまでは時間いっぱい闘うことを求められる場所。
若島津は今日、対戦相手からおそらくは幾つもの拳や蹴りを受けて、また自らもそれ以上の打撃を与えてきたのだろう。よく無事に戻ってきてくれた、と日向は素直に思う。

ふいに後頭部の髪を軽く引かれて、日向は上を向かされた。すぐ近くに、そうは見ないほどに整った若島津の顔がある。そのまま口づけられ、日向は軽く唇を開いた。

「・・・ん、・・・ぅ、ン・・っ」

若島津の舌を迎え入れると、奥に潜んでいた舌をゆるりと絡めとられる。滑った温かいものが咥内を隈なく探り、柔い粘膜を擦っていく。息苦しさを覚えて苦し気な声が漏れるが、それでも若島津は日向を解放しようとしなかった。だが今日はそれでもいいのだと、日向は静かに目を閉じる。若島津が満足するまで、好きなようにすればいい。『褒めてやって』と志乃に言われるまでもなく、今日だけはこの男を甘やかしてやりたかった。

「・・・大会に出て疲れたし、なんか無駄に神経使ったけど。だけど、いいこともあるもんだね。日向さんがこんなに優しい」

ちゅ、と音を立てて離れた若島津は、唾液に濡れた日向の唇を無骨な親指で拭った。そのまま唇の中に押し込んで、今度は指で舌を嬲る。

「このまま、続きしてもいいの?」

アドレナリンを極限まで放出させてきたからだろうか。日向の元に戻ってきて多少落ち着いたとはいえ、まだ妙に臨戦態勢にある自分を若島津は感じる。いつもよりも日向を抱きたい、という欲望が強い。自分ほどではなくても、十分に逞しい体躯をした男である彼を組み強いて、思うさま泣かせたい。そう望んでいる自分がいる。
このまま抱いたとしたら、もしかしたら手酷く扱ってしまうかもしれなかった。いつもなら日向を苛みたいなど、ちらとも考えたりはしないのに。ただ感じさせたいだけなのに。

何も言わずにじっと自分を見上げる日向の目の奥を覗き込み、若島津は先を進めるべくベッドへ連れていき、その身体を押し倒した。体重をかけて四肢の自由を奪いつつ、首筋を舐め上げる。耳朶を口に含んでねぶり、舌で耳孔を擽った。

「・・・あ・・っ、・・ぅんっ、あ、や、・・・まて、よ・・待てって・・!」

湿った水音がピチャピチャと二人の間で響き、日向のあげる掠れた声と相まって尚更若島津を煽る。

「・・・待てって!」

だがペシ、と軽いけれども勢いよく額を叩かれ、我に返った。寸の間呆けて日向を見れば、まるで性戯を初めて受けた時のように頬を赤く染め、胸を大きく喘がせながら息を整えている。

「・・・お前、風呂まだだろ。先に行ってこいよ。じゃないとボイラー落とされる」

このまま明日まで入れないなんて嫌だろう     現実的でご尤もな日向の言葉に、お預けを喰らった形になる若島津は笑った。そして言われるとおりに大人しく身を起こして獲物を解放する。

「ちょっと、がっついちゃったね。行ってくるよ。・・・帰ってきたら続きしよう。逃げて寝てたりしないでね」

寝てても起こすけどね     そう言って見るものをゾクリとさせるような艶のある笑みを浮かべる若島津に、日向は「いいから早く行ってこい」と着替えを押しつけるようにして部屋を追い出したのだった。














若島津を廊下に押し出して扉を閉めたあと、はあ~・・・と日向は大きくため息をついた。
危なかったと思う。下手すると流されるところだった。

いや、普段なら別に流されてもいいのかもしれなかった。けれど、今日の若島津はなんとなく危うかったように思う。あのまま許していたなら、どうなっていただろうか。おそらく明日の朝には後悔するハメになっていたんじゃないだろうか    

(風呂入って、落ち着いてくれりゃいいけど)

一昨日にこの部屋を出ていった時の若島津と、さっきここに帰ってきた時の若島津を思い出す。どちらも日向がよく知るようで、今となっては普段は見ることの無い若島津だった。
『会いたかった。ずっと想っていた』などと甘い言葉を吐いていたが、その実見送る日向のことを寄せつけず、出迎えた日向のことも一瞬「誰これ」といった目で見下ろした。確かにそういう目だった。ほんの束の間のことではあったけれど。
それで日向が傷ついたとか腹が立つとかいうことは無い。そんなのはいつものことだった。空手に神経を集中させている時の若島津がそんな状態になるのは。
それくらいに空手の試合となると、その前後も含めて若島津は周りの一切を遮断して、独りになりたがった。

(たとえサッカーで日本一を決める大事な試合の前だって、あいつはあんな風になったりしないのに)

その理由を日向は知っている。サッカーは一人じゃないから。そして自分がいるから。
寧ろサッカーでは、いざとなると余裕が無くなるのは日向の方こそで、若島津に支えられることの方が多かった。

だがサッカーを始める前の子供の頃の若島津は、それこそあんな感じだったよな、と思う。どこか超然としていて、人を寄せ付けないところがあった。出会った頃は日向にすら素っ気なかった。今は嘘でも『ずっと考えていた』などと睦言を囁くような男になったけれども。
一体どちらがあの男の本質なのか。厄介なことに、いつもの若島津を必要としながらも、今日のような若島津も嫌いじゃないという自覚が日向にはあった。

「ただいま」

気が付いたら結構な時間を考え込んでいたのか、風呂から上がって若島津が戻ってきた。髪はタオルで軽く拭いただけのようで、しっとりと濡れたまま片側の肩に垂れている。露わになった白いうなじが男だと分かっていても艶めかしくて、日向はさり気なく視線を逸らした。

「・・・少しは落ち着いたかよ」
「うん。・・・ようやく日常に戻ってきた感じ。この寮にも、あんたと二人の部屋にも、戻ってきたな、って」
「そりゃ・・・ン・・」

良かったよ、と音になる前にそれは口づけてきた相手に呑みこまれた。性急に押し込まれた舌の熱さも、両の頬に当てられた手の強さも、自分がどれほど望まれているのかを嫌でも日向に知らしめる。

「・・・だよっ、結局盛ったままじゃねえかよっ」
「だってそりゃあ・・・何もなくたって、エッチがしたい年頃なんだから、しょうがないじゃん。そのうえ今日は身の危険を感じまくったんだから、俺の本能が子孫を残したくなってるんだよね」
「俺とじゃ子孫は残せねえってのも、本能で分かりやがれ」
「んー。いや、いずれ作れるかもしれないけどね」

まあ、確かに出来るとしてもエッチでじゃあないよね     そんな訳の分からないことを言う若島津を、日向は溜息一つついて抱きよせた。ベッドに寝ころんで、自分の腹の上に若島津の頭を乗せてやる。髪の毛が冷たくてシャツが湿っていくのも分かったが、それでも構わなかった。

「・・ったく、しょうがねえな。やりたいならやれよ。俺も別に嫌じゃねえよ。・・・だけど、もう少しこうしてからな」

自分よりも大きくて体重もある若島津のことを、上に乗せて抱え込む。なるべく隙間なく、ぴったりと身体が重なるように。日向は子供がそうされると安心するのだということをよく知っている。実家にいる時は尊も直子も、隣に寝せればいつだって眠っているうちに自分の上に乗っかってきていたのだから。

(子供にしちゃ、図体でかいけどよ・・・)

髪の毛だけは冷たいものの、若島津の身体は風呂上がりで温かかった。腕や胸が触れ合うのは日向にとっても心地いい。

「やっぱ日向さん、優しい。どうしたの?そんなに甘やかすと、後が大変だよ?俺、つけ上がるよ?」

別につけ上がったところで構わない。というより、普段からつけ上がってんじゃねえか     日向はそう思ったが、それは口に出さなかった。代わりに気になっていたことを尋ねる。
それは、今日戦った相手のことであり、試合のことであり、結果以外の全てのことだった。

「そりゃあ、全国まで来るような奴らばかりだからね・・・。みんな強かったよ。危なかった試合もあったし。・・・負けてもいいとは思わなかったけれど、負けることも有り得るとは、どっかで感じてたかな」

だって、費やしている時間が違うからね       と自嘲めいた口調で若島津は続けた。

「もちろん俺だって、出るからには勝つつもりだったけどね。たけど、こうして二足の草鞋を履いてる訳だし。・・・大方の人間からみれば俺は片手間にやってるように見えるんだろうね」
「誰かに何か言われたのか」
「表立って俺に言ってきたりはしないけど。まあ、陰口はそこかしこでね」

若島津の言う『神経を使う』というのはそのあたりなのだろう。空手に専念している人間からすれば、東邦学園のサッカー部に所属し、将来はプロのGKを目指すと公言しているような人間が空手の大会に出てくるのは、ある意味空手に対する冒涜にも映るのかもしれない。
若島津には若島津なりの事情があるのだが、そんなのは他人にとっては知らぬことだ。

「でも、お前はまだ空手も好きなんだろ?俺も・・・お前が空手やってるの、カッコイイと思うよ。」
「本当?・・・ありがと」

若島津は日向に覆い被さったまま、その身体を柔らかく抱き返した。甘やかされているのをいいことに、シャツの裾から手を差し込んでさらさらとした肌の手触りを楽しむ。たまに指先で軽く押せば、しっかりと質量のある筋肉が確かな弾力を返してきた。その手応えに若島津は日向の元に帰ってきたのだと実感する。

「空手は好きだよ。ガキの頃からやってたんだし・・・、単純に強くなるのは楽しかった。だけど今は大会で優勝したからって、あの頃みたいな高揚感や達成感は無くって・・・・正直、義理を果たした、みたいな感じ?それが違和感あってさ。・・・俺、あっちの世界にはもう戻れないんだな、って。今日、それが分かった」
「そうか」
「約束は約束だから、高校の間は何かしらの大会に出るけどね」
「うん」

ということはあと2年。少なくともあと2年はこうした違和感を抱えたまま、若島津は父親との約束を果たさなければならない。
日向は若島津に何と言っていいか分からなかった。気の利いた言葉一つ掛けられず、『そうか』としか返せない自分を歯がゆく思う。

若島津は別に日向に何を言って欲しい訳ではないだろう。だがその昔、空手の才能に恵まれた少年をサッカーに誘ったのは、紛れもなく日向だった。強いGKが欲しいのだと、大して乗り気でもない若島津に背中を守ることを望んだ。お前はきっと背が伸びるし運動神経もいいから、向いている。だから俺のGKになれ      そうも言った。
まだ何にも分かっていない子供だった。自分も。若島津も。

「だけどそれだって、俺が東邦にいる間だけのことだよ。学費を出して貰う間だけ。もう俺は、空手じゃなくてサッカーを選んでるからさ。・・・あんたを選んだんだ、家族じゃなくて。だから、ここに戻ってこれて嬉しい。大好きだよ、日向さん」

素肌を直に唇でなぞられて、日向はくすぐったさに身を捩った。好きだよ、と何度も囁くその声は低くて甘い。耳に吹き込まれれば、それは甘美な毒となって身の内を巡った。
クラリと軽い目眩を覚えて、日向は熱い吐息を微かに漏らす。

「日向さん、そろそろいい?エッチしよう?俺、やりたい」

このままじゃ眠れないよ     正直に心情を吐露する若島津に、日向はつい笑ってしまった。その気持ちは同じ男として分かり過ぎるほどに分かる。

「いいぜ。やろう。・・・だけど、あんまキツくすんなよ?ねちっこいのは今日はナシな」

過ぎるほどに愛されて執拗に溶かされれば、いずれ日向の熱は暴走して訳が分からなくなってしまう。快感は得られるけれども、自身を制御できなくなるのは恥ずかしくもあり怖くもあった。そうされたい時もない訳ではないが、今日は穏やかに抱き合いたい。それでも十分に気持ちいいし、人肌の温かさに安心できる。
癒してやりたいというのもあるが、日向だって若島津が帰ってきて無事な姿を見せるまでは、やはり落ち着かなかったのだ。

だがそうは思いながらも、今日はそれでは済まないだろうとの予見もある。まだどこか若島津の中に荒々しさを感じるのと     それに、やはりこんな若島津も日向は嫌いじゃないのだ。
日向は大勢の観衆の前で闘う若島津を想像する。きっとその姿は鬼神のようだっただろう。ゴールマウスの前に立てば守護神と例えられる男は、どちらにせよ雄々しく神懸っているということか。


若島津が東邦に来るために父親から課せられた条件は、日向のために飲み込んだものだ。若島津が日向と共に在るために叶える必要があるものだった。
だからそれは若島津だけが背負うことじゃない。日向もまた一緒に抱えていきたいのだ。親の庇護下にある限り、若島津はサッカーをしながら、誰になんと言われようと空手を続けていくという。それが誰も進んだことのない道ならば、二人で走っていきたい。一人で行かせるのではなく。

前を塞ぐ茨があるとして、この男のためなら自分が共に切り開いていこう     日向はそう思う。たとえ茨の向こう側に同じような道がずっと続くのだとしても、歩むことさえ止めなければ見える景色はいつかは変わる筈だ。
二人でならいくらだって、どこまでだって、きっと進んでいける。

それに。

どうせ自分たちは、これから先も離れるつもりなど無いのだから     




(お前はおれのものだ。俺が見つけて、俺が望んだ。だから誰にもやらない。何があっても       



日向は若島津を抱きしめる腕に力をこめた。ギュっと。自分から離れるな、というように。
未だ濡れたままの髪にそっと唇を寄せれば、見目よい男が嬉しそうに笑った。







END

2016.07.09

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