Glenn Gould plays Goldberg Variations.
カナダ人のクラシック・ピアノ奏者、グレン・グールド。少しその気になってウェブ散歩をすれば、その人となりについては山ほど情報を収集できるはず。すでに亡くなって25年以上が過ぎ、いまだに忘れられることも無く、その名は輝いている。
評論家のエライ先生方にはあまり評判がよくないのに、一般の愛好家からはものすごく愛されている。自分もその愛好家の一人だ。
そもそも作曲家が決めた演奏時の注意事項を守らない、演奏するときに鼻歌を歌う、使い慣れた低い椅子に座って演奏するので姿勢が悪い、まるで指揮者のように空いている手を振り回す、それにもましてコンサートを拒絶しレコードやテレビ・ラジオでしか聞くことができない、などなど。グールドにまつわる事実・伝承・伝説・噂話などは限りが無く、これらが専門家の皆さんには我慢がならぬことのようだ。

クラシックがその言葉どおり、古典的なものとして進歩を止め、その権威だけで生き延びている状態では、音楽として「死んでいる」ようなものではないか。もともと、モーツァルトの音楽だって、その大部分は大衆音楽であったはずだし、一部の貴族が独占したものもあるだろうが、その時代時代に生き生きと根づいていくべきものであろう。たまたまマンガやドラマの影響で一次的に人気が出ても、大多数のクラシック音楽は形式にしばられ、知識として一度聞けば事は足り、誰の演奏を聞いてもさほど変わらないと思っている人がほとんどだと思う。

そこで、グールドだ。確かに原典となる楽譜は存在するだろうが、グールドの弾くピアノは、グールドの音楽なのだ。イ・ムジチが四季を演奏しても、それはヴィバルディの四季である。しかしグールドが演奏するバッハやベートーヴェンや、モーツァルトでさえ、グールドの音楽になっているという点が違う。自分はクラシックのマニアではないので、いろいろ聞いて比べているわけではないが、一聴してそう感じられる何かがあるのだ。そこにはジャズの演奏に近いものが感じられるというと、大げさかもしれないが、一見いろいろなフォーマットの演奏をしてきたマイルス・ディビスの場合も、マイルスがひとたびトランペットを「ピ」っと鳴らすとマイルスの世界になってしまう。

ずっと昔のこと、中学生のころグールドのインベンションのアルバムを偶然購入したことがある。この頃、バッハのハープシコードの音色にはまっていて、当然バッハといえばハープシコードと思っていた。ところが家に帰って聴いてみると、なんとピアノでの演奏。どうしてもなじめず、ほとんど聴かずにお蔵入り。それから、ロックを聴き、ジャズにはまり、そしてグールドが亡くなったことも知らずに30数年たって、再びグールドにめぐりあう。バッハのゴールドベルク変奏曲1981年版。グールド狂の宮澤淳一氏の解説に詳しいが、全編を貫く「パルス」は、理屈ではなくまさに感じ取ることができる。山奥の湖に朝霧がかかり、しずかにアリアが始まる。暝想の中に漂っていると、急に霧が晴れていきなり湖面を疾走し森の中を縦横無尽に駆け巡っていく。しかし、まったく息が乱れる気配は無い。「パルス」のせいだ。気がつくと再びもとの湖に戻っており、ゆっくりと霧がかかって光景が消えていく。この快感は何度聴いても飽きが無い。一生付き合っていける音楽を、また一つ手元に引き寄せたことは極上の幸福である。