日向小次郎と若島津健は、一世を風靡した少年サッカー漫画の登場人物だ。初めて彼らが世間の目に触れたのは、まだ小学生の時だった。
それ以来、大勢の人たちが彼らの成長を見守ってきた。

そして今、彼らは日本代表U-23としてマドリッド五輪のグループリーグを闘っている。




 ~ あっちの人には内緒だよ ~






「おい。もう拗ねるなよ」
「・・・別に、拗ねてないし」

代表チームが使っているホテルの一室、ベッドの上で若島津は足を投げ出して座っている。
「拗ねてない」と言いながらも、先ほどから不満そうな顔を隠そうともしない。日向はため息をついた。

今この部屋には、日向と若島津の二人しかいない。高校時代までは代表に呼ばれても、「いつも一緒にいるんだから、たまには互いに他の人間と同室の方がいいだろう?」と三杉に離されることが多かった。だがプロになってイタリアと日本に別れて以降は、ほぼ100%の確率で同じ部屋に配置されている。
それが日向にはありがたかった。若島津とは東邦時代に6年間も同じ部屋で過ごしてきたのだ。誰よりも気心が知れている。それに誰に明かしたつもりもないが、日向と若島津は現在進行形で愛情を育んでいる間柄だった。勿論、三杉にばれていないなどとは更々思っていないけれど。

「なんだよ、顔が隠れたくらいで。別にどうってことないだろう。吹き出しで顔が見えなくたって、お前だってことは分かるよ」
「・・・それが嫌なんですよ!どうせ見えないなら、俺だって分からないくらいに完全に隠すくらいのことはできるでしょうに」

余計に臍を曲げてしまった若島津に肩をすくめて、日向は自分たちの斜め後ろを見遣った。

そこには、宙に浮かんだ窓がある。
窓と言っても、開け閉めができる訳ではない。窓というよりは、スクリーンのようなものか。

この小窓を通して、日向や若島津の姿はあらゆる人々に晒されてきた。ただ、常に、と言う訳ではない。スクリーンに紗が掛かったようになっている時は、あちらからも見えていないらしい。
東邦学園の校舎や寮にいた時、そして卒業してからも自宅にいる時などは大体がその状態で、滅多にスクリーンが機能することは無かった。

日向にとってこの小窓は、物心ついた頃から傍にあったものだ。常に当たり前のようにそこに存在していたから、不思議とも何とも思わずに育ってきた。
若島津にも見えている。小学生の時に交通事故にあってから現れたとのことで、「事故で頭がイカれたんじゃないかと思った」と後になって日向に明かした。ただ日向や若島津の家族は認識していなかったようだから、人によって見えたり見えなかったりするものなのだろう。

この小窓はなかなかに厄介で、いつ覗かれるか分からない。プライバシーを侵害されるのは困るし癪でもある。だがどこに訴えることもできない。気が抜けないのだった。

そして何よりも納得しがたいのは、話したことや考えたことが、このスクリーン上に文字として現れてしまうことだ。
スクリーン越しに日向たちを見る人には音声は届かない。その代わりに映った姿に文字を重ねて、それで初めて二人が何をして何を考えているか、理解することができる。そういう仕組みになっているということが、長じてから日向達にも分かってきた。

だがつい先ほど、あまりといえばあまりなことが起きた。
代表メンバーが集まっていた場で、突然このスクリーンが動き始めた。そして松山の発した言葉が「吹き出し」として若島津の顔に被ったのだ。
髪型で若島津ということはきっと誰でも分かる。だが顔はまるっと吹き出しだ。さぞ小窓の向こう側では間抜けな絵面になっていたことだろう。


そんなことがあって、部屋に戻ってきてからも若島津は機嫌が悪かった。悪いなら悪いなりに、荒れているならまだいい。だが黙って溜め込んでいつか暴発するのが、若島津という男だった。日向はどうしたものかと思い、ポリポリと頬を掻く。

「・・・ほんとにね。別に、拗ねてたり怒ったりしている訳じゃ無いんですよ」

やがて若島津がぽつりと呟いた。
確かに今はその表情は怒っているようでもなければ、むくれているようにも見えない。うっすらと笑みさえ浮かべている。
だけど日向は、その目に傷ついた色を見てとった。

「ただね。俺、あっちの『親父』に愛されてないんだなあ・・・なんて思っちゃって」
「・・・ンなこと、ねえだろうがよ」
「ありますよ。・・・あんただって分かっているでしょう?」
「・・・・」

それを言えば、日向だって同じだった。程度の差こそあれ。三杉や岬や松山だって、若林ですらも。
若島津の言う、あっちの『親父』に愛されている者など、大空翼ただ一人しかいない。

「まあ、こっちの親には十分に愛情を貰っているし、あんただって傍にいるし、別に不足はないけれどね」
「・・・・・」
「だから・・・」

若島津の言葉は続かなかった。言おうとしていた言葉は日向の唇に吸い取られて消えていく。
突然に日向から与えれたキスに、若島津は目を丸くした。

押し当てて軽く啄んでいただけの唇が離れると、若島津は日向を見上げた。今のキスには一体どういう意味があったのだろうと。

「こんな風に、俺のせいで顔が隠れるのはいいんだろ?」
「日向さん・・・」

件の小窓を背にした日向が、唇を引き上げて笑う。何か企んでいそうな悪い男の顔をして。

「いいんだよ。お前の綺麗なツラは、誰にでも簡単に見せるほどに安くねえんだ。そう思っとけ」
「・・・・・」
「お前は隠れてるくらいが丁度いいんだよ。じゃねえと、女子のファンが他の奴に回ってこねえじゃねえか。それに」
「・・・それに?」
「俺が他の誰の分も、お前のことを大事に思ってやる。だから寂しいとか、足りないとか、そんなことは金輪際思うな」
「・・・日向さん」

単なる慰めとするには、恋情の迸るような言葉だった。お前は俺の一番なのだから、それでいいじゃないか、余計なものに煩わされるな     日向は若島津をそう諭している。この先もずっとそうなのだから、俺がいるのだからと。

若島津は胸の奥深くに刺さった棘が抜けるような感覚を覚えた。そこからじんわりと温かいものが広がっていく。


ベッドから下りて立ち上がり、日向を抱きしめる。鍛えられたしなやかな身体が、すっぽりと若島津の腕の中に収まった。
決して日向が小柄な訳ではないが、それでも学生時代に比べれば二人の体格差は随分と開いている。今ではすっかり若島津が見降ろす格好になっていた。

それでも日向は大きな男だった。
誰の思惑も関係なく、己の信じることに価値を置いているから強い。強くて大きく、そして優しい。

「日向さん。ほんと、あんたって」
「なんだよ」
「最高だよ」

若島津は日向の顎を上向かせて、柔らかな唇に口づけた。じっくりと思う存分、甘い咥内を堪能する。

「・・・何度も言ってるけど、五輪が終わるまではやらないからな。絶対に駄目だからな」
「分かってるよ。でも、キスくらいはいいでしょう?」
「だけど、いつ見られるか・・ンっ」

唇が離れた途端に牽制してくる日向に嫣然と微笑みかけ、若島津は再びその口を塞いだ。例のスクリーンは丁度若島津の背後にあり、日向のことは若島津自身に隠れて見えないような位置になっている。

日向が若島津と体をつなげるようになったのは東邦にいた時分だが、その頃から一番気にしていたのは、いつ誰があの窓から自分たちを覗くか分からないという点だった。寮の部屋など見られることも無いと思いつつも、だが万が一ということもある。
そうは思いながらも求めあう気持ちも行為も、結局は止まらなかったのだけれど。

「見られたらマズイよね。俺、あんたをこんなことに引き摺りこんでさ。でも自分では隠してるつもりでも、案外知られているのかもしれない。もしかして、それで俺はあっちの『親父』に恨まれてたりするのかな」

単なる思いつきではあったけれど、言葉にしてみたら本当にそうなんじゃないかという気がしてくる。
だが日向は若島津のその考えを鼻で笑った。

「そんなこと確かめようがないんだから、考えるだけ無駄だ。ましてや他人の気持ちなんて忖度したって、仕方がねえよ。どうせ本当のところは分かりっこねえんだから」
「うん・・・そうだね」
「まあ、そうは言っても見られたくはねえよな。俺たちのことはこれまで通り、あっちには内緒にしとこうぜ。勿論、こっちの奴らにもな」
「いいね。秘密って、俄然燃えるよねぇ」

すっかり立ち直って軽口も叩くようになった若島津の頬を両手で包み、日向はもう一度触れるだけのキスを与えた。

「やっぱ、そうやって笑ってるのがお前らしいよ。しおらしくしてんのは似合わねえから止めろ」
「・・・好きだよ。日向さん」

こうして日向を抱きしめていると、あっちの世界もこっちの世界も関係ないような気がしてくる。若島津にとっては、日向のいる場所こそが、自分のいるべきところだった。

日向を追ってサッカーを始めて、東邦に進み、とうとう五輪の地までやってきた。
これからだって、若島津はどこまででも日向と共にあるつもりだ。これだけは何があっても譲れない。それに日向もそのつもりでいてくれる。

自分たちにとっては、五輪だって目的地までの道標の一つに過ぎない。最終目標はこの先にある。見えない相手に理不尽なことで翻弄されたとしても、いつまでも構っている時間など無かった。

「日向さん。必ず、勝って帰ろう。・・・それから出来るだけ早く、俺もあんたを追って日本を出るよ」

若島津がそう遠くない未来を語れば、日向は弾かれたように顔を上げた。一瞬目を見開いたのちに晴れやかな笑みを浮かべて「おせーよ、馬鹿」と応え、少し背伸びをして若島津の首に両腕を回した。





END

2017.02.04





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