~ ささの葉 さらさら ~
高台に建つ、周りの住宅に比べても一際大きくて立派な屋敷。それが日向小次郎が今訪れている場所だった。
小学校の同級生でもあり、地元のサッカークラブでもチームメイトとして一緒の、若島津健の家だ。2階建ての広くて堂々とした日本家屋であり、敷地内には空手の道場も備わっている。若堂流の宗家でもあるためだ。
小学校が終わったばかりのこの時間帯は、どうやら低年齢児童の稽古の時間であるらしい。道場の方からは「ヤア!」といった勇ましくも可愛らしい声が聞えてきた。
日向はその声がする道場の方には見向きもせず、門をくぐるとまっすぐ母屋に面する庭の方に進む。
明和に日向が引っ越してきてから、一番仲良くしている同級生が若島津だった。若島津がサッカーを始めてからは特に親しくなった。自然と互いの家に上がりこむことも増え、最近では日向もいちいち来訪を告げるのに若島津邸のインターフォンを鳴らすことは無い。
道場の喧騒を背にして、母屋の前をも通り過ぎ、更にその奥にある離れへと足を運ぶ。その前に庭にある犬小屋に寄って、若島津の家で飼われている犬を可愛がっていくのも忘れない。毛がふかふかで、耳の先っぽが少し垂れたこげ茶色の雑種犬。もともとこの犬は1年ほど前に、日向が拾った犬なのだ。
「よ、小太郎。元気か?」
そう声をかけてから犬の前にしゃがみ込み、頭と首の回りをガシガシと乱暴に撫でてやる。甘えたように鳴きながら、尻尾をぶんぶんと左右に振っている小太郎は可愛いが、それでものしかかられると正直重かった。
「ちょ、待てよ。お前、重いから! うわ、くすぐった・・!」
久々に会えたことが嬉しいのか、ハッハッと興奮して顔を舐めてくる小太郎を、日向は笑って受け止める。「お前、ちゃんといい子にして可愛がって貰ってるかー?」とペタンと寝てしまった耳を触りながら、こいつの名前も色々と悶着があったなあ・・・と、思い出す。
捨て犬を拾ったはいいが、日向家の借りているアパートで動物など飼えるはずもなく、困り果てていたところに「うちでよければ」と言ってくれたのが若島津だった。
渡りに船と託したまではよかったが、次に遊びに来たときには何故か犬の名前が 『小太郎』 になっていた。日向は 『チビ』 と呼んでいたのに。コロコロとした体格で、可愛らしい小さな子犬で、ぴったりの名前だったのに。
そう抗議したら、「お前、馬鹿か。いつまでも子犬でいると思うか。そんな訳ないだろうが」と鼻で笑われた。
だからといって小太郎はないだろう、お前、誰から名前を取ったんだ、と訴えると、「お前に決まっているだろう。お前が拾ってきたんだからな」と即答され、また笑われた。
若島津曰く、「名前に不満があるなら、俺は別に小次郎でもいいんだぜ。でもお前と喧嘩でもしたら八つ当たりしそうだから、一文字変えて小太郎にしたんだ。なあ、小太郎?お前は日向の、兄貴分だよなー」とのことで、何で拾った俺が弟分なんだと文句を言っても、肝心の犬が 『小太郎』 に既に慣れてしまっては変えようもなかった。
『小太郎』 と呼ばれて、きゃん! と元気に吠える子犬に罪は無かったけれど、日向は若島津の性格の一端を見たようで、複雑な気がしたものだ。
一年前は小さかった小太郎も、今ではすっかり成犬になって、大きくなっていた。小学生である日向がギュ、と抱き付くと、昔の頼りなげな感じはなく、ふわふわの毛の下に、しっかりとした体躯が感じられる。
「小太郎、お前、また太ったな?いいもんばっか食べさせて貰ってんじゃねえのか?・・・うそ!やめ・・・!あははっ」
小太郎は利口な犬だと、日向は思っている。
言葉を理解できる筈もないが、今だって日向がからかったのが分かっているかのように、更に日向にのしかかって頬や口元を舐めてくるという逆襲に出てきたのだ。
「やめって、もー!・・くすぐったいっ」
日向が落ち込んでいる時には、そっと寄り添うように隣にお座りをして。
楽しげに騒いでいる時には一緒になって遊んで、わふわふと追いかけてきて。
小太郎はそんな犬だった。
「・・・お前、人んちで何してんの」
「あ、若島津」
若島津邸の庭で、主の飼い犬に乗っかられて顔中をペロペロと舐めまわされているのだ。知らない人間なら通報もので、知っている人間でも十分に怪しいだろう。
「何って。俺、今日お前んち来るって言ったじゃん」
「それは知ってる。だから俺の部屋に来るかと思って待ってたのに、お前は小太郎と遊んでて一向に呼びに来なかったってことだな」
若島津にそう言われて、そもそもこの家にきた目的をすっかり忘れていたことに気が付き、日向は少しばつが悪くなった。確かに小太郎と遊ぶのが楽しくて、若島津を呼びにいくことを忘れていたのだ。
いつもなら小太郎をちょっと撫でるくらいでこの庭を通り過ぎ、離れにある若島津の部屋の下で「若島津ー!来たぞー!」と声をかけるのだが、今日はたまたま小太郎と遊び過ぎてしまった。
「ごめんって。悪かったよ」
小太郎を自分の上から退かせて立ち上がると、服についた芝をはらう。最後に小太郎の頭をなでて「じゃあな」と言うと、日向は母屋の縁側に立つ若島津に近づいた。
「・・・まあ、いいけど。上がるか?」
「んー・・。いや、俺この後バイトだし、早く取りに行きたい」
「分かった。鋏持ってくるよ。・・・蚊に刺されるから、虫よけしてから行くぞ」
日向が若島津の家に来た目的は、勿論小太郎と遊ぶことではなかった。
若島津の家の裏には山がある。若島津家の所有する山林であるが、日向はそこに生えている笹を分けて貰いに来たのだった。
日向家では毎年七夕の時期には笹を飾り、短冊を吊るして夜空の星に願い事を託してきた。
父親が亡くなってからはそれも中断していたが、末弟の勝が「家でも飾りたい」と言い出したため、今年からまた始めようと日向が準備をしているのだ。
ただ、笹をどこから貰って来ればいいのかが分からなかった。それを若島津に相談したところ、「うちの裏山にいくらでも生えているけど?」との返事だったため、「じゃあ取りに行く」となって今日の約束をしたのだ。
裏山は私有地で特に整備もされていないから、奥に入るには草を分けながら入っていかなければならない。そうすると本格的に蚊に刺されるし、そもそも日向は虫が大の苦手だったので、なるべく取りやすい場所に生えている笹を探して、数本の枝を鋏で切り落とした。
「そんなんでいいのか」
「うん、これくらいでいい。家にちょこっと飾るだけなんだ」
笹さえ収穫できれば、もう山に用は無い。二人は手にした笹の枝を振り回しながら、離れがある奥の庭に向かった。
「短冊はどうすんの」
「作ったよ。色画用紙と凧糸でさ。もう全員願い事も書いたし、あとは吊るすだけ」
「へー・・・。で、勝の願い事は何だって?」
「何枚かあったな。・・・一枚は、サッカー選手になりたい、って書いてあった」
「お前と一緒じゃん」
若島津がそういうと、へへ・・・と日向が照れたように、それでいて嬉しそうに笑う。普段、日向はクラブや学校では少し大人びた顔を見せているが、二人しかいない時にたまにこうした顔を見せることがあるのを、若島津は気がついていた。
「あ、そうだ。何ならお前も書くか?まだ短冊余ってるぞ」
「へ?俺?」
「明日学校に持っていくから、書けよ。一緒に吊るしてやるよ。それともお前の家でも、やるのか?七夕飾り」
七夕の短冊を吊るして飾るなど、若島津の家では若島津が幼稚園を卒園して以降、一度も無かった筈だ。やりたいという人間が家の中にいないのだから、当然そうなる。
若島津にしても願い事など一番家族に知られたくないので、今後も自分の家では有り得ない。だが日向の家がするというのなら、それに乗っかるのは悪くないと思えた。
「じゃあ、俺今からおまえん家に一緒に行こうかな。それで貰って帰るよ」
「まじ?一緒に来る?やった!一人で帰るのつまんねえもん。お前と一緒、嬉しー」
「・・・日向。お前って、ほんとさあ・・・」
「え?何?」
「・・・何でもねー・・」
天然タラシ。そう呟いた若島津の独り言は、日向には聞こえなかった。
*****
若島津の家に笹を取りに行った日の翌日、日向は自宅で一通の封筒を手にしていた。中には若島津に渡していた、七夕の短冊が入っていた。若島津が願い事を書いて持ってきたのだ。
帰りの会が終わった後の教室で封筒を渡された日向は、その場で中身を確認しようとしたが「帰ってから見て」と若島津に止められた。一瞬なんでだろうと不思議には思ったが、願い事を見られるのが照れくさいのかと思い至り、「分かった。帰ってから見るな」と言って持ち帰ってきたのだ。
それで家に帰ってきてから中を開けてみたのだが・・・・。
「一枚だけ、か」
沢山願いごとがあると若島津が言うので、3枚渡した筈だが、中には1枚しか入っていない。果たしてそこには 。
「・・・あいつ、欲張りだなあ」
その1枚にはぎっしりと願い事が書いてあった。
1つ目は、『 全国大会優勝 』
これは日向が短冊に書いたものと同じだ。ただ願い事では無かった。日向は神頼みをするつもりは無い。決意表明として書き記しただけだ。
2つ目は、『 中学でも全国大会優勝 』
3つ目は、『 高校でも日本一 』
4つ目は、『 オリンピックで金メダル 』
5つ目は、『 ワールドカップで優勝 』
日向は笑った。これだけ書いておきながら足りないのか、裏にもまだ何か書いてあるようだった。裏返してみると、そこには一行のみ、端的に綺麗な字で書かれていた。
『 全部、日向と叶える。 』
日向はその文字をじっと見つめた。徐々に顔が熱くなってくるのが、自分でも分かった。
「・・・あいつ、馬鹿・・・」
これからも一緒にいてくれる。この先もずっと。大人になっても、傍に。そんなことを回りくどい方法で、だけど間違えようもないくらいに明確に伝えてくる親友を想い、日向は一人頬を赤く染めた。
*****
「小太郎、メシだぞー」
庭に出た若島津は、ドッグフードを入れた皿を小太郎の前に置いた。
成犬とは言ってもまだまだ若犬である小太郎は、勢いよく鼻先を皿の中に突っ込むと餌を食べ始める。その食べっぷりの良さに頬を緩めると、若島津は小太郎の背中を撫でた。
「そういや、お前。昨日は日向のことを舐め回していたよな」
小太郎は一心不乱に食べるのみで、鼻面を上げるどころか、若島津の方をちらとも見ない。
「お前、日向のこと好きだもんなあ。・・・あいつもお前のこと、可愛がってるし」
若島津自身は、動物は特に好きでもなく、はっきり言えば興味も無かった。
小太郎を飼うことにしたのは、あの時、日向が泣きそうな顔をして捨て犬を引き取ってくれる家を探し回っていたからだ。
勿論、飼ってしまえば愛着も湧く。若島津も今では可愛がっているし面倒も見ているが、それでも若島津にとっては小太郎は日向の犬であったし、どうやら小太郎にとっても日向は若島津家の人間と同等であるらしかった。
「ん?食い終わったか?腹いっぱいになったのかな、お前」
デブ犬にはなるなよー、と言って首周りをわしゃわしゃと撫でてやると、遊んで貰えると思ったのか、若島津の顔を舐めてくる。
「おっと、ストップ。口は駄目だからな」
日向は小太郎に口の周りも舐めさせていたが、さすがに若島津にはそれは出来ない。もともと潔癖症のきらいがあるのだ。だが人間よりは動物に触る方がまだマシだということにも、小太郎を飼い始めてから気が付いた。
他人に触れるのが苦手な若島津にとって、例外は一人だけ。今までの人生・・・といってもそれほど長い期間を生きた訳ではないが、それでもたった一人だけなのだ。
そのたった一人の特別は、あの短冊を見ただろうか。
日向がふとした時にじっと自分を見ていることがあるのを、若島津は知っている。何かを言いたそうで、でも何かを我慢しているような、そんな顔で。
それはクラブを早退して空手の稽古に向かう時とか、空手の大会に出るとか、出たとかの話をした時に、日向がたまに見せる表情だった。
若島津はサッカーをするにしても、空手を辞めるつもりは無かった。物心つく前から基礎も型も叩き込まれてきたのだ。頭で考える前に身体が動く。性格的にも格闘技との相性は良かったし、武道ならではの礼儀や作法を重んじるところも好きだ。道場の静謐で張りつめた空気感も、試合前の緊張感も何とも言えない。だから両立できる限りはどちらも続けるつもりでいる。
そのことが時折日向を不安にさせているらしい、ということは分かっているけれど、でもこればかりは譲れない。自分は欲張りなのだと、自覚もある。どちらかを選ぶ必要が今の時点で無いのなら、どちらも選ぶだけのことだ。
だけど。
からかったりして、困らせるのは結構楽しいんだけど。
拗ねられるのもムクれられるのも全く平気だが、本気で悲しませたり、不安にさせるのは嫌だと思う。
だから、『お前と一緒に、サッカーをしていく』と、それだけを伝えたかった。
伝わっただろうか。気が強いくせに変に気を使うところのある、意外と取扱いの面倒な、一番大事な友人に。
「いくらあいつが鈍感でも、あれだけ書けば、伝わるよなあ。普通」
なあ?と小太郎に聞いてみれば、わふ!と返事が返ってくる。若島津はもう一度小太郎の毛をぐしゃぐしゃと混ぜて、「明日、どんな顔をして学校に来るか楽しみだな」と笑った。
END
2015.07.07
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