■ 出生
1452年4月15日 土曜日 午前3時 イタリア中部 ヴィンチ村にて私生児として出生
父 セル・ピエーロ ピサやフィレンツェの公証人
ヴィンチ村では裕福な名の通った家柄
母 カテリーナ (?)
■ フィレンツェ時代
1469年 17歳
アンドレーア・デル・ヴェロッキオ (1436-1488)の工房に参加、多くの作品を共同制作
美術表現のため解剖の基礎を学ぶ
1472年 20歳
画家として独立
1478年 26歳
フィレンツェで最初の公式依頼
独自のデッサン方法 「映画的」「無数の側面」
対象を様々の方向や距離から描く
幾何学の導入・遠近法の完成
■ ミラノ時代
1482年 30歳
工業国ミラノへ移住し、技術者としてアピール
自らの工房を開設
手工芸人から科学者へ、技術者としての夢がふくらむ
空を飛ぶ、イカロスへの憧れはヘリコプター、飛行機へ展開
水中の移動・水面の歩行は、潜水服、潜水艦へ展開
戦争兵器の開発
建築物 = 「人体」、建築家 = 「医師」という発想が、人体の部位の比率にもとずく建造物の設計へ
1489年 (37歳) 「人体図について」
Virtuvian Man
ポッリオ・ヴィトルヴィウス 「建築論」 (BC1世紀頃) からの発想
腕を伸ばした人間は円と正方形の両方に内接する、両腕を広げた時の長さは背丈に等しい、
身長が14分の1だけ低くなるように両足を広げ、さらに両腕を伸ばして中指が頭のてっぺんと同じ高さになるまであげ、その先をよぎる円を描くと、その円の中心にこの人のへそが来る
■ フィレンツェ = フランス時代
1506年 (54歳)
フランス国王ルイ12世の懇願によりミラノへ、軍事地図の製作、庭園の設計、
光学と絵画理論の融合 眼球の構造の探求、力学と宇宙の機械論
1510年 (58歳)
立体的解剖図、他方向から観察、時間経緯から観察、部品として観察
美的加地と科学的本質の融合
■ アンボワーズ時代
1516年 (64歳)
パトロン、ジュリアーノ・デ・メディチ死去
病院での死体解剖を告発され禁止される、フランス、アンボワーズへ移転
右手の麻痺が出現
1519年5月2日死去 (67歳)
「私はメディチ家により作られ、そして葬られる」
■ 解剖学手記の行方と影響
生前には、いく人かが賞賛し出版を勧めるが未刊行で、死後、弟子のメルツィが保管、直接的な影響を与えられなかった
1778年 イギリスで発見される、しかし、生前から模写が出回っていた可能性あり
16世紀の解剖学の飛躍的進歩に対して潜在的に関与したと考えられている
■ ダ・ヴィンチの解剖学
骨の研究 初めて副鼻腔を図示、斬新な描写方法、骨格そのものが筋肉によってどのように動くかに注目
筋肉の研究
画家として、人体のデッサンをする上で表面解剖学は必須
「筋肉は、いつも互いに離れている骨に始まって終わる。そして決して同じ骨に始まって終わることはない。」
「筋の役目は、生殖器官と舌を除いて、引っ張ることにあって押すことにはない。」
神経の研究
「筋肉と腱は神経に奉仕し、神経は共通感覚器に奉仕し、共通感覚器は精神に奉仕する。」
脳内に溶かしたロウを注入して固定してから、脳を切り開いた。
比較解剖学の研究
サルの手の骨格、カエルの脊髄、イヌの喉頭、クマの足、ウマの筋肉なども研究し人体と比較した
飛行機の設計のための鳥の翼の解剖もおこなった
これはおまけ。モナリザにまつわる秘密はいろいろありますが、このモデルが誰かということもミステリー。ダ・ヴィンチの自画像は顔のパーツのおさまり具合がモナリザにぴったり一致するため、実はモナリザのモデルは自分自身という説もあるんですね。 ・・・本当?