三宿ブームの誕生
三軒茶屋・三宿地域は、関東大震災、東京オリンピック、バブル経済時代を大きな転換点として変貌を遂げてきた。関東大震災のあと下町の被災者がこの地区に流入、路地や間口の狭い家屋など「下町情緒」を色濃く残すことになる。高度経済成長の一つの頂点である東京オリンピックの時に駒沢オリンピック競技場が整備され、国道246号の上を高架の首都高速が走り、都市景観は一変した。しかし三宿に限っていえば、今日の三宿ブームは80年代後半のバブル経済期に始まったのである。
ここでは、バブル以前期、バブル期、ポストバブル期の3つの時期に分けて三宿の発展を段階的に振り返ってみたい。(1) バブル以前期
この時期の三宿は静かな住宅地だった。自衛隊病院と世田谷公園と団地。表通りから一歩路地を入ると、同じ姓の門札の戸建てが並ぶ地区もある。あとは自動車整備業や小さな町工場など。この時期の店舗で今も当時の面影を残しているのは、世田谷公園近くの自動者用品店と三宿交差点の江口書店(古書)に吉野屋、アルカトラズ、そして交番近くの喫茶アカヒヨウ。そのアカヒヨウさえ、最近になって改装してしまった。和食・一隆は、昔はサラリーマンやタクシー運転手が集う焼き魚の煙もうもうのカウンターのある小さな定食屋にすぎなかった。まるげりーたはその頃から行列のできる店だった。
他方、池尻大橋にポリドール本社、サン・ミュージック倉庫、ミュージックスクールなど音楽産業が立地していたため、三宿は芸能人の隠れ家として知られていた。(2) バブル経済期
バブル期に「外食ブーム」が起こると、三宿にもファミレスの波が押し寄せてきた。ジョナサン世田谷公園店、ゴルフ場に併設されたデニーズ。わずか数ヵ月の間にあちこちにコンビニが出現。が、ここまでは平均的郊外の構図である。
三宿が「おしゃれな街」として脚光を浴びるようになったのは、ラ・ボエム、ゼストの進出が大きい。ボエムもゼストも同系列のフランチャイズ店だが、ボエム世田谷店は地下の噴水が話題になり、ドラマ撮影に使われたりした。トレンディ・スポットはメディアが語ることによって認知される。駐車場付きで深夜営業のゼストは渋谷・六本木から流れて来る若者を吸引した。246沿いに開店したプールバー909も比較的早い時期から夜遊びの場所として知られていた。こうしてバブル期の三宿は、まず246より世田谷公園側から開けていった。
折しもこの頃は若者文化の中心が新宿から渋谷に移った時代。音楽の流行はロックからインディーズブームと「渋谷系」へ。西武が「PARCO」「公園通り」の文化戦略で若者を引き付け、89年にタワーレコード渋谷店が開店すると、渋谷は「若者の街」「世界一の音楽都市」になってゆく。(注1) 三宿にはフォーライフレコードのビルができた。淡島方面への三宿の発展は、フォーライフが一つの契機になったといえるかもしれない。(3) ポストバブル期
バブルがはじけ、不景気、就職難の時代になると、大規模店舗の進出は一段落。むしろ小さいながらもセンスの光る、小洒落た店が増えてきた。FUNGO、To the Herbs、チーズケーキファクトリーなど系列店の進出も依然盛んだが、規模としては小さめ。
三宿はすっかりおしゃれな街のイメージが定着し、情報誌が繰り返し取り上げるようになる。古くからの店は徐々に「おしゃれな三宿」の店に取って替られるようになり、街並みは見違えるように変わった。とりわけ昨今の淡島方面の新しいバー、レストランの開店ラッシュには驚くものがある。フォーライフ効果に加え、自動車販売店とガソリンスタンドが閉店して道路の両側に広大な跡地ができたからだ。
バブル崩壊は人々のライフスタイルにも影響を及ぼした。長引く不況のなかで、人々はバブルに浮かれた生活をもう一度見直すことを余儀なくされた。アルマーニから無印良品へ。イタメシからモツ鍋を経てラーメンヘ。デパートから激安・百円ショップへ。外食から「内食」へ。そしておしゃれな生活、一人暮らしの部屋にはインテリアの演出が欠かせない。下馬1丁目にあるideeのショールーム、ジョナサン向かいの花屋、三宿交差点のGlobeはインテリアブーム、ガーデニングブームに対応している。
若者文化はディスコからクラブへ。三宿WEBやマンションの2階のノイズ系レコードショップ。以上のように三宿ブームの成立過程を振り返ってみると、ブームとしての「三宿」は、バブル期の一大転換、大規模系列店の進出によって住宅街がナイトスポットへ姿を変えたことによって始まったということができるのではないだろうか。それは渋谷の後背地・ベッドタウンにすぎなかった三宿が「盛り場」になり、東京のアクティブな都市空間に組み込まれることを意味している。三宿通り〜駒沢通り貫通はいっそうその傾向に拍車をかけることになるだろう。三宿は地元完結の場所から、中目黒・三軒茶屋に連なる市街地になる。あるいは渋谷と連動して、六本木にとっての西麻布、広尾のような街になるだろう。
ここで、三宿ブームの担い手についても考えておくべきだろう。三宿ブームを作り出したのは地元住民ではなく、外からやってきた店舗であり、それを宣伝するメディアだった。サイード(注2)が「オリエンタリズム」は東洋(オリエント)の側にあるのではなく、西洋(ウエスト)が作り出した言説であると指摘したように、「おしゃれな三宿」イメージは三宿の外部から三宿を語る言説なのだ。三宿ブームはメディアに乗って東京圏ばかりか全国に知られるようになった。三宿・池尻大橋は『Hanako』の誌上では自由が丘、都立大学、西麻布etc.と横並びのスポットでしかない。そしておしゃれな三宿を信じる読者も同様に全国区なのだ。かくして「ジモティ」という語には一片のアイロニーが込められることになる。
ただし、おしゃれな三宿に関心を持ち、三宿の店を訪れる私たちは、ある意味で三宿の一部であり、三宿現象を創り出しているのだ。 (99.11.21)
(注1) 吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』弘文堂、大西貢司「『渋谷系』とグローバリゼーション」日本ポピュラー音楽学会報告を参照。
(注2) E.サイード『オリエンタリズム(上・下)』平凡社ライブラリー(C)1999 SONORITE
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