~ 繭に眠る ~




「医者ってのは、お前の心臓病は治せても、俺の母親は助けられないものなのかよッ!」

肩にかけた手を振り払われ、突きつけられた言葉はその場の空気を切り裂くようだった。


日向の母親が倒れたと連絡があったのは、昨日のことだ。未だ意識は戻らない。ユースのワールドカップのために召集された僕たちは、日本から遠く離れたジャカルタにいる。そう簡単には駆けつけられないのが現実だ。どんなにそうしたくとも。

放たれた言葉がどういう意味を持つのか、それを僕らがゆっくりと、だが正しく理解した時、驚愕に目を見開いたのは僕ではなかった。日向が、自らが投げつけた言葉の残酷さに愕然としている。大きな瞳を見開いて、信じられないという表情をしている。

「・・・おれ」

彼は蒼白な顔をして、揺れる瞳で僕を見つめたかと思うと、やがて力なく項垂れた。震える唇が「・・・すまない。」と、それだけを告げる。

「大丈夫かい?日向」

僕は今度は不用意に彼に近づくことなく、少しの距離を保って彼に問いかけた。今の彼はまるで手負いの獣だ。追い詰めないように、細心の注意を払わなくてはならない。
実際のところ、僕は何も気にしてはいなかった。それよりも、彼のことの方がよほど気がかりだった。昨日から殆ど眠ってもいないのだろう。憔悴しきった顔で、日向は唇を噛んで下を向いている。作られたイメージほどに頑丈でも大柄でもない彼が、今は頼りないほどに細く見える。

「・・・・ごめん。俺・・」
「もういい。部屋に帰って休むんだ。今に君まで倒れてしまう」
「俺、そんなつもりじゃ・・・。お前のこと、本当に」
「もう、いいから。君の真意じゃないことくらい分かっている」

日向の性質は理解しているつもりだった。元来、優しすぎるほどに優しい人間なのだ。それでいて気性が真っ直ぐに過ぎるから、人とぶつかっては傷ついていく。必要以上に関わって、そのくせ耳に心地良いことばかりを言う訳じゃないから、相手に厭われ、叩かれもする。もう少し上手く生きられればいいのだが、こんなふうに不器用なところが日向の好ましい点でもあるだろう。
日向に惹かれる者なら、皆知っている。彼はいつだって、他人以上に自分に厳しい。求めるものはハードルが高く、その肩に担う責は重い。そういう日向だから、彼を支えたいと思う者と、痛めつけたいと思う者がきっぱりと分かれる。
僕は初めて彼に出会った時から、前者だった。

「おふくろが、どうして・・って、思うと、俺、・・・どうしてって」

その時になって、ようやく僕は気がついたのだ。日向の目の光がおかしいことに。母親が倒れたという心痛によるものなのか、それだけでないのかは定かでないが、日向の精神がどこか不安定で危ういことに。

「日向。ここじゃ何だから、僕の部屋に行こう。・・・おいで」

今僕たちが立っている場所は、ホテルの廊下だ。誰が通るか分からない。日本チームのエースストライカーが試合に影響しかねないほどに深いダメージを受けていることを、外部に知られる訳にはいかない。そして僕は、単純に今の彼を人目にさらしたくは無かった。こんなにも庇護欲を掻き立てられる日向を、誰にも見せたくは無かった。

声をかけても動こうとしない日向の肩を抱くようにして、自分の部屋に連れていく。さっき僕を振り払った手はだらりと垂れ下がったままで、彼はおとなしく僕についてきた。








僕は合宿所でもホテルでも、同世代の人間と同じ部屋になることはめったに無かった。
子供の頃は発作がいつ起こるか分からないため、不測の事態に備えて大人が同室になるのが常だった。もっと幼い時には、母親がついてくることすらあった。
最早その頃のように急激に体調が変化することは無いが、今はチームスタッフとしても動いているため、特別に一人で部屋を使用させて貰っている。おかげで自室で少人数のミーティングくらいはできるようになり、助かっている。

僕は日向を自分に割り当てられた部屋に招き入れ、ベッドに座らせた。日向は言われるままに、ゆるゆるとした動作で腰を下ろす。人形のように意志の感じられない動きに、やはりいつもの彼ではないと、確信を深くする。

「日向。何か飲むかい?少し落ち着くよ」

冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出した。日向はガス入りの水を好んでいることを知ってはいたが、あいにくそれは無かった。
ペットボトルのキャップをあけて、グラスに注ぐ。コポコポと水がグラスを満たしていく音が、静かな部屋で妙に響いた。

「はい、日向」

グラスを手に持たせようとしたが、日向の手はさっきと同じように力なく下がったままで、受け取ろうとはしなかった。それどころか、僕の目を見ようともしない。

          どうして早く気がつかなかったのだろう。

僕は自分の目が節穴だったことに怒りを覚えた。日向の心は、とっくに悲鳴を上げていたじゃないか          。
幼い頃に身近な人の死を経験した彼は、今こうしている間にも自分の母親に死の影が忍び寄っていることに、小さな子供のように脅えている。理不尽に大事な者を奪われることの不条理さに、ただ恐怖している。

僕はグラスから一口水を含み、日向に口移しで飲ませた。

コクリ、と日向の喉が鳴って飲み下したことを知っても、僕は彼を解放しなかった。
そのまま日向を宥めるように、ゆっくりと深く彼の口腔に侵入する。日向は答えてはこない。それでもいい。僕もまた脅えているのだ。日向が壊れてしまわないようにと、祈るように口付ける。

「・・・・み、すぎ?」
「日向。僕が分かる?どうしてここにいるのか、分かっているかい?」

ベッドに座った彼の前に立つ僕を、無言で見上げていたかと思うと、その瞳に見る間に涙が溢れてきた。涙の粒は日向の頬を次から次へと流れ落ち、顎からポタポタと雫を垂らしては床の絨毯に染みを作っていく。
日向自身は泣いていることに気がついていないのか、濡れた頬を拭うこともせずに、僕の腕を恐る恐るといったように掴む。だがその指先は爪が白くなるほどに力が入り、掴まれた腕に痛みを感じる。今の彼にとって、縋り付くものが僕以外に無いのだろう。

「ごめん、三杉。ごめんな。俺、ずっとお前がどんな思いでいたか、どんな覚悟でいたか、知っているのに・・・」

泣き顔を晒したままで謝罪の言葉を繰り返す彼を、僕は痛々しいとも、いとおしいとも感じた。

「俺、あんな酷いこと、言って・・・っ」

最後の方はしゃくり上げて声にならない。僕は彼の頭を抱え込むようにして、彼に言い聞かせる。

「分かってる。もういいんだ。本当に、僕は大丈夫なんだよ」

こうして抱きしめていたら、落ち着いてくれるだろうか     。柔らかな髪にそっと口付ける。僕は彼のことが、ずっと好きだった。彼もそのことは知っている。僕は今までに幾度となくそれを告げ、触れるだけのキスもしてきたから。

「お前のせいじゃないのに。俺の、俺のせいなのに・・・」
「日向?」
「俺のせいなんだ。俺が・・・うそ、ついたから・・・っ」
「・・・うそ、をついた?君が?」
「勝つって約束したのに、勝てなかったから・・!」

日向の呼吸が早くなり、その手も、指先も、唇も微かに震え始める。額には冷や汗をかいて、瞳は焦点が合っていない。

「日向。落ちつこう。大丈夫。心配ないよ。お母さんはきっと大丈夫だから」
「父ちゃんが死んだのだって、俺のせいだから・・・、俺が嘘をついたから・・!」

父親     ?
どうして、日向の父親のことが今、関係してくるのだろう?

日向と同様、僕も少し混乱していた。それでも、彼をこのままで放っておくことは出来ない。息苦しいのか、呼吸が更に速くなる。過呼吸を起こしているのだろう。青い顔をして 『自分のせい』 と子供のように泣きじゃくる日向を、どうにかしてやりたい。
それほどに、今の日向は痛ましかった。

僕はもう一度日向に口付けた。
日向の呼吸を落ち着かせるために、酸欠にならないように注意を払いながら、ゆっくりと二酸化炭素を彼の肺に送り込む。そうして今度は背中をさすりながら、彼の額に自分の額をつけて、「そう。落ち着いて。ゆっくりと呼吸しよう。吐いて。もう一度吐いて。・・・吸って。僕に呼吸を合わせて」と繰り返し囁く。やがて身体から力が抜けて、彼が落ち着いてくるのが分かる。僕はベッドのシーツをはがすと、そのまま彼を包んで、柔らかく抱きこんだ。
日向が安心したかのように、もたれかかってくる。彼の重みを感じて、僕もようやく人心地がついた。
腕の中にいる彼の顔を目を覗き込むと、未だ頼りな気ではあったが、僕に視線を合わせることもできた。

「・・・日向、落ち着いた?」
「・・・三杉、俺」

鼻声のまま、「ごめんな。俺、本当・・・」と謝る。

「今日の君は、謝ってばかりだよ」
「・・・ごめん」

僕は彼の姿勢がラクになるよう、身体をずらしてベッドのヘッドボードに寄りかかる。ちょうど僕の心臓のあたりに彼の頭が来るようにすると、日向が耳を押し付けてくるのが分かった。心音が人の心を落ち着かせるのであるならば、未だ完全とは言いがたい僕の心臓であっても、その効用に変わりはないだろう。僕は日向の好きなようにさせ、一方で彼が落ち着くようにと、その髪を撫で続ける。

「大丈夫だよ。日向。今夜寝て、目が覚めたらきっと状況は良くなっている。僕たちは試合に勝つし、お母さんの意識も戻る。そう信じるんだ。そう信じると、決めただろう?」
「・・・・」
「少し眠るといい。この部屋は僕一人で使っているから、ベッドも一つ空いている。後でちゃんと起こしてあげるから、少し休むんだ。分かったね?」
「ん・・・」

やはり昨夜は満足に眠れていなかったのだろう。日向は目を閉じたかと思うと、急速に眠りに落ちていった。彼がより休めるようにと、僕は部屋の灯りを間接照明だけにして暗くする。
日向から静かな寝息が聞こえるようになっても、僕は胸の上に乗せた彼を離すことができなかった。シーツにくるんで抱え込んでいるものは、僕にとって、とても大事なものなのだ。



考えなければいけないことが幾つかある。

彼は、『自分のせい』 と言った。父親が亡くなったのは自分のせいなのだと。勝つと言ったのに勝てなかったからだと。それが嘘をついたことになるから、と     。
果たして、そんなことがあるのだろうか      。

苦痛から解放されて、暫しの休息を得ている日向に目を落とす。僕とそう大して体格の変わらない、18の青年の彼。
日向の父親が亡くなったのは、確か彼が9歳の時だった筈だ。

「本気で、自分が負けたからだなんて、そんなことを・・・?」

今でも       ?

当時でさえ、小学4年生だ。命あるものにはいつか必ず終わりが来るのだと、分かる年ではあった筈だ。
それが、子供のサッカーの試合結果などで変わるようなものではない、ということも。

それでも彼は、父親が死んだのは自分のせいだと、ずっと思い込んでいたというのだろうか。そうやって、何年間も自分を責め続けていたというのだろうか?     今でも、そう信じている、と?

もし、そうなら。

「どうして、誰も気がついてやれなかった・・・?」

あの男は    
髪の長い、いつも彼の傍にいた、彼にとって唯一絶対の守護神。あの男は気づいていたのだろうか。そもそも、どうしてこんな時に、日向の傍にいないのだろう。

     あの男が守ってやれないのなら。

僕は本来、遠慮などする性質の人間ではないのだ。控えめでも、人に譲るタイプでもない。
あの男が日向を守れないというのなら、僕が貰えばいい。


滑らかな日向の頬に残る涙の跡が、仄かな灯りの中で光っていた。僕はそれを指でなぞりながら、自分の思いつきに笑みを浮かべる。とりあえずは家と弥生に連絡して、日向家のサポートに入らせよう。母親さえ無事なら、日向はこのまま壊れたりはしないだろう。父親の件については専門家に相談する必要があるが、それは後でも良い。
万が一、母親に何かあった場合には、僕が全力で支える。その時には、間違いなく彼は僕のものとなるだろう。

白いシーツにくるまれた日向は、まるで繭に覆われているかのように見える。外界から身を守るための白い、閉ざされた安全な世界。僕は柔らかな糸に内包されて昏々と眠る日向を想像する。
もし彼が必要としてくれるなら、僕もまた彼を守る盾にもなるし、繭にもなろう。僕は彼のために在りたいのだ。


日向の髪にキスを落として、僕は目を閉じた。
彼の重みと温もりを感じながら。

決して健やかに育ってきただけではない彼を、壊さないようにと、そっと優しく抱きとめながら            。




END

2014.07.02

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