~ 百花王 ~




(ここはどこだ?)

灯りの落とされた部屋だった。
日向は部屋の中央に置かれた寝台の上で目を覚ました。一瞬、もう朝なのかと思った。
だが『何かが違う』と、すぐに違和感を抱く。何しろ寝ころんで見上げれば目に入る筈の、いつもの無機質な天井が無い。今日向の前にあるのは、これまでに見た覚えもないほどに豪奢な、寝台を覆う天蓋の内側だった。

(なんだ・・・この、馬鹿デカいベッドは)

日向は幾度か瞬きを繰り返した後、寝台の上に身を起こした。辺りを見回すが、室内は暗い。窓があるにも関わらず暗いということは、まだ夜は明けていないのだな・・・と推測した。

とにかく広い部屋だった。日向の感覚からすれば、だだっ広いとしか言いようがない。
日向は寝台の端へ這っていき、そろりと足を下ろして床に降り立った。毛足の長いふかふかの敷物に素足が触れて、気持ちがいい。
その時になってようやく、日向は自分がパジャマ代わりに着ているいつものTシャツ姿ではなく、白い着物のような寝間着を身に着けていることに気が付いた。

とにかく外を確かめたい      日向は窓に近づいた。光源らしきものは、そこから漏れ入る月の明かりくらいしか無い。

(・・・でもこれって、夢・・・なんだよな。随分、リアルな感触があるけれど)

目が覚める前は、確かに自分は東邦学園高等部の寮にいた筈だ。いつものように夜も更けて眠気を覚え、寮の自室のベッドに潜り込んだ。朝練があるから、早く寝ようと同室者の男に言って。
なにも変わらない、何一つ普段と変わったところのない夜だった。

(やっぱり夢を見てるんだろうな。目が覚めたら、すぐに部活いかなきゃな・・・)

窓の傍らには、日向の腰まであろうかという大きな壺が置かれ、飾り棚には牡丹の花が活けられていた。壁には天女らしき女性が舞い踊る姿を描かれた絵もかかっている。それ以外にもよくよく眺めてみれば、目に届く範囲だけでも高級そうな調度品が置かれていた。

(それにしても。何なんだよ、この部屋・・・)

本当にこれは夢なのか。

そうだ、これは夢だ      日向の常識はそう主張している。だが日向の視覚も聴覚も嗅覚も、これは夢などではなく現実なのだと教えてくる。
段々と混乱してくる頭で、それでも日向は必死に自身を繋ぎ止めようとしていた。さきほどまで自分が居た筈の、あの東邦学園の寮の部屋に。

(とにかく、外を      外を確かめないと)

窓は部屋の広さからすれば、それほど大きなものではなかった。だが近くに寄ってみれば、嵌められた格子が凝った造りになっていることが見てとれる。
蔦を伸ばした植物に鳥が戯れる構図のそれは、日向の目からしても繊細な意匠で美しい。おそらく腕のいい職人によって作られたものだろう。

日向は先ほどまで自分が寝ていた寝台の方に目をやった。それだって随分と贅を尽くしたものに思える。
月明かりにぼんやりと浮かぶそれは、大人3人や4人が寝ても問題なさそうなほどに大きく頑丈そうな代物だ。天蓋を支えている四隅の支柱もまた太く、その天辺には精巧に彫られた鳥の像      鳳凰が据えられている。
鳳凰は嘴に藤の花を銜え、その長い尾を支柱に巻きつけながら下に垂らしていた。天蓋の四辺の淵には鳳凰の羽根が散らされ、やはり藤の花を模した金色の飾りが幾重にも垂れさがっていた。

寝台といい窓枠といい、その他の調度品といい、この建物に住む人間の財力や位の高さを窺わせるものだった。


日向は無意識のうちに寝巻の合わせを握りしめていた。
こんな屋敷に住んでいそうな奴も知らなければ、自分が移動したという覚えもなかった。眠っている内に車で運ぶにしたって、子供じゃないんだから気が付かない筈が無い。
だが、ならば今のこの状況はどうしたら説明がつくというのか      。日向は自分がおかしくなったのではないかと思った。

「・・・どうやったら・・・あ、開いた・・!」

言い表しようのない不安を抱えながら、日向は両開きの窓を勢いよく開けた。果たして眼前に広がる景色は        



「・・・なんで、だよ・・ッ!」

おかしいのは自分ではなかった。おかしくなっていたのは世界の方だったのだと、日向は知った。

「どこ、なんだよ・・・っ、ここはどこなんだよッ!」

遮るもののない夜空には、恐ろしいほどの数の星が今にも降り注がんとばかりにひしめいていた。現代の東京ではおよそ望める筈がないほどの、圧倒的な量の星々だった。それらの一つ一つが、まるで宝石のように強い光を放って輝いている。

「・・・うそだよ・・。うそだよ、なぁ・・・?」

月と星明かりに照らされていたとしても、外の闇は昏く、なお深かった。急峻な山々は黒い影となり、寂寥とした野は闇にぽっかりと開いた穴のように見える。
薄明りに浮かぶ黒の濃淡の世界は、いつだったかテレビや美術の授業で目にした水墨画の風景とよく似ていた。


迫りくる闇と光に圧倒されて、日向は唇をふるわせながら、目に映る景色をただ呆然と見つめていた。














「父上。お目ざめですか」





膝が震えてかくりと身体が沈みかけたところで、後ろから支えられた。人の気配に全く気付かなかった日向は、触れられたことに驚いて振り向いた。

「・・・・若島津!」

両肩を支えて頽れないようにしてくれていたのは、誰よりも近しい男だった。肩よりも長い髪を後ろで緩く結び、美しく整った顔に笑みを浮かべている。

「お前・・!お前も、一緒だったのか」
「ええ、一緒ですよ。ようやく・・・ようやく、わが元に来てくださったのですね。随分と待ちました。父上」

一瞬縋るように若島津の手を掴んだ日向だったが、その話し方、言葉、そしてよく見ればその顔立ちにもひっかかるものがある。

「・・・お前、何を言ってる?若島津?」
「ワカ・・?それは何者の名でしょうか、父上。・・・いえ、別によろしいのです。それが何であっても、もう父上はここから出られません。貴方は私のものです。どれだけ焦がれたでしょう・・・父上。会いたかった・・!」

力の限り抱きよせられ、抱きしめられ、日向は一瞬息が止まるかと思った。
反射的に相手を突っぱねようとする。だが男の力は強く、敵わなかった。

しばらく男の腕の中でもがいているうちに、日向はこの男が親友などではなく、全くの別人であることに気が付く。

まず年齢が違う。自分を抱き締める男は、どうみても壮年といった年齢だ。青年期ですら既に過ぎている。確かに顔立ちは似通っているけれども、どうして若島津と間違えたのか不思議なほどだ。

それに目の色も違った。
男の瞳は青みがかった色をしていた。それは深い湖の底を思わせる、昏い色だった。

(あいつの目だって、光の加減とかで時々青っぽく見えることはあるけれど・・こんなに暗い目じゃない)

日向は若島津の、情に深く、優しい色を湛えた瞳を想う。
誰よりも気心の知れた親友で、共に勝利の頂を目指す戦友でもある男。
お互いに望み望まれ、ただ一人日向が身体に触れることを許した相手。

「父上・・・。一体誰のことを考えておいでですか。・・・その、ワカ・・という者ですか」

ふいに尋ねられ、日向の意識が引き戻される。この夢とも現ともつかない世界に。豪奢な服を着た、物腰は柔らかいがどこか威圧感のある年嵩の男に。

「あんた・・・誰なんだよ」
「権、ですよ。父上、権と呼んでください」

男は若島津によく似た顔で微笑んだ。日向の横に立つと「湿気がありますね。今は星が出ていますが、直に雨が降るかもしれません」と言って窓を閉める。
それから飾り棚の上の牡丹を一輪手に取ると、花びらに口づけてから日向の髪にそっとさした。

「いつの時代の父上も素敵でしたが・・・此度の父上はまた、随分と可愛らしいのですね・・・」

現状を整理できずに受け止められない日向を、男はゆるりと抱きしめた。


「さあ、起き上がるにはまだ早い。私と共に温まりましょう。父上」

男は日向の手を引き、寝台へといざなった。








「や、やめ・・・!」

いざ寝台の上で押し倒されて初めて、日向は男の行動が何を意図していたのかを覚った。

「父上・・・どれだけ待ちわびたことか・・!国中の呪術師を集め、貴方を召還することができなければ首を落としてくれようと脅しても、それでも貴方はなかなかこの手に落ちてはくれなかった・・!」

寝間着の合わせに手を入れて、日向の肌を性急に弄ってくる。日向には信じられなかった。
若島津以外に、自分に対してこんな欲望をもつ男がいるなどとは考えたこともなかった。それにこの男はさっきから訳の分からないことを言っている。なぜ自身よりもよほど年下の自分に対して、『父』だなどと呼びかけるのか。

日向は本気で抗った。腕を突っ張り、上に乗る男を降り落として蹴ろうとする。だが男の力の方がよほど強かった。

「・・あ!よせ、離せッ!」

前を肌蹴られて露わになった胸元に吸い付かれる。ぬめった感触が気持ち悪かった。

冷たい唇がそのまま首筋から頤を上がり、日向の唇にたどり着く。押しつけられたそれはひんやりとしていた。だがすぐに咥内に侵入してきた舌は、日向のよく知っている男のものと同じように熱い。

「イヤ、だ・・!」
「父上・・・。さきほども申し上げましたが、いつの時代の貴方も素敵ですよ。私よりお年を召されていた貴方も、異人の姿の貴方も・・・。いつだって変わらずに私を惹きつける。ですが、此度の貴方の姿は格別だ・・・!」

嫌だ嫌だ、絶対に嫌だ              !

頭をがっしりと押さえられ、逃げることも叶わない。息苦しさと屈辱に日向の眦にじわりと涙が滲んだ時、ドオ・・ンと低く鈍い音をさせて部屋が揺れた。

「・・・なにごとか!」

男が振り向いた先に日向も視線を向けると、何もない筈の空間がグニャリと歪んでいた。そしてそこに小さな割れ目が出現したかと思うと、見る間にそれは大きくなり、やがてパックリと裂けて真っ暗な闇を覗かせる。
それとともにキインと強い耳鳴りがして、日向は手で耳を覆って寝台の上に蹲った。頭が割れそうに痛かった。

父上、父上!大丈夫ですか・・・         

日向に無体なことをしようとしていたくせに今更心配そうな焦った声を出す男に、もはや答えることもできない。


痛みと混沌から逃れるように、日向はそのまま意識を手放した      










****



「日向さん?・・・日向さん?」

肩を揺さぶられ、日向は目を覚ました。瞬間、自分の置かれた状況が分からずに慌てて飛び起きる。その途端に激しい頭痛を覚え、思わず声を上げた。

「・・痛・・・!」
「ああ、ほら急に起き上がるから・・・。大丈夫ですか?ゆっくり動いて」

若島津の手で柔らかく、だが断固とした意思をもって布団に戻されて再び横になった日向は、詰めていた息を大きく吐いた。

「・・・若島津」
「大丈夫?日向さん。随分うなされてたよ。夢でも見てた?」

(夢・・・?あれは、夢?)

「まだぼうっとしてるね。自分がどこにいるか分かる?」

(どこ・・・?)


日向は首を巡らせた。
これといって特徴のない、白い天井。シンプルなベッドと机しかない部屋。若島津と二人で過ごしてきた、東邦学園の寮の部屋だった。

「・・・あいつ、は?」
「あいつ?誰のこと?誰かが出てきた夢だったの?」
「夢・・・。夢、だったのかな。やっぱり」
「ごめん。言ってること、分かんないよ」

若島津は日向の汗に濡れた額の髪を、そっとかき上げた。

「寝汗がすごいね。拭いておこうね。・・・そしたらすっきりして、もう一度眠れるからね」

いつの間に用意していたのか、温かいおしぼりで若島津が顔と首筋を拭いてくれた。なぜか唇と鎖骨のあたり      夢の中であの男が唇で触れてきたところは、念入りに拭かれた。

「はい、おしまい。綺麗になったよ。これで眠れるよね」

最後に布団を整えてくれて、上からポンポンと叩いてくれる。落ち着くようにと。

「ありがとうな・・・。変な夢見てたんだ。でもお前が起こしてくれて良かった」
「いえ・・・。こちらこそ、すみません」
「なんでお前が謝るんだよ」

起こして貰って、しかも体まで拭いて貰って、それでお礼を言ったのにまさか謝られるとは思わなかった。日向は目を丸くした。

「いえ。あれはあれで、一応は私でもあるのでね・・・」
「へ?何が?若島津?」

横になったままで不思議そうに見上げてくる日向に、若島津はゆったりと微笑みかけた。

「何でもないよ。もう眠って、日向さん。・・・おやすみなさい」

若島津が大きな手のひらで日向の目を覆って『おやすみ、日向さん』と言えば、すぐに日向に眠気が訪れた。

日向は若島津の傍にいて、声を聞いて、体温を感じて、心から安心することができた。段々と呼吸が深いものになっていく。



若島津は眠りについた日向を愛おし気に見つめて、静かに呟いた。


「大丈夫。・・・あなたは誰にも渡しません」









****



若島津は何もない不可思議な空間で、日向を攫った男と対峙していた。
男は背もたれの高い、黄金色に光る椅子に着いていた。男が普段から居城にて使う玉座であったが、向かい合う若島津も同じ形の椅子に座している。

「あの人を今後召還することは罷りならぬ」
「断る。あれも父上の一つの姿だ」

頑迷な男を相手に、若島津は気だるそうに髪をかき上げ、流し目をくれてやった。

「あの人は父上であって、もはや父上ではない。どこにも父上であった頃の記憶などない」
「だが魂は変わらぬではないか。誰よりも美しい、父上だけが持ちうる魂の色だ。どの世に転生しようとも、私が父上を取り違えたりするものか」

一つの国を治め、のちに皇帝となる男だ。そう簡単に折れるような男ではない。若島津は面倒に思う。
気持ちは分からないではない。これは古の自身の姿でもあった。

大望を成就する前に、父も兄も相次いで命を落とした。武勇の誉れ高く、戦の上手な二人だった。
それに比べれば自分など、政治や人事の能力には多少長けていたかもしれないが、軍事には才が無かった。

窮地に追い込まれる度に、これが父であれば、兄であれば      幾度もそう考えた。その癖は、呉を建国したのちも生涯にわたって変わることはなかった。
やがて思慕は憧憬となり、執着となり、果ては怨念にも近い恋情となった。「いつかはこの手に父上を取り戻す」      その願いは年を重ねるとともに、自身でもどうしようも無いほどに膨らんだ。

なりふり構わずに国中から優れた呪術師を集めた。力を結集し、いつの時代に生きる父でも構わないから、呼び寄せよ      そう彼らに厳命したことは若島津も覚えている。
その頃のツケが今になって返ってきただけの話だ。

だがそれでも、日向に手出しをされるのは許せない。

若島津は先ほどから指で弄んでいた花びらを鼻先にかざした。それは日向を取り戻した際に、その髪についていたものだった。
牡丹は若島津も昔から愛してやまない花だ。『百花王』という別名を持つその花は、気高く誇り高い父親の姿と重なる。父を想ってはよく傍らに飾った花だった。

「お主にもいずれ分かるとは思うがな・・・。父上の魂を引き継いでいれば、誰でもいいという訳ではない」
「ならば尚更だ。我もあれが欲しい」
「ならぬ」

若島津は立ち上がり、いずれは皇帝と崇め奉られる男を見降ろして一蹴した。

「他であれば、いつの、どこの世界に生きる父上であっても招き寄せるがよかろう。だがあの人だけは許さぬ。      あれはもう、私のものだ。私だけの『百花王』だ」
「お前も同じ『私』ではないか」
「あの人が父上ではないように、私ももはや、お主ではない。だからたとえ同じ色の魂であっても、あの人以外は要らない。      分かるか。もう要らないんだよ、俺は」

そう言って艶やかに微笑んでみせた若島津に対して、男の顔を歪ませたのは羨望だったか、それとも悋気の炎か。

伝えるべきことを伝えれば、若島津の方にはもう用は無かった。男に背を向けると、そのまま振り向かずに歩き続ける。するとこの世に存在しない筈の空間は形を歪め、萎み、やがて完全に閉じて消えた。







****


「若島津ー。三国志の三国、って?」

歴史のワークブックを前にして、日向が若島津に尋ねる。

「魏、呉、蜀」
「ぎ、ご、しょく・・・ご?・・呉?」
「呉が、どうかした?」
「いや・・・何でも」

『呉』という響きに、何かを思い出しそうだったのだが、それが分からない。日向は額をトントンと指先で叩いた。

「なあ、若島津。呉って、有名なのではどんな奴がいるっけ?」

授業で何か聞いたのかもしれない。ヒントがあれば思い出すだろうと日向は若島津を当てにする。
その彼らしいアバウトな質問に、若島津はつい笑った。

「初代皇帝は、孫権っていってね。戦の下手な男なんですよ。参謀に周瑜という男がいます。これがなかなか細かくて嫌味な奴でね・・・」

ふうん、と大して興味の無さそうな日向に構わず、若島津は「でね、孫権の父親の孫堅っていうのが、これがまた最高でね・・!」と熱く語り続けた。





END

2017.05.03





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